嵐谷イサミの十戒 その八 後編

 ちょっとした不安材料を抱えてイサミさんと過ごし、そして太陽も完全に地平線の向こう側へと沈んだ時間帯になってようやく帰宅しました。塾に通っている関係もあって夜遅くに帰宅することをあまりうるさく言われないのですが、それでも最近は両親の視線がどこか僕の素行を怪しむものとなっており――とうとう父親が話をしたいと言っていることを母親から聞かされたのでした。


 僕自身、何を父から言われるのかは思い当たる節がありまして、それが嫌でもしかするとイサミさんと特に用事もないのに商店街を歩き回っていたのかも知れません。でも嫌なことを遠ざけたって必ずそれはやってきますし、元は僕の撒いた種。当然の報い。それに怯えるのも変な話というもので。腹を括って、向き合うしかないのでしょうね。


 そんな決意を胸にいつもは平然と通り抜けている玄関の扉をゆっくりと開きました。突きあたって奥にあるリビングのドアから明かりが漏れており、両親は帰宅している様子。共働きでいないことも多いのですが、この時間帯に帰宅する癖がついてからは割と顔を合わせる機会も多くなりました。


 緊張感を胸に玄関の扉を閉め、靴を脱ぐとリビングから帰宅を察知した母が歩み寄ってきて「父が書斎まで来るように言っていた」という言伝を聞かされたので、僕はその足で向かうことに。そして父が帰宅して食事を済ませると眠る時間まで入り浸っている書斎の扉を前に、僕は何だか遠い過去を思い出していました。


 そういえば、この書斎の中にいる父を最後に訪ねたのはずっと昔であるように感じるのです。用事があれば母に伝言を頼む、というのが父子の交流ですからわざわざ訪ねたことなど最近はなかったと思います。もっと昔、小学校の低学年くらいには父ともそれなりに仲がよくて、びっしりと書籍が埋め尽くす本棚に囲まれた秘密基地のようなこの部屋が何だか面白くて。そして、父の真似をして分かりもしない本を読んでいました。


 そんな父は勤勉で真面目な性格。

 何を楽しみに生きているのだろうと思うくらいに寡黙で、感情の起伏もあまりない人。

 そんな人柄をいつしか避けていると、今のように淡白な関係となってしまったんですよね。


 ……あれ、本当にそんな人だったでしょうか?


 僕はそのような違和感に躓きつつもあまり気にせず、扉をノックしました。すると久方ぶりに聞いてもやはりしっくりと来る父の声で「入れ」という返事がしたので、そっと扉を開いて中に入ることに。


 そこは幼い頃に秘密基地だと感じたままの風景でありながら、棚に入りきらない本が床に積まれていて時間の経過を感じさせます。そして壁際に設置された机に背を向け、回転椅子の上で腰を預けているのが僕の父でした。


 変わらず、厳格そうな表情を浮かべている顔にかけられた銀縁の眼鏡。オールバックにまとめた髪型も、への字に曲がった口も相変わらず。


 そんな父と向かい合い、僕は萎縮した心境で話し出されるのを待つことにしました。


「何故呼ばれたか分かっているのか?」


 そのようにゆっくりと語り、机の上に置いてあった煙草を手に取って火を点け吸い始める父。


「分かってます。きっと……中間試験の成績が、大幅に下がっていたからでしょう」


 僕は思い当たる理由として一番のものを迷わず口にしました。正直に口からその言葉が滑り出てきたのは、無自覚な馬鹿者と思われたくなかったからでしょうか。


 十月の下旬にあった中間試験。その返却がつい最近行われたのでした。我が家が勉強に重きを置いているのは塾に通わされていることからも明らかで、テストや模試の結果を親に提出するのは義務付けられています。隠すなんて真似は勿論、出来ません。


 そんなテストの結果は今までに見たことがない悲惨なものでして。このままでは第一志望としていた高校への合格が危ういのは明白だと言えるでしょう。そして、そんな成績の下落を自覚しているのですから、呼び出されるのを覚悟していないはずがありません。


「そのとおりだ。まさかお前をテストの成績で叱る日が来ようとはな。私に似てお前は真面目だから今回のように成績を落とすのは意外だった、と母さんは言っていたが……まぁ、兆候はあったな?」

「……ええ。中学三年生になってから成績が徐々に下がっていたと僕も自覚しています。夏休み明けのテストや、模試の判定を見れば明らかでしょう。どんどんと落ちていってますからね」


 俯き視線を逸らしたまま語る僕に対して、煙の混じった吐息をゆっくりと吐き出す父。


「お前自身、理由は自覚しているのか?」

「三年生に上がり、勉強が難しくなったからかも知れません」

「……何だ、その言い訳は」

「言い訳、ですかね?」

「そうとしか思えんだろう。塾に通わせているんだ。勉強についていけなくなった、などという理由が成り立つわけなかろう。中学校で履修する内容を塾では三年に上がるまでに終えるはずなのだから。だというのにどうして、学校の成績に響くようなことになったんだ?」


 今日まで自分を何となく騙してきた言葉がどれほど脆く、頼りないものだったのかを改めて痛感させられる父の言葉。


 言い訳……そうですね。それはイサミさんから借りた言葉です。でも、イサミさんは僕が三年生の学習内容を先取って履修しているなんて知りません。とはいえ、優れた者の言葉に伴う説得力に納得していたのかも――いえ、自分に嘘をつくのはやめにしましょう。


 僕は、都合のよい言葉を隠れ蓑にして自分の変化をごまかしてきたのですよね。


 目に見えて衰えている自分の集中力や意思を仕方のないことだと言い替えてくれる人間の言葉。それをただひたすらに盲信していた。その実情は由々しき事態となっているのに……僕はずっと、見て見ぬふりしてきたんですよね。


 仕方ないことなんて、一つもない。

 全て把握していて、何の対策も取らなかった結果。


「きちんと勉強を続けていれば成績だって維持できてたんでしょうね。塾はサボってませんし、学校の授業だってちゃんと出席してます」

「でも成績が落ちている、か。出来ていたはずのことが出来なくなるというのなら、例えば集中力を欠いたということが理由として挙げられるだろう。一度は覚えたことが頭から抜け出ていくほどの何かに、お前は気を取られているのか?」


 あっさりと核心を突く父の言葉に心臓が跳ね上がる思いがする僕。


 ……でも、それが普通ですか。あれだけ露骨に帰宅する時間も遅くなっていて、模試の判定が下がっていく様を見ているのですから、そのように考えるのが当然。そして、父が言ったように勉強が難しくなったわけでもなければ、突如として頭が悪くなったなんて突拍子のない現象でもなく――ただ、集中できなくなっただけなのですから。


 そのように考えるばかりで無言を貫く態度に、確信を抱いたのか父は続けて問いかけてきます。


「もし、何かに夢中になっていたりするのなら正直に言ってみなさい。何も言わず黙っていてはいつまでも納得できないままだ」


 そう語り、煙草を咥え吸い込んではまた吐き出す父を見つめて……僕は迷っていました。


 きっと、理解されないのでしょう。


 父は何だか勉強以外のことに理解があるようには思えなくて。しかし、そういった「印象で判断してはいけない」という教訓を得ている以上、理解されるように自分の想いを伝えてみるしかないのでしょうけれど……どうしても気が滅入ってしまう。


 僕は今、間違いなくイサミさんと出会ったことで本来、進んでいたであろう道から大きく外れた場所を歩いているのです。あの人のことを考えていて勉強が手につかないというのだって理由の一つでしょう。そんなことが現実にあるとは思えませんでした。


 集中出来ず、いつだって気付けばイサミさんのことを考えていて。期限付きの関係であるからこそ、強く意識してしまっていたというのもあるでしょう。付き合っていながら片思い、という日々では今のような余裕を持てなかったですからね。


 でも、恋心に頭を掻き乱されて集中力を欠いている以上に――僕は今、イサミさんから強い影響を受けてしまっているのです。


 ――それが、僕にとっての変化。


 勉強をすることで何が得られるのか。世の中には沢山の未知が溢れていることを楽しそうに語るイサミさんといる日々で考えるようになったのです。教室にて黒板へ書き記されていく、世界にとってはたった一握りの情報がまるで全てであるかのように学び続ける。それが最も大切なことのように語る大人の言葉を、信用していてよいのかと。


 ですから僕はイサミさんと出会い、意義や意味を問わずに物事へ集中するなんてことはできなくなったように思います。


 今のままでよいのだろうかと疑問に思っていたから、僕は今日まで自信をもって否定をすることもできずにいたのです。物事の意義を問うこと。それによって自分の身に起きた変化でさえも「正しい変化なのか?」と疑問符をつけるようになって。きっと何もかもが分からなくなっていったのでしょう。だから、そんな全てを保留とするみたいにイサミさんの言葉で隠しきれない実情を暗ましてきた。仕方ないことだ、と。


 でも。逃げたり、見ないふりをいつまでもしているわけにはいかないのです。今、僕はこの瞬間にはっきりと「物事を疑って見つめること」だけは正しいと確信できたのですから――。


「今しかできないことだと言ったら、それは許してもらえるんですか?」


 そのように父へ、僕は勇気を振り絞って問いかけました。


 今の僕にとって最大限の願望であり、最優先すべきなのは後悔しないことだと思うのです。三月で卒業してしまうイサミさんと少しでも長く一緒にいたい。それが今の僕にとっての全てです。きっと受験勉強に追われれば時間を取るのは難しくなるのでしょう。阻まれることとなるのでしょう。


 でも、僕にとって受験とは――何なのでしょうか?


 本当に中学三年生の残り僅かな時間を費やしてでも挑むべきことなのでしょうか?


 正直に言えば、目指してきたあの高校に進学出来なくたって構わないと考えているのです。もっと言えば、高校に進むこと自体がどうでもよくなっているような気もしていて。


 僕は今しかない時間を本心に背くようなことで費やし、後悔するよりはずっといいように思えるのです。意味を見出せないならば、目の前で遠ざかりつつある憧れを追いかけるために全てを捨てたって構わない。それが一時の納得だったとしても。


 だからこそ僕は問いかけ――そして、父は答えます。


「今しかできないことだと思えたら、きっと私は許すだろうな。勉強が全てだと言うつもりはないよ。だが、世の中のほとんどは勉強の上に成り立っている。学ぶことから通じている。それらを差し置くとなればそんなものは一握りだと思うし、私には想像もつかないよ」


 父の言葉が耳に触れた瞬間、何だか寛大なことを語っているように聞こえて、しかし――実際は閉ざされた門の前に立たされているように思えました。


 結局は父の納得が全て。理解してもらえないと最初から感じていた相手ですから、何を言っても無駄のような気がしてしまいます。不意に頭の中では「敗色濃厚」という言葉さえ過ぎる。胸中にある感情を崩すことなく伝える術が人間にはない。言葉では語り尽せない。伝わらなければ理解もされないでしょう。


 大きな壁で阻まれているような感覚。それは錠前で閉ざされた牢獄を内側から開けろと言われているようで。つまり僕はまだ子供という証拠かも知れません。親の許可が得られなければ扉の一つも開きはしない。


 ……イサミさんにもこういった場面があったのでしょうか。そして、イサミさんの両親はあの人のそういった自由な行動を許しているのでしょうか。


 それは理解してくれているということ?

 それとも――理解させたのでしょうか?


 どちらにせよ両親が握りしめた許諾権で抑圧されずに、自分の意思で取捨選択を行っている。

 そんなイサミさんに憧れた僕です。


 理解されない予感があろうと自分の意思は表明しておきたい。

 自分にとって――今、何が大切なのかを!


「今、僕には好きな人がいるんです。その人が……その人が来年の三月にはこの街を去ってしまうので、それまではまとまった時間が欲しくて。受験勉強がおろそかになってでも時間は確保したいんです。そのせいで受ける学校のランクが下がったり、どこにも行けなかったとして僕は構いません」


 きちんと父の目を見つめ、自分の願望を恥じることなくはっきりと口にした僕。


 そんな僕の姿勢、もしくは語られた内容によってでしょうか。あまり表情を崩さない父が僅かに目を見開いて、内に秘めた驚きを隠しきれず露わにしたのでした。


「……その子とお前は、付き合ってるのか?」

「はい」

「つまり、その子が関係してお前の勉強がおろそかになっていったと自覚しているということか? 恋愛にかまけて、集中力を欠いたとお前は言っているんだぞ?」

「そういう一面もあるのでしょうけれど、それだけじゃないんです。僕はあの人の価値観に触れて大きく影響されました。そんな結果として……勉強する意義を見失ったのだと思います。何のために勉強するのだろうと疑問に感じ始めれば、意義の分からないことを頑張れなくて。優先すべきことではなくなったから成績を落としたのだと思います」


 僕は語る言葉の中で内心「イサミさんが悪影響をもたらした」と父に捉えられるのではないかと感じました。しかし、煙草を片手にゆっくりと嘆息気味に息を吐いた父は「うーん」と唸って言葉に迷っているようでした。さらには「どうしたものかな」と迷いさえも呟き……そして、暫しの時をもって口を開きます。


「お前が選んで好きになったんだ。そんな子と無理に別れろなどと言うつもりはない。ただ今の成績を考えれば、受験を終えるまでその子と会うのは控えるべきだろうな。優先すべきは勉強だ。例え三月には会えなくなるんだとしてもな」

「それじゃあ……遅いんですよ」

「遅いものか」

「遅いんですよ! 今しかないって思うから焦ってるんです! 今だけなんですよ! 受験が目の前にあることだって分かってるんです。でも、仕方ないじゃないですか……もう、会えなくなってしまうかも知れないんですから!」


 心の内を叫ぶように語った僕の言葉。その熱量とは対照的に冷めた表情の父はまるで「分かっていない」とでも言いたげに首を左右に振り、そして煙草を吸い込み白く濁った息を吐き出して語ります。


「今生の別れというわけでもないだろうに」

「もしそうなったらどうするんですか! あの時にああしていればよかったって後悔する人生が僕にとっての幸福な人生なんですか! 勉強することが僕の今において何のためになっているんですか! そんなものの先で本当に幸福が待っているんですか! そんな一生に一度のことを見過ごしてまで進学って優先するようなことなんですか!」


 激しくうねる感情の波に委ねて問い詰める僕に対し、父は一呼吸の間を置いて「勘違いしている」と言いました。


 ……勘違い?


 重さでぐったりと地へ身を横たえる天秤。それは僕が抱くイサミさんへの想いで。これからの人生で父が導くように歩いた先で拾い集めた幸福を全て乗せたとしても、僕が今抱いている願望が持ちあがるとは思えないのです。


 僕は父の言葉の意味が分からなくて。問いかけることはせず、語られるのを待つことに。


「まず、勉強というのは幸福になるためにするんじゃない。そして今のためになるものじゃない。そもそもお前が成長していく中で何が幸福なのか私達、親には分からないんだ。だから何かやりたいことに気付いたり、興味が沸いた時にはいつでもその道を選べるように勉強をさせる。何にでもなれる準備であり、可能性を広げていくためだ。だから言っただろう。どうしてもやりたいことがあるなら、この時期だって優先するのが間違っていると私は思わない。――しかし、お前の望みが今だけなのだと語るならば、それは一時の感情だ。今どうしてもすべきことじゃあない」

「どうしてですか……。人間は今を生きているんですから、それでいいじゃないですか」

「そんな下ばかり見ているような生き物であるものか。人間は未来を生きるんだ。今にこだわるから人は俯く。そんな姿勢でいることが良くないことくらい、お前にだって分かるだろう?」


 父はそのように語って煙草を口へと運ぶ挙動を見せながらも静止し、僕をじっと捉え続け……そして再び語り始めます。


「結局はただの我がまま。無責任に好きなことをしたいだけの、我がままだ。そんなもので勢いに任せて人生を棒に振るくらいなら、きちんと学校に通って優れた学歴を取得し、何にでもなれる人間となることを優先しろ」

「……でも、学歴が全てじゃないでしょう」

「学歴が全てじゃない、という言葉は数多の人間が好むものだ。だがな、そんなことを本当に言えるのは選ばれた人間、一握りの天才だけだ。そうでないものは選ばれる人間にならなくてはならない。学歴は優秀な者として数多の人間から選ばれるために必要なステータスだから、目立つよう上質なものを得るべきだと私は思う」

「それでも……僕は」

「どうしても勉強を放り出すなら親である私にきちんと話さなければならない。お前は一体、何になりたいんだ? 何を――やりたいんだ?」


 父は厳格な表情、そしてそれに見合った強い口調で言葉の最後を強く突きつけるように語りました。


 そんな父の問いを受けた僕は。

 僕は……何も答えられなかったのです。

 

 やりたいことなんて今までありませんでした。きっと大学を出て、どこかの企業に就職して誰もが思い描けるようなありふれた世界で生きていくのだと無意識に確信していたのです。それが、ちょっと常識を疑う頭を持てば、何の目的もないのに僕は否定することを覚えて……子供の我がままでしかないことばかりを連ねている。まだ、そんなことをやっている。


 いつまで経っても僕の願望は我がままの域を出ないものばかり。

 でも……それでも。

 後悔へと突き進んでいくのが正しいんでしょうか?

 

 世の中はいつだって無情な取捨選択を強いてくる。そんな時、自分の望まない選択をすることが正しいだなんて……。そんな世の中に生まれていたと今日まで気付いていなかっただけなんでしょうか?


「じゃあ要するに……何もやりたいことが見つかっていない内は、ささやかな願望さえも捨てなきゃいけないんですか? 自分にとって今、一番だと確信があることのために全てを捨てる決断って……そんなに愚かなことなんでしょうか?」

「一のために全を捨てるような真似はするな。全の中から一を選べ。捨てるのではなく一以外の全を否定しろ。否定することは知っていなければできないこと。確かに人間は最初に掴んだ一つ目を何より尊ぶ生き物だ。でも、一つのことを見つめるばかりで視野を狭めてはいけない」


 父の言い聞かせるような口調から、僕のためを思って語っていることは伝わってきました。


 きっとイサミさんに執着して全てを見失うな、と言いたいのでしょう。勉強をすることは沢山の選択肢から幸福を選ぶことで、そのための準備は何よりも尊いもの。口では別れろと言わない父ですが、結局は暗に諦めろと言っているのではないですか。


 数多の可能性に分岐する進学の道を選べと。そして、いずれ見えてくる景色に比べれば今の幸せなど矮小だと言っているのかも知れません。今を凌駕するような幸福がいつか取って代わるから我慢しろと――僕を諭しているのでしょうか?


 だとしたら――許せない!


 そして、悔しい。

 理解されないことが、ただひたすらに悔しいのです。

 悔しい、悔しくて仕方がない。


 感情を押し殺して握った拳が震え、それは体全体に伝わっていきます。そんな震えに比例して怒りがどんどんと募っていく。自分にとってどれだけイサミさんが大事で、そして代えがたいかを言葉にし尽くせない自分が許せない。でも――それ以上に、僕の気持ちを想像して歩み寄ってもくれない父の言葉が、許せない。

 

 生まれてから寄せていた信頼が崩れていくようで。

 それは、花が赤から黄色へと色褪せるみたいにして。


 ただの一度も人生を終えたことのないこの人に、生きることのなにが分かっているのか!


「そうやって……」

「ん?」

「そうやって、敷いたレールの上を歩かせて……僕に幸福を錯覚させていれば良い親面していられると思っているんですか!」

「――言葉を慎め!」


 僕の糾弾するような強い語り口調に対し、それをも塗り替えるような怒号と共に血相を欠いて立ち上がって頬を引っ叩いた父。そんな衝撃に顔を背ける形となります。しかし痛みと熱がじんわりと伴う頬に手を触れさせたまま、視線だけを父の方へ滑らせて僕は睨みつけるようにして怒りの対象を目視します。


「僕のことなんて……父さんは何も知らないじゃないですか! 僕がどんな思いをしてるかも知らないくせに――自分の要求ばかりを押し付けてるじゃないですか! 帰ってきたって母さんは仕事でいなくて、父さんはこの部屋に籠りきり。話したい沢山のことを胸の奥に押し込んで買ったお弁当を食べてました。それを平気で黙認してきた父さんに……僕の幸せを決めて欲しくない!」


 悲壮感と怒りを胸に、叩きつける言葉は狭い部屋の中を反響して力なく消える。そんな言葉に対して父は先ほどまでの激情を諫めたのか、ただ力なき表情で僕を見つめていました。それは僕を見下し、侮蔑するように感じられて。


 遥かに僕よりも高い身長。

 そこから見下すように映す二つの瞳。

 そびえ立つ壁と、その門番であるかのようで。


 そんな父が自分にとって越えるべき障害であるかのように映り、僕は必死に睨み返していました。


「お前の幸せはお前が決めればいい。さっきからそう言っているのが分からないのか。沢山ある可能性の中から選ぶべきだと語り、勧めることでさえお前にとっては押し付けなのか? いい加減に分かれ。世の中の一部さえ知りもしないのに、全てを知った気になるな。簡単に全てを捨てて選び取るような真似をするな」

「後悔しないために時間が欲しいって言ってるんです! どうして……理解してくれないんですか。後悔しないための決心でさえ、父さんにとっては我がままだって言うんですか!」

「当たり前だ。お前は自分の心地よい方へ傾いているに過ぎない。面倒事を退けて生きられるほど優れているなら何も言わないが――大きく成績を落としているだろう。きちんとした責任の上で行動しろ。もしもお前がその願望を貫きたいのなら、好きな子を優先するために取れる責任の全部を背負って納得させろ。そういった姿勢を見せないのなら、お前の望みなど一切許可しない。我がままを言い続けるようなら……必要な時以外は部屋から出さない覚悟も私にはある」


 父はそのように語ると椅子へ再び腰を預けて煙草を手に取りました。火を点け、紫煙を燻らせる。もう完全に心は平静を取り戻しているようで。


 僕はそんな父に遅れて落ち着きを取り戻します。悔しさや怒りのような感情はなく、しかし晴れ晴れともしていない不思議な浮遊感を伴った胸中で思考は凄まじく巡る。


 ――それはある意味で、決定的な一言だったのでしょう。


 どちらか一つを選び取る取捨選択。

 自分にとって一番大切なものを貫き、選び取ることに伴う原動力は憧れで。


 父とは分かり合えないという確定的な僕の中での認識。

 そして語られた言葉の中で暗に込められていた、願望を貫くためにすべき決断への回答。


 その二つが僕の心を破滅的な衝動で突き動かし、震える唇から勢いを伴って語ります。


「あぁ、分かりました。分かりましたよ。責任ってそういうことなんですね。……いいですよ。父さんには迷惑を掛けないように自分の願望をきちんと優先します。選びました。責任は全部、自分で背負いますから、この家を――出ていきます」






8.私は人生を余すことなく自分のためにしか使わないでしょう。心地良いことに傾いて欲望のまま、我がままに生きていきます。他人を勘定に入れることなんて期待しないで下さい。

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