ウェンズデイ
梅雨の水曜日のことだった。長く震える神崎律の携帯の音に気付いたのは、隣のデスクにいる宮武だった。
「神崎、携帯鳴ってるぞ」
「え?」
連日の睡眠不足で、PC入力をして打ち間違えてを繰り返していたところだった。神崎は宮武を見てから、自分の鞄の中に手を突っ込む。まだ震えている。それを持ち、能見に断ることなく、事務所を出て行った。
倉木の視線がその背中を追う。宮武が口を開いた。
「何かあったんですか?」
能見が咎めないのを見ると、能見や倉木は事情を知っているのだろう。
倉木が返答する前に神崎が戻ってきた。
「能見さん、すみません早退させてください」
それだけで能見は全てを察した。神崎は自分の机に戻り、鞄を掴んで宮武に電話を向ける。
「悪い、電話よろしく」
「あ、ああ」
今日は関が欠勤なので神崎がいなくなると、電話番は宮武にまわってくる。それは兎も角、だ。
「神崎、バイク出すか?」
「いえ、駅の向こうなんで、走った方が速いです。ありがとうございます」
「そうか。何かあったら連絡して」
「はい」
倉木の言葉に、最後の方を殆ど事務所を出ながら答えた。階段をヒールが駆け下りる音がする。エレベーターを待つより早いと判断したのだろう。それより、気持ちが早まったのかもしれない。
「あいつの母親、今良くないらしいんだよ」
書類をひとつ仕上げた倉木はそれを横に退けて、宮武に話す。
「良くないって……」
「何回か橋を渡りかけたって話。まあ、これは病院の看護師から聞いたんだけど。神崎、家族ってあの人だけだから」
倉木の交友関係の広さには感心しすぎて呆れてしまう。宮武はどんな顔をして良いのか分からなかった。
宮武の両親は健在だ。特に仲が良いわけでもないが、特別険悪なわけでもない。今まで入院したこともなく、至って健康だ。だからか、神崎の立場に感情移入はできない。
「昔は有名な踊り子だったからな、心配する人間も少なくない」
「能見さんもファンだったんですか?」
「この界隈で響子を知らない人間の方が少ないぞ」
それは答えにはなっていなかったが、きっとファンだったのだろう。倉木も、現役のときに見たかったと言っていたことがある。男性なのでその理由は分かるような分からないような、ではあるが、きっと綺麗な人なのだろうと宮武は考えていた。
神崎を見たら分かる。
息を吐いている。吸っている。泣いている。
いや、泣いていなかった。
「大丈夫?」
神崎に声をかけたのは出雲朱里だった。響子の昔の同僚であり、こうして今、神崎を手伝ってくれている。
「大丈夫です、すみません」
「休んだ方が良いよ。隈が酷い」
成人を過ぎたにも関わらず、葬儀関係のことは何も分からない神崎に代わって、朱里がいろいろ手配をしてくれた。
「全部終わったら休みます」
口端を釣り上げて、笑顔を作ってみせた。それは笑顔には見えなかったが、朱里は何も言わなかった。
沢山の人が来てくれた。神崎響子、神崎の母親はとても沢山の人に知られて愛されていたのだと知った。
「無理しないでね……」
それしかかける言葉がない。朱里ですら自分の親を未だに亡くしていないのに、目の前で隈を作るこの子にどんな言葉をかけてやれるだろう。
はい、と端的な返事を聞いて、朱里はその場を出た。神崎は椅子の背もたれに
背を預ける。天井を仰いだが、天使が舞い降りてくるわけもなく、赤っぽい灯りを見て目を瞑った。
神崎にとって、響子は一人の家族だ。父親は物心ついたときからいなかった。一度尋ねたが、「誰だか分からないんだよね」とあっさりと言われた。神崎はそれを嘘だと見破っていたが、それ以上訊くことはしなかった。
何故か? 家族だから。
神崎は、また浅い眠りについていた。
蒸し暑い夏の昼頃。大通りを歩いていると、倉木がコンビニから出てくるのが見えた。向こうも七海の方に気づき、七海は少し頭を下げた。これを見る度、礼儀のなり過ぎている本職だなと倉木は感じている。
「おはよう、今日神崎休みだよ」
「おはようございます。サボりですか?」
「いや、四十九日だって。一人でやるらしい」
最初は二人揃えば言い争いをしていた神崎と七海だったが、既に倉木の中では仲良しコンビに認定されている。事務所でも外でも普通に並んで歩いているので、付き合っていると思っている人間も多い。
七海は「そうですか」と特別興味を示さなかった。
神崎は母親が亡くなった後、様々な手続きを終えると普通に出勤してきた。それを七海も知っている。鶏肉を餌に夕飯に誘えば乗ってくるので、定期的に連れ回していた。
「暇なら、迎えに行ってやってよ」
「……俺、そんなに暇に見えます?」
「上司に刺されないように気をつけながら。ここ、青い」
こめかみを指差す。よく見るとそこは青く痣になっていた。
「下っ端は殴られるのが仕事みたいなもんなので」
「死ぬなよ。神崎の方は時間があったらで良いから。午後から面倒な案件入ってさ」
「お互いに次も生きて会いましょうね」
フラグを立てるようなことを言って、倉木と七海は別れた。
何となく足は駅へ向かい、七海は小銭を出して入場券を買った。イマドキ切符を買う若者の方が少ない。隣の券売機を使っていたOLが物珍しい目で七海の方を見ていた。
改札を通って、駅の中に入っている雑貨屋の隣にある柱に寄りかかる。ここなら通ったら分かるだろう。倉木はああ言ったが、神崎と七海は連絡を取れるものをひとつも持っていない。今までそういう必要性を感じなかった。これからもそうだろう。
「……あ」
ひらりと黒いワンピースの裾。鎖骨周りから背中、肩、腕にかけてレースになっている。神崎の私服は黒のワンピースが主であるが、それは七海が初めて見たものだった。
まさか来て数分で現れるとは思ってもみなかったので、ラッキーだと考えながらその背中を追う。そこで気付いたが、何人かの男が、がっつり開いている背中に目移りしている。
階段を降りていった後、どちらへ進んだのかが分からなくなり、何となく真っ直ぐ歩いた。神崎の姿はなく、外れてしまったらしい。七海は踵を返して、神崎を捜した。
殆ど真反対のホームで見つけた。黒いワンピースに、黒いストッキング、黒いパンプス。対して、青白い顔。美しい死神のようだった。
「神崎さ……」
ゆらり、とその身体が前に出た。ヒールの音が響かないのは、地下鉄の雑音に紛れてしまったからか。
線路が、神崎を呼んでいる。
「―――電車が通過します。ご注意ください」
無機質な音声が流れた。足が止まらない。
ぐいっと身体の重心が後ろに逸れた。神崎は驚きながら、ふわりと放物線を描いて線路に落ちていくパンプスを見ていた。
その後、すぐ目の前を電車が通っていく。
大きな溜息が後ろから聞こえた。
「死ぬ気か!?」
この至近距離で怒鳴られ、神崎は心臓が痛いくらいに跳ね上がるのを感じた。
「死ぬ……」
「……そうですよ、ホームから、」
電車が通過していった。七海も違う意味で心臓を痛くしながら、掴んでいた神崎の肩から手を離す。そして、言葉を失う。
一度目が合って、逸らされた。神崎の目から涙が零れていた。何故泣いているのか、尋ねるのは野暮だろう。
七海はその背中を静かに抱き寄せた。神崎は手の甲を目元に当てて、七海の首元に顔を預ける。とんとん、と背中を優しく叩かれる。
「だ、だって、くつ、落ちちゃった……」
「靴?」
「七海が引っ張ったから!」
子供が責任を擦り付けるように、言い訳をするように紡いだ言葉に、七海が返す。神崎の足元を見ると、確かに片方無くなっている。
「気をつけてくださいね」
「すみません、どうもありがとうございます」
七海は丁寧に頭を下げ、駅員からパンプスを受け取った。それから、椅子の上で膝を抱いて顔を埋めている神崎の方を見る。まだ嗚咽しているのだろうか。七海は近付いた。
「姫、靴ですよ」
椅子の下に放置されたパンプスを並べる。神崎は少し顔を出して、七海を見た。
「……能見さんと倉木さんに言ったら殺す」
「物騒ですね」
「宮武にも関にもだからな。言ったらぶち殺す」
「分かりましたから、早く靴履いてください」
パンプスを手に取り、七海は神崎の足首を持ってそれを履かせた。目を赤くさせた神崎は、何も言わずに立ち上がる。
「帰れますか?」
「……うん」
「電車は辞めた方が良いですよ。こんな時間でも、多くの人に迷惑がかかると思います」
「ちょっとぼーっとしてただけ」
「倉木さんたちに言ったら駄目なのは、線路に飛び込もうとした方ですか? それとも泣いた方ですか?」
「どっちも!」
各駅停車の電車がきた。神崎はそれに乗るつもりらしい。扉が開いて、人が出てくる。
七海はずっと不思議に思っていたことを口に出してみた。
「神崎さん、背中がっつり出てますけど」
「え? ああ」
「下着はちゃんとつけた方が良いと思います」
「あんたはあたしの父親か」
そう吐き捨て、神崎は電車に乗り込んで行った。
泣かないで愛しいひと END.
20171115
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