■嵐谷イサミの十戒 その十

嵐谷イサミの十戒 その十 前編

 少しずつ夜は明けていき、空は群青色に染まっていく。そんな光景へ視線を預けつつ肌寒い外の空気に身をすくめて、僕とイサミさんは駅のホームにて電車を待っていました。聞いたこともないような行き先の切符を握りしめ、少し大きめのカエルを模したリュック一つで椅子一人分を占領しているイサミさんと違って僕は、どこへ行くこともありません。


 ――三月。制服の胸元に花飾りを湛え、手には卒業証書を納めた筒が握られていて。少し照れたように僕の視線をちらちらと伺いつつ、後ろで手を組んで待ち合わせ場所の公園に佇んでいたイサミさんを見て僕は悟ったのでした。別れが時が訪れたのだと。


 それが現実味を帯びて僕の中で具現したのは昨日のことでした。


 ひらりと舞い上がる桜の花びらを掴もうと手を伸ばし、しかしそんな風に弄ばれて髪を手で押さえるイサミさん。そんな光景を目の当たりにして、空の彼方へ吸い込まれていく花びらと重なるように目の前からいなくなる自分の大切なものを思えば何だか胸が締め付けられるのでした。


 そして今日――電車に乗ってこの街から旅立っていくイサミさんを見送るために同伴した僕は並んで駅のホーム、設置された椅子に座っていました。電車までの時間はそれなりにあって、何だか別れを惜しむための時間であるならばそれほど辛いものはないなと思う僕。いっそ、一思いに連れ去ってくれればいいのにと思います。


 でも、きっと別れの瞬間にはそんな時間が足りないと感じるのでしょうね。


 そのように名残惜しくなる気持ちが募っていくのが予想できるにも関わらず、イサミさんは随分と早い時間から駅へ向かうことを決めていました。


「こんな早朝から出ていく必要ってあったんですか? せっかく卒業したんですから、せめて数日はゆっくりした上でのんびりとお昼頃から電車に乗ったっていいような気もしますけれど」

「もうアタシは学生じゃない。大学には進まないなら期待を裏切って出ていく感じはあるじゃないか。だから早くこの街を離れたい……それはずっと思ってたことなんだ」


 どこか寂しそうな表情で語るイサミさんの横顔は夜明け前の薄っすらとした暗闇を纏っていて。僕はそんな表情を見つめて思います。


 もしかするとイサミさんとその両親はずっとこのまま、平行線を歩んで交わることはないのかも知れない。そんな予感があったのです。どこか僕の家庭環境と似ている。そんな風に思いつつ、結局は詳細を知ることなく今日まで過ごしました。実際に会うことは出来なかったのでイサミさんの両親が娘に対してどう思っているのかを知ることは叶いませんけれど――自分の好き勝手を貫き通すために誰かを裏切りっぱなしになることだって、この世界にはあるのでしょう。


 僕も、もし本当にイサミさんと街を出る決断をしていたら――それは永遠に裏切りっぱなしの結末だったのかも知れません


 父がどのように考えていたかは分かりませんが、もしかすると「責任を理解した上で自分の欲求を貫け」という言葉に対して僕が最初に抱いた答え。家を出て、そしてこの街をも捨てる決心をした僕の選択。それはそれで一つの正解だと、父は言うのかも知れません。なら、イサミさんにとっても学生という身分を終えたらすぐに出ていき、一人で生きる……それは責任なのでしょうか?


 でも、それは何だか寂しすぎるから――。


「イサミさんがこれからどういう風に旅をして、どのように過ごしていくのかは分かりません。……でも、父はイサミさんのことをすごく気に入っていましたから。そんな父からの言伝です」

「お前のお義父とうさんから?」

「……何ですか、その漢字変換は」

「いいだろ。どうせ行き着く所はそうなるんだから」

「まぁ、そうですけど」


 別れを前に帯びていたシリアスな空気がぶち壊しになってしまったため、思わず表情を引きつらせてしまう僕。しかしすぐにそんな表情は解かれるのです。それはきっと、今という時間には力の抜けた空気こそ必要かも知れないと思ったからでしょう。


 別に一生会えなくなるわけじゃないのですから、軽く捉えればいいのですよね。

 気を取り直して咳払いをする僕。


「もしもどこか一所で休まりたいと思った時には、自分の家のように帰ってきてくれていいって。父はそのように言ってました。だから、この街を捨てても――帰るべき家だけは捨てないで下さいね」


 それは今日、家を出る時に父から託されたイサミさんへの言伝でした。


 もう去年のことになります。期末試験の結果はまずまずといった具合でして、成績をそれなりに回復させることができた達成感を得た日から数日後のクリスマス。あまりホームパーティーのような催しを好まない父がイサミさんを招いて今年は集まる場を開きたいと言ったのでした。そんなタイミングでちょっとの恥じらいとひたすらな誇らしさを胸に、僕はイサミさんを両親に紹介することに。そこからの縁で父はイサミさんを気に入り――同時に心配している部分もあるそうなのです。


「そう言ってもらえるのは素直に嬉しいな。クリスマスに初めて招待されて以来、何度かお前の家族とも会ってるけど……素敵だなって思ったよ。何だか一員に加えてもらったみたいで」

「みたいじゃなくて、実際に一員なんだと思いますよ。父は付け加えて『こんな息子でよければ、いつでも婿に差し出すからどうかもらってやってくれ』と言ってましたから。僕がもらわれる側になっているのは何だか気になりますけど……」

「そうなんだ。おめでとう! お前も晴れて嵐谷になるわけだ」

「正直、男としてはちょっと格好いい苗字ですから悪くないですけどね」

「でも、苗字はお前のをもらいたいな。そこまでこだわることじゃないかも知れないけど。――って、何だかこんな風に語ってるとアタシがプロポーズしてるみたいだなぁ」


 自分の語っている内容がおかしかったのか、快活に笑い飛ばすイサミさん。しかし、明るく振る舞うその気持ちに同調することが何だか僕には出来なくて。心はどこか薄暗い、例えるならば夜明け前の空みたいに仄かな闇を抱えているのでした。


「じゃあ、そこまでにしておきましょうか。そんな風に結ばれるための申し入れはきっと大人になった七年後の僕が言うべきものですから。……奪っちゃ駄目ですよ」

「……そうだな。アタシも言われる方がやっぱり、その……嬉しいし。この話は終わりにしよう」


 はにかみながら語られた言葉によってこの話は区切りを迎えた――と思いきや「あ、でも言っておいた方がいいことがある」と口にしてイサミさんは待ったをかけました。


「お前のお父さんが帰って来たくなったらいつでもどうぞ、って言ってくれてるのは嬉しいんだけどさ」

「ん? 何か問題でもあるんですか?」

「きっと、少なくともお前が大学を卒業する七年後までこの街には帰って来ないよ」


 イサミさんは真面目なトーンに切り替えて口にし、その言葉は僕の胸中にあったささやかな疑問をくすぐるのです。


「そういえばそれについては聞いておきたかったんですよね。七年後にまた会おうってのが何だか格好いいようでそんな風に約束してましたけど……その期間中に会うことだって問題ないはずですよね?」


 それは大見得を切って約束したが故に、なかなか問いかけることは出来なかった疑問。


 僕とイサミさんは最初、片思いのまま付き合い始めて。そこからイサミさんはもし自分に好意が理解出来て、僕を好きになればその時は思うがまま会いに来ると語りました。それが自分だから、と。そんな日々から両想いとなったのです。会いたくなれば旅の途中であっても、僕に会いに来ることは容易であるはずなのです。


 例えば、一年に一度でも構いません。

 会える機会を設けてもいいように思うのです。

 でも、そのように考えているのは僕だけのようで。


 腕組みをして首を傾げ「うーん、そうだなぁ」と胸中を言葉にまとめていくイサミさん。


「理由は色々とあるような気もする。まず第一にアタシはお前の所へいつでも会いにこられるけれど、その逆は難しいってことかな」

「そうですかね? 夏休み使って訪ねることだって出来るでしょうけど……」

「何を言ってるんだ。お前とアタシは遠く離れるけれど、それはただ単なる遠距離恋愛とかじゃないんだぞ? 例えば一年後――お前は変わらずこの街にいるだろう。でも、アタシのいる場所がお前に分かるのか?」

「……あぁ、確かに」


 イサミさんのため息が混じった言い聞かせるような物言いに対し、僕は呆然として言葉を漏らしてしまいます。


 考えれば分かることなのですけれど、何となく捉えていたから具体性がなかったのでしょうか。……そうなんですよね。今日ここからイサミさんが旅立ってしまえば、この人がどこにいるのかなんて僕には分からなくなる。そんなイサミさんを七年後に追いかけると決心していながら、それまでの日々もずっと消息が掴めていないまま過ごすことになる事実は漠然と捉えていたから、こうして改めて気付くことに。

 

「どこにいるのか分からなくなると言われれば尚更、イサミさんに会いにきて欲しいって思いますよ。強がって七年後に……なんて言いましたけど、やっぱり会いたいに決まってます。六年と三百六十四日、二十三時間五十九分五十九秒になるなら。一秒だって縮むのなら何だってしたい気持ちが僕にはあるんですから」


 今日という日が、今までイメージのままだった未来に現実味を持たせた。それによって急ごしらえの寂しさに満たされた心がひび割れ、隙間から洩れ出すみたいにして胸中を語ってしまった僕。


 こんな風に弱さを見せることを、今日になってもしてしまうなんて。


 心を満たしている寂しさへ滴のように悔しさが零れ落ちる。まるで一滴の墨を落としたような広がりで濁らせていく。そんな自己嫌悪がじわじわと心を染めていく感覚に気持ちを沈める僕に対し、隣同士座ることで触れていた手を絡ませ、握りしめて「大丈夫だよ」と微笑みかけて口にしてくれるイサミさん。


「お前だったらきっと耐えられるよ。がむしゃらに頑張って、アタシとの時間だって諦めず……あの高校に合格したんだ。他に受験したどの子よりも凄いじゃないか」

「そう言ってくれるのは嬉しいです。でも、あの頑張りはイサミさんを欠いた日々を耐え抜くことに比べたら……大したものではないでしょう」


 やっぱり僕はどれだけ気持ちが続いていくと誓ったって、この瞬間の――その衝撃に打ちひしがれる。


 俯いてしまうのです。

 晴れやかであるべき、イサミさんの旅立ちの日に。


 僕は私立であるため少し早めの二月に行われた入試試験を合格し、父に対して宣言したようにイサミさんとの時間を大切にしつつ進学も諦めない誓いを果たしたのです。そして、そんな合格をまるで自分のことであるかのように喜んでくれたイサミさんと同じように僕も落涙したのは、今でも鮮明に記憶の中で焼き付く素晴らしい瞬間でした。


 ――しかし、あの時の僕は合格自体に喜んでいたようには思えないのです。

 あくまで、自分が大人になるための通過点。


 勉強をすることも、色んな経験を積んでいくことも。何もかもがイサミさんといつか再会するための義務的なチェックポイントのようで。それを乗り越えた手応えに喜んでいたのかも知れません。ですから、それらに伴う苦労ではイサミさんを欠いた日々を生きる苦悩と同列にはならないでしょう。


 そのように思っていると、イサミさんは語り始めます。


「アタシはいつでも会いにいけるのが不公平だと感じてた。それでも、お前はそんな不公平でいいから会いに来てほしいってきっと言うだろうな。……でも恒久的にお前と触れられるようではお互い、視野が狭まって本当のことが見えてこなくなる。お互いの気持ちを信じているから離れられるんだろ? お互いの気持ちを信じているから試すことができるんだろ? じゃあ、それまでの日々を耐え抜くなんて言っちゃ駄目じゃないか」

「……イサミさんは、これからの日々が辛いと感じる予感はないんですか?」

「ない」

「どうしてですか?」


 頼りなく問いかける僕に対し、イサミさんは握った僕の手を両手で包み込むようにして「それが二つ目の理由だよ」と言い、語ります。


「確かに七年の時をお前と別れて過ごすのは、アタシにとっても辛いことだ。だからお前の言いたいことは分かる。でも、今の気持ちをまるで可能性の篩にかけるようだって表現した日々へ、アタシが旅立つのは――何故だと思う?」


 僕の瞳を覗き込み、イサミさんが投げかけた問い掛けに対して……僕が率直に答えを導きだせないはずはありませんでした。


 ……勘違いをしていたのでしょう。


 通過点のように感じていたこれからの日々だって僕自身が選び取ったものなんですから、それを苦悩と感じるならばそもそも――何故選び取ったのか?


 忘れかけていたのです。苦悩を選び取ったつもりなんてなかった! 降り積もる雪を大人は鬱陶しいと言いながらスコップで放り捨てるけれど、子供のような心で身を投じればきっと楽しめるものだから。積み上げることを苦悩だと感じているのは結局、僕のさじ加減でしかないのです。


 イサミさんが僕へといつも見せていた素直な心。憧れた姿勢。

 そこから学んだことを――忘れるはずがないんですから!


「……最後にしようって決めてたのに、また僕は我がままみたいなことを」

「違うよ。それは我がままじゃない。アタシが責任を取るべき、お前に与えた爪痕みたいなもんだから。……痛むのは仕方ないよ。アタシだってお前に散々やられてるんだから、きっと悲しくなる。恋しくなる。でも、それだけじゃないはずだろう?」

「そうですよね。イサミさんは……イサミさんは!」


 そのように語るとイサミさんは椅子から立ち上がって、うーんと伸びをします。そして、後ろで手を組んでくるりと回り、僕の方を向いて……あの生命力に溢れた、陽だまりを思わせる笑顔を見せて語るのです。


「アタシはこれから続いていく七年間の日々だって――楽しみで仕方ないんだ! 会いたくなることは避けられないけど、お前だって頑張ってる。楽しければ辛くならないから、会いたくなる気持ちだって楽しみにできるはずだろう?」


 イサミさんのキラキラとした輝きを帯びたような声、言葉……それらを聞いて僕は胸を打たれると同時に「やっぱり適わないなぁ」と思ってしまうのです。どこまでいっても弱音を吐いてしまい、自分の中で大きく変化をもたらされたと思っていても何だか俯瞰して見つめれば大した成長ではない気がして。でも、確実に進歩していると思いたいから。


 同じように笑みを浮かべる僕。

 真似して、上手くはいかなくてもそうでありたいと思う心が憧れを追いかける。


 イサミさんのようになった自分を目指して――。


 そうです。受験が終わって、それでも頑張ることは続くんです。イサミさんだってきっと、楽しいだけとは限らないこれからの旅路を必死に頑張って。そして――楽しいだけの日々に変えてしまうんでしょう。


 ですから――。


「僕だってこれからの七年間、きっと楽しいものにします! 辛いとか苦しいだけの日々にはしないで、意味のある充実したものにします。ですから……ですから!」

「楽しみはずっと楽しみのまま七年後、再会するアタシ達のためにとっておこう!」

「もちろんです!」


 僕はそのように語って立ち上がり、イサミさんと向かい合う形で佇みます。


 そんな瞬間――駅のホームにアナウンスが響き渡る。イサミさんが乗ることになる電車がやってくれば、いよいよ僕らは別れることになるでしょう。おおよそ一年の日々が頭の中で思い出され、そんな日々の辿り着いた先である今日という日。その最後の瞬間から始まる新しい日々までの僅かな時間を――歩み始める瞬間が訪れたのです。

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