あるがままに


シャキシャキとレタスを咀嚼する。昔から使っている木製のテーブルに二人分とは思えない量のパンが乗っていた。七海が行ったのは神崎律の家から西へ五分もしない場所にあるパン屋である。売っていた種類を全部買ったのでは、と神崎は考えた。

チキンサンドを齧る神崎とテーブルを挟んで座る七海はデニッシュパンを頬張っている。視線はテレビの中のエンタメニュースへ。今日も日本のどこかではゴシップが湧いて出ているらしい。


「神崎さんって、鶏肉好きですよね」

「肉だけじゃなくて卵も好き」

「きっと鶏界で神崎さんは指名手配犯ですね。この顔を見たら通報を、と」

「あなたの卵が狙われてますみたいな?」

「そうです。ところで、バンドに戻るんですか?」


咀嚼が止まる。テレビではCMが流れている。いつの間にか七海が持っているのはコロッケパンに変わっていた。


「なんで知ってんの?」

「昨夜、神崎さんが自分で支離滅裂な話し方で、バンドのことを言ってたんですよ。戻ってこないか誘われたと」

「誘われたけど、向こうは今度メジャーデビューするし、こっちは辞めてから碌に弾いてないしさ」


酒を飲んでも、一晩経っても答えは変わらない。神崎は最後の一口を頬張り、咀嚼した。テレビの中では、週末賑わうテーマパークへと話題が移っていた。


「七海、忙しいんだと思ってた」


コーヒーを飲んで、神崎は話を変える。コロッケパンを早々に平らげた七海も同じようにマグカップを掴んだ。昨日、倉木が話していたことを思い出す。


「忙しいと言えば忙しかったです」

「てか、全然姿見ないからついに死んだと思ってた。そしたら友達と喧嘩って」

「やっと一段落したと思ったら、これですよ」

「いつあたしが死体を拾うかも分からないな」

「まあ、一ヶ月以上現れなかったら死んだと思ってください」

「白骨化したら、七海だって分かんないよ」


わかりますよ、と言おうと口を開いたが、神崎の拗ねたような口ぶりを珍しく思い、七海は黙る。そんなことお構いなしに神崎は立ち上がり、寝室へ向かう。ギターを持って、リビングに来た。

弾くのか、と七海はそれを見ていたが、違った。


「これって粗大ゴミ?」

「……え、捨てるつもりですか?」

「もう使わないから」

「金かかりますし電話いれないといけないし、粗大ごみは捨てるの面倒ですよ」

「知らなかった」

「自分で買ったものじゃないんですか?」


あまりにあっさり捨てようとする神崎に、引き気味に七海は問う。神崎はそれを持ち上げ、二人がけソファーの真ん中に座って弦を押さえてみる。


「貰ったというか、勝手に使ってるというか。買うって母親に話したら、あるじゃないのって出された。母親のじゃないから、一緒に住んでた男のかもな。この狭い部屋にこんな幅取るものを置いとくわけないし」


指が動く。その音色を待っていた七海が、少し嬉しそうに身じろぎした。

その様子を視界に端に捉えて神崎は苦笑する。指が鈍っている。学生のときに教わった懐かしい音が耳に入った。


「when I find myself in times of trouble」


七海が歌ったので神崎は破顔した。同時に泣きそうな顔をしたのを、七海は見ていた。サビまで終えたところで手を止めた。想定外の歌の上手さにパチパチと神崎は拍手をする。ポケットから小銭を出した七海が神崎が食べたチキンサンドの包み紙の上にそれを置いた。チップのつもりらしい。

神崎はギターをケースにしまい、リビングに顔を覗かせた。


「やっぱり、辞める」


そしてその答えは変わらなかった。






出社すると、倉木が神崎の姿を見て安堵していた。何か、と尋ねると、


「泥酔してたし、どっかで倒れてると思ってたから。生きてて良かった」

「倉木さんを呪いに黄泉から戻ってきました」

「そういえば、今朝七海を見た」


冗談に乗ってくれない上司に口を開きかけたが、その言葉を聞いて黙る。結局日曜はグダグダと神崎宅で雑魚寝をしていたと思った七海は朝になると鶴のように姿を消していた。いや、鶴の恩返しの鶴は姿を見られてきちんと別れを言って出て行った。日本の昔話で挨拶をせずに消えるものなんて無い気がする。

倉木は首を傾げる。


「嬉しくないのか? 生きてて」

「ああ、嬉しいです、はい」

「雑だな」


大きな咳払いが聞こえた。能見が神崎と倉木を咎めるように見ている。始業ぎりぎりに矢田が入り、神崎の隣に座る関が「セーフ」と小さく呟いた。同じことを神崎も思っていた。

関はこの事務所で一番若かったが、新入りの矢田がきたので先輩風を吹かせているらしい。しかし、神崎や倉木、宮武にとっては同じようなものだった。ギャルと不良が入ってきた、すぐに辞めるだろうと最初は思ったものだが、何気に続いている。矢田の遅刻はあと一回で解雇という所まで来ているが。


昼休みになり、関がお弁当を広げる。男性群は外に行ってしまい、神崎は隣のビルに入っているおにぎり屋から明太子おにぎりと鶏ごぼう混ぜご飯のおにぎりを買ってきて、関の隣でそれを食べた。今日も鶏から指名手配される。


「神崎さんは自炊するんですか?」


と、話す関のお弁当は母親の手作りらしい。彩り豊かできちんとバランスが整っている。きっと学生のうちもこの弁当を食べてきたのだろう、と神崎は勝手に思った。


「まあ、人並みに」

「何作るんですか?」

「オムライス」

「へえ、女子っぽい」

「あとは味噌ラーメン」

「一品料理ばっかじゃないですかー、一気に男料理に思えてきた」


その言葉を聞いて、そういえば久しくロールキャベツを食べていないことを思い出す神崎。キャベツを一玉買っても一人では到底食べ切れない。OLのように千切りをムシャムシャと食べる術を神崎に求めても無駄である。


「お味噌汁とか作らないんですか?」

「味噌汁……うちに味噌がないな」

「えええ、母が育った地域は味噌汁の塩分濃度を勝手に測られるらしいですよ」

「恐ろしい地域だ」

「『突撃隣のお昼ご飯』以上に怖いですよねえ」


懐かしい話題を出す、と神崎は思ったがあの番組が放送されていたのは神崎が産まれるよりも前のことだ。どうやってその番組を知ったのか。関はお弁当箱の蓋を閉じる。


「関は母親似なんじゃないか?」


その姿形を言っているわけではなく、この間笹木桃という女児がこの事務所に訪れたときに倉木が出したお茶請けを思い出して聞いてみた。関はあからさまに嫌な顔をする。


「ただの煩いおばちゃんです。似てないです。神崎さんこそお母さんに……」


唇を尖らせながら反論した関の言葉は尻すぼみになっていった。勢いに任せて言った言葉をどう濁そうかと考える。

神崎はあっさりと返した。


「いや、母親には似てない。顔もだけれど、性格も……母親はしきりに父親に似ていると言ってたな」

「神崎はお父さんに会ったこと、あるんですか?」

「どうだろう、少なくとも自分が父親ですと紹介されたことは一度もない」


既に食べ終えていた神崎は少し楽しそうに答える。父親の話を誰かに聞かれることは少ないからだ。公になっていない父親の事情を皆気を遣って聞かない。それが暗黙の了解のように。

関は素直に関心する。神崎の父親、神崎の男バージョン、とてもしっくりくる。それは誰もが思うであろう。

エレベーターが止まる音が事務所まで届き、男性陣の声が聞こえた。最初に能見が入り、後に倉木が続く。その後ろを宮武と矢田が話しながら入ってきた。いつもの風景だ。関は能見に「何食べてきたんですか」と尋ねる。


「いつもの定食屋だ」

「俺はカレーが良いって言ったんですよ」

「シャツに染みがついたら嫌だ」

「って倉木さんが言ったから、いつもの定食屋」


能見、矢田、倉木、宮武が各々話す。関と神崎が呆れて笑った。




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