パブロフの犬
ライラというバンドは知っていた。神崎律がギターをやっていたのも、高校のときに抜けたのも。ライラとは、アラブ語で夜という意味らしい。
ライラのポスターを横目に、七海はライブハウスの階段を下る。数ヶ月前、この建物の裏で取引が行われた。見事警察はその現場を取り押さえ、じわじわと南からシマを広げていた組の人間が何人か捕まった。取引相手は海外のマフィア崩れ。
しかし、それ以降にも若者に薬物をばら撒く連中が現れた。若者は軽い気持ちでそれを使い、気付いたときには抜け出せなくなり、手に入れる為に金を払い金を求める。
世の中を回しているのは愛ではない、金だ。
そしてその根本にあるのは、人間の心の隙間なのだと思う。
――ビッチと寝たくらいで、なに優位に立った顔してんだよ?
そんな言葉を言わせてしまった。傷付けたな、と考える。本当の名前を教えてくれ、と言われたものだから、つい。
七海は路地裏から路地裏へと移る。つい最近まで夏だったのに、もう吹く風が冷たい。
風邪をひきそうだ。
外回りから帰ってきた倉木を捕まえた。
「ミミックって知ってますか?」
「ミミック?」
「ホストクラブらしいんですけど」
ビルへ入っていく倉木の後を追いかける。
「一緒に来てください」
「え、やだ」
「……いつも倉木さんのキャバクラに付き合ってるのに」
「男が行ったって楽しいわけがなくない? 行くなら関を連れてけば?」
「倉木さん」
はー、と溜息を吐く倉木。やっと来たエレベーターに乗ると、神崎もまたそれに乗り込む。
「神崎、七海は?」
「どうして七海が出るんですか」
「あいつ、面倒な連中から追われてるらしい。逃げ回ってるって」
「……え?」
チン、とベルが鳴って五階に着く。
倉木は開ボタンを押して先に神崎を通した。
「いや、七海関係ないですし」
「今回はマジでやばいらしいよ」
「だから、七海関係ないんで」
七海がやばいのはよく分かったが、それとこれとは関係がない。神崎は前に七海が家の近くにいたことを思い出した。
あれは、街で話しかけようとしなかったのではなく、話しかけられなかったのか。
「……お前、次は何に首突っ込んでるんだ」
「いや、何にも」
「じゃあどうして急にホスト? つーか、ミミックって新しく辰巳通りの角にできた小さいメンズバーだろ」
「すごい詳しいじゃないですか」
「急に男漁り? まあ、神崎に釣れない魚なんてないと思うけど」
「……違います。人を捜してて」
事務所の入り口近くで立ち止まる。今日は扉が閉まっており、客人がいないのだと分かる。倉木は神崎の言葉に、一瞬呆れた顔を見せた。
「神崎はいつから探偵を副業にし始めたんだ」
「いや、頼まれたので。それに副業じゃないです、金取って……」
封筒を思い出す。取ったというか差し出されたというか戻ってきたというか。
「別に倉木さんに火消し役を頼みたいわけじゃないです。本音を言うと、関が一緒に居て何かあったら嫌だと思って。倉木さんに何かあっても良いというわけでもなくて、ただあたしは倉木さんのこと、信頼してるんです」
真っ直ぐ目を言われたら、堪ったものではない。
「倉木さんがそんなに嫌だって言うなら、宮武を連れていきます」
「もっと嫌だって言うよ」
「じゃあ行きましょうよ、ね?」
「……お前は時々本当に狡賢いね」
「ありがとうございます」
褒めてない、と言いかけて、今の答えが七海に似ていたことが笑えた。倉木は神崎の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「生意気だな」
神崎はドアノブの違和感に、一度手を離した。自室の扉のノブは何も変わっていないようだったが、しゃがんで鍵穴を覗き込む。どうしてそうしたのかは、本能だと言える。
細かい傷がついている。何度も引っ掻いた跡のような。ドアノブを回して扉を開ける。
電気を点けてから、眉を顰めた。
「……なにこれ」
数人の足跡。土足で人の家に上がるなんて良い根性をしている。
ただでさえ掃除が苦手なのに、と舌打ちをしながらそれを見る。形として、二人組か。真っ直ぐリビングへ進んでいる。玄関へ向かう足跡もあるので、既に出ていった後だろうという自信があった。
靴を脱いでリビングへ向かう。
思ったとおり、荒らされていた。荒らすほど物もないのだが、クローゼットの中の洋服がぶちまけられていたことに腹が立った。目当てのものが無かったのなら、戻していくべきだ。
目当てのもの、とは。
神崎は仏壇が無事であることを確認して、寝室へ入る。服を跨いで、ベッドの下を覗く。クッキー缶に手を伸ばして引き寄せ、その蓋を開けた。通帳、判子、響子から貰った形見の数々。ここにあるものがこの部屋で一番大事なものであり、これの他に金品なんてない。空き巣は、なにを盗って行ったのだろうか。
ちょっと待て、これは空き巣か?
荒らされた部屋の中、金目のものは盗られていない。諦めて出ていった? そもそも、どうして神崎の家だったのだろうか。金が目的なら、もっと他に狙う相手がいるはずだ。
缶を抱いて、考えを巡らせる。
じゃあ、この春壱通りに面したボロアパートの、わざわざ神崎の部屋を狙った理由は?
ぞわ、と背中に視線を感じて、神崎は振り向く。勿論、誰もいない。
缶の中身を鞄の中に詰めて、ベッドの下へと缶を戻す。バタバタと思い立ったように玄関へと向かった。パンプスを履き、電気も消さずに外へ出る。鍵だけはきちんとかけた。
携帯を出して、電話帳をタップする。ありさ、倉木、朱里。倉木に電話をかける。今日も繁華街のどこかで遊んでいるのだろう、と思いながらコール音を待つ。階段を下りながらその音は途切れず、最終的に繋がることはなかった。
駅の方へ自然と歩いた。自分の職場のある駅でおりて、その人混みへと紛れる。金曜日の夜だ。サラリーマンとOLと居酒屋の客引きとポン引きで賑わっている。街は昼のように明るかった。
大通りを彷徨いていれば、いつものように七海が声をかけてくるだろう。そう考えて、そういえば七海は面倒な連中に追われている最中なのだと思い出した。
「七海……」
本当の名前ではなくても、それは神崎が知っている呼び方だった。呟くように言って、その場に立ち止まる。立ち止まった瞬間、心細さに心が折れそうになる。
怖い、寂しい。
神崎を置いて、世界が回っている。
こんなとき、母親が生きていたときは母親に会いに行けば良かった。いや、こんな気持ちになったことはなかった。自分が一人ではないと知っていたから。
泣きそうになりながら携帯に触れると、ちょうど朱里から電話がかかってきた。
20分ほど経つと朱里が改札を抜けてやって来た。和花も一緒だった。こうして親子揃ってみるとよく似ている。ぼんやりと神崎はそんなことを思った。
自分と響子は隣に立っていたら、似ていると思われただろうか。
「律、大丈夫?」
こちらに駆け寄って、神崎の肩を掴んだ。和花も後ろで心配げな顔をしている。
返事をして、神崎の家へ向かった。鍵を開けると、出てきたままの部屋の状態が広がっている。朱里はその状態に眉を顰めた。確かに、ただ汚いだけでなく、掘り返されたという感じだ。
「盗られたものは何も、」
し、と朱里は人差し指を唇の真ん中に立てる。それから、一度神崎の部屋を出た。
「警察には言った?」
「いえ、まだです」
「何か盗られたものはないの?」
「はい、見つけられなかったのか……でも、鍵がかかってたんです」
それが一番の違和感だった。
神崎の言葉に、朱里は頷く。それから和花の方へ向いた。目が合って全てが通じたように持ってきた鞄を開ける。中から出したのは、とある機械。
「ないことを願ってるけどね」
「盗聴器ですか?」
「うん。物盗りじゃないし、万が一ってことも考えて」
何故それを持っているのか、突っ込むことも忘れて、神崎は部屋へ戻っていく朱里の背中を見ていた。
結果から言うと、盗聴器は三つ回収された。リビング、寝室、玄関先。朱里曰くこれは電波式のもので、家の近くまで来て聞くことができるものらしい。
粉々にされたそれを和花がビニール袋に丁寧に入れていく。
「にしても、これまで何ともなかったのに、急にこんなの仕掛けられるなんて。律、何の恨み買ったの?」
朱里がコーヒーを飲みながら聞いた。
心当たりがないと言えば嘘になる。ありすぎると言っても過言でない。
嫉妬、仕返し、標的。人間なんて生きているだけで狙われる理由があるのでは、と考えたところで、先程どうして自分がと思っていたことと矛盾する。倉木のイロか、ありさに関することか、それとも花中央通りの女のことか、昔突っぱねた男の数々だろうか。
「警察には言わないんですか?」
「考え中。盗聴器だったことは分かったし、鍵はピッキングされないのに変える」
「カメラは無いみたいだし」
「じゃああの人には言わないんですか? この前、一緒に来た」
和花がクスリをキメて学校の体育倉庫で縮こまっていたときの話だ。神崎と七海でその場に駆けつけた。
ああ、七海。なるほど。
「多分、原因そいつだ。今面倒な連中に追い回されているらしくて、その見張り場にでもされたんじゃないですかね」
「追い回されてるって、その人何なの? 律の彼氏?」
「……いや、知り合いです。一応本職の……樺沢にいる下っ端らしく、経理とかやってるみたいです」
「なんか、響子もそういうよく分かんない肩書の男とヨロシクするのが得意だった」
「親子の特技とかじゃないんで」
「で、今その男はどこにいるの?」
そんな会話をどこかでしたな。
ああ、昼の話だった。
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