春壱通りで朝食を


神崎律は目を覚ました。頭の痛さに顔を顰めて、目元に腕を持ってくる。これは完全に二日酔いだ。

天井は完全に神崎の家。春壱通りに面したアパート。二階建てなのでエレベーターがなく、家賃はかなり安くなっている。

バスルームからシャワーの音が聞こえる。ふと自分の服装を見ると、昨日のまま。水が飲みたい、と思いながら昨夜あったことを思い出す。



どういう意味か、と明慶に尋ねた。


「俺ら、メジャーデビューすることになった」


その言葉を聞いて、おめでとうと言わない理由があるだろうか。倉木も同じように祝いの言葉を述べた。「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言って、明慶は神崎を見る。


「だから、もう一度」


一緒にやらないか?


白洲の言い淀んでいた言葉はそれだろう。神崎は当たりをつけた。返事はひとつで済むことだ。しかし、そうしてしまうには一緒に居る倉木に対して余りにも不親切である。


話は神崎の高校時代まで戻る。既に倉木は卒業して大学生活をエンジョイしている頃だった。

掃き溜め高校で周りから一線引いて静かに生活していた神崎であったが、一年で同じクラスになった明慶に誘われ、ライラというバンドを組むことになった。明慶の幼馴染で他高に通っていた白洲と、隣のクラスの三國が入ることになる。軽音部というものはなかったので、学校の外で練習をしていた。


「もしかして、神崎ボーカル?」

「んなわけないです、ギターです」


何故かキャバクラにいた。神崎がいると可愛い子が寄ってくる確率が高いので、倉木は連れていくことが多い。神崎の隣に座っていたナンバー2キャバ嬢のレンゲは、「神崎さんがギター? かっこいい!」と分かり易い反応を示す。

ライブ会場でライラのメンバーとは別れた。あそこで言い合うのは得策ではないと明慶も分かっていたのだろう。「持って帰って考えてくれ」と言った。

つまり、分かり易いほど神崎の答えは否だった。


「なんで神崎だけ抜けたの? 喧嘩?」


音楽の方向性の違い、というどこかで聞いたことのある言葉が二人の頭に浮かんでいた。レンゲは話に飽きて、神崎の掌を見始める。最近ハマっている手相をみているらしい。


「いえ、うちの母親が倒れたので。入院はしてなかったんですけど、あたしの余裕も無くて」


だから"今"なのだ、と倉木は考えた。メジャーデビューはそのきっかけに過ぎない。


「それは確かに仕方ない。でも、戻ってきてほしいって余程だよな。良い仲間だ」

「それはそうですけど、このタイミングでって」


神崎は何故"今"なのか、理解できないでいた。倉木はそれに気付いていたが、言うのが憚られた。


「少しは考えてみたら?」

「いちおう社会人なんですけど」

「もっと日の当たる所へ出れば良いのに」


神崎はその言葉にゆっくりと瞬きをして、自分の手を見ていたレンゲ手に指を絡ませた。どこで習ったのやら、女をたらすのは一流だ。少し顔を赤くしたレンゲが神崎の方を見る。神崎が何かを企むような笑顔を作った。


「今日はピンドン入れてくれるって。倉木さんが」


え、と漏らした倉木の声は周りにいたキャバ嬢たちの声にかき消された。キャーキャーと騒ぐ女たちを見て諦め、神崎を静かに睨む。しかし、神崎は作り笑顔のままそれを受け止めた。煽った倉木が悪い、と暗に言いたいのだろう。

それから散々飲んだ後、会計は倉木が持った。久しぶりに真っすぐ歩けない程酔って倉木に心配され、タクシーで帰れと言われたが、神崎は頑なに首を縦には振らなかった。

そこから記憶がない。



誰を持って帰ったのか。酔って記憶が無くなったことは何度かあるが、これまではきちんと一人で自分の部屋のベッドの上に眠っていた。神崎はごっそり記憶の抜けた部分を思い出そうとするが、頭痛が勝る。危険な奴だったらどうやって部屋から出て行ってもらおうか。シャワーの音が止まった。

ペタペタと足音が聞こえる。どうやら幽霊ではないらしい。

神崎は視線だけをそちらに向けた。


「誰?」


その姿を見て容易く声を上げられたのは、見知った人間だったから。


「誰っていうのは如何なものかと」

「酷い顔。男前が台無しだ」

「神崎さんから男前だと思われていたのは嬉しいです」

「七海の都合の良いところだけ拾っていく生き方、羨ましい」


勝手に他人のシャワーを借り、勝手に他人のタオルを被って、勝手に他人の冷蔵庫の中からミネラルウォーターを持ってきた七海は、笑おうとして少し顔を顰める。左頬から鼻にかけて青紫に腫れていた。口元も切れて痛々しい。神崎は身体を起こして手を伸ばしてミネラルウォーターを受け取る。パキリと蓋を開けて喉に流し込む。

拾ったのか、将又拾われたのか。


「間男みたい」

「は?」


下履きとスラックスだけを身に着け、色気を漏らしている七海はベルトを捜しながら返事をした。綺麗に割れた腹筋から目を逸らして、神崎はベッドの横に放られていたベルトを投げる。


「間男の意味分かってます?」

「安心しろ、相手はあたしじゃない」

「指摘したいのはそこじゃないです」


ベルトをして濡れた黒い髪を拭う。ベッドに腰を掛けると、神崎の家の石鹸の香りがした。


「昨日どこで会った?」

「覚えてないんですか?」

「全く」

「レンタルビデオ屋の裏の路地裏で伸びていた俺に声をかけてくれたんですけど、歩いてる途中で急に意識失ったのでアル中で死んだかと思いました」

「死んでたら声かけられ損だな」

「それはないですよ。結局眠ってたんで、起こして家の場所を聞きましたけど」

「……それ痛そう」


話す合間にも顔を顰めるので、神崎は顔を覗く。七海の喧嘩の腕前がどうかはよく知らないが、職業柄弱いわけでもないと思っていた神崎は、その理由を聞いて良いのか分からない。理由を聞いたところで笑って誤魔化すこともあるだろうし、正直に答えが返ってきても困る。

とりあえず家に連れ帰ってくれたのは七海のおかげらしく、勝手に自分の部屋のものを使っていたことは水に流すことにした。


「友人とどのビデオが良いかということで、喧嘩になりまして」

「超くだらないことで喧嘩するなよ、良い大人だろ」

「相手は金髪青瞳が好みで、俺は黒髪白肌が好みという主張になったんですよ」

「は?」


なんの話だ、と神崎はペットボトルのキャップを締めながら思う。


「アダルトの方の話です」

「朝からそういう話をするってことは、さてはお前七海じゃないな?」

「くそ疲れていて色々溜まってるんですよ」

「男前って言ったの取り消す」

「冗談ですよー、やだなー」

「黙れエセ紳士」


笑おうとすると顔を顰めるので、神崎が眉を顰めて立ち上がった。棚の引き出しを開けて救急箱を取り出す。パカッとあけて消毒液を渡す。

七海は自分で手当をしている間、神崎はバスルームへ向かった。着ていたものを脱いで洗濯機に入れようとすると、七海の服らしきものが既に入っていた。乾いているので、洗濯し終えたものらしい。洗濯機も勝手に使っていたのか。

それを出して、神崎の洋服を突っ込む。シャワーを浴びている間に、脱衣所が開けられる音がした。その服を着て出ていく気配と、そのまま玄関の扉が閉まる音。神崎はシャワーを止めて、瞬きをした。長い睫毛から水滴が落ちる。


リビングに行くと、人の気配が無くなっていた。七海は出ていったらしい。神崎は棚の上に置かれた救急箱を引き出しの中に戻す。その横の放置されていたギターケースを見た。

神崎の部屋には物が少ないが、その中で唯一目立つものだった。もう何年も触れていない。ケースに手をかけて、金具を外す。蓋を開けると、思わず「久しぶり」と言ってしまった。

持ち上げてチューニングをする。神崎の部屋は角部屋のうえ、隣も下も入居者がいたことがない。それを話すと倉木は「事故物件なんじゃない?」と脅してきたことがある。そんなことを思い出して、振り払うように軽くストロークした。


「ギターですか?」


背後から急に聞こえた声にピックを落とす。素早く振り向くと、七海がいた。


「せめて足音立てろよ、心臓痛い……」

「あ、すみません」

「なに、忘れ物?」


立つ鳥跡を濁さずの七海が忘れ物か。神崎はピックを拾い、ギターをしまった。


「いえ、神崎さんの冷蔵庫に食べ物がなさすぎなので、朝ごはんをと」





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