嵐谷イサミの十戒 その十一 後編

 ――翌日。俺は両親に見送られながら簡単な荷物を手に家を出ることにした。堪えきれずに心配を口にする母に「今生の別れじゃないんだから」と言葉をかける親父に、もしかすると自分へ言い聞かせているのかも知れないと思えて笑えてくる。


 いつまでだって名残惜しそうに見つめていて、語るべき言葉も尽きているのに佇み続けて静寂が横たわっているような状況。まぁ、四年ぶりの帰宅となった子供が翌日には出て行ってしまい……そして今度はいつ帰ってくるかも分からないのだから無理は仕方ないのだろう。当てのない旅に出て、帰る時も分からぬまま去られていく者の気持ちを俺は理解しているつもりだから。

 

 そして、そんな時に欲しがってしまう言葉も分かるから俺は口にした。


 今度この家に戻ってきた時にはイサミさんも一緒だということ。必ず帰ってくるということ。そして、自分にとってはいつまでたってもこの街が故郷であるという、揺るぎない事実。


 なるべく短く纏めて俺は別れを告げた。手を振り、旅の幸運と無事を祈ってくれる二人の言葉を背で受けながら歩きだして。少し歩んで一度振り返ってみる。きっと俺が見えなくなるまでその場に佇み続けるであろう両親の姿がぼんやりと見えた。


 大人になれば自由を手に入れられて、こうしてどこへだって行ける。なら、あの二人はあの家に住み始め、俺が生まれて随分と不自由になったのだろうか。遥か遠くへ旅することもなく手の届く範囲のものを愛して、どこにも行けなくなった?


 ――いや、それを不自由とは言わないだろう。


 どこにもいけないんじゃなくて、留まることを選んだに違いない。旅をして、沢山のものの中から自分が心の底から愛せるものを抱え、いつかはどこかで腰を降ろす。綿毛が風に舞って遥か彼方を旅し、遠い大地で根を下ろすようにして。


 旅をするのだから、いつかは帰る。

 そして、帰る場所を求めているからこそ旅をするのかも知れない。

 ならば、この旅もいつしか辿り着くべき場所は――。


 そのように思考を纏めて、俺は再び歩き出す。


 さて、どうしようか……。現状ノープランなのである。それは勿論、イサミさんがどこにいるのかが分からなくて。そしてどこにいてもおかしくない人だから探す選択肢は山ほどある。捜索対象は地球全土なのだから、骨が折れるというもの。


 でも――そんな日々だって面白いのかも知れない。

 苦労は楽しいことに繋がっている。

 それを今の俺は、よく知ってるから。 


 俺はどこか軽い足取りでまずは駅へと向かった。それはイサミさんが旅立った軌跡を辿りたいという思いが具現したようで。……となれば電車に乗るのは必然だろう。


 イサミさんがあの時に買っていた切符、その駅名ははっきりと思い出せない。だから線路図を見つめて記憶と重なる何かがないかと探していく。やがてアバウト過ぎる決断で握りしめた切符を片手に改札を通りぬけ、駅のホームで椅子へと腰を降ろした。そして荷物で一席分を埋めると空を見る。


 雲一つない快晴で。あの日に見た空とは違い透き通るような青色だった。


 確かあの日の空は群青色。夜もまだ完全には明けていない早朝だった。イサミさんの軌跡を辿るならば時間さえも似せて、太陽が顔を出さない内から薄暗さに紛れて旅立つのは悪くない気もした。……でも、イサミさんが一刻も早く街を出たいと願っていたことは、きっと……俺の知らない過去があったからで。それは、春を迎えても溶けることのなかった真っ白な記憶だから。


 俺は俺で、気ままに旅をしようと思ったのだ。


 そういえばあの時、この場所でイサミさんを乗せて走り去った電車を見送ってから、俺は随分と泣いていた。体を震わせ、声を上げて泣き叫んでいた。


 あの頃はまだまだ子供で。

 大人になるんだと決意をした日から、それでも苦悩は続いて。

 でも――乗り越えて、繰り返した。


 雪解け水は流れ出して川へと行き着く。

 ならば、どこまでも行くせせらぎと共に行こう。

 春の陽気に誘われて、ひたすらに続く自由を。


 そんな思いで旅をすること。俺の憧れはきっと一オクターブの見上げた空からは少しずれた場所へと辿り着いてしまうのだろう。イサミさんを求めて旅をする時点で、俺はあの人にはなれない。……でも、それでいいのだと今は思う。


 同じ場所じゃなくていい。

 ただ隣にいたいだけだから。


 そのように思考を結んで、あとは駅のホームでぼーっとしていた。色々と感慨深さに誘われた思い出が頭の中に巡って、子供だった自分の過去が何だか愛しく思えて。そんな風に考えていると記憶の中にある苦みと同じ顔をした電車がやってきて、俺は何だか微笑みながらそれに乗り込んだ。


 空いている電車内で席に腰かける。やがて走り出した電車に身を揺らされ、気付けば俺は初めてイサミさんに自分の想いをぶつけるみたいに告白したことを思い出していた。ひょんなことからイサミさんに心の声を聞かれたことがきっかけだった……そんな過去に今度は苦笑してしまったりして。


 ――そんな時、だった。


 走り出して十数分ほどで電車はアナウンスにて、次に停車する場所としてある駅名を口にした。その駅名は俺が通っていた中学と高校がある街の名前で。


 耳にした瞬間、脳の奥底が震えるような感覚。古く使われていなかった記憶が目を覚ましたように活発となり、懐かしさが奥底から湧き上がってくる。そして随分と先まで進めるはずの切符を握りしめた俺はそんな痺れとも言える感覚に誘われ、そこで立ち上がってしまった。


 いつの間にか扉の前へ移動して、降りる準備をしていたのだ。


 中学からの六年間で染みついた条件反射だと、自分の行動を笑いそうになる。しかし懐かしさだけでなく、イサミさんとの思い出が一番溢れているその場所を始まりとして旅立つことも悪くないというかなり有力な理由付けはあった。だからその行動にブレーキはかけられない。


 そんな風にして――俺は電車から降り、四年ぶりに思い出の地を踏んだ。


        ○


 駅から出て、商店街を歩けば随分とシャッターの増えた光景に少し心を痛める。大学時代に見かけた大型のショッピングセンターをこの街でも見かけて。そこが知らない場所であるかのように感じられると、俺の懐かしさが心から消えていく。別人の顔をした街に久しぶりと言われれば妙に気持ちが悪くて……俺は何となく道を少しずつずらして商店街から逸れ、気付けばあの住宅街を歩いていた。


 そして、俺はその進行方向の先にある場所を無意識に求めていたのかも知れないと思ったのだ。


 久しぶりに、あの喫茶店にでも立ち寄ってみよう。


 三月――それは春の陽気というにはまだまだ肌寒い感覚のする、冬の出口へ足を踏み入れた季節の終わり。頬に触れる風の冷たさが体を伝い、僅かな震えを感じつつ歩み進めていく。途中、ガラス張りの建物を鏡代わりにしようとすると身長があまりにも高くなりすぎて屈まなければ頭部が映らなかった。必死に腰を曲げ、覗き込むようにして前髪の行方に試行錯誤してみる。


 恋している女の子を迎えに行くんだから、もう少し身だしなみには気を遣うべきかも知れない。


 そんな思考をしつつ辿り着いたのは、住人達の品性の高さを感じさせる落ち着いた街並みの中にあって主張はせず、独特の雰囲気が経年によってさらなる味わいを湛えたレトロチックな外観。店内を満たす珈琲の香りが午後を至福の時間へと変えてくれる、慣れ親しんだ喫茶店だった。


 実はこの喫茶店のマスターとは高校時代にちょっとした交流があったのだ。きっかけは高校生となって「一人で入っても構わないのだろうか」と不安を抱きつつ訪れた際、「彼女はどうしたの?」と問いかけてきてくれたことから。小粋なウインクが印象的なマスターとカウンターを挟んで色々と悩みを聞いてもらったり、貴重な体験談を話してもらっていたのだ。


 何だか、変わっていくものばかりで寂しい気持ちもあったけれど……懐かしさをようやくこの街で見つけた気がして、温かい気持ちが胸の中に灯る。


 懐かしさを胸に店内へと入った。するとあの頃のままの内装、そして老けていないのかと驚かされるくらいに変わらないマスターと再会。四年という時間が経ってもマスターは俺の顔を覚えていてくれたようで――しかし「久しぶり」とは言わず、いつものように「いらっしゃい」と既知の仲へ向けるイントネーションで迎えてくれた。そんな些細な言葉が嬉しくて微笑んでしまう俺。


 四年ぶりにカウンター席へ腰掛けて珈琲を注文する。砂糖とミルクをつけてくれたマスターに対して、最近は無糖の方が好きになったことを伝えると「立派な大人だね」とちょっと茶化して語られた。


 そういえばココアばかりを注文していた俺に珈琲を勧めてくれたのもマスターだった。苦みをごまかすみたいにして砂糖とミルクを投じることが気に入らなくて、そのようにして汚せば本来の味が楽しめないから飲まない方がマシだと。それは嘘の味だと。いつかの苛立ちを思い出すようにちょっと愚痴っぽく語ってしまって。そんな俺に対してマスターは言ったのだ。


 どのような形であれ受け止める側がそれを認めれば嘘なんてない、と。


 混ざりもので純粋とは言えない珈琲をそのように勧められて、俺は渋々といった感じで口にした。その時は正直、味を楽しめていなかったように思う。それでも徐々に理解していって……当時、高校生だった俺にとって、その時の苦悩を模したような飲み物を口にしたことは間接的な助けとなった。


 そんな想起をしつつ俺は何だか恥ずかしいような、しかし嬉しい気持ちを胸に秘めて懐かしい珈琲を楽しんだ。


 それから小一時間――マスターは俺の話を聞いてくれて、店を出る際にはいつものウインクをして「必ず会えるよ」と、イサミさんとの再会を祈ってくれた。そんなマスターにまた来ることを誓って、店を出る。


 そこから俺はやはりというべきか、吸い込まれるような感覚で視界に飛び込んできた公園へと歩み寄っていった。


 変わらない公園の風景。人は一人もいなくて、そんな空白の光景をいつぞやの思い出が彩っていく。賑やかで、落ち着きなく遊び回る子供達が利用しているような公園で俺達は放課後になれば集まり、イサミさんに振り回される日々が楽しかった。


 放課後がいつも楽しみで、そして幸せで仕方なかった。

 好きな人と会う時間が落陽の飴色をした輝きで告げられるのが寂しかった。


 高校生になってからは同じ風景から切り取られた、あの人を探していた。

 大学に進んだって忘れなかった思い出の、場所。


 そして、あれだけ好きだった想いが今――こんなにも溢れている。

 だから、この場所に立っていると聞こえてくる気がする。


 色々と変わりはてた街の風景。同じままではいられない人の変化。でも変わらないものはちゃんとここに残っていて。あの時の鼓動が今日という日まで途切れずに響いているから。そして、高鳴って今も同じ場所で佇んでいるから――、



「だるまさんが、こーろんだっ!」



 そんな言葉が聞こえてきそうで――と思っていた瞬間、鼓膜が震える感覚。


 目を見開き、自分の感覚に訴えかける。

 夢じゃないのか、聞き間違えじゃないのか?


 自問自答に対する答えを必死に思考する。でも、考えるまでもなく幻だとか、夢だとか――そんなものじゃなくて。もう分かっている。


 分かっているから、振り返る。

 そして、そこに立っていたのは――。


「あ、動いた。残念だったなぁ……君の負けだぞ?」


 後ろで手を組んでこちらを見つめる女性に伴う既視感。だけどあの時のままじゃない風貌を湛えたその女性は、聞き馴染んだ声で――しかし、どこか落ち着きを伴った口調で揶揄するように言った。


 その風貌は、毛先が少しウェーブした肩に触れるくらいの髪が今は腰に至るまで伸びていて。大衆の中にあっても輝き見るものの目を引く白銀は相変わらず。俺からすれば懐かしくてたまらない風貌。鼻筋が通った顔立ち、非の打ち所のない美しさは磨きがかかっていて。ぷっくりとした柔らかそうな唇は今だって見とれてしまうくらいに魅力的だし、本人はちょっと気にしていた三白眼はやっぱり素敵で。


 クールな外見とは対照的な向日葵を思わせる少女だったあの人が――どこか大人びた風貌になり、七年前よりもずっと美しくなっていた。


 まるで夢のようで。

 ……だけど夢じゃないことは明らかだった。


 七年の時を経て――抑圧していた感覚。その凍てつき閉ざされていた気持ちがあっさりと溶け、心の奥底から熱いもの呼び起こす。言えなかった言葉が今にも口から溢れだしそうで、唇が震えるも上手く声にならない俺はただ眼前の女性を見つめるだけとなる。


 だるまさんがころんだ、と言われた俺は思う。

 この心だけは――動かなかったと。


 その人物こそ俺が七年間ずっと思い続け、そして今日まで会いたくて仕方がなかった最愛の人物――嵐谷イサミさん、その人だった。


        ○


「……どうしたんだよ。せっかくイサミさんを探して旅に出ようと決意してたのに、こんなあっさりと。そもそも帰ってこないって言ってたのに、何でいるんだよ?」


 あまりに不意を突かれた再会だったために現実味をいまいち得られないでいる俺。目の前にいるのが間違いなくイサミさんだということは認識できているのに、何だろうか……このふわふわと現実感のない感じは。言葉にするならば拍子抜け、だろうか。


 これから、世界を旅してイサミさんを探そうとしていたところだったというのに。

 

 そんな俺の心情が口調にも混じっていたのか、イサミさんはクスクスと小馬鹿にしたように――しかし、どこか大人としての気品を伴わせて笑った。


「おかしなことはないよ。私は君の家がある、あの街には帰らないと言ったけれどこの場所にまで帰ってこないとは言っていないよ。旅の途中にたまたま立ち寄っただけのことなんだから、こうしてあっさり再会してしまう可能性は――否定できないだろう?」

「そんなもんかなぁ……? 何だか理屈を並べてくれてるけどさ……本当は俺に会うのがちょっと怖かったからあの街には近付けなくて、この辺をうろうろしてたんじゃないのか?」

「む! 君は私のことをそんな風に思っていたのか?」


 俺の揶揄するような言葉に対して不機嫌そうに眉を吊り上げ、上目遣いで俺へ厳しい視線を送ってくるイサミさん。

 

 そういえば身長差をコンプレックスにしていた俺が、まるでモデルみたいだと感じていたくらいに背が高いイサミさんを見下ろすことになるなんてなぁ。


「そんな風に思った時期もあったよ。……でも今はどうだろうと構わない。そんでもって、とにかくイサミさんに会いたくて……そのための旅を始めるんならスタートはここかなって思った。だから立ち寄ったんだけど、あっさりゴールしちゃったな」

「何だか感動を奪ったようで申し訳ないな。でも、ゴールしたからってそれで終わりってものじゃないだろう。何せ――」

「――ここから新しくスタートするって言うんだろ? 分かってるよ」


 口にしかけた言葉を横取りされたイサミさんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべて「ま、そういうことだ」とぎこちない口調で同意した。


 そんな表情を見つめて「ははは」と余裕そうに笑ってみせると、イサミさんは探偵が考え込む時を思わせるポーズをとって俺の体へ舐め回すように視線を送る。


「うーん。何だか昔の頼りなさそうな感じがなくなって寂しい気もするな」

「じゃあ今は頼れる男になってるのかい?」

「どんなに私の悪口を言う輩がいようと暴れ回って助けてくれそうだ」

「それじゃあ俺、何も変わってないじゃん……」

「変わってるよ。随分と身長が伸びた。私を軽く超えてるじゃないか」

「親父に似たんだろうな。高校に入ってから一気に伸びたよ」

「声も低くなって素敵だな。それに口調も何だか男らしいというか……その、格好いいじゃないか」


 仄かに顔を紅潮させ、羞恥心に体をもじもじとさせながら視線を外すイサミさん。


 そんな挙動を見つめ、何だかこの人も変わっているようで根幹はそのままなのだと感じ取れて安心したようで。だからこそ浮き彫りになる七年の年月がもたらした変化を、俺も語ってみることにする。


「イサミさんだって何だか落ち着いた感じがするよ。昔はちょっとガサツそうな感じがあった気もするけど、どこか大人っぽくなってる」

「何だ。昔の私はそんなにガサツだったのか!」

「そんなにムキにならなくてもいいだろ。昔の話なんだから」

「とはいえ聞き捨てならない! その昔の私がガサツだってのは君としてはどうだったんだ?」

「そんなイサミさんも素敵だった。とっても」

「じゃあ……今は?」

「より一層、素敵になったと思うよ」

「本当に?」

「うん。七年の時を経て、今でも――やっぱり綺麗な人だなぁ、って」

「まったく、君はあの時と同じことを言っているな。でも……そっか、嬉しいよ」


 俺の言葉に嘆息して呆れを見せつつも、結局は笑みを浮かべたイサミさん。その表情はあの頃の俺が好きだった、七年前のイサミさんが浮かべていた印象的な陽だまりを思わせる温かい笑顔。


 そういうことなんだ、と納得してしまう。


 変わっていると思うこと。それは昔あったものが失われて新しいことを得る「変化」じゃなくて、積み重なって大きくなる「成長」と呼ぶべきなのかも知れないと。


 何もかもが変わったら、別人だもんな。


「それで、イサミさん。世界を旅することはどうだったんだよ。楽しかった?」

「ふふん。分かりきっていることを聞くのは君の癖だな」

「分かりきっているから聞けるんだよ。きっと楽しいことが沢山あったんだろうなって」

「もちろんだとも。話し始めればキリがないよ。沢山……沢山、私は貴重な経験を重ねた。辛いことなんてなかったと言ったら嘘になるけどな。まぁ、そういった思い出は立ち話で済ませられるものではないよ」


 どこか得意げで、そして話している内容とは裏腹に今すぐ自分の中で抱えている思い出話を口にしたくて仕方ない、といった感じで饒舌に語ったイサミさん。


 確かに言うとおり、そういった思い出話はお互いに抱えていて。七年間の抑圧から解放されたのだから、まるで噴き出すように言葉が溢れてくる。そして、俺達にはそれを語らう時間がこれから山ほどあるのだ。焦る必要はない――のだけれど、ちょっと気になることは消化しておこう。


「そうは言っても気になるから聞かせて欲しいんだけどさ。旅してたのってやっぱり海外?」

「そりゃそうだろう」

「……貯金とか足りたの?」

「足りるわけないさ。現地で稼いだよ」

「どうやって?」

「私、こう見えても多芸に秀でてるんだ。ストリートミュージシャンの楽器を奪って金儲けもしたこともあったなぁ」

「大丈夫だよ。最初からそうにしか見えてないから」

「本当に君は分かっていることを聞くんだなぁ」


 俺は揶揄するように言われ、心底愉快そうに笑って返事をした。それはイサミさんの言葉にも同じ感情が込められていたからだと思う。


「あと言語とか大丈夫だったの?」

「流石に英語しか分からなかったからなぁ。ちょっとした裏技を使ったよ」

「どんな裏技を?」

「紙に滅茶苦茶な絵を描いて通行人に見せるんだ。すると何て言われると思う?」

「可哀想に」

「違う! 現地の人に『これは何ですか?』って言わせることによって、その国で質問するための言葉が手に入るだろう。あとはそれを使って語彙を増やすんだ」

「へぇ。それ、成功したの?」

「街中の人に『頭がおかしいんだね』って言って回る結果になった」

「可哀想に」


 俺の小馬鹿にしたような言葉に対してイサミさんは頬を膨らませ、不愉快そうに顔を背けてしまう。でも、何だか愛おしい挙動。


 イサミさんのことをずっと想っていたからこそ……旅先で無事にやれていたかを問いかけてしまった。でも、それは心配じゃなかったのかも知れない。一抹の不安でもあるようなら、俺はきっとあの時に背中を押すことなんて、できなかったはずだから。


 どこか満足気な気持ちになり、それは表情にも表れていたように思う。そして、そんな時――不意にイサミさんは俺を指差し問いかける。


「それで……君の方はどうだったんだ?」

「ん、君っていうのは……俺のこと?」

「当たり前だろう。他に誰がいるんだ」

「俺はイサミさんほど派手な日々じゃなかったからなぁ」

「派手とかは問題じゃないよ。君だって色々とあったはずだろう……七年の年月が経ったんだから。やっぱりまずは――どうなったのかを聞かせて欲しい」


 イサミさんが語った言葉はその結びに近づくほど真剣で、切なさを含んだものとなっており、俺はその意図を汲み取った瞬間――その時が来たのだと確信した。


 思えば、何だか呆気ない再会となった。


 でもそれは、イサミさんという一人の人間をきちんと理解した上で言わせてもらうならば、あまりにも「この人らしい」と表現して然るべきなもので。イサミさんも七年の日々を連ね、成長したからこそ――こんな場所で再会できたということなのだろう。


 そして、再会したのだから――と。

 イサミさんは暗に問いかけているのだと思う。

 まだ、俺とイサミさんは大事なことを確認していないから。


 言わなくても分かることだと思っていた感じは互いにあるけれど……でも、言葉にせずとも分かるその気持ちは、何よりも口にして伝えたいことだった。


 俺は何となく空気を仕切り直す意味を含めて咳払いをする。するとイサミさんの面持ちだったり、帯びる空気は完全に茶化したものを失ったようで。


 それは、七年越しの約束が果たされる――瞬間だった。


「イサミさんと三月で別れてからひたすらに勉強して高校から大学へ進んで、色んなことを経験した。幸せはあらゆる場所で様々な形をしていることを知って……そんな日々を駆け抜けて俺はもう、立派な大人だよ。何にだってなれる大人になった。だから……そんな選択肢の全てを蹴とばして、俺はイサミさんに言ってやろうって、この瞬間をずっと待ってた!」


 七年の時を越えて、あの時以上に強くなった感情はいつだってただ一人を指示していて。掌握しきれない天気のように移り変わっていく劇的な世界で、ずっと続いていくものがここにある!

 

 ――胸に手を当て、確かめる。

 高鳴る鼓動は、生きるために必要なものを確かめる指針だから。


 あの日と同じように桜の花びらが舞い降りる。桃色の花弁が風に運ばれ、どこかへ消えていくみたいにあの頃……去っていくイサミさんの背中を押すことしかできなかった。震えながら必死に旅へと送り出し、自ら遠ざけた手が今、二度と離さまいとする決意を握りしめる。


 だから――。


「俺にとっての未来は、やっぱりイサミさんだけだよ。今でも変わってない。寧ろ、強くなったくらいだ。七年経った今でも俺は――あなたを愛してる」


 いつかの自分みたいに希望を胸に携え、活き活きと――この世に生まれた喜びの全てを謳歌している、その絶頂であるかのように流麗に、饒舌に言葉が止まらなくて。


 そんな告白を見開いた目元に涙さえ浮かべて、手を口元に添えて受け止めるイサミさん。


「やりたいことなんて今も分からない。だって、まずは一番の願望を叶えないと始まらないんだよ。沢山勉強して、勉強して……あらゆる可能性の中から自分の幸せを考えたら、イサミさんしか選べなかった。変わらなかった。それが証明されちまったんだよ! だからもう『こんな生き方は私にしか出来ない』なんて言葉で俺の前から離れていくようなこと、二度と……させないから!」

 

 俺の言葉一つ一つにぽろぽろと呼応するように涙をこぼすイサミさんを見つめれば、自分が今日までの会えない日々でこの人にどれだけ愛されていたかを知った気がして。


 でも、俺の方は目に涙は努めることなく流れたりしなかった。


 何よりも先行する感情に突き動かされて。

 守りたいとか離したくないという強い感情が思うままに暴れる胸中。


 だからそんな感情の好きにさせてやる。目の前に佇むイサミさんをギュッと抱きしめて、強く――強く、壊してしまうんじゃないかと思うくらいに両腕で包み込む。


 そして耳元で告げる。

 それは俺にとっての、決心。


 変わるものの中にあって変わらなかった、自信を持って言えるただ一つのことを生涯に渡って約束するための宣言。


「俺にとっての旅が行き着く先はイサミさんだったんだ。帰りついたんだ。だから、あとはイサミさんが帰ってくるだけだよ。帰る場所があれば人はもうどこにも行けなくなる。イサミさんにはもうどこにも行かないで欲しいし、俺もあなたの手の届く範囲から出たくないんだよ。だから……変わらない気持ちを携えて、申し入れます。俺と――結婚して下さい」


 どこにでも行けた人。どこへだって行きたいこの人が、一つの場所に留まることの意味を今の俺は知っているから……そんな涙は拭ったりせず流させたままにしておく。


 ――いつか見た暗く空っぽで冷たい、悲しみが住みついた光景。


 それがイサミさんの帰る場所でないなら、俺がそんなものになりたい。一途なだけが取り柄の俺なら、ずっと変わらない居場所になれるはずだから。イサミさんのずっと奥底で凍てつき閉ざされていた思いを溶かし、溢れた涙につられぬ今の俺は確信する。


 成長しきった今の自分ならきっと、この人を――守れる!


 そんな俺にイサミさんは口を開いて。

 涙に濡れた声と、どこかか弱く震える体を感じながら俺は耳を傾ける。


「その言葉を……その言葉をどれだけ待っていたか。それを言われたら、私はもう駄目だな。……嬉しいよ。本当に嬉しい! 私も旅をする中で確かめてたんだよ。自分は自由になりたいどこにでもいける人だと思っていて……でも、分かった。もうどこにもいけないよ! たった一つの大事な想い以外の全部を否定するための旅だった。無限に広がる可能性の中から今の気持ちが何にも負けない強いものだって確信するための自由だった。そんな日々で私も憧れた君を見習って一途に想ってきて……ずっと続くこの想いに勝るものなんてこの世にないって、今確信したんだ。だから――」


 そして、イサミさんは「俺の名前」を呼んで語る。

 俺達の約束が成就するための言葉を――。


「私も君のこと、心から愛しているよ。今ほど君を好きだったことなんてないだろう。そして、次の瞬間にはあっさり塗り替わるんだ。そんな場所に留まっていて、飽きることなんてあるとは思えない。そうなったら、もうどこにも行けないんだ。そして今、帰るべき場所に辿り着いた。私は何だか、疲れちゃったんだ、とっても。今はゆっくりと休みたい。だから……私を傍に置いて下さい。ずっと、君の傍に」


 その言葉で――七年越しの半分に砕けたような思いがきちんと一つの形となった。一以外の全てを否定して選択肢の中から選び取った一つと一つが、もう二度と離れないように固く結ばれて。まるでちぎられたみたいに心が痛くて、開けられた穴に風は吹き込んで冷たかった、傷跡が癒えていくようで……。


「イサミさん! おかえり!」

「……ただいま!」


 七年の時を経て、交わした約束は――果たされた!


 今、春を迎えてあの頃抱いていた憧れの新芽は七年の時を経て立派な花を咲かせたのだろう。美しく、大切な誰かを想わせる風貌が自分の中で咲き誇り、風に撫でられて花弁を揺らす。そのような成長を経て、俺はようやくイサミさんの待つ場所へと一段飛ばしで辿り着いた。


 そして、これからも駆け上っていく。

 イサミさんと一緒に歩んでいく。


 まるで一オクターブだと思っていた。――でも俺とイサミさんの差はぴったり同じとはいかなくて。隣同士、並んで鳴り響く和音みたいだと今は思う。同じ音になりたくて必死に背伸びした「僕」は今、イサミさんと並び寄り添う「俺」となって続いている。


 なら、あの頃の「僕」と今の「俺」の差こそ――まさに一オクターブという感じだった。


 変わらない想いが七年の間をもって重なり、異なる音と並んで響き渡る。

 そして、ずっと続いていく。

 寄り添い歩いて、響き続けていく――。





11.

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