沖の太夫


酔った頭を落ち着かせ、警戒しながら帰路を辿る。神崎律は歩調を整えた。あれからすぐに鍵を交換し、とても頑丈かつピッキングし難いものになった。前は一つだったが二つ鍵がつき、古びた扉には不釣り合いな……というより、鍵をピッキングするよりも扉を蹴破った方が早いと思われる。それでも、と朱里が知り合いに頼んで鍵屋がやってくれた。

階段を上がると、神崎の部屋の前には人が座っていた。ひ、と息を吸った音が自分の耳に届く。


「なに……やってんの」


驚きと困惑で、神崎の声は震えた。


「こんばんは」


寒そうに小さくなった猫が、こちらに顔だけ向けるように。

神崎は鍵をすぐに取り出して、その扉を開いた。押し込むようにその冷たくなっている身体を入れる。


「あんた、何やってんの? 誰かに見られたり、」


しー、と唇の真ん中に当てられた人差し指。七海は少し笑っていて、その顔を見たのがとても大昔のようで、懐かしくて。

この間、きゃんきゃんと子犬のように吠えたことなんて忘れてしまった。よく言うだろ、やった方はすぐに忘れてしまう。


「ちょっと、神崎さんの顔が見たくなって」

「そういう無駄口叩いてんな。てか冷たい、いや、熱い」


神崎は七海の額に手を当てて顔を顰めた。これは完全に熱がある。どうしてこんなになるまで部屋の前にいたのだろう。ああ、神崎の顔が見たかったからか。ってそんなわけあるか。


「早く入れ、そして寝ろ」

「添い寝してくれるんですか? 来た甲斐がありました」

「……なんか、懐かしいと思ってたのが吹き飛ぶくらいうざったいな」


冷たい身体をべたべたとくっつけてくる七海を引きはがし、リビングのソファーに投げた。あっさりと投げられた七海は大人しくそこへ座っている。

薬缶と、昨日の夜に作った味噌汁にも火をかける。


「神崎さん、酒くさいですね」


いつの間に立ち上がっていたのか、気配の無さに神崎は驚く。


「あと香水くさい」

「あんた、何から逃げてんの?」


手をさっと洗いながら聞く。冷蔵庫から冷凍ご飯を出して、レンジに入れようとした。七海がその手を掴む。何か、と視線でそれを問う。


「うどんが良いです」

「ねえよ」

「俺、今鼻が利かないんですけど」

「だろうな、風邪……は?」


酒と香水くさいというのはハッタリだったということか。舌打ちをして神崎は冷凍ご飯を置く。


「この部屋、盗聴器仕掛けられたんだけど」

「その予想はしてました」

「知っててここに来るってことはあたしに迷惑かける気満々ってことだな」


七海はキャバクラにさえ指名手配のお達しが出ているのだ。神崎はその迷惑どうこう言うつもりは無かったが、ここに来たのならどうして追われているのか逃げ回っているのか聞く権利があると思ったのだ。カノジョの権利でなく、家主の権利だ。

神崎が睨むと迫力があった。七海はへらっと笑っただけ。


「レコーダー、盗られましたか?」

「……いや、あると思うけど」


この部屋に入って一番最初の実のある会話だった。

神崎はいつも事務所へ持っていく鞄を開く。中には薄いノートパソコンと、その他諸々。その奥底に投げ入れたボイスレコーダーが眠っていた。


「え、持ち歩いてたんですか」

「いや、出すのが面倒で。言われなかったら多分ずっとこのまま入ってたと思う」


クローゼットの中身をぶちまけられて腹を立てたことから分かるように、神崎はとても面倒くさがりだ。まめな連絡も好まない。これは母親譲りだろうか。

記憶力は良いのに、その性格が全てを相殺しているようにも思う。七海は呆れを通り越して笑った。


「何笑ってんだよ」

「いや、あの、神崎さんが女神に見えて」

「意味わかんない。文脈って言葉知ってる?」

「いえ、この恩は決して忘れないです」


いつか鶴になってやってくるつもりなのか。七海はそれをまた神崎の鞄に戻した。


「え、持ってかないの」

「それはそこにあるべきだと思うので」

「……あんた、これの所為で追われてるんだと思ったけど」

「あ、ばれてました?」


神崎は少し推測を立てていた。キャバクラ帰りの頭で、七海の今の立場を。

七海の所属している樺沢組から指名手配されているのは、七海と連絡が取れなくなったからだろう。大事なデータを持ち逃げしたのかどうかは兎も角、七海を見つけるのが優先のようだ。しかし、倉木は『面倒な連中ではなく樺沢』と訂正しなかったことから、七海は他に面倒な連中にも追われているのだ。そちらからは追われているだけでなく、潰しにかかられているのかもしれない。

そして、これも推測だが、七海のボイスレコーダーに入っていた会話からすると、それは売人関係だ。このレコーダーにしろ何にしろ、七海の握っている情報が面倒な連中にとって望ましくないものだから、七海を消しに回っているのだ。神崎に部屋に盗聴器を仕掛けるくらいには、余裕がなく。


そして運命の悪戯か、神崎もクスリ関係の人間を追っている。


神崎は冷凍ご飯をそのまま味噌汁へぶち込んだ。ぐつぐつとしてきたら溶いた卵を回し入れる。乱暴な料理だが、結構美味しいのだ。

どん、と七海の前に出す。蓮華が無いので大きなスプーンで代用。


「美味しそうです」

「うどんじゃないけど」

「やっぱり日本人はご飯ですよね。いただきます」


七海は鍋に作ったそれを全部平らげて、すぐに寝落ちた。あまりの華麗さに神崎は軽く目眩がした。そういえば飲んで帰ってきたのだ、と思い出す。

水を飲んで、七海の身体に毛布をかける。結局、こちらは何の情報も収集できなかった。冷蔵庫のポケットに入っていた冷やしピタを七海の額に貼ると、少し眉を顰めてから寝顔に戻る。それを見て、神崎はソファーに寄りかかった。







七海が目を覚ますと、豆電球のついた部屋でテレビだけが明るく点いていた。すぐそこで神崎が膝を抱いて座っている。眠っているのかどうかは分からなかった。

動くと、すぐにその頭が上がる。


「……熱は?」

「だいぶ下がりました」

「良かった」


安堵した表情が逆光になっていても分かった。七海は手を伸ばした。

神崎は眠そうな顔でそれを見ていたが、何を求めているのか分からずに、テーブルの上のミネラルウォーターを取る。それとは全く別の方向であったのにも関わらず、だ。

ペットボトルを掴んだ手を、上から掴む。次はポカリが良い、なんて言うんじゃないだろうな。神崎は先程の冷凍ご飯のことを思い出した。


「信じて欲しいんです」


七海が言った。神崎はその言葉に顔を向けようとするが、その前に七海が神崎の背中とソファーの間に入り込む。掴まれた手と、腹にまわされた腕。がっちりホールドされている格好に、神崎はただ今刺されたら終わるな、としか考えられなかった。


「……信じてないなんて言ってないけど」

「名前聞いてきたのに?」


きっと七海は気付いているのだろう。あの件があってから神崎は七海のことを名前で一度も呼んでいない。


「じゃあ、七海もあたしのこと、信じてよ」


テレビに映るのは、テレビショッピング。白くて美しい真珠が、気品のあるおばさんに装着されて「これでこの値段ですか?」とお決まりの台詞を言っている。


「言えないならそれで良い。今は言えないでも、あたしには言えないでも良い。どうしてはぐらかして、テキトーに誤魔化そうとすんの。そういうのが一番、」


一番。


「一番、傷つく。傷つけないようにって、七海はそういうことをするのは分かってるけど、そういう中途半端な態度を取られる方が面倒くさい。そうやって気持ちをこっちに投げつけて来んなよ、解釈するのも大変なんだ」

「面倒くさいって」

「だから、この前『カノジョ面すんな』って言われたとき、ほっとした」


視線はテレビの中。真珠の値段が更に安くなっていく。七海の体温が降りかかってくるようで、神崎は眠気に誘われた。

言いたいことも言えたので、緊張が全て降りたのだ。


「……そうだ、あたし、カノジョ面したかったんだ」


ぎゅっとまわされた腕に力が入る。七海がどんな表情をしているのか、神崎には想像もつかなかった。不敵な笑みを浮かべているのか、困ったように眉尻を下げているのか。


「あんたのこと、全部知りたいって、教えて欲しいって、そう思った。だから、信じて」


酒はもういらない。煙草は飽きた。遊べるような友達もいない。遠出できる車もない。クスリをやるのも腕を切るのも、辛いだろう。

それなら、ぶち当たるのみだ。例え壊れてしまっても。そんなに器用に生まれて生きてきたわけではなかった。

壊れて散らばったら、きっと誰かが集めてくれる。そうして世界は回っている。

腹にまわされた腕に、手を添えた。


「でも、あんたのことも信じてるから」

「……はい」

「これもまた、"いつか絶対"教えてくれれば良い」


七海は震えていた。風邪だからどうかは分からないが、神崎は長い付き合いの誼でそれを保留にしようとした。


「神崎さん」


泣いている、と思った。神崎はそう思っていた。

実際どうだったかは分からない。七海の顔は見られなかったし、熱が下がったらしいのに身体は熱いままだった。


「俺の名前、結城総司っていいます」

「そうし?」

「総てを司るって書いて、総司です」


抱かれた膝の上に、漢字を書く。神崎がくすぐったそうに身を捩る。


「結城総司。うん、結城か」

「そして苗字を選択するのが神崎さんらしいですね」

「七海。あのさ」


死ぬんじゃねえぞ。

脅しのように神崎は低い声でそう言った。どうしてこのタイミングだったのかは分からないが、七海は素直に「はい」と返事をする。


「それじゃあ、早く寝ろよ。あたしはベッドで眠る」

「添い寝はどうなったんですか」

「風邪が移るだろ」

「それ病人が言う言葉ですから」


そんな横暴な台詞に、七海は笑った。



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