■嵐谷イサミの十戒 その九

嵐谷イサミの十戒 その九 前編

 家から飛び出した僕を父が追ってくることはなくて。何も持たずただひたすら家から遠ざかることだけを目的としているように当てもなく僕は走り出しました。しかし冷たい外の空気が肺に入り込んで苦しくなり、続かない体力も手伝うと歩くスピードへ次第に落ちていきます。


 肩で息をしながらやがて立ち止まり、冷たい外気に似た温度を感じさせる街灯の人工的な輝きの下で静寂に包まれる。自分の呼吸音と鼓動の反響だけを聞きながら、空っぽの頭がこれからを考え始めるも――答えなどあるがはずないのです。


 今の僕ではどこにもいけない。家から出たって一人で生きていく術を持たない僕にはどこにもいけず、どうにもならないのです。きっと、元いた場所に帰らなければ生きていくことすら出来ない。


 それは自分が未熟だから。子供だから。


 それでも張った維持は譲れないと思うからか、目的もなく歩き続けていました。ただ、何もかもから逃げ出すように。追われていないのに自分を襲う何か――例えば暗い未来だとか、向き合いたくない現実から遠ざかるみたいにして。もう走るほどの気力がない僕はふらふらと住宅街を歩き連ねていきます。幸い、帰宅してからすぐ父の書斎へと向かったためコートを着たままで、防寒には困っていませんが……それでも肌寒い感覚は伴っていました。


 帰らないと決断したならば、朝までどこかで過ごす必要があるのでしょうか。


 ――朝まで?

 朝になったら、どうなるというのでしょう?


 自分で下した決断に不安感が募っていくのを感じます。じわじわと這い寄ってくるような感覚が黒く僕の心を染めていくようで。でも、理解してくれない人間と一つ屋根の下になんていたくない。今の僕にはそんな場所以外で体を休められないとしても。


 ……それが分かっているから父は僕を追わないのでしょうか?

 全部、見透かされているから。


 悔しい気持ちが絡みつき、ぎゅっと心を締め付けるようで。必死に繕って、継ぎ足して倒れないように努めていた決心にしがみつく僕。折れないように、壊れないように自分を鼓舞する原動力が何だったのかさえ今は分からなくなってきて。


 そんな最中、僕は既視感を伴う家の前を通りかかっていることに気が付きます。


「そういえば、イサミさんの家ってこんな近くにあったんですよね」


 誰に聞かせるでもなく、気付けばそのように呟いていた僕。


 窓からは一切の明かりが漏れておらず真っ暗な家屋。その中で例外として二階に位置する一室だけがぼんやりと明かりを灯していて。


 ……イサミさんに会いたい。


 そうポツリと心の中で呟くと、一気に自分の中で強い願望となって頭がいっぱいになるのです。


 とはいえ、こんな時間に迷惑ではないでしょうか。イサミさんが起きているのは確実のように思われますが、両親と鉢合わせすることだったり、もしくは眠っている所を起こしてしまう可能性があるのです。携帯を所持していないイサミさんを呼び出すにはインターホンを押さなければいけませんからね。


 でも、そんな抵抗があまり僕の中で気にならないくらいには飢えていたのでしょうか。


 例えば、優しさに。

 例えば、温かさに――。


 僕はインターホンに指を触れさせ、そのまま押してしまいました。

 そこから数十秒を経て玄関の扉が開く。


 何となく祈るような気持ちでいて。そして内心でイサミさんの親が出てきてしまったら何と言おうか。いっそ逃げ出してしまおうか。……そのような懸念をしていましたが杞憂に終わったようで、扉から突然の訪問者に不安そうな顔だけを覗かせたイサミさんが驚いたような表情へと切り替えて僕を見つめていました。


 事情を説明しようと口を開きかけた僕でしたが、外の冷え込みを考慮してくれたイサミさんは理由も聞かずに中へ入るように促してくれました。僕はその厚意に甘え、こくりと首肯して導かれるままイサミさんの家へと入れてもらうことに。


 そして通されたのはイサミさんの部屋。暖房の効いた温かい室内に入ったことと、イサミさんの顔が見られたことによって凍てついた心がどんどんと溶かされていくのを感じます。それは、まるで内外から同時に温められているような感覚でした。


 いつかと同じようにベッドを背もたれとするように並んで床に腰を降ろす僕達。


 しかしあの時のような緊張が内側に沸いてこないのは、心の中にタチの悪い先客がいるからでしょうか。

 

「それにしても突然やってくるもんだから驚いちゃったよ。もしかして、アレかな? やっぱり遊び足りなくなっちゃったのか? だとしたらアタシは嬉しいなぁ。もっと一緒にいられるなんて幸せだもん」


 指で手遊びをして何らかの感情を紛らせつつ、はにかんだ笑みを浮かべてイサミさんは言いました。


 そんな言葉を受けて不意に――不意に傷付いた僕の心に沁みたのでしょうか。温度による落差でしょうか。奥底から湧き上がっていく様々な感情が膨らみ、破裂したかのように涙となって瞳から溢れてきたのでした。そんな落涙を拭うこともなく僕は言い知れない感情に負け、俯いてしまいます。あらゆるものが入り混じっていて、自分は一体何に対して涙を流しているのか問われれば答えることなんてできないかも知れません。


 突然、涙を流し始めた僕に対して「ど、どうしたんだよ」と困惑が口調に見え隠れしているイサミさん。


 そんなイサミさんの隣にいて、僕は思います。


 自分にとって一番身近な人間であるはずの親から理解を得られなかったこと。一人ではどこにもいけず、何も出来ないと痛感して自分の未熟さを知ったこと。未だに何の責任も取れず、我がまましか言えない忌むべき自分の存在を知ったこと。それらがもたらした鬱屈とした感情をあっさりと溶かしてしまうのはやっぱりイサミさんという大切な存在だけで。もうイサミさんが心配とか素直に背中を押すための納得などという理由以上に――僕の中で欠くことが出来ない存在となっているからこそ、離れたくない。


 やっぱり僕は何を代償にしてでもこの人が今、一番大切で。でもイサミさんはずっと願っていた自由のためにこの街を出ていくと決めている。それに対して我がままを言って辞めさせることはしたくない。でも、やっぱり一緒にいたいと願ってしまう。


 なら、どうすれば全てが上手くいくのか?


 そのように思考した瞬間――天啓であるかのように答えを奇しくも、心寂しい気持ちが見つけてしまったのです。こんなことにでもならない限り手に入らない回答だったのかも知れませんし、これが父の語った「責任」とも言えました。だとすれば誰にも迷惑を掛けず、自分の願望を手中に収めるための「自由」と「責任」はこうして選び取るのでしょうか?


 僕は俯き、小さく纏まって座り込んだまま語り始めます。


「イサミさん」

「な、何だよ。一体どうしたんだよ?」

「卒業したら、間違いなくこの街を出ていくんですよね?」

「あ、あぁ……その予定だけど」

「イサミさん。その時に僕もこの街を一緒に――出ていきたいです。連れていって欲しいんです。……駄目ですか?」


 切望を込めて語ったそれは、過去の僕ならば到底思いつくことはなかったであろう解決策でした。


 イサミさんの「世界を旅して色んなものや場所を見たい、知りたい」という願望。それは「自分とは違う特別な存在が抱く夢なのだ」と、僕自身に当てはめたり共有してみようという発想をすることはなかったのです。


 でも今の僕はイサミさんをそういった「特別」という枠組みに追いやって考えることはしていなくて。だからこそずっと身近に感じられています。そんな日々の中でイサミさんの弱さを考えれば一人で旅に出ていくのが心配だったことに始まって。そして僕の家を出てしまいたい願望が重なり、ようやく生まれた回答だったのでしょう。


 初めて「イサミさんとの未来」を考えた瞬間。


 自分にとってこの上ない、至上の幸福であるような提案。

 利害の一致とも言えるように思えました。


 俯いたまま、目も見れずに言葉を口にしている今の僕にはイサミさんの表情は読み取れません。驚いているのでしょうか、それとも――呆れているのでしょうか。そのような暫しの静寂をもって、イサミさんは口を開きました。


「いつかそんな風に言ってくれるんじゃないかって思ってたよ。……いや、言って欲しかったのかも。しかし何で、このタイミングでそれを提案してきたんだよ?」

「ちょっと進路のことで……父と揉めたんです」


 イサミさんは嬉々とした口調で僕の申し出を受け止めてくれて、それがさらに鬱屈とした心を解いていくような気がするのです。柔軟に理解し、受け止めてくれるこの人はやっぱり父とは違うのだと、差異を見つけたみたいに嬉しくなる。


 しかし理由を問われた途端、僕の口からどこかためらいがちな口調で言葉が飛び出したのは、矮小な理由だからという自覚があったからでしょうか。そして、そう思ったからこそイサミさんの言葉を待たず、理由を継ぎ足すように語り続けてしまうのでしょうか。


「最近、何のために勉強するのか分からなくなっているんです。どんどんと成績が下がっていって……それを父に責められました。僕にとって勉強を重んじる意味はもう分からないし、それ以上に今はイサミさんと会う時間が大切です。勉強を優先しろと言ってくる父の言葉を受け入れればきっと、イサミさんと会う時間まで奪われるのですから。もう、家にいたくないんです」


 僕がそのように語り連ねた言葉に伴っていたイントネーションは否定のしようもない愚痴であり、「共感されたい」「理解されたい」という意思が隠してもはみ出してしまうくらい見え透いていました。


 自分でも嫌悪感、募るほどに。


 ただ願望を口にして、隣に座る好きな女性一人のために犠牲も厭わない決心を語っている。それは純真なものであるはずなのに。大人が数十年早く生まれただけで培った言葉の力を用いているから、僕は自分の感情に対して正当性を信じられなくなるくらいに汚染されているのでしょうか?


 誰かに支えられないと自分の正当性を信じられず、言葉を付け足し続けそうでした。


 そんな僕の言葉を「うん、うん」と相槌を打って聞き、イサミさんは答えます。


「それは由々しき事態だな」


 重く受け止めたように低く語ったイサミさんの言葉、それによって僕は強い味方を見つけたように晴れやかな気持ちが混沌とした感情の中へ入り混じってくるのを感じて。


 希望を胸に抱きゆっくりと顔を上げてイサミさんの方へ視線を送ります。


「そう、思ってくれますか?」

「もちろんだよ」


 イサミさんは真剣な面持ちで、問いかける僕に視線を合わせて同意してくれました。


「じゃあ、三月になって卒業したらアタシとこの街を出よう。世界を旅して、色んなものを一緒に見よう。色んな景色に出会って、色んなことをしよう。それまでの日々でもお前は勉強や、アタシと別れるっていう不安感からも解放されるんだ。そしてずーっと、ずーっと一緒に生きていく。あはは。何だかそれってもう結婚してるみたいで、素敵だな」


 希望に溢れた表情で生き生きと将来のビジョンを語るイサミさんを見つめ、僕は初めて自分の未来というものが明るく照らされたような気がしたのでした。


 自分の行くべき未来を語ることがこんなにも、幸福に満ちているものだったなんて。


 そう思うと、こういった決断をして正解だったのかも知れないと思うのです。父の語るような将来のビジョンだけが全てではなくて。イサミさんみたく常識に捉われない未来を行く選択肢だってこの世界では許されている。それを実感したのでした。


「何だかそれは本当に素敵なことですよね」

「だよな。毎日が幸福で、ずーっと満たされた日々を送れるだろうな。アタシはやっぱりお前と一緒なのが一番だって思ってる。それは本心なんだ。でもお前をアタシから誘うことはできなくて……だから言い出してくれて嬉しかったよ。じゃあさ――」


 イサミさんはそのようにして言葉を打ち切り、僕の方へと顔を近付けてきて。

 その挙動の意味を考えている間もなく耳元で囁かれたのでした。




「アタシと一緒に過去や帰る家、この街でさえも――捨ててしまおうか?」




 突如、囁かれた言葉はまるで冷たい指先に背筋をなぞられたかのような悪寒を伴いながら全身を駆け巡りました。そんな感覚に僕は思考も止まってしまったため、素直に首肯することは出来ず、何故か――はっと息を飲んでしまったのです。


 嬉しいはずの誘い。

 明るい未来のはずでした。


 イサミさんの方も一緒に旅立つことを内心では願ってくれていたのに……いざ誘われてみれば僕は、想像もしていない現実を知らされた気になって思わず恐怖してしまったのです。


 そして、そんな僕の反応を寂しそうな目で見つめて――しかし口元だけは笑みを浮かべ「それでいいんだよ」と言いました。


「ちょっと熱くなって判断が滅茶苦茶になってるんだ。家に居づらいからって、流石に街を出るまでは言い過ぎだよ」


 イサミさんの窘めるような言葉と、自分が心から願っていたはずの誘いに対して見せてしまった挙動。


 それらを拭うように「待ってください」と食い下がる僕。


「た、確かにきっかけは父親と揉めたことによるものですけど……でも僕は今、本気でそんな未来もいいなって思ったんです! イサミさんとずっと一緒にいられる。それが一番の理由であるのは間違いないんですから!」

「嬉しいなぁ。そんな風に言われたらアタシ、不安や恐怖とは無縁のまま生きていけるんじゃないかって思うよ。……でも、やめた方がいいと思う」


 いつもと変わらぬトーンで話しているイサミさんの言葉が急に――冷たく聞こえ始めました。


 味方の全てを失ったような感覚。

 心に巣食い始めたその名は絶望。

 

 空はもう暗雲に蓋をされてしまい、青空が見える隙間もなくて。そんな心模様にぽつり、ぽつりと降り始めた雨。凍てついた風に撫でられて雫を凝固させれば、雪となって降り積もるでしょう。


 ひたすらな不安感に埋もれそうな気持ちを胸に、僕は問いかけます。


「どうしてですか? イサミさんも、僕と一緒がいいって言ってくれたじゃないですか。なのにどうして……」

「こんな生き方はアタシにしか合わないよ、きっと」


 どこかためらいがちな口調で語り、切ない表情を浮かべたまま僕から視線を逸らすイサミさん。


「僕はそんな生き方が合うとかそんなことよりも、イサミさんと一緒にいたいんです」

「……それだけ?」

「それ以上に何か必要ですか?」

「お前は何かやりたいことはないのか?」


 イサミさんの何気ない問いかけに思わず目を見開き、驚愕を露わにしてしまう僕。


 またその言葉か――と思います。


 今日、父から言われて衝撃的だった言葉。それは僕にやりたいことがないのであれば、今は準備をする期間だとわきまえて学ぶことに勤しめという意味だったのでしょう。今だけのものに時間を遣わず、続いていくもののため……未来のために生きろということ。


 それが父にとって勉強することを何よりも尊ぶ理由。

 では、イサミさんはどういう意味で問いかけたのでしょう?


 ……イサミさんは、僕の味方ではないのですか?


 大事に育ててきた憧れの芽。まだ開かない新芽は降り積もる雪に押し潰されて、空を目指すこともできずに育たないまま萎れていくのでしょうか。ぽっかりと空いた心の穴には冷たい風が吹き抜けていく。


「父にも言われました。……何がやりたいんだって」

「そうなんだ。じゃあ、お前にとっては聞き苦しい言葉かも知れないけど……父親の言っていることはきっと、正しいんだと思う。勉強して将来のために色んな可能性を広げていく。自分に選べる選択肢をきちんと知った上で進むべき道を選び取る。そんな生き方を少なくともまずは、していくべきなんだろうな」


 イサミさんにとってそれは語るには苦しいことだったのかも知れません。しかし、ためらうような口調で話させている僕は抱くべき罪悪感さえも胸には湧き上がらないのです。


 全身の力が抜けていくような感覚に陥り、そして再び俯いて視線を逸らしてしまう。放心状態と言えるような精神の中、言葉が内側で反響します。


 分からない。分からない。

 僕には、分からない。


 分からないのです。


 それほどに父の言うことは正しいのでしょうか。イサミさんでさえ同意してしまうほどに?


 学びを何より優先することが。

 いつかの何かのためにひたすら準備して今を過ごすことが――それほどに?


 そして、イサミさんは僕といる時間を削ってでも勉強をしていくべきだと思っているのでしょうか。将来のために積み上げることを――自分といる時間よりも優先させるべきだと思っているのでしょうか?


「イサミさんにそれを言われたら、僕には味方がいないじゃないですか」

「味方ならいるよ。お前のお父さんもお母さんも……そしてアタシも。みーんな味方なんだから」

「……何でそんな風に思えるんですか」


 言い聞かせるような口調のイサミさんに対して沈んだ気持ちを胸に、力なく問いかける僕。


 自分勝手な思考ではありますが、イサミさんには僕の言うことを二つ返事で同意して欲しかった。共感して欲しかった。そのように浅ましく考えていたのかも知れません。だからこそ独りよがりで、やっぱり自分は我がままを口にするだけの子供なんですね。


 何度だって、自覚させられるのです。

 何をやっても自覚させられるのです。


 まだまだ子供だと――。


 そんな悔しさと自己嫌悪が心の中でどんどんと積もっていく。そして埋もれていく。真っ黒な空と白い大地、冷たい風が吹き付ける心の中では何一つだって育たない。寒さに痺れ、感覚を失って、どんどん絶望と同調していくようで。いずれ、何も分からなくなってしまったら――それでおしまい。


 そんな風に思考を繰り返して塞ぎ込んでいく僕に対し、イサミさんは「ちょっと話は逸れるけど、でも聞いて欲しい」と言って話し始めます。


「アタシが色んなことを繰り返しやってきたのって、何でだと思う?」

「……随分と沢山のことをやってきましたよね。僕が告白する前だってきっと色んなことをやってたんでしょうし。でもそれって色々と楽しいことをやってみたいからじゃないんですか?」

「それだけじゃないんだよ。アタシだって何かになれるんじゃないか。その方がいいんじゃないかって思ったんだよ。決まった何かに。この世の中の歯車になるかのような、そんな一つの役割を担う生き方をするのもいいんじゃないかって」


 ちょっと意外と感じるイサミさんの言葉を受けて、僕は語られた意味を考えてみることに。


 カタログに載っているような未来でなく、形を持たないとさえ表現できる自由な生き方を選んだイサミさんでさえ、自分自身を疑ったという一つの軌跡。


 あらゆることに取り組み、自分の納得がいけばすぐにやめて。スタンプラリーを埋めるみたいに興味を消化するイサミさんを今まで「そういう人」と捉えていました。でも、固定概念で人を捉えることで過ちを犯した今の僕にはよく分かります。


 イサミさんだって、一貫して「そういう人」であったはずがないのです。


 ――そして思い出します。そういえばイサミさんには「こういう生き方しかできない」という確信があると語っていたことを。


「今までずっと……何か自分に合うものがあるかも知れないって思ってたから、色んなことを試してきたんですね。そして、経験が重なっていくほどに自分の生き方へ確信を持ったってことですか」

「まぁ、そうじゃなくて遊ぶだけのこともあったけど基本はそんな感じ。音楽をやってみたり、スポーツに精を出してみたり、その他も色々と。そういう形ある夢だったり、趣味とか生きがいみたいなものが抱けるかも知れないって思ったんだ。一所に留まって生きられるかもって。でも結局、アタシには見つからなくて。そんでもって、話はまたちょっとずれるけど中学の卒業を機に家を出るつもりだったって話したこともあっただろ?」

「そうでしたね。でも現状、高校に進学してるわけじゃないですか。……それって何でだろうと思ってました。親の勧め以上に何か理由があるんじゃないかって」

「中学を卒業したくらいじゃあ、アタシはどこにも行けないって思ったんだ。生きていけないって、思ったんだ。そして、まだまだ自分は子供なんだって……自覚させられたんだよ」


 イサミさんの言葉に僕は胸に刺さるものを感じました。


 それは今の自分と何だか似ているようで。その思いが突き動かしたように僕はそっと顔を上げ、イサミさんの方へ視線を送ります。するとイサミさんの表情はどこか懐かしむようで、そして恥ずかしさにはにかんでいるようでもあって。そんな横顔を見つめていると少し、自分の中で渦巻いていた鬱屈とした感情が緩和されるような思いがしました。


 この人だって失敗することもあれば迷い、戸惑うこともある。

 僕と同じように子供だと自分を自覚して――きっと悔しい思いをしたはずで。


 そんな過去を、こんな風に話せるのだと思った僕はその横顔に見とれてしまうのです。


「親は進学を強く勧めてた。で、どこにもいけないなって思ったアタシはその意思に従ったんだ。とりあえずはお小遣いのためだって割り切ってな。……まぁ、それだって重要なことだよ。お金があれば色々できるから。当時、十五歳のアタシは一所に留まる生き方を完全に否定しきれてなかった。だからアタシは勉強し色んな経験をしていく中で、自由になりたい願望を可能性という名の篩にかけてるんだって考えた。色んな選択肢を提示されてもなお、消えない思いはきっと――ずっと続いていくから。アタシが卒業して一番の願望をその時はそのまま謳歌しようって」


 語る表情は何だか生きる気持ちに溢れていて。心の底から抱く希望を携えて自分の願望を口にする人が浮かべる表情はこんなにも輝いている。


 自分が抱いた思いはどんな選択肢を提示されても揺るがない。そのための確認でもあるようで。完全に否定しきれない「社会の中で生きる選択肢」を片っ端から潰していったのでしょう。挑戦できることへひたすらに取り組んで、自分に抱ける夢が地平線の向こうにしかないことを証明するみたいにして。


 そして、そんな無茶もイサミさんの才能があれば容易だった。

 無関心のスタンプを押し続けた。


 ……凄いなぁ。


 そのように思ってしまいます。

 思うからこそ、問いかけてしまう。


「そんな日々で、意思がくじけかけたことはなかったんですか?」

「あったよ。お前と付き合い始めた頃は何だかそういう自由への願望が薄れていたようにも思う。麻痺してたって感じかもしれない。……でも、一途にアタシのことを想ってくれるお前を見ていて思い出したんだろうな。アタシもまだまだ、頑張っていかなきゃいけないって。今まで一つのことに集中したことはなかったアタシにとっての夢くらいは貫こうって」


 快活に微笑みかけるイサミさんが僕に語った言葉で、自分の中で感じていたことがどんどんと腑に落ちていく。


 麻痺していた、という部分も気になりますけれど――それよりも。


 この人を変えたのは、僕が抱くたった一つの一途な思いだったのです。何度もひたすらにこの人へ思いを伝えたことで弱くなったイサミさんが、それとは逆に夢への想いを強めていった。一途に想い続けることに憧れてくれていた。そんな僕に「自分のような生き方は出来ない」と語るイサミさんの言葉はつまり、そういうことなんですね。


 僕はまだイサミさんの隣には立てていないから――。

 そんな風に少しずつ……分かりかけていたのです。


 空からゆらゆらと舞い降り積もっていく雪に足場を悪くされ、歩みづらさに苛立つことだってあるでしょう。でも、降り積もった雪の上に立ってみれば少し背伸びをした景色が見えて。積み上げていけばもっと遠くが見えるはず。そうやって積み上げていくことは何だかひたすらな苦悩のようで、冷たい雪に手を触れることだって億劫になる。


 でも、そんな風にして積み上げていくことを否定する大人にはなりたくない。子供みたいにはしゃいでみれば――案外とそれは楽しめるものなのでしょうから。


 いつか雪解けが訪れた春に歩き出す。

 積み上げた上から眺め、見つけた辿り着きたい景色を求めて。


 だから、僕自身もイサミさんのように――いつかは!


「今、お前の存在が一番アタシをくじけさせそうなんだ。好きで好きで仕方ないから……離れたくないんだ。いつまでも一緒にいたい。きっと、一緒にいられなくなったら不安で泣いちゃうかも知れない。でも、旅に出る決意だって揺るがないんだ。自分のためだった願望が今は二人のためだとさえ思えるから」


 イサミさんの言葉が重なれば重なるほど、核心に迫っていく。


 旅へ出ると言ったイサミさんにとって僕という存在が大きくなればなるほど、どうして離れていくことを望んでいるのだろうと思っていました。でも、何となく分かりかけていたのです。イサミさんから出された課題。あの「最大限ではない願望」が「最優先すべき事項」となっているというロジックの行き着く先はつまり――。


 それを思えばこんな所で僕も立ち止まってはいられないと、強く思います。


 だから鬱屈とした感情の全ては今、完全に駆逐されました。活力に満ちた気持ちが溢れてくるままに僕は自分が出すべき答えを掴み取って、それを口にします。


「あぁ、そういうことなんですね。僕、天秤にかけていると思ってたんです。僕と自分の夢を天秤にかけてるって。でも、イサミさんは自分の欲求に素直な所だけは変わってませんから。天秤なんて結局は自分の両手なんですよね。両手であるならばその上に乗っているのですから、あとは握りしめてしまえばいい。両方とも。……ですから僕、分かりました。分かったんです!」


 内心では「またやってしまった」と感じていました。


 イサミさんが「取捨選択出来る人」などと考えていたのは僕だけで、実は本人からそのように言われたことなど一度もないのです。こんな所にもイサミさんに対して勝手な印象を押し付けていたと肩を落としそうになりますけれど――。


 僕は不意にイサミさんの両手をギュッと握りしめて見つめ合います。

 瞳同士を結んで、そんな行動に少し驚いて顔を赤らめるイサミさんを前にして僕は決意しました。


 きっとそれは自分にとって試されることで。

 そして試すことを僕が望んでいる。


 そんなものに負けるような感情じゃない。

 今だけのものじゃない。

 期限付きじゃあ――ない!


 こんなにも胸が高鳴るくらいに――好きな人だから。


「僕も、頑張ってみようと思います。今しかできないことを……優先してみようって思えました! 何にでもなれるような自分になりたくなったんです。そして、そんな大人になって……沢山の選択肢を前に僕は言ってやるんです。


 ――僕にとっての未来は、幸せはやっぱりあなただけですって!


 こんな生き方は自分にしか合わないなんて、もう二度と言えないくらいの場所に追いついたらきっと言ってやるんです。やりたいことなんて今は分からないです……でも、だからこそきちんと準備をします。沢山勉強して、勉強して……あらゆる可能性の中からイサミさんと同じ生き方を選び出す日まで、この気持ちが変わらないことを証明するための篩にかけます。それはきっと、これから旅立っていくイサミさんが街を去る理由と同じように。ですから――」


 気付けばイサミさんが未来を語る時のように希望を胸に携え、活き活きと――この世に生まれた喜びの全てを謳歌しているその絶頂であるかのように流麗に、饒舌に語る口が止まらなくて。そんな言葉に瞳は揺れ、涙を浮かべて聞いているイサミさん。


 でも僕は必死に涙など流さぬように努め、そして握る手の力をさらに強めて告げます。


 僕にとっての決心。変わるものの中にあって、変わらないと自信を持って言えるただ一つのことを生涯に渡って約束するための、それは宣言。


「ですから、高校と大学を卒業した七年後――僕はイサミさんを訪ねて旅に出ます。変わらない気持ちを携えて、きっと! だから……待っていてくれませんか?」


 瞬間、涙はイサミさんの頬を伝って、そして連なるようにボロボロと零れていきました。そんな涙を僕は指先で拭って、それでも溢れる涙につられぬように自分の心を必死に堪えるのです。


 そんな僕にイサミさんは語ります。

 涙交じりの声と、輝くような笑顔で。


「その言葉が……その言葉があればアタシはきっと大丈夫だな。嬉しい。本当に嬉しい! きっとアタシも旅をする中で確かめにいくんだ。アタシは自由にどこへでもいける人だから……どこにもいけないってことを。自分の幸せはここにしかないってことを! 無限に広がる可能性の中から今の気持ちが、何にも負けない強いものだって確信するための自由を謳歌するから。アタシも憧れたお前を見習って一途に想い続けてみるから――ずっと変わらない気持ちを一緒に信じてみよう! 信じられるからお前と離れることに抵抗なんかない。だから――変わらない想いを持ち続けてアタシは待ってるよ」


 そのように心からの言葉を感情的に語ったイサミさんの想いを受けて、僕は自然と笑みを浮かべていました。そんな僕に同調するようにイサミさんも口元を緩めて……しかし涙を零す姿を素直に美しいと思いました。


 そんな僕達はきっと同じ表情をしていたのでしょう。


 お互いの決意だったりの折り合いをつけるため、そして昇華した感情の相応しい辿り着くべき場所であるのかのように自ずと僕らは唇を重ね合いました。


 ――僕らの決断。

 それは自分の感情を試すこと。

 進んで別れることを受け入れるのです。


 言ってしまえば――本懐を後回しにする決断!


 改めて考えれば、イサミさんの言動に裏付けられたものが見えてくるような気がします。


 きっと僕からあらゆる可能性を奪いたくなくて、三月で一緒に旅へ出ようとは言えなかったのでしょう。やりたいことはないのかと問いかけたのでしょう。そして、ずっと自分のことを想い続けて欲しいという言葉でさえも、イサミさんは僕を縛りたくないから口にできなくて……だからこそ、気付いて欲しくて課題を出した。


 それこそ、自分の願望と僕の将来の中間地点。

 取捨選択などせず、全てを選び取る一つの答え。


 ――七年後に追いかけると、僕に言って欲しかったのでしょう。


 まったく……ヒントが少なすぎますよね。


 つまりは地平線の向こうへの憧れと僕への想い、その両方を捨てないイサミさんの決断。全てに対しての納得を手にするための旅。そう考えれば、イサミさんが僕を好きだと自覚するまでに抱いていた旅をする理由というのは「自分にとっての一番を求める」旅だったのかも知れません。あの時、イサミさんは「自分の欲求に素直な人だから、やりたいようにやる」と納得していましたけれど――内面を知っていけばそのようにだって解釈できて。


 思えば、いつの時もイサミさんは僕といることが一番の幸福であれば、迷わず選び取る気でいてくれた。


 何もかもを我慢せず、全てを選び取る。

 取捨選択なんて、ない。

 全てを選び取るという一つのことを――ただひたすらに貫く。


 だから一緒にいたいという願望と変わらない気持ちを信じる心が、七年の時をまたぐ決断をさせた。


 変わらない思いを信じているなら、七年後だって遅くないのでしょう。不安なんてないと言えば嘘になりますけれど、でも……それくらいの時を越えられないなら本物じゃないのです!


 なら今しかできないこととは、きちんと学んで七年の間で沢山の経験をするということ。子供のうちにすべきことにきちんと取り組む。そしてイサミさんのように数多の可能性を目の前に並べ、その全てにバツ印をつけてやり――残った最後の一つと一つがずっと固く、強く結びつく。


 だからこの決断を貫くことで、僕だって全てのことを諦めないのです!


 一以外の全てを、否定する――そんな約束で僕とイサミさんが来年の三月で別れることは、どこか満足そうな表情を互いに浮かべて決まったのでした。

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