ギターマン


携帯に差していたイヤホンコードが絡まったので抜いた。神崎律はそれをくるくると巻いてポケットにしまい込む。

綺麗な部屋とは言い難い。物が乱雑に置かれ、積まれ、所々埃を被っている。畳の上に無理に置いたベッドが跡をつけている。棚を占める多くのものはCDとレコード。ベッドの上には水着姿の女性が写るヤング雑誌と、音楽雑誌。

神崎は勝手に座れるような隙間を見つけ、そこに収まっていた。出された麦茶は冷たく、部屋の気温はとくに暑くもないが、既にコップの周りに水滴がついていた。一粒一粒目で追う。明慶が部屋に入ってきた。すぐにベッドの上の雑誌を壁とベッドの隙間に入れ込む。そこはブラックホールか何かか。


「汚くてごめん……」

「いや、気にしてない」


手にはギター。神崎にはいまいちギターとベースの違いが分からなかったが、明慶の指が動き、その音色を聞いてすぐにギターだと分かった。あのCDに入っていた音と同じもの。神崎は姿勢を正そうと畳に手をついたとき、肘の内側の痛みに思わず窓の外を見た。明慶の部屋の窓は障子が外されてモスグリーンのカーテンが掛けられている。その間から覗く透明な硝子の向こうで雨が降り始めていた。


「どうした?」

「雨だなと思って」

「え、本当だ。神崎耳も良いのな」


これを何も知らない神崎の友人が聞いたなら、おべっかだと思うだろう。しかし、バンドを組みたいからという理由ではなく、明慶は本当にそう思っているのだ。神崎はなんとなくそれが分かり始めていた。

とても澄んでいる。水みたいだ。


「耳じゃなくて、傷が痛くなるんだ。雨とか寒い日とか」

「傷? 事故とか?」

「中学のときに作った傷」


神崎の口調に、明慶はそれ以上そこへは踏み込まなかった。それは現在進行形で同じであり、噂を耳にしても尚、神崎にそのことを直接問うことはない。

出された麦茶に口を付けた。麦茶を出してくれたのは明慶の父親だった。草なぎ楽器の店主である男は、神崎を見るなり「もしかして新しいバンド仲間か!」と、とても嬉しそうな顔で出迎えた。そして、流れで三階にある明慶の部屋へ通されてしまった。


「良いおとーさんそう」


ぽつりと神崎が呟き、明慶が顔を上げる。どうかな、と零して、ギターを抱えるようにして持つ。


「親父、母さんに逃げられてるし。音楽のことばっかで、勉強しろって今まで片手で数えられるくらいしか言われたことない」

「うちも同じ」

「そうなん?」

「シングルマザーで、勉強は最低限で良いって言われる」


明慶が笑った。神崎も苦笑しながら肩を竦める。「弾いてみる?」と明慶は尋ねた。

頷き、思ったよりも重たいそれを受け取る。しかし何故か、とても手にしっくりくるものがあった。昔どこかで触ったことがあるのだろうか。


「そこ座って良いよ」

「あ、うん」


机の椅子を勧められ、神崎は椅子に腰かける。どの弦を押さえて……と指示を聞き、弾いてみる。想像していたよりも良い音が出たことに、神崎は少し感動を覚えた。そして明慶も少し目を輝かせた。


「もしかしてギターやったことある?」

「いや、ないはず、なんだけど……」

「神崎、俺、今からずるいこと言うよ」


明慶は胡坐をかいてベッドに背を預ける。脈絡のない言葉に神崎は手を下ろす。その言葉の後に続くものに身構えて、初めて話したあの放課後を思い出した。







「俺、お前のこと好きだよ」


明慶の目の前の椅子に座ろうとしない神崎に、その言葉を放つ。高校時代、同じ言葉を聞いた。


「恋愛とかじゃなくて、人として、神崎のこと好きだ。だから、楽しかった。一緒にバンドが出来て、楽しかった」

「……うん」

「事務所とかデビューとか、そういうの抜きにしてもさ、神崎はライラに戻りたいとは思わねーの?」


雨の気配がする。古傷が痛む。窓のないこの場所でそれを感じたのは、幻想か願望か。神崎は息を吸う。


「思わない」

「楽しくなかったから?」

「楽しかったから。もう戻れないんだ。ギターは殆ど弾けないし、仕事はしているし、母親はもう居ない」


"どうしてこのタイミングなのか"の答えを探すと、案外近い場所に落ちていた。神崎は椅子にギターを下ろす。

ライラを辞めるとき、何度も明慶と話し合った。ずっと引き止められていたが、いつかのライブ直前に神崎の母親が救急車で運ばれたと母親の同僚から連絡があった。前のバンドがあと一曲で終わる。電話を受けるのにも憚れるその状況で、神崎はだたならぬものを感じて電話を取ってしまった。

神崎は、そこで迷った。迷ってしまった。


「どうした?」


明慶が尋ねる。白洲と三國が黙ってそれを見ていた。神崎が口を開く。


「……母が、倒れて、運ばれたって」


前のバンドの最後の曲が始まる。それよりも心臓の音が煩い。考えるのを放棄していた。判断が、運命を左右することが分かっていた。


「なにぼやっとしてんだ。早く行けよ」


明慶がそう言い、白洲が神崎のギターを掴んだ。三國がバンドハウスで働く知り合いを捕まえて、神崎が抜けることを伝える。一年弱しか付き合っていないメンバーだが、チームワークはゾウ以上だ。神崎は明慶に背中を押されて、舞台袖から出される。


「お前のところ、俺も弾けるから大丈夫だ」

「……ごめん、本当に」

「こっちこそ、ごめんな」


後悔を見せても取り返しがつかないことを分かっていながら、明慶は謝った。神崎はその意を理解していなかったが、つられるようにもう一度謝る。そして、走った。


バンドが解散という形ではなく、神崎の脱退になったのは、神崎がいつか戻ってくると踏んでのことだったのだろう。それを神崎は分かっておきながら、戻るという選択肢がないことも分かっていた。

もう迷うのは嫌だと思った。誰かの命と同じくらいに大切なものを作るのは、もう嫌だと。


「神崎の母さん……」

「春に」

「知ってた、本当は」

「だろうな。うん……いや、さっきのは綺麗事だった」


神崎はギターケースの持ち手を掴む。改めて、明慶の方を見た。


「魅力を感じない、もう本気でギターは弾けない。ごめん」


結局自分は謝るのだと神崎は心の中で嘲笑う。明慶も同じことを思ったのか、あの時と同じだなと肩を竦めて見せた。その一瞬疲れたような顔は、神崎は土下座をしなければならない気持ちにさせた。今まで明慶はバンドを支えてきた。白洲や三國が何もしていないと言っているのではなく、神崎には何となく一番に明慶がバンドのことを考えているのが分かってしまうのだ。明慶の父親を見てしまったからだろうか。


「でも、それはちゃんと持って帰りな」

「いらないのか?」

「言ってんだろ、それ結構高いやつだから。それに、神崎の親父さんのかもしれないんだろ」


大事にしろよ、と苦笑する明慶を見て、最近父親の話をすることが多いなと感じる神崎。この間も同僚の関に父親の話をしたばかりだ。

そうする、と神崎は手を上げる。先にその場を動いたのは神崎の方だった。オーナーの座るカウンターの前を通って、出口へと向かう。


「もう帰んのか?」

「はい」

「たまには顔出せよ」

「草薙のこと、よろしくお願いします」


ドアが開いて、制服を着た高校生たちが入ってくる。三人はオーナーと話す珍しい客をちらちらと見た。神崎はそれから顔を隠すように壁の方を見ていた。三人が中へ入って行った後、手を挙げる。それじゃあ、とドアを開いて出て行く。

外は小雨が降っていた。傘がなくても歩けるほどで、道行く人々の大半が傘を持っていないので早歩きだった。無意識に左腕を掴んでいた。本降りの時よりも、こういう小雨の時の方が痛みが大きく感じる。

勿論、傘を持っていない神崎は小雨の中を歩き始めた。ゆっくりと、アスファルトを見ていた。日は落ちているが、街灯は点いている。しかし、神崎は一人暗い道を歩いているような気分になっていた。暗い、暗くて、立ち止まってしまいそうだ。

右手で目元を覆っていた。泣いているわけではないが、頭痛が酷くなった。

他人を傷つけたと感じた後はいつもこうだ。


「報復か」


言葉に漏れた。笑うふりをして、口を開く。

もうすっかり閉じた傷口がぐずぐずと膿んでいく気がした。






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