■嵐谷イサミの十戒 その六

嵐谷イサミの十戒 その六 前編

 夏休みが終わってしまったことによって生まれた喪失感から随分と立ち直った九月の中頃。多少手を緩めているような気はするものの、まだまだ照り付ける日差しが肌を焼く感覚に夏の残滓を感じる時期となりました。


 いつも通りの放課後、返却された夏休み明けのテストにちょっと心を沈めながらも、イサミさんとの待ち合わせ場所に指定されている公園へとぼとぼ歩いていく僕。


 そういえば、あの旅行の最中は時間が止まればいいのにと思っていました。確かに実際、あのまま永遠に時間が進まなければこんな重たい気持ちにならずに済んだのでしょう。イサミさんの語る未来のように楽しいことだけをして生きていきたいという気持ちを変な所でも理解した気がしました。


 そう……テストの点数がほんの少しではありますが、下がっていたのです。


 こういった兆候は少し前から見られていて。イサミさんがいつだったか言っていたように「三年生となると勉強も難しくなる」ということなのかなぁと思います。これでは塾に通っている意味があるのか。……いえ、通っていなかったらもっと劣悪な点数を取っているのかも知れません。


 なんだか真面目に勉強へ取り組む姿勢を持っていた自分が、心の中からいなくなったような感覚。集中して物事に取り組んでいた日々がピンとこないというか……今から思うと、そんな勉強詰めの日々によくもまぁ疑問を抱かなかったものだと思います。


 両親は勉強させることに関しては厳しいですし、きちんとしていれば逆に良い子でいられるという認識も僕の中にはありました。何だかご機嫌取りだったり、平穏を約束させるための努力を無意識にしていたのかなぁと今は感じてしまいます。


 あの頃はそれでいいと思っていたことを、今は疑っているのです。

 確固たる理由がないのに頑張るなんて人間には出来ない。

 だとすると……成績が下がったのは勉強が難しくなったからではないような?


 ……まぁ、そのような個人的な気持ちの浮き沈みはどうでもよいでしょう!


 こうして学校がある日は放課後にイサミさんと会えるというのが、馬にとって目の前にぶら下げられた人参であるかのように原動力となっていて。ご褒美も目前となれば、空元気だって本物になるのです。


 そんなわけでいつものように住宅街を歩き連ね、見えてきた公園手前の喫茶店。


 ちょっと前はイサミさんとここに来られただけでも飛び上がるように喜んでいました。そう考えればあの時のような些細なことに対する感動が失われるくらいに、僕とイサミさんの関係は進展したのでしょうね。今はきっと誘えばイサミさんは自分の欲求で突っぱねることなく普通に応じてくれると思うのです。


 あの人の欲求を中心として行動する関係性からの進歩。

 過去との対比において、このお店は何だか随分と象徴めいたものがありますね。

 僕もイサミさんも、少しずつ変わっていく。


 僕の何がイサミさんを変えているのか、その正体は未だに掴めていません。しかし、あの人の中に芽生えた変化が花を咲かせる日は近いのかも知れない……そんな予兆を僕はどこか焦りながらも楽しみに感じているのです。


 僕の方だってきっとゆっくり、育っているはずで。しかし、少しずつ大人になっていく中でどれだけ変化が訪れようと、イサミさんを想う気持ちだけは変わっていないのですよね。


 ちなみに変わっていないといえば、もう視界に入ってきている集合場所の公園。噴水の小気味よい音に癒され心が解かれるような公園ではなく、遊具満載で子供達が思いっきり遊んでいるような場所であるのも相変わらずです。


 そんな場所を傍から見つめる僕。園内では子連れの親子が複数組存在しているようで、ママさんチームの談笑と子供チームの和気藹々とした笑い声が混在して午後の公園風景が構築されていました。


 そんな中にあって、この数カ月何度も見かけた光景があります。


「だーるまさんがっ、こーろんだぁぁぁぁぁああああああああああ!」


 動いた人間をピックアップして脱落させていく俗に言う「ダルマさんが転んだ」が繰り広げられる公園内にて、その声は一際大きなものでした。掛け声に対して動きを止めている十数人もの子供達の視線を集めるのはやはり、その付近にいるママさんチームの中に混ぜても浮いてしまうくらいにすらりと背の高い女性。


 その人物こそ僕が晴れて結ばれることができ、そして不器用ながらも心を通わせはじめた意中の人物――嵐谷イサミさん、その人なのでした。


        ○


「毎回言っていることではありますけど、子供とああやって遊んでるだなんて……女子高生としての恥じらいとかなんですか?」


 僕の呆れ混じりな言葉にムッとした表情を浮かべるイサミさん。


 あれからイサミさんと合流した僕は、まだまだ強い日差しに耐えかね避暑という名目で喫茶店へ誘うことに。加えて、今日は体育の授業があったためお腹も空いていましたし、家に帰っても母が仕事で夕食を用意できない日であったことを思い出していたため、コンビニで弁当を買うよりは何か料理を注文する方がいいかなと思っていたのです。


 対して早弁した上で、食堂にてうどんまで啜っていたというイサミさんはお腹がまだ膨れているとのこと。しかし僕の提案に異論は唱えず、付き合ってくれました。


 もうすぐイサミさんとこの関係になって半年ですが、付き合い始めた頃の自分に言ってやりたいです。


 半年でこのように融通が効くくらいには進展しましたよ、と。


 そんなわけでいつものように珈琲とココアを外の暑さもあってアイスで注文し、加えて僕は料理も注文しました。そして現在――向かい合うように腰掛けて話し始めた最初の話題が、イサミさんの歳不相応に子供達の中へ混ざり全力で遊ぶ光景に関すること。何度も議論しようが平行線なので、最近はお約束的にやっている感じがあります。


「そもそも子供って何だよ。その概念から話し合おう」

「哲学的にぼかそうとしても無駄です。あの年代はみんな子供です」

「アタシ達だって未成年って意味では子供だろう」

「でも、あの子達はイサミさんより明らかに年下じゃないですか。ああいう子と同じように遊んで喜ぶのがちょっとは恥ずかしくないんですか?」

「じゃあ、同じく年下であるお前と遊んでいることも恥ずかしいのか?」

「四捨五入すれば流石に差別化できますよ!」


 僕の指摘にイサミさんは腕組みをして難しい顔で首を左右交互に傾げ「どう言えば分かり合えるものかなぁ」と悩み出します。


 ……この人、僕を論破する気でいるんでしょうか。


「アタシ、いつだったか言っただろう? 視野を狭く持つのはいけないって。そういう風に区分けして年代やら年齢で判別し、年相応なものだけを見つめるなんて勿体ないことだ。相手が何歳であれ、遊びが生まれるなら一緒に楽しむのは素晴らしいことのはずなんだから」

「じゃあ、還暦迎えたお爺さんとも遊んだりするんですか」

「もちろんだ。アタシは一時期、ゲートボールに手を染めていたこともある」

「何ですか、その手を染めるって表現は」

「しかし奥深いゲームなんだぞー、ゲートボールは。週末になれば高齢者の木枯らしみたいな声で『流石はイサミちゃん』なんて言葉が響き渡っていたもんだ」

「へぇ……意外とは言いませんけど驚きですね。まぁ、今はどうせやってないんでしょうけど。……しかし、本当に何でもやるんですね」

「別にそういうわけじゃないけどなぁ」


 改めて「らしさ」を認識した僕の総評するような言葉に意義を唱えてきたイサミさん。


「そうですか? 興味が向くことを何でもやってきたように感じてたんですけど……」

「いや、もうお前が答えを口にしてるじゃないか。アタシは興味の向くことばかりをやってるんであって、何でもやってるわけじゃないよ」

「でも、何にでも興味をもつじゃないですか」

「馬鹿を言うな。興味を持つことに対してのみ、興味を持ってるんだ」

「全然要領を得てないこと言ってますよ、イサミさん」


 もっと詳細な説明が欲しくて促すための言葉を投げかけてみましたが、イサミさんは嘆息して「まだまだお前も分かってないなぁ。分かるようにはなってきてるんだろうけど」と残念そうな口調で言い、明言はされませんでした。


 そしてストローに唇を触れさせ、アイスコーヒーを飲み進めるイサミさん。

 ……ストローになりたい!


 あ、いえ。そうではなくて――何だか謎めいた言葉を残し、話を切られてしまいましたね。素直に「どういうことか教えて下さいよ」と言ってもいいのですが「イサミさん理解度診断」で悪い評価をもらったばかりの僕としてはちょっと課題にしたい気持ちもあるのです。


 何でもやる人、何にでも興味がある人。

 そんな認識が間違っている?


 ……いや、まぁ人間ですから何にでも興味を持つわけではないのでしょう。しかし、イサミさんはそういった常識に当てはめて考える人間ではないように思えるものですから。


 そのように思考しているところに僕の注文していた料理が提供されました。喫茶店で注文できるとは思いもしなかった回鍋肉定食です。いつぞや、イサミさんが唐揚げと炒飯を注文していましたし、随分と料理に力が入っている喫茶店ですよね。


「正直、飲食店として正式に営業した方がいいんじゃないですかね」


 料理を運び終え、カウンターへと戻っていくマスターの背中を見つめつつ呟いた僕。


「基本的にはこういう喫茶店形態でやりたいんじゃないか。飲食店で営業したら落ち着きとかもなさそうだし」

「とはいえ、ここまで手を広げているならいっそのことと思いますけど」

「まぁ、マスター本人が好かないなら喫茶店のままなんだろうなぁ。利益回収がいくらよくても本人の意向と逸れてたらやる意味がないじゃないか」

「なるほど……嫌なことを無理にやったって仕方ないですもんね」

「何だ、意外と分かってるじゃないか」


 唐突に僕の物分かりを褒めだしたイサミさんにちょっと疑問符が頭上に浮ぶ思いがするも、特にそれが尾を引くことはなく料理を前に蘇った食欲が全てを掻き消してしまいます。


 では、さっそく回鍋肉を一口食べてみることに。


「うん! とても喫茶店で提供されているものとは思えない美味しさですね。美味しい、美味しい」

「お前……もっと豊かな感想を述べられる語彙はないのか。あと、食べてる表情がぴくりとも動いてないから全然、美味しそうに見えないんだけど」

「グルメリポーターでもないんですからその辺は放っておいてください。あとイサミさんみたいに食べ物を口にしても表情に出ないんですよ、僕は」

「え! アタシってそんな表情に出てる?」

「出てますよ。本当に美味しそうに食べますからね……イサミさんのあの表情見てたらこっちもお腹が空くというか。あれも一種の飯テロって奴じゃないですか?」

「……飯テロ? 兵糧攻めのこと?」


 首を傾げ、素朴な疑問を表情にも浮かべるイサミさん。僕はそんな言葉に「自分でボケておいてその表情は何なのか」と思いますが、すぐに理由は合点がいきました。


「ああ、イサミさんってネット上で使われる言葉とかはやっぱり知らないんですね。失礼しました。飯テロっていうのはそうですね……相手に望まない空腹感を与える行為って感じですかね?」

「やっぱり兵糧攻めじゃないか」

「む! 確かにそのようにも取れる説明をしてしまいましたね。僕の責任です。しかし知らないのも無理はない気がしていますけれど……何となくクラスメイトとの会話に出てきたりしないもんなんですかねぇ。それなりに使う言葉のような」

「そんなもんか? アタシ、クラスの人間と会話したりしないからなぁ」


 イサミさんはどこかつまらなさそうな口調で会話を打ち切り、窓の向こうへと顔を背けてしまいました。


 そういえばイサミさん、前に友達がいないと言っていました。そこは僕の配慮が足りていなかったような。しかし特に親しくなかったとしても、例えば隣の席の子と社交辞令的に会話くらいはするものだと思っていたので。


 なら誰とも会話せず、クラスの中でイサミさんは孤立しているんでしょうか。でも俗に言う「ぼっち」ではなさそうに思えて。なら何なのか……それを考えていると奇しくも、先ほどのイサミさんが語っていた言葉の意味が僕の中で明らかになったのです。


 なるほど。それはつまり――無関心なんでしょうね。


 興味があることにだけ興味を持つ、という言葉としての破綻さえ感じる発言の意味はつまり「興味のないことには無関心」という当たり前過ぎる一つの答えに行き着くべきで。イサミさんのように好きなものばかりを集めていれば、何だって欲しがっているように見えるのです。でもそれはいらないものを持っていないだけのこと。いらないものだって抱えて生きる人間とは根本が違うから起きた錯覚。


 そういえばイサミさんから他人に関する話題を聞いたことがありません。例えばクラスメイトとの間で起きた面白エピソードだったり、この年頃ですから両親に対する不満だったり……いくらでもあるはずなのに不自然なくらい出てこない。それは好きな人が今までいなかったのと同様に、嫌いな人も存在しないからでしょうか。愚痴の一つも口にしないことが逆に目立っているような気がして。


 でも、それは無関心だから語る発想すらイサミさんにはなくて。

 ならば、話題にする必要もない。

 

 そう思うからこそ――気にしなくていいのです。

 話題を変えましょう!


「それにしてもこの回鍋肉本当に美味しい! イサミさん、よかったら一口食べてみません?」

「んん? 別にいいよ」

「お腹空いてないとは言ってましたけど、一口だけなら入らないことはないでしょう? 遠慮は要りませんから」

「うーん。……でも、一口だけだろ?」

「何口も食べられないから悩んでたんですか」

「いいか。こういうのは中途半端が一番駄目なんだよ。きっと食べ始めたらアタシ、結局注文することになると……いや、それはないか」


 イサミさんは言って聞かせるような口調から一転、独り言をぼそっと漏らして自分の発言を撤回しました。


 胸中で一体どのような葛藤があったのか気になる僕。ですが、それよりも僕がイサミさんに試食を勧めたのにはちょっとした理由があるので脱線せずに今はそちらの方を優先させましょう。


「まぁ、とりあえず一口どうぞ。そういえば箸、一人分しかないですね。僕が使ったものでもいいですか?」


 そのように許可を取る質問をしつつ、箸の持ち手をすでにイサミさんの方へと向けていました。本来ならば聞くまでもないでしょう。そもそも逆のパターンがまさにこの場所であったのですから。


 でも――。


「ん! うん。まぁ、その……いいんじゃないか?」


 イサミさんは箸を受け取るも食べようとはせずに僕から視線を外し、しかしどこか一点を見つめることもなく泳いだ目の動きで内心の妙な羞恥心を表に出してしまっている状況。よく見ればまばたき一つしていません。


 あぁやっぱり、イサミさんこんな部分でも羞恥心を感じるようになってきたんですね。


 そんな風に内心で呟いた言葉は、今のように箸を渡した時の挙動が想像できるようになるくらいイサミさんが変わったということ。そして僕がその変化に慣れてきたことを表していました。


 ……そうなんです。そんな反応が嬉しくて、愛おしいためにチャンスを見つけてはこのようにからかうという行儀の悪い楽しみを、いつの間にか僕は覚えてしまっているのです。


「どうしたんですか? 何をためらっているんですか?」


 僕はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべつつ、イサミさんの逸らした視線を捕まえるようにその瞳を見つめます。そんな僕の行動に呼応して動くイサミさんの視線と何故か追いかけっこのように逃げるわ追うわを繰り返すことに。その最中でイサミさんは恥ずかしさで顔を紅潮させていきます。


 いざ意識するようになればイサミさんの恋愛における耐性は中学生にさえ劣るのでしょう。半年ほど前は僕が狼狽していたことにイサミさんがようやく追いつきかけているのは何だか面白いです。


「何でだろう。本当に何でだろう……。アタシ、お前の箸を使うことにもの凄く緊張するんだ。おかしいなぁ、前は気にするような自分じゃなかったのに」

「そうですよねぇ。イサミさん、自分が使った箸を平気で僕にも使わせてましたもんね」

「何でこんなにためらうんだろう?」

「何でだと思います?」


 僕は楽しくなってイサミさんに対し、揶揄するような口調で問いかけます。

 すると――。


「……アタシ、お前のことが嫌いになったのかな?」


 今まで紅潮しく一方だったイサミさんの表情が青ざめ、虚ろな目でそのように言い放たれた僕まで同じようなヒヤッとした感覚を味わうことに。


「いやいや! そんなわけないでしょう! イサミさん、言っておきますけど随分と前の話――逆の立場で箸を使わされた時に僕が抱えていた心境ときっと同じですよ。それはもう心臓がバクバクして緊張に殺されるんじゃないかと思ったくらいです」

「そ、それはアタシのことが嫌いだったからか……?」

「イサミさんのことが好きだからに決まっているでしょう! 緊張したんですよ!」


 思わず声を張り上げ、テーブルを叩いて熱弁してしまった僕。我に返って萎縮する想いで周囲を見渡すと、お客はいないもののグラスを拭いていた店主がこちらを見つめており、目が合うとウインクされてしまいました。ここのマスター、学生の青春的一ページに毎回小粋なリアクションをするんですよねぇ。


 まぁ、それはさておき。


 何だかおかしいですね。今まで誰かに対する好意について考えてきたであろうイサミさんが、僕のことを好きなのかもしれないと考えるようになったとすれば、それは順当的なことだと思います。……でも、嫌いになったのかも知れないと感じるのはどういうことなのでしょう?


 誰とも関わらずに生きれば他人を好くことも――嫌うこともないはずでしょう。実際、僕に対する好意が鮮明にならなくて迷っている時点で、イサミさんの人生に誰かを好きになった経験というのはなかったはず。なのに嫌うことはすんなりと理解しているかのようにさらりと語ったイサミさん。


 今までイサミさんの口から「嫌い」なんて言葉自体、聞いたことがないのです。好きなものばかりを集め、その他を無関心に放り込むイサミさんの生き方を思えば、それは当然のことかも知れません。でも今になって、イサミさんは「嫌い」という言葉をまるで――昨日まで使っていたように用いている。


 そんなに難しく考える必要はないのかも知れません。偶然だと思います。……でも、今まで抜け落ちていた語彙をイサミさんが選び取り、用いてくることに妙な引っかかりを感じるのです。


 もしかしたら、好きという感情を知っていけば相対的に真逆の感情を知っていくということなのでしょうか?


 だとしたら人を嫌える人間は素直に、誰かを好きになれるはず。


 好きと嫌いの両方を漠然と理解しかけているとしたら。その対極が育ち始めてるとしたら。僕と関わることで今まで知らなかった他人と交流することに伴う感情に触れ、その両端を知り始めているとしたら。もう他人に無関心ではいられなくなっているとしたら――僕とイサミさんの関係性、そのゴールは目前ということになりますね。


 それはとても嬉しいことです。

 でも、それなら他人と関わってこなかったイサミさんはどこで、他人を嫌う気持ちを育てたのでしょうか? 


 そのように思考している最中――。


「そっか。お前が感じてた気持ちに自分の感情を当てはめてみればアタシ……着実に好きって気持ちが分かり始めてるのかもなぁ」


 僕の思考を遮るように片肘をついて物憂げな表情で呟いたイサミさん。

 

「そこまで行動や言動に表れていてもはっきりしないものですか」

「はっきりしないなぁ。今だってピンときてない。アタシ、誰かと関わることで生まれる感情なんて知らないで生きてきたんだ。ずっと無関心だったから明確に誰かを好きになる感覚なんて分からないよ」

「まぁそれもそうですか。……うーん、そうですねぇ。安直に誰かを嫌うことの逆と捉えられれば簡単なんですけどね。仮にイサミさんが誰かを嫌っているとしたら、そういう人に向ける感情とは逆ベクトルが好きなんだって証明できるかも知れません」

「なるほど……それならちょっと分かりやすいかもなぁ」

「あれ? イサミさん、嫌いだって感じる人はいるんですか?」


 ちょっと申し訳ないという思いがしつつカマをかけるような言葉を投げかけた僕に対して、何だか自分の心にある漠然としているものを読み取りながらという感じで語ったイサミさん。その違和感を僕が指摘した瞬間――イサミさんは平然としていた表情から、恣意的な解釈ではありますが「何らかの後ろめたさを暴かれた」ようなものへと移り変わったのです。


「ん? あぁ、いやそういうわけじゃない! そういうわけじゃないけど……言葉としてなら分かるかも知れないと思って。例えば、会いたくもなければ口も聞きたくないと感じる人間はきっと嫌いなやつなんだろう? ならそういう感覚と逆にお前にはやっぱり会いたいし、話もしたい。そう思ったら好きってことなのかなぁ?」


 明らかな焦燥感のピークを見せたイサミさんでしたが、語っていく中で口調は段々と冷静でニュートラルなものへと変わっていきました。そのような感情の起伏を背景にした言葉だったため、何だか僕はイサミさんの言葉に裏があるような気がして訝しむ心でいっぱいになります。……なるのですが、そんな姿勢はすぐに崩れていきます。


 だって、イサミさんは嘘をつかない。


 何かを隠して繕うことは嘘といって然るべきものですから、推測していく上では外すべき思考です。つまり言葉に偽りはないまま、その感情の起伏を参考にイサミさんの抱えているものを読み取らなければならない……って、僕は一体こんな推測をして何が得られることを期待しているんでしょう?


 イサミさんは現に僕を好きになる予兆を感じてくれている。あとは確信があれば晴れて両想いになれるのでしょう。それなのにちょっと見え隠れした誰かを嫌う心を暴きたくて仕方なくなるのは……イサミさんの何もかもを知りたいからでしょうか?


 嘘をつかないイサミさんが言わないことは、今語る必要がないものばかりで。

 言いたくなったら、この人はきっと話してくれます。

 そういう人だから――裏側にばかりこだわって視野を狭くしてはいけませんね。


 そうです。どうしてこんなにも思考を連ねてしまったのでしょう。気付けばイサミさんは自分を放り出して考えごとをしてしまっていた僕に不思議そうな視線を送っています。 


「あ、あぁ……すみません。ぼーっとしてました。えーっと、僕としてはイサミさんの感じてる変化が好意であることを願うばかりです。ですから、もっと簡単に考えていいと思いますよ」

「なるほどなぁ……お腹が鳴ったらご飯の時間、みたいにいかないものかね?」

「それくらい簡単な構造をしていたら僕もこの半年で苦心してないですよ」

「何だお前、苦心してたのか! アタシのせいで?」


 イサミさんは驚いたように目を見開き、素っ頓狂な声で言いました。


 まるで他人が苦労していないみたいな言い方。


 ――いえ、イサミさんのこれまでの感覚で考えればそりゃあ、苦心するようなことにわざわざ勤しむ感覚なんて理解できないですよね。苦しいことなんて放り投げて、楽しい方に向かっていくのがイサミさんで……随分と僕と会ってからその価値観は変わったようですが、根幹は不変のようですから。


「ええ。イサミさんのおかげで随分と悩みましたし、苦しめられましたよ。まぁ、イサミさんの卒業とかそういう部分は表立って話しましたから知っているでしょうけど……それ以外も」

「そんな苦心してまでアタシと一緒にいたかったのかよ……」

「勿論です。でも――そんな苦心が愛おしかったんですよ?」


 僕はうっかり流れに任せて歯が浮くようなセリフを言ってしまいすぐに内心で後悔したのですが、イサミさんはもう処理落ちといった感じで口をポカンと開けて硬直し「ほへー」と情けない声を漏らしていました。


「……お前アレか。マゾなのか。そうなんだな」

「そういう言葉は知ってるんですね……。とはいえ、今はそれでいいですよ。すぐにそんなことを言っていた自分が恥ずかしくなりますよ。イサミさんも」

「何だ、アタシもマゾになるって言いたいのか」

「分かりやすく言えばそういうことです」


 僕の言葉に腕組みをして首を傾げて「やっぱり好きって難しいなぁ」と言いつつ、ためらっていた胸中にようやく決心がついたのか箸で皿に盛られた回鍋肉を摘まんで口に放り込むイサミさん。


「あ、美味しい! これ美味しいなぁ」

「イサミさんも語彙力に随分と問題あるようですが?」


 僕の皮肉めいた言葉にも耳を貸さず、そして一口という前提は何だったのかと思うくらいにどんどんと食べ進めてしまうイサミさん。見つめていると何だか無邪気なその姿に愛おしさのようなものを感じ、この人は美味しそうに食べるしそんな表情は本当に素敵だなぁと心から思います。


 しかし、イサミさんの食べ進める行動の一連に不可解な点を発見する僕。


 ……なるほど。一口食べれば止まらなくなって結局は注文してしまうなどと言いかけて、しかし掻き消すようにその選択肢が存在しないことを語っていたのはそういう理由ですか。何だかこの人らしいと無根拠に感じるも、流石に指摘しておいた方がいいように思うので僕は口を開きます。


「イサミさん、野菜もちゃんと食べましょうよ」

「えー、アタシ野菜嫌いなんだよなぁ」

「イサミさん、好き嫌いとかするんですね」

「そりゃあ好きなものもあれば嫌いなものだってあるよ」

「でも食べないと大きくなれませんよ」

「何を言うか。背も胸も立派で大きいだろーが」

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