夜は短し咆えれば青年
ライラに唄え
静かな夜というものを、ここにいる誰が知っているのだろうか。
神崎律は会場の隅でコップに入ったジントニックがドラムの振動で揺れるのを見ていた。薄く着られたライムが氷の下で溺れている。息継ぎを忘れて、その水面から顔を出す日は来ない。
ドラムだけではない。ベース、ギター、時にはキーボード。そして声。
この街の中で一番大きなライブハウス。大きなレコード会社もここからよくスカウトをすると有名な場所。昔に比べればかなり治安も良くなり、客層も幅広くなっている。人気のあるバンドではチケットがすぐに売り切れる。ステージに立つのはバンドに限らず、ジャズやシャンソン、クラブになることもある。
神崎はカウンターチェアに浅く腰掛けた。バンドのファン等がステージの周りで各々がリズムを取っている。コップの中身を一口飲んで、左手につけた腕時計を見た。
「神崎?」
曲が一旦終わって、ボーカルのMCが入る。その合間に聞こえた声に、神崎は視線を上げる。
「奇遇ですね、倉木さん」
「お前とは活動範囲が被ってる気がする」
「そっくりそのままその台詞お返ししますよ。バンド好きなんですか?」
「ああ、次の」
カウンターの向こうにいる店員に、倉木がハイボールを注文する。神崎はその横顔を驚いたように見ていた。
「ライラですか?」
「まあ、高校の後輩。もしかして、」
「同学年です、あたしの」
へえ、と関心した顔をして倉木はコップを受け取る。神崎の隣のカウンターチェアに座る。ボーカルのMCが終わり、ドラムの音が響き歓声が上がった。ラストソングが始まる。
神崎と倉木は同じ高校を出ている。つまり神崎は倉木の後輩に当たる。街で一番偏差値が低く、掃き溜め高校とよく言われた。卒業をしてきちんと大学を出てこちらに来た倉木を見て、神崎は"掃き溜めに鶴"を具現化したような人間だと感じていた。その掃き溜めから何とか職に就けた神崎もいれば、こうして掃き溜めで組んでいたバンドで食べている人間もいる。
神崎は倉木と出会うまで倉木のことを知らなかった。一部では有名であったらしいが、神崎はそうした雑音を好まなかった。毎日を静かに過ごし、激情とは無縁の場所で自分の身を守る。ハリネズミのように相手を傷つけることはなく、アルマジロのように固くなった。
一方で、倉木は神崎のことを知っていた。人脈が広く先輩や後輩に慕われた。面倒事をのらりくらりと躱し、ここまで来た。
「今日は一緒じゃないの?」
「はい?」
「七海と」
「ついに湾に沈められたか山に埋められたか、じゃないですか」
「迷子ちゃんの件で一枚噛んだって聞いたけど」
「それ以来見てないです」
神崎はさっぱりと返事をした。倉木は二人が期待していた関係でないことは分かっていたが、あまりにもドライな物言いに苦笑いが漏れる。
迷子ちゃん、というのは笹木桃のことだろう。神崎の元に母親が失踪したという桃が来た。最終的に捜索に至る前にその事実は明らかになり、その過程で七海は一緒にいた。
黄色い悲鳴と歓声が入り混じる。神崎と倉木がステージの方を見た。ファンが挙げた腕の隙間からその姿が見える。懐かしき旧友の姿が。
「ライラでーす!」
マイクを通して聞こえた声に、ファンが答えた。二人はカウンターチェアからおりて、ステージの上に立つ三人を見る。ギターとマイクを持つ男と、ドラムの前に座る女と、ベースを持つ男。神崎は久しぶりに目の前にした人々に思わず笑みが漏れた。
ギターが鳴らされる。会場全体に熱が加わる。
「傷付けて生きていけ!」
曲が始まる。ライラにとって一番大事な曲であり、有名な曲であり、知らない者はいないとされている。
第一曲目だ。
各々にリズムをとる。先程より客が増えていることに倉木は気づき、隣の神崎に伝えようとしたが、その夢中な様子に口を閉じた。野暮だった、と。
ライブが終わり、余韻に浸る様子のファン等はゆっくりと出口へ歩いて行った。空になったコップを捨て、神崎もまた同じように帰ろうとしていた。倉木が何かに気付き、その肩を突付く。
神崎が振り向くより早く、その肩に粗雑に腕がかけられた。
「ひっさしぶり!」
大きい声とキラキラとした表情。馬鹿なくらい分かり易いところは周りに好まれていた。
神崎は衝撃にぐらりと身体が揺らぎ転がらないことに一生懸命だったが、元の姿勢に戻って「久しぶり」と苦笑いを見せる。嗚咽を漏らさなかった自分が偉いと思った。
「お前来るなら連絡寄越せば良いのによ」
「来るならって、草薙がチケット送りつけて来たんだろ。しかも事務所宛に」
「ああ、あれってチケットだったのか」
「そうです。字が汚すぎて誰宛なのかって問題になった」
「え、ふつーに神崎律様って書いただけなんだけど」
「最初ギリシャ文字なんじゃないかって検索したくらいだ」
倉木はその時のことを思い出す。最後の文字を「様」と仮定すると、名前は漢字三文字。事務所で名前が漢字三文字なのは神崎だけだった為に開けることになり、中身を確認してやっと神崎宛だと確定した。
同学年というには、チケットを送る程には仲が良い。神崎が不意に倉木の方を見た。
「てか、倉木さんと知り合いだったの?」
「去年から来てもらってる。なんだ、同じ事務所なら早く言えよー」
「こっちが早く言えよ、だ」
「お前はチケット送らなかったら来なかったろ」
その通りである。それ故神崎は口を噤んだ。
もう会場に二人のファンを除いて居ない。出口ではない扉が開かれて、見知った顔が現れ神崎は気安く手を挙げた。
「律ー! 来るなら言ってよ!」
それまで神崎の肩に腕を回していた男、ライラのボーカルである草薙明慶を退けて、その隣を陣取った女、白洲。先程までドラムを叩いていた腕は逞しく、神崎の腕が細く見える。べったりとくっつく姿を倉木は引き気味に見ていた。
「悪い。明慶から聞いてると思ってた」
「聞いてないし! 化粧直すのに時間かかっちゃったの、ごめんね?」
「それは気にしないけど、白洲のバスドラ新しくなった?」
「そう! ロゴ……作ったんだ、律、あのさ……」
神崎の周りには男が多いが、好かれるのは専ら女性の方が多い、と倉木は認知している。女性を射止めるフェロモンが駄々漏れしているのだろうか。是非とも分けてほしいものだ。
神崎は白洲の言葉の続きを待っていたが、それより先にもう一人が現れた。
「久しぶり、律」
「三國、生きてたんだな」
「第一声それ? 酷くない?」
男にしては線が細い。ライラのベースを担っている三國は、白洲より頼りにならなそうな薄い肩を回しながら近づいてきた。倉木は思わず苦笑いをする。ライラが勢揃いしてしまった。
神崎は呆れた顔をして白洲に少し身体を傾ける。白洲はその動作に応えるように、腕を絡ませた。何も知らない者がここに来たら、カップルだと思われても可笑しくない。
「それは、あんだけ女取っ替え引っ替えしてたらな」
「女の敵よね」
「今はもうしてねーよ」
「どうだか」
「それよか、もう話した?」
汗がひかないらしく、三國はTシャツの首元をパタパタとさせていた。視線は明慶の方を向いていたが、神崎が返事をする。
「なにを?」
「律に戻って来てほしいって」
目をぱちくりとさせた神崎は、助けを求めるように倉木を見た。
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