■嵐谷イサミの十戒 その四

嵐谷イサミの十戒 その四 前編

 いつだったかの約束が履行される日となりました。


 七月。暖かくなってきたと感じていた気候が段々と暑さに変わっていき、活発なセミの鳴き声が夏の訪れを知らせる時期。そんな七月も後半戦になれば、夏季講習などで世間一般の同級生と比べて難関校の受験を控えている身としては遊んでばかりいられないものの、ある程度の暇は用意できる夏休みを迎えました。そして今日、ついに――イサミさんが語っていた「勉強を見てくれる」という約束が履行されるのです。


 僕自身あれから、いつイサミさんから日程等を聞かされるのかと思いワクワクしていたのですが、なかなか言い出してもらえない状況が続いて六月を終えました。そんな時期に返却された模試の結果が、あろうことかキープしていた合格ライン判定から転落していて。そんな結果を独り言として愚痴っているとイサミさんは「なら、アタシが勉強を見てやろう」と言うのです。


 以前結んだ約束を忘れていたから再び申し出てきたイサミさんに温厚な僕も流石に取り乱し、期待していた日々の想いをとくとくと聞かせて再び約束をさせたのでした。


 結果としては嬉しいのですが、忘れられていたのはやはりショック。

 嘘つかないとか言っていたのはどこの誰だったのでしょう……。


 そんな訳で勉強するために最適な場所としてイサミさんから図書館が提案されました。最初は僕もその意見に二つ返事で同意しかけたのですが、イサミさんは夏休みということでバイトが忙しくなっているのです。なので日々疲れているでしょうし気を遣い、ファミレスで勉強をするのでいつぞやのように通りかかった時、間違いを指摘してくれるだけでもいいと言ったのです。しかし、そこは僕との約束を忘れていたことに責任を感じたのか、きちんと休みを取って今日という日を一緒に過ごしてくれることに。


 というわけで今日に至るのですが、それでもすっきりしない疑問がありまして。イサミさんが僕のためだけに休みを取り、得られるはずだったお給料を諦めるとは思い難いのです。もしかすると、バイトが忙しいために休みは思いっきり遊びたい気持ちがあったのでしょうか。だとしたら、勉強を見てくれるのは僕が嬉しいのであって、イサミさん的に楽しいイベントではないでしょうし。


 うーん。そう考えれば純粋に僕のためだと思っても……いいのですかね?


 そんな風に思考を巡らせつつ、僕は駅前に設置された噴水の縁に腰掛けてイサミさんを待っていました。


 実は図書館を利用したことがない僕。ですので、イサミさんに案内してもらわなければ場所が分からないので現地集合は不可能。となれば合流してから向かうしかなく、いつもの公園よりも駅からの方が図書館への距離は短いらしいので、午前中は塾にて夏季講習を受けていた僕はこうしてイサミさんの乗る電車が駅へ到着するのを待っているのですけれど……。


 イサミさんが携帯を持っていないのが不便過ぎる!


 出発する電車の時間だけ予め教えられたのですけれど、あまりピンと来ていません。おおよその到着時間は予想できるものの何だか漠然としているため、落ち着かない気持ちに負けて早くからこの場所でスタンバイすることになっているのですよね。


 現代を生きるのに必須なアイテムだけあって、持っていないとこれほど繋がりに不安感が生まれるなんて……。きっと持っていれば「今から行く」とか「もうすぐ着く」などと連絡がもらえるので、炎天下にこうして身を投じ汗をだらだらと流す必要もなかったのでしょう。イサミさんと会うのにあんまり汗かきたくないんですよね。


 しかしまぁ、イサミさんが携帯を所持していたらきっと家に帰っても連絡が取れるのでひたすらに幸福なんでしょうね。そんな風に妄想を膨らませていると「何とか持たせられないものか」と考えてしまい、それに誘発して呼び覚まされる記憶。


 繋がりか――と思います。


 あの日からずっと。僕はイサミさんと一緒にいられる時間をおおまかに頭の中で日数換算したり、それまでの日々に何か出来ることはないかと考えていたのです。それは悔いのないよう別れの瞬間までを充実させるためのものなのか、それとも何とか引き留められないかと考えているのか。


 やはりタイムリミットのように過ぎていく日々の中で残された時間を確実に減らしていき、ただ死を想うことのように噛みしめて今を生きていくだけで終わるのでしょうか。そんな思考がぐるぐると、常に頭の中で巡っているのです。同じ場所、円を描くようにしてずっと。ずーっと。


 そういえば三月で僕と別れることをイサミさんは、どのように考えているんでしょうね?


 そんなことを考えていると――。


「待たせちゃったな」


 気付けば、少し腰を屈めたイサミさんがぼーっとしている僕の顔を覗き込んでいました。そんな風にして視線が結びつくと、沈んだ思考がゆっくりと解けていく感覚がして、薄っすらとではありますけど笑みが僕の表情に浮かんでいきます。


 ……あぁ、そうですね。未来を思って心を鬱屈とさせることは今にとって一番の毒であり、過去を苦くさせる最たるもの。この人といる時くらいはせめて、こんな思考は片隅へとやってしまいましょう。


「僕もさっき来たところですよ。さぁ、行きましょうか」


        ○


 イサミさんに連れられて辿り着いた図書館。蔵書数は明らかに学校の図書室を越えているであろう巨大な建物の内部は物静かで、本のページを捲る音だけが微細に聞こえる落ち着いた空間。集中に適した環境を体感し、図書館で勉強したくなる人間の気持ちに同意せざるを得ない思い。そして、もっと早くに訪れればよかったかも知れないと感じる僕。


 勉強は必死にやってきましたけど、読書とかに興味がなかったもので利用する機会がなかったんですよね。


 そんなわけで図書館内をイサミさんに導かれるまま歩いていく僕。夏ということもあって館内では涼しげな絵ハガキを展示したコーナーも設けられていて、季節らしく色鮮やかなアサガオや可愛らしい鬼灯などが優しいタッチで描かれていました。


 思っていたよりも多目的な場所だと感じる一方――本を読んでいる人達を見ていれば、どうして自分は図書館で勉強するイメージを抱いていたのだろうとも思ってしまいます。


 ペンが紙の上を走る音とかって気になったりしないのでしょうか?


 そうも思いましたが僕の懸念は杞憂に終わったようで、この図書館には自習室という隔絶されたスペースが存在していました。テーブルと椅子がいくつも組になって並べられており、部屋の名前を知らなければ学食か何かのようにも見える光景。


「図書館ってこんな場所まで用意されてるんですね。イサミさん、ここよく使うんですか?」

「いや、全然」

「あっさり否定しますね……。じゃあ勉強とかって家でやる派なんですか? 塾とか通うイメージはありませんしね」

「……ん? 勉強は学校でするものだろう」

「そんな思考をしている人がよくこんな所に連れてきましたねぇ!」


 嫌味っぽさは全くない素直な返答でしたが、僕としては――いえ学生であれば大抵の者は、自分の無能感と向き合ったような気持ちになるのではないでしょうか?


 つまりはイサミさん、学校の授業を聞いているだけで自主的な予習や復習はせずに学年トップの成績を延々と維持し続けてきたということ。


 何だか同級生からは嫉妬の目で見られてそうです。県外から一人暮らしをして通う生徒までいるイサミさんの学校には方々から秀才が集まるわけなのですけれど、何だかこんな人が一人いるだけで頑張ることが馬鹿らしくなりそうですね。


「イサミさん、もうちょっと言葉に気をつけないと友達失くしますよ」

「逆に考えるんだ。失うものを持っていないと人間、気遣いから解放されるんだぞ」

「あぁ、そういえば前に友達いないって聞かされたような……」

「自慢じゃないが、アタシは今まで一人も友達なんていたことがない!」

「確かに自慢じゃないですね」

「まぁ、別に出来なくて強がりを言ってるんじゃないからなぁ。誰かとの繋がりなんて、一度関わったら蜘蛛の巣に引っかかったみたくまとわりついて離れないんだろ? アタシはそういう束縛が好かないんだよ」


 イサミさんは淡々とどこかつまらないことであるかのように語って、言葉の最後を嘆息で締めくくりました。


 基本的に言葉の裏がない判断しやすい人ですから、本当に友達なんて欲しくなかったのでしょう。いないのを気にしたこともなくて……そして、いたとしたら煩わしいとも本気で思っている。いつもならここで「じゃあ僕はどうなのか」と思考してブルーになるのです。


 しかし、最近の僕はそのように考えなくなりました。いつだったかイサミさんの働くファミレスにいた三人組が言っていた言葉を思い出すからです。


 きっと、僕は自分が思っている以上にイサミさんにとって特別な存在になってきている。人と人が繋がっていれば、いつまでも同じままではいられないと彼らは言いました。


 だからこそ、僕も――そしてイサミさんも、変化の芽は少しずつ心に宿って成長している。この人の定義に自分を当てはめて悩む段階は通り過ぎている。僕がイサミさんに何をもたらしたかは、分からないけれど。でも綿毛が風に乗って遠くへ種子を運ぶみたいにして何かを宿らせ、それは芽を出し始めているのかも知れない。


 少しずつそう考えるようにしていて、きっと――それは正しいのでしょう。


 さて、いつまでも入り口で立ち話をしていても仕方ないので中へ入ることに。席を選んで向い合うように座ります。そして持参した問題集を取り出して解き進めていく形となるのですが、そこは塾まで通っている僕ですからよほどの問題でもない限りはスラスラと解けてしまうのです。すると「アタシ、必要だったか?」とイサミさんがぼやきはじめて申し訳なくなる僕。


 なので、イサミさんは図書館から読みたい本を持ってきて読み、分からない問題があれば僕の方から問いかけていくという方式で妥協することに。そんな訳でイサミさんは五冊の本を抱えて自習室に戻ってきました。


「イサミさんってどんな本を読むんですか?」

「色々だよ。漫画も読めば小説や新書にだって手を出すし、国語辞典をそのまま一ページ目から読んだことだってあるよ」

「何だからしい回答ですね。そこはやっぱり選ぶ基準とかは自分の好きなものを素直にって感じですか?」

「うーん。まぁそれもあるけど、自分の知らない分野ほど惹かれて読んじゃうかな。知識っていうのは欲望にとっての肥やしだと思うんだよ。知らないものは欲しがれないじゃないか。まぁ、得た知識に留まってたらそれはごまかしだけど……でも、起源にはなるから本は好きだなぁ」


 イサミさんは持ってきた五冊から一つを開き、ページに視線を落としながら言いました。


 その光景はイサミさんの内面を知る前に抱いていたイメージを彷彿とさせる、何だか知性と冷静さを感じさせる美しいもので。付き合うことになった日から知っていったイサミさんのアクティブな部分に埋もれていましたが、どんな姿だってやはり一面に過ぎないのですね。


 決まったスタイルを持たず、柔軟に思考する――というのがイサミさんのスタンスだと、月並みな表現ですが思ってしまいますね。


「本を読まない人間からすれば目から鱗な選び方ですね。つまりは自分の好きなジャンルを選び続けているようでは、読む意義として弱いってことでしょうか?」

「いや、一つのことを深く知るためにジャンルを絞って読むのだって大事なことだよ。本っていうのは視野を広げることと、深めることの二つが役割だろうからな」

「うーん、何だかそう言われると難しいですねぇ」

「難しくないよ。色んなものを見て、その中から気に入った深みにはまっていく。まぁ、視野を広げるのも、見識を深めることも両方が大事だってことだよ。例えば、一冊しか本を読んでいない人間にはお気に入りを選ぶ余地すらない。それじゃあ、駄目だろ?」

「うーん。分かるような、分からないような……。なら、そんな風に語るイサミさんはどんな本を持ってきたんですか?」

「見たいなら自由にどうぞ。読みふけって勉強がおろそかになったら本末転倒だけど」


 そのようにイサミさんから許可が出たので、本人が手に持っているものを除く四冊を確認してみることに。


「えー、何々。『彼氏、彼女の距離がより一層縮まる12のコト』……って、何ですかこれは」

「ハウツー本ってやつだなぁ。恋愛に関する解説が書いてあるんじゃないか?」

「よ、よ、読んでどうするんですか!」


 思わず場所も考えずに声を少し大きくしてしまう僕。しかし、対照的に平然とした態度で手にした本を読み進めているイサミさん。


「おいおい、図書館では静かにしないか。……それに読んでどうするなんて、それが彼女に対して言うことかね」

「そんな恥じらいも何もない淡々とした口調で言われても……」

「まぁ、自分だけでは理解が及ばないことに直面すれば解説に頼るべきかなと思ってな。図解があればプラモデルだってあっさり完成するだろ?」

「そんなもので例えないで下さいよ」


 僕は呆れ混じりな口調と共にイサミさんをジト目で見つめつつ、他のタイトルも見てみることに。


「あぁ、これは知ってます。昔、流行したケータイ小説ですよね。これも恋愛絡み……イサミさん、興味津々過ぎるでしょう」

「まぁ、目下一番アタシにとって分からず興味深いことだからなぁ」

「勉強熱心なのは良いことだと思いますけど、でも最後には恋人と死に別れる泣ける系の小説ですよね、これ。テレビ見ない僕でも知ってますけど……この作品から何を学ぶんですか」

「アタシ、お前が死んだらどうすればいいか……」

「どうして僕が死ぬことを想定してるんですか!」

「そうムキになるなよ。……ただ有名なのか知らないけど、まだ読んでもない小説の結末をさらっと言うのはどうかと思うけど」

「あ。これは申し訳ないです」

「まぁ、恋愛小説なんてどうせ男女がくっつくか、死に別れて終わるのどっちかだろうし別にいいけどな」

「そんなロールプレイングは魔王倒して終わり、みたいに言わないで下さいよ」


 そうまで言うなら、もの凄く冷めた観点で内容を捉えているのにどうしてこんな本を持ってきたのだろう、という疑問を抱えながら僕は三冊目に手を伸ばします。


「えーっとこれは『恋愛心理学入門』ですか。何ともまぁ硬い感じの、しかし相も変わらずに恋愛ものなんですね」

「それで入門すればアタシも彼氏の心が手に取るように分かるらしい」

「こんな本一冊で僕の胸中が覗かれてたまるものですか!」

「まぁ、アタシもそんなのは不可能だとは思うけどなぁ。人間の心理や行動原理が法則性に当てはめて理解できるのなら苦労はしないだろ」

「苦労したことがあるんですか?」

「苦労してるんだよ」


 イサミさんはそのようにどこかつまらなさそうに語ると、嘆息して口をうっすらとへの字に曲げてしましました。それ以上の明言を避けているようで、僕が追求をした所で答えてもらえるようには思えませんでした。


 現在進行形で人の心に苦労している。

 それはどういう意味を持っているのでしょうか?


 悩んでいるのではなく「苦労」という言葉を使ったあたりに何らかのヒントがあるようで……しかし、いまいち掴みきれない感じがします。先ほども語っていたように誰かと関わることで発生する気疲れのようなものを好まないというイサミさん。その比喩表現を借りるならば、蜘蛛の巣にでも引っかかっているのでしょうか?


 何だか落ち着かない気持ちを抱えつつも僕は四冊目の本に手を伸ばしてタイトルを確認してみることに。


「ハードカバーでサイズも大きい。えーっと『世界のキス写真集』……ってイサミさん! 何でこんなものまで図書館に置いてるんですかっ!」


 自習室に響き渡るような大声で思わず、狼狽した心境に任せて指摘してしまった僕。


 周囲で勉強している人達の視線を集めてしまい、僕は恥ずかしさに身を焼かれる思いをしながらほとぼりが冷めるのを待つことに。


「何を興奮しているんだよ。あくまで芸術作品として置いてるんだろ」

「とはいえ、こんなの淫らでしょうよ! 子供だって手に取れるんですよ!」

「手に取って何か問題あるのか? それで子供の情操教育に影響があるわけでもないだろうに」

「まぁ、僕が驚いているのはこんな本が図書館にあることもそうですけど……イサミさんが持ってきたという事実ですけどね!」

「彼氏彼女がキスするってのはアタシでも分かる」

「じゃ、じゃあ……イサミさんはしてみたいって思うんですか?」

「いや、全然」


 妙な期待と共に恐る恐る勇気を振り絞って問いかけた僕に対して、表情を崩すことなく即答するイサミさん。


「ならどうして持ってきたんですか!」

「うーん。したいって思うならアタシはするし、そう思わないならやっぱりしない。でも自分がいつかしてみたいと思う可能性が微かにでもあるなら、やっぱり興味は持つだろ」

「またそんなことを平然と。淡々と……」


 イサミさんの言葉に僕は情緒の欠如を感じて不満げにしてしまいますが、内心ではそういった可能性を感じているだけでも嬉しいなぁと思ってしまうのでした。そんな心持ちのまま四冊の本をイサミさんの手前に積み直し、勉強に取り掛かろうとするのですが――ふと思います。


 そういえば、イサミさんが今手に持っている本は何なのでしょう?


 そう思いこっそりとイサミさんが読みふけっている本の表紙へと視線を滑らせてみることに。そして読み取った本のタイトルに僕は胸の中のもやもやがより一層深まる思いがしたのです。


 イサミさんが読んでいたのは『自分らしく生きたい人のための本』と銘打たれた自己啓発本なのでした。

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