巡り、曲がる


神崎律は頭を痛くした。

ママを捜す女児の手をとり、エレベーターに乗った。このビルにはいくつかテナントが入っている。その中に位置する事務所の五階からゆっくりと降りていく。その浮遊感に桃くらいの歳では気持ち悪さを感じていた。敏感な子だった。


「悪いけど、ママの居場所は知らない」


言葉を発して、桃は涙目になる。それを見て溜息を吐く。一階についたエレベーターをおりて、ビルのエントランスに出た。出口を抜けると繁華街の大通りに面している。学校が早く終わったのか学生服を着る男女の姿やごみ拾いをする緑のウィンドブレーカーを着たおっさんが歩いている。残りは一般人か社会人か何にも属さない人間。

この中を女児が一人で歩いていたら、確かに違和感がある。


「ママに言われたのか? ここに行けって」


小さく頷く。だろうな、それ以外にない。

捜す伝がないわけではない。神崎の顔は神崎の知っている以上に広いのだ。どうにかしたら、もしかしたら、何か引っかかるかもしれない。

でも、もしも引っかからず何も出なかったら? それまで桃はどうするのか、それから桃はどうするのか。

面倒だ、と神崎は正直に思った。そういう細かいことまで気にしてしまう自分も、こんな問題を持ち込んでくる新人も。


「神崎さんのガキですか」


その声と言葉に振り向いて睨む。からかって言ったのが目に見えてわかるような表情だった。この童顔で神崎と同い年だというのだから、神崎は遺伝というものを恨まずにはいられない。

七海は神崎の返事を待つことなく、しゃがんで桃と視線を合わせた。桃は神崎の後ろに逃げるように隠れる。その様子を見て、神崎は口を開いた。


「知り合いの子」

「預かってるんですか?」

「違う。勝手に来て、そのうえ連れて来られた」


いまいち状況を把握できない七海は立ち上がって「それで、今から神崎さんはその子を送り届けるところ、と」と駅の方を指差した。

それが出来ればなんてことはない。神崎は小さく首を横に振った。


「仕事は?」

「ソトマワリの途中で神崎さんの姿を見つけたので」

「戻れよ」

「神崎さんは有給休暇ですか?」

「特別早退」

「俺も早退しよーっと」

「お前、いつか刺されるぞ」


あのドスで、と神崎が付け加える前に七海は桃へ手を伸ばした。何もない掌。一度握って、再度開く。何もないまま。


「手を重ねて」 


神崎と一緒で掌に釘付けになっていた桃が誘われるように空の掌に手を重ねた。きゅっと握られて、それから離される。


「あ!」と弾かれたように目を輝かせる。桃の掌には飴玉が乗っていた。


「すごい! すごい!」

「俺の副職はマジシャンなんだよ」

「おじさんマジシャンなの? すごい!」


おじさんの言葉に神崎は噴いた。それは女児からすればどんな童顔だとしても、自分より大人の男はみんなおっさんに見えるのだろう。

鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした七海の背中を叩き「どんまい」と声をかける。


「本業を疎かにしてるからだな」

「お嬢さん、俺はおにーさん」

「お嬢さんって言うとこからおっさんくさいぞ」

「神崎さんもしかして笑ってます? 笑ってますよね?」


立ち上がった七海が背けていた神崎の顔を覗く。否を示すが、七海は目を細めてそれを認めなかった。


「お名前は?」

「ささきももです」

「お母さんはどこにいるの?」

「……ママは、居なくなっちゃった」


きょとんとした顔で七海はそれを見る。交番へ行けば良いだけの話だというのに、少し立ち止まっただけでこれだ。神崎は後悔し始めていた。七海が一緒に捜したら面倒が増えていくばかりだ。折角今日は早退をさせてもらったというのに。


「その人と連絡はつかないんですか?」

「ああ」

「何ていう名前ですか?」


普通の質問のように思えて、そうではない。

神崎は七海をじっと見た。その澄んだ目の奥で何を考えているのかを思案したが、図ることはできなかった。七海は捜すつもりなのだろう。

桃はその様子を空気を読んで黙って見ていた。


「知らない」

「……はい?」

「本当だ、知らない。たぶんこの子も知らない」

「どうしてそれを、神崎さんが知っているんですか?」


倉木を聡明だと思った。神崎は同じようなものを七海から感じ取っていた。初めて会った時からだ。無駄のない質問の仕方、人の考えをひとつ先をいく動作。自分はのらりくらりと躱しながら、神崎へ踏み込んでいく。

大通りを歩く同業者たちがちらちらと神崎の顔を見る。一緒にいる七海のことも。二人がよく一緒にいるのは周知のことで、それは珍しいことではなかった。

女児を連れていること以外は。


「お腹空いたな」


神崎は桃に言う。見上げた桃は大きく頷いた。昼も過ぎていたが、神崎は昼食を取っていなかった。七海を置いて二人で歩き出す。神崎は楽しげに後ろを少し振り向く。

分かっていてやっているのだろう。


「七海も来るだろ。何食べる?」

「目が『来い金蔓』って言ってますよ」

「いつから千里眼が使えるようになったんだ」

「嘘でも良いから否定してください」


なんだかんだ言って七海は後ろをついてくる。桃もそれを確認して、手を引かれるまま歩いた。駅前にもあるファミレスに入って、席に通される。思っていたより客は少なく、神崎は桃の隣に腰をおろした。


「ハンバーグ!」

「デザートも頼んで良いってよ、おにーちゃんが」

「そんなこと言いましたっけ」

「と、からあげ和膳ひとつ。七海決まった?」

「チョコパフェ!」

「焼き鯖定食で」


注文をして、ドリンクバーをつけたいという桃の意向を受け入れた七海は財布の中身を思案した。一人でドリンクバーへ向かった桃の姿を視界に捉えながら、神崎は口を開く。


「知り合いに、いじめられてた女子がいた」

「過去形なんですね」

「そいつは"死んだ"らしい」


七海はメニューを立ててからその手を止めた。

神崎の視線は桃の方へ向いている。そこには心配と監視が両方存在していた。何を飲もうかと考えているのか、行ったり来たりしている。


「伝言形ということは」

「本人から聞いた」

「死んだ、と?」

「うん」


気さくな頷き方を神崎がするものだから、七海は目を丸くしてその顔を見てしまった。旧友の話をして気が緩んだのか、珍しいものが聞けた。神崎はもちろん、七海の方は見ていなかったが。


「霊感があるんですか? それとも死神と知り合いなんですか?」

「んなわけないだろ」

「では、その死んだ知り合いの方は今どこに?」

「名前も顔も住所も知らない人間になってる」


顔も。

その言葉を問う前に、桃がテーブルに戻ってきた。


「ふたりは何のむ?」

「アイスティーとアイスコーヒー、よろしく」

「はーい!」


自分の分のオレンジジュースを置いて、ドリンクバーの方へ戻って行った。きっと空気を読んで離れたのだろう。神崎は続けた。


「向こうが神崎さんの居場所を知っているところから、この街に居るのは考えられますね。住んでいる場所はあの子が分かるでしょうし」

「七海」

「なんですか?」


鋭い洞察力。どうしてそんなものを持ちながら、こちら側にいるのだろうか。神崎は少し目を伏せて、それから溜息を吐いた。


「とりあえず、飯にしよう」


桃とウエイトレスが到着したのは同時だった。隣に座った桃が、ハンバーグを頬張る。好きな食べ物というのは、家族に由来するのだろうか、とふと考えた。神崎の正面に座る七海は綺麗に鯖を食べている。

たまに、感じた。

ここで物語が終われば良い。今こうしてゆっくりと嬉しいや楽しいなんて激しい感情はないが、穏やかに過ぎ去る時間が愛おしい。始まりは一瞬で、終わりは永遠だ。悲しいことに、それは事実であり現実だった。

神崎はそれを知っている。そして、永遠にどれだけ恋い焦がれようとも、それが現実にならないことを知っていた。穏やかな気持ちでいるうちは、そういうものに過敏になり嫌ってしまう。

エレベーターに慣れたのは、中学生になってからだった。上下する箱に気を向けられなくなるくらい、他のことに忙しかった。

季節は巡り巡る。そして、ここに回帰する。



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