オルカ


目を覚ますと、天井が見えた。昨日に比べて軽くなった身体には何枚もの毛布がかけられており、辺りを目だけで捜すが、家主の姿は無かった。七海は起き上がり、暫し思案する。流石にこの部屋に居つくわけにはいかない。

昨夜、着替えさせられたパーカーを脱ぎ、洗面所まで歩いた。神崎も今朝そこを使ったらしく、シャンプーの匂いが香っている。そこに洗われて乾かされたシャツが畳まれており、七海は小さく息を吐く。

勝手知ったる他人の家。シャワーを軽く浴びて、洗濯機を回した。リビングへ戻ると、テーブルの上にミネラルウォーターが置かれている。


「至れり尽くせり」


ミネラルウォーターの下に敷かれていた諭吉二枚に、思わず七海は呟いた。











神崎は帚木からの連絡を待っていたが、事務所を出るまでにはかかって来なかった。スーパーで買ったカット野菜がビニール袋の中でカサカサと揺れる。

今日の夕飯は焼きそばにする。歩きながら神崎は自分の住むアパートの方を見上げた。


「え」


今日は見知らぬ男とよく目が合う日だ。なんて、呑気に思うことは出来なかった。

あれは本職の男だ。しかも、いや、やはり神崎の部屋の前にいる。

神崎は急いで階段を上った。男は柵に寄りかかり、階段を上がった神崎の方を見ていた。


「こんばんは、神崎の御嬢さん」

「……こんばんは」


最近のヤクザはきちんと挨拶ができるらしい。神崎は顔の強張りが取れずに挨拶を返した。


「何か、うちに用ですか?」

「七海が来てるでしょ。会わせてくれるよね」

「……来てませんよ」

「開けてくれれば分かるよ」


物腰柔らかな口調だが、有無を言わせないオーラを纏っている。神崎もそれを感じ取ってはいるが、簡単に言う通りにする道理がない。


「七海が君と仲良いのは知ってるし、君は神崎響子の娘だし、簡単に手を出せないのは分かってる。こっちだって譲歩してるよ、君はこっちの社会のルール、分かってるよね?」

「貴方たちのルールなんてあたしには関係ないですよ」

「そんなに七海に肩入れしてんの? あいつ、色んな女に手出してるよ」

「どうでも良いです。あたし、あいつの女関係に興味ないので」


神崎はビニール袋を握る手に汗をかいていた。道理はないが、策もない。ここで戯言を並べて男と話すのは良いが、それが何になるわけでもない。夕飯までの時間が長くなるだけだ。


「君、ドライだね」

「上司にもよく言われます」


一番良いのはここから神崎が離れることだ。鍵を持つ家主が家に入らないというならば、七海が居るか居ないかの話から逃れられる。いや、何よりも逃れたいのはこの男が七海と出会うことだ。

今出会ったら、必ず連れて行かれる。いや、どうだろうか。この男だけで七海を連れて行けるのか。それとも七海を見つけた途端にドッキリ企画のように何人か出て来るのか。

神崎は家の鍵を出した。


「君は聞き分けが良いね」

「七海を追ってる連中を知ってますか」


鍵を差し込んだ。男は既にそのドアノブを握っていた。


「ああ、知ってる」

「じゃあ、」

「でもあいつの為だけに何かすることは出来ない」

「……どうして」

「俺達は組織だから」


男は神崎よりは年上に、倉木よりは若そうに見えた。七海を捜しにここまで来るということはこの男も七海同様下っ端なのだろうか。


「男は組織が好きですね」


鍵を回すと同時に男がドアノブを回した。中に入るのは男の方が先だった。玄関に七海の靴はない。

それを確認して、男は靴を脱いだ。靴を脱ぐ脳味噌があって良かった、と神崎はそれを見て少し安堵してしまった。

真っすぐリビングへ行き、男はそこを見回した。どこにも人のいた気配がない。

神崎は後から来て、その様子を見た。持っていた鞄をソファーに、ビニール袋をキッチンのシンクに置く。男は寝室からクローゼットまで無造作に開け放ったが、七海の姿はない。


「出て行った後みたいですね」


立つ鳥跡を濁さず。それを体現したような徹底ぶり。

神崎が苦笑してしまう程のそれを目にして、男は溜息を吐いた。


「一体どこから?」

「窓じゃないですか?」


リビングの窓に近づき、鍵がかかっていないことを確認した。女の一人暮らしだというのに、よくこんなことができたものだ、と男は呆れてしまった。


「じゃあ、お邪魔した」

「あの」

「何?」

「開けたなら閉めて行ってください」


神崎は開け放たれた扉の数々を指さした。男は舌打ちをしつつもそれを閉める。一番言うべき相手は七海ではないのか。

男が家を出て行ったのを見て、神崎はソファーに座る。今朝はこのソファーで眠っていたのに、本当に居なくなってしまった。毛布やらでさえ、きちんと寝室へ戻っている。

焼きそばを作らねば、と立ち上がってキッチンで軽く手を洗った。温めたフライパンに油をとカット野菜を投入する。焼きそばが入っていたはずだ、と冷蔵庫を開ける。焼きそばを取り出し、冷蔵庫の内側のポケットにあったミネラルウォーターが目に入った。これは今朝、神崎がテーブルに置いたものだった。

手に取ると、ラベルの内側に札が挟まっているのが見える。それは諭吉で、黒鉛で『片割れを借りていきます』と書いてあった。諭吉は双子じゃないけどな。

神崎はそれを握りしめ、手ごと額へ当てる。どうか、どうか、死なないように。











帚木から連絡があったのは翌日だった。蓮浦の場所は隣街の工場近くのウィークリーマンションだった。やはり蓮浦名義で借りているらしく、本当に蓮浦という名前なのかもしれない。

それを聞いた倉木は難色を示した。


「場所まで突き止めて、どうする気なんだ」

「話し合う席を設けるって言っちゃったので」

「ありさに?」


はい、と神崎は頷いた。関が一瞬こちらを見た。「せき」という言葉に反応したのだろう。


「この前の、踊り子の話」

「ああ、あのときの」

「関も、ホストには嵌まるなよ。嵌まるなら死ぬまで嵌ってろよ」

「え、つまり嵌まれば良いんですか、嵌っちゃいけないんですか」


関は首を傾げながら言った。


「嵌まったら矢田が悲しむだろうな」

「いや、それは、どうですかね」

「あたし何も聞いてないんだけど」

「神崎さんにはちゃんと言おうと思ってたんですけど、最近忙しそうに見えたので……」

「良いんだけどさ、おめでとう」


ぽん、とその頭を叩く。恥ずかしそうに関は俯いた。







倉木が良い顔をしなかったことを思い出して、神崎はどうしたものか、と考える。

蓮浦を呼び出すのは簡単だろう。しかし、そこでありさとの話し合いが無事終えられるかという確率は五分だ。

いや、三分かもしれない。

相手が手を出してきたら、ありさが百パーセントねじ伏せられるに決まっている。それは火を見るよりも明らかだ。じゃあ椅子に縛り付けて話し合いをさせるか。それをするまでの手立てが残念ながらただの小娘である神崎にはない。

机に肘をついて、ペンを回した。宮武からの視線に気づき、顔を向ける。


「何?」

「いや、何か悩んでるなって」


倉木は外回りから直帰するらしい。能見はちょうど席を外していた。


「宮武、どこで振られた?」

「そんなこと考えてたのか」

「関係を終わらせるって、相手が逆上するかもしれないって可能性があるだろ。しかも今回は女が男を振る場面だ。それなら彼女は自分を守れる場所を選んだはず」


おいおい、と宮武が呆れたように突っ込む。


「俺が逆上して刺すとでも?」

「分かんないだろ。まあそうじゃないと分かってても、本能的に女って自分を守る体制を整えてるもんだよ」

「自分の方側に鞄を持ったりとか?」

「そうそれ」


同意はしたが、神崎が聞きたいのは場所のことだった。


「……ファミレス」

「なるほど。あんたが先に出て行っても自分で払えるように、か」

「神崎、すごい傷口抉ってるって分かってるか?」

「確かに人の目があったら安全かもな」

「おーい」


しかし、それでは相手が警戒して来ない可能性が高い。


「工場か……」

「俺の話を聞いてたか、神崎」

「あたしで良ければ付き合うけど」


え、と黙っていた関と矢田の視線が神崎へ集まった。宮武は勿論目を丸くしている。


「……え……それは、冗談だとしても、遠慮する。ごめん、神崎はそういう対象じゃない」

「それは良かった。だからあたし、あんたのこと信頼してる」


ずっと前から、神崎はそうだった。自分に告白してくる男が怖かった。そうして女子から白い目で見られることが怖かった。

能見が戻ってくる。宮武は口を噤んで、PCに向き直った。神崎が立ち上がる。


「お先に失礼します」


明日は、クリスマス・イヴだ。







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