嵐谷イサミの十戒 その十 後編

「何だか、イサミさんに教えられる一方だったように思います。影響されっぱなしで。僕からイサミさんへも――もっと多くのものを与えられたらよかったんですけど」


 拭いきれない自分の未熟に対する嫌悪感があったのか、僕は独り言として胸中を漏らしてしまいました。しかし、そんな言葉に微笑みを浮かべてイサミさんは首を横に振って「そんなことはないよ」と言って語り始めます。


「アタシはお前から沢山のものをもらって、こんなにも変わったんだ」

「……本当に、そう言ってくれますか?」

「うん、本当だよ。思い返せばいくつでも出てくるそれは、アタシにとって大切な宝物なんだ。語り出したらキリがないけれど……それでも、電車が到着するまでの間はそんな思い出話をするのもいいな」


 そのように語って、イサミさんは人差し指を突きたてました。


「じゃあ一つ目。アタシは今日まで結局――お前に対する興味がずっと尽きなかったよな。自分でも驚いているよ。お前を好きだって自覚してもうすぐ半年。こんなにも変わらず続く感情があるなんて。これはアタシにとって一番の宝物だから……ずっと続いていくんだろうな」


 懐かしむようにゆっくりと、そしてそれらが愛おしいものであるかのようにイサミさんは語り、僕も思い出していました。


 イサミさんは自分の欲求に正直で風のようにどこへでも吹いて行ってしまう人ですから、明日にはこの人の気持ちがどうなっているかなんて分からない。飽きて興味を失くしてしまえば、僕なんかと関わる事を唐突に止めてしまうのではないかと思っていました。


 それはまるで、「404」の検索結果のようで。

 それはまるで、掌握しきれず移り変わる明日の天気のようで。


 でも、それはイサミさんだからということはなかったのかも知れません。永遠に続いていくものなんてきっとないのですから、それは途切れないようにするしかなくて……そして、今日も僕らはこうして続いています。


「そんでもって二つ目。それはお前に対して興味を持てたってことかな。あの時のアタシは自分のことしか考えてなくて、お前の気持ちを考えずに傷付けるような言葉を沢山言ったように思う。でも、そんな日々を越えて……今はお前のことがもっと知りたくて仕方がないよ」


 あの頃――イサミさんは僕自身に関する質問をしてきたことがありませんでした。それはイサミさんが他人に一切の興味を抱いていなかったからで。僕がいつもイサミさんに問いかけ、答えてくれていたものの逆はない。


 自己中心的で、相手の気持ちを考えることはない。

 自由気ままで、誰かに干渉されず好きなことを好きなように。


 それがイサミさんらしさをたらしめていると感じる一方で、僕自身のことだって知ってほしいと願っていた心は、こうして繋がっている。一方通行だった想いが今は、きちんとイサミさんの心を通り抜け、帰ってくるのです。そして僕と出会ってからイサミさんに芽生えた感情は今、こんなにも大きな花を咲かせた。


 自分を好きになるなどと語る人間はどんな奴なのか?


 そんなイサミさんの好奇心と僕の告白で始まった関係が育ち、今は尽きない興味を抱いてくれる。


 それを想えば何だか泣き出してしまいそうで。

 僕は拳をぎゅっと握って必死に堪えるのです。


「三つ目はそうだなぁ……嘘をつくようになったことかな。お前にとって魅力的でありたいと願い、嘘をついたこともあったよな。そうしないと自分が自分じゃなくなる気がしたけど……でも全部が全部、本当のアタシなんだよな」


 思えば沢山、僕はイサミさんに「好き」を伝えました。


 それはイサミさんが正直であればあるほど、同じように素直でありたいと憧れ、変わっていった僕の心に従って。羞恥心とか遠慮のような心の壁全てを突き抜けて、堪らなく溢れる感情の欲動に任せて本心をぶつけてしまいたくなったからでしょう。


 そんな感情がイサミさんに嘘をつかせたのは、何だか皮肉のようにも思います。


 でも。人間、自分に正直な生き方をしたいがために嘘をつくことだってあります。それは矛盾しているようで案外、正しいことなのでしょう。愛おしい嘘の数々を思い出せば、目の前の女性が自分にとってどれだけ大切か分かる気がします。


 その全てが僕にとっては、真実なんですよね。


 体一つでお互い向き合っていれば、相手の何かに惹きつけられることになったとしておかしくはないと――そのような言葉をもらったことを思い出します。


 互いにぶつかれば二つが一つに混ざり合うみたいにして影響は、相手の心に芽吹く。そして、ぶつかった衝撃で崩れた虚勢の先にある柔らかい真実に触れることもあった。嘘と真実はどんどんと混じり合っていく。それでも心と心をぶつけて、混沌としたものにイサミさんは随分と手こずったのでしたよね。


 ずっと飽きなかったゲームみたいに、心に住まう「怪物」のような外面ばかり硬い柔らかさをぶつけ合って、僕らの真偽は今日に辿り着いたのです。


「四つ目。それはアタシがお前と関わっていくことで少しずつ、繋がっていたいと思うようになったこと。目に見える繋がりはやっぱり好きじゃないけど、心が繋がっているって感じるのは何だか愛おしい。がんじがらめで縛られている苦心が幸せだよ。……あ、マゾってことじゃないからな?」


 あの時は確か、旅している最中にでも会いたくなればきっと僕の所へ会いに来てくれる。言いたいことは文字で送るよりも声にして伝えたいと思うから、と……イサミさんはごまかしのような繋がりは拒んだんですよね。


 今なら分かります。


 イサミさんのために溢れてくる感情を、本人以外の何かで代えられるはずがないのです。


 会える時が来れば、僕は必ず会いに行く。

 その時までのごまかしなんて、いらないのです。


 今日を機に全ての感情がリセットされるわけでもなければ、僕だってここで諦めて何もかもを手放すつもりがあるわけでもないのです。今までをなかったことにするつもりなんてない。


 目に見えなくても、心の繋がりは確実に存在する。そういう目に見えないものを信じられるくらいの強さを誓い、結びついているのですから、きっと――大丈夫ですよね。


 ……あと、イサミさんはもう立派なマゾだと思います。


「そして五つ目。アタシはお前の隣なら留まっていたって新しいものを見続けられるように感じられた。それは今日という日に旅立つ決心を鈍らせるほど強いもので。不自由と不変な日々が愛おしくて堪らなくなったんだ」


 新しい景色、そう言われて思い出すのはあの旅行でしょうか。


 フレームに収め、狭い世界へ必死に愛しい人を閉じ込めようとする行いのような自己嫌悪があったのを覚えています。でもイサミさんはそんな写真からだって飛び出していくように今、世界へと旅立っていく。


 目の前の青い鳥を捕まえたくて。

 でも高い所を飛ばれたら手が届かないから。


 同じ場所を目指して僕も頑張っていく。

 そんな思いを希望にすれば、素直に背中を押せるから。

 だから、本心は隠したまま色褪せる。


 ――どこにもいかないで欲しかった。


 自分はこんなにもこの人のことが好きなのに、どうして上手くいかないのかと思いました。でも、あの瞬間を経て僕とイサミさんが出した決断はお互い「近くにあるものばかり愛して手の届く距離のものにしか触れなくなるようでは駄目だ」ということ。一以外の全てを否定するため、まだ知らない場所を目指していく。


 今は敢えて、見送って。

 でもいつかは追いつくと、決めたから――。


 そしてあの旅行から帰宅して写真を現像してみると、ちゃんと写っているものは一枚しかありませんでした。そんな一枚を部屋の中、写真立てに飾っていて。それはイサミさんを思い出して弱い心をごまかすためでも、想う気持ちを忘れないためのものでもないのです。 


「そんでもって六つ目。アタシは今まで無関心だったものを無視できなくなった。今まで何とも思わなかったようなことが自分の中で大きな衝撃になって……でも、素直に向き合うことはできない日々が続いた。それは見て見ぬふりをして自分を騙しているようでいて、でも無関心を意図して無視するという時間を確実に重ねていた」


 それは僕らにとって大きな転機であったように思います。


 変わっていくイサミさんがいつの間にやら見せ始めた「嫌い」という感情。きっと僕と出会った頃のイサミさんは他人に対して無関心だったはずで、そこから僕に対して興味を抱いてきた軌跡が好きという気持ちへ手が届きそうな場所にまで連れてきたのでしょう。そんな中に混じり始めた、好意と同等に用いる対極の感情をどこかで育ててきたくせに……イサミさんは認めようとしなくて。


 一方で――イサミさんの発言には読み取るべき裏なんてない、と。それが今日まで関わる上で何よりもこの人を理解する助けとなってきたから、と。言葉足らずだったり察する必要がある言い回しをした場合、それはイサミさんがただ言葉にしたいだけで僕に理解を求めていないということだと。常に正直で、裏表のない人だから、と――自分に言い聞かせながら、でも安心できない思いは確実にありました。


 懸念自体は成立していたのに僕が認めなかったのです。


 どんな境遇にあったってイサミさんは凛としているから、心配いらないなんて思い込んで。


 苦い現実を知りたくないから、甘い嘘で汚した珈琲を口にしていたのです。そして嘘に甘え、自分の本心を遮るイサミさんと、それにもたれかかる僕は透明な壁に隔てられて。直接触れない距離にいるから壁の存在に気付かなくて――でも本当は気付いていて。


 そんな思いを抱えてあの日へと収束していく。


「それから七つ目……あれは大変だったなぁ。お前が文化祭で暴れた時の話。変わっていく自分を認められなくて苦しんでたよ。……でも、そんなアタシでも好きって言ってくれたから、変化を受け止めることができたんだよな。そしてアタシはお前と同じ気持ちを通わせられるようになった。ずっと変わらずアタシを好きって言ってくれることが本当に嬉しかったよ」


 あの日――僕とイサミさんが心を通わせたのですよね。ちょっと苦い思い出ではありますが、本当に嬉しかったです。


 そして、あの時に僕は自分の心の弱さに気付かされたのでした。


 人は誰かを好きになると、素直な瞳で相手を見つめなくなるのかも知れません。相手の良い所はレンズで拡大して見つめ、悪い部分は肉眼を細めぼやかして。僕の中ではそういった変化が起こっていたのでしょう。僕が好きだと語っている「イサミさん」が変わっていってしまえば、いずれは好きじゃなくなるかも知れない。そのようにして変わっていくあの人を見て見ぬふりしている時点で、僕はあんなにもイサミさんのことを見ていたというのに。


 結局、印象で判断してイサミさんを特別の名札がついた枠組みに追いやり遠ざけ、内面を法則でしか考えていなかったということ。「そういう人だから」だとか「イサミさんらしい」なんて言葉で視野を狭窄させるものだから、どんどんと真実は曇っていった。


 まるで「嵐谷イサミの十戒」だと言わんばかりの法則を当てはめ、胸中を探るような真似をして。 


 ――馬鹿な話だと、今でも思います。


 目を逸らすことは、見つめていたという事実を意味していて。変化していくイサミさんらしさに自分の恋心がさらなる深みに落ちていくのを恐怖心と取り違え、無意識に変わっていく部分から何度も目を逸らしていたのかも知れません。


「八つ目はそうだなぁ……自分の心地よいことばかりを考えず、自分の未来を考える時にお前を含めて勘定をするようになったことかも知れない。誰かのため。自分にとって一番の欲求じゃなくて、誰かとの中間地点を考えて思考をした。そういう未来設計をする中でアタシがためらった言葉を、お前はきちんと口にしてくれて……嬉しかったよ」


 イサミさんがそのようなことを語った時期には自由を求め旅をすることがもう「最大限の願望」ではなくなっていたのですよね。しかし、この人にとって自由を追い街を出る未来は、僕と一緒にいることを差し置いても選び取るべき「最優先の決定事項」となっていて。


 僕の中でいくつもの疑問が生まれました。


 その「最大限ではない願望」が「最優先すべき事項」となっているロジックの行き着く先とは何なのか?


 その先に少しでも、僕という存在は引っかかっているのか?

 両想いになり、イサミさんの中で僕と別れるという現実はどのように映っているのか?


 全部、全部――僕を交えた二人のためをイサミさんは考えてくれていました!


 本心を言えばついてきて欲しい。一緒に旅をしたい。でも僕の可能性を潰し、未来を限定させたくないから……きちんと勉強して、あらゆる可能性を目の前に並べた上で自分のいる場所を選んで欲しい。


 その時まで同じ気持ちでいて欲しい、と。


 そんな言葉を内に秘めて、でも言えなかったイサミさんの隠しごとは今思えば何だか可愛らしくて、やっぱり女の子なんですよね。


 その頃はイサミさんが変わったことと同じように僕自身も変化していて。そこから生じた父との諍いなんかも結果的には今――僕たちが出した答えに収束していましたね。選ぶべくして辿り着いたように導き出せた今という結果に、何だか安堵するような思いがしています。


「で、九つ目。飽きて色んなものを手放し、常に身軽でいたアタシがずっと手放したくない思いに出会った。そして、一途に貫いていきたい思いとゆずれない願いの両方を選び取ったアタシは今、昔とは全く違う理由で――旅に出ようとしてる」


 取捨選択という二元論に陥ることで僕はあの時、甘えていたのでしょう。変わっていく価値観に実は苛まれていて。義務的な勉強をすることよりもイサミさんとの時間を選ぶことが美徳のように感じていた。だから都合の悪い方を切り捨てて大事なものを選び取ることがまるで正しく、誠実であるかのように感じたのです。


 大人達に語らせれば世の中、そんな美学だけで生きられるほど優しいものではなくて……でも、だからこそ一方を諦めなければならないほど厳しいだけの世界でもないことを知れました。


 選べない一方を捨てるだけが未来じゃなくて。

 責任を背負えば、いくつだって好きなことをしてもいい。

 

 ただの我がままだと誰かに言わせないきちんとした説得力を備えた願望。

 その名を――自由、というのですから。


 だから、今だけじゃない思いは未来に託して、ずっと変わらない思いを信じていく。その間に今しか学べないあらゆることに身を投じて、沢山の経験をする。そして数多の可能性を目の前に並べ、その全てにバツ印をつけてイサミさんと一緒にいるという一つの未来を選び取ってやるのです。


 これからの七年間は変わらない想いを証明するための時間。何だか不安を感じますけれど……でも大丈夫だという思いが今はあります。あらゆる経験をして、色んなものに印をつけ乗り越えて。そして残った最後の一つと一つがずっと固く、強く結びつく。


 一以外の全てを、否定する。


 そんな約束を交わしたからこそ、希望に満ち溢れた思いのまま――僕らが別れる瞬間はやってきたのです。


 思考を合図としたかのように金属の軋む音を響かせて電車が駅のホームへ到着。重苦しい音を立て、ゆっくりと停止するとその乗車口を開きました。


 そんな光景をイサミさんは首だけで振り返って目視し、電車が立てる僅かな停車中の待機音と駅員のアナウンスに紛れさせて「お別れだな」と小さく呟くのです。


 言葉を受けて僕は涙が浮かびそうになるのを感じ、瞼ををぎゅっと閉じて耐える。


 駄目だから……駄目だから!


 ここで泣いたら、まるで自分達の思いを信じてないみたいになってしまうし、何よりも――イサミさんの旅立ちを、涙で見送りたくないんですから!


 そんな風に思うもふと、僕の視線が吸い寄せられた場所。自分の弱さを自覚した時、人が似たような誰かを探すことに似た行動原理で見つめた先。イサミさんもぎゅっと目を瞑っていて。そんな表情が涙を堪えていると悟られたくないかのように口角を上げて笑顔だったことにしようとする。


 そんなものを僕も真似てみれば、気持ちが溢れそうになるのです。


 でも、感情を必死に抑え込むことに成功したのか、イサミさんは椅子の上に置いていたリュックを背負いました。そして、気丈に振る舞っていることを悟らせまいとしている意図があからさまな「行くよ」という言葉を口にしたのです。


 そこから――くるりと。


 僕に背を向けて歩き出すイサミさん。

 そんな姿を見つめて。



 ……何を言えばいいのか、僕は分からなくなってしまったのです。



 ここに来るまでに――決めておいたはずなのに。


 唇が震える。言葉にしたい思いが膨大な塊になって狭き門から飛び出そうとしているようで。喉に引っかかった感情で息苦しくなる感覚を伴う。そして、流れる時間は悪戯にも怠惰なものへと変わっていくのです。


 イサミさんの一歩、また一歩がゆっくりとしたスローモーション。


 そんな中、僕だけが正しい時間の流れを与えられて。そんな瞬間にあって、胸の中で暴れる想いがどうしても――どうしても言葉にならない!

 

 きっと足りない……足りないんです!


 恋した人が離れていくことはこんなにも胸が苦しくて。今にも僕は不安感に心が砕け散りそうな思いがするんです。でも、満足いくまで言葉を連ねればきっと終わりはない。終わりがないからこそずっと続いていく想いなんです。続いていくからこそ、一度は終わらせると決めたからこそ――ピリオドを打たなければ始まらない。


 じゃあ、一体何を言えばいいのか。


 それさえも曖昧なまま、しかし感情に任せた僕の手は――真っ白な頭のまま去り行くイサミさんの服を掴んで、歩みを遮ってしまうのです。


 それは行かせたくないという思いではなくて。

 なら、僕は最後に何を口にしたいのか――?


「そんなことをされたら、進めないじゃないか」

「……すみません。でも」


 そこから繋がる言葉が思い浮かばなくて……そのように迷っていると、不意に振り返るイサミさん。


 瞬間――僕の頬に両手を触れさせて。


 唇を重ね合わせて、僕の言葉に迷う口を閉ざしてしまいました。


 柔らかく交わっていく感触を感じて。

 足して割ることに似た感情に包まれて。


 ゆっくりとした時間の流れが少しずつ正しさを取り戻し、いつまでも終わらずにはいられないことを自覚しました。


 現実を見つめることのように正しく、残酷でかつ、鮮明に。

 夢から、醒めるみたいに――。


 そして唇を僕から離し、少し恥ずかしそうにはにかんだ表情を浮かべながら……しかし目線は逸らさずにイサミさんは言います。


「七年後、お前が会いに来てくれるのをアタシは楽しみにしてる。だから……頑張れよ」


 どこか「さよなら」に聞こえる言葉。

 でも、きっと違うのでしょう。

 言葉を繰り返せば別れは訪れず……終わらなければ始まらない。


 ピリオドを穿つ言葉、それが「さよなら」だけとは限らない。


 そろそろ僕も覚悟を決めて、イサミさんの背中を――押さなければならないでしょう!


「頑張ります……僕も頑張りますから! イサミさんもきっと!」

「勿論だよ。お互い、貴重な時間にしような。約束だぞ!」

「はい!」


 そしてイサミさんは最後の一歩を踏み出して電車の入り口へと入り込みました。電車とホームの僅かな隙間がまるで僕とイサミさんを隔てる見えない境界線のようで。それを跨いで向こう側へと降り立ったイサミさんはこちらを向くと、ゆっくり息を吸い込んで口を開きます。 


「じゃあ最後――その十。お前がアタシにくれた一番の宝物は間違いなく、今の気持ちだよ。そんな気持ちが、変わらない自分でありたいと思わせた。だから一生かかっても証明できない永遠を、一生かかって証明していく。そんな決意をさせたお前のことがアタシは好き! ずっと――ずっと好きだよ!」


 いつだって僕に向けられていた笑顔。目は閉じ、眉が持ち上がっていて、そして白い歯が少しだけ覗く。そんな陽だまりを思わせる温かく優しい笑みから語られた言葉と、その表情を目に焼き付けて――。


「僕だってイサミさんが好きです! ずっと好きです!」

「七年後だってちゃんと言ってくれるよな? 好きだって」

「当たり前でしょう! どれだけ口にしたって減るようなものじゃないんですから! ……でも、何度言ったって気が済むことはないでしょうから、あと一回だけ言いますね」


 これからの七年間で伝えられない分を先取りするかのように、そして――これまでの日々で重ねてきた想いの全てを放流させるみたいに集めて。

 

「僕はイサミさんが、大好きです!」

「うん。アタシも大好きだよ」

「じゃあ……七年後に」

「そうだな。七年後に、また会おうな!」

「また――」


 手を振りつつ語られたイサミさんに対して、僕は何となく同じ言葉を口にしようとして思い出すのです。


 イサミさんを見送るための言葉を考えていました。それはきっと「さよなら」じゃない。それは確かで。じゃあ「ありがとう」なのかと言われれば、それも違う気がして。セピア色に褪せていく気配を遠ざけ、希望が差し込む言葉を探していたのです。


 そして、そんな言葉は奇しくも僕の記憶の中からイサミさんが奪っていったように先行して語られてしまって。


 だから、僕の返事だって決まっています!



「絶対に――会いましょう!」



 叫びにも似た言葉は限りや留まりを知らず、空気を震わせていく。


 力の限りに差し出した言葉の反動であるかのように少し肩で息をしながら僕は、大きく首肯して再会を誓ってくれたイサミさんを見つめていて。互いが真似をするように――しかし同時に微笑みを浮かべる。


 そんな僕らを遮るように電車の扉は軋む音を立てて閉じるのです。そして、重い腰を上げるみたいにゆっくりと走り出していく。


 でも――。


 再会は約束されているのですから、名残惜しくはありません。ですから追って走り出すようなことはせずその場で、イサミさんを連れ去っていく電車が加速し、どんどんと小さくなるのを見つめていました。景色の奥でぼやけ、滲んでいくまで。


 例えば、映画のように。


 別れを惜しんで追いかけてしまえば、もう二度と会えないかのようで。

 だからこそ佇んで見送ったのです。








 ――いえ、本当はそんな理由ではありませんね。


 イサミさんもきっと追いかけてほしくはなくて、僕もそうしたいとは思わなかったのです。


 心の中は昨日までいた住人が旅立ったかのように広く、がらんとしているように感じて。抜け殻にでもなったような心境に伴う虚脱感がふらふらとした足取りを作り、僕は先ほどまで座っていた椅子へと身を投げるようにして腰を降ろします。


 するとそこは僕が先ほど座っていた席の一つ隣で。ほんの僅かですけれど、イサミさんがさっきまでここにいたことを示す体温が残っていたのです。それが暗に、もうこの場所には……そしてこの街にはイサミさんがいないことを示しているようで。


 示して、いるようで。 


 それがきっかけとなって、僕はもう我慢が出来なくなってしまいました。

 ――だから、追いかけなかった。


 見られたくなかったのです。

 知られたくなかったのです。


 一時の別れであっても。

 今生の別れでなくても。


 どれだけ強がっても。

 どれだけ背伸びをしても。


 心がこんなに離れるのを拒んでいるなんて。

 零れ落ちそうに涙が、瞳に集まり揺れているなんて――。


「あはは。ぁ、駄目なのになぁ。ぁ……あ、駄目なのに。ぁ……あぁ、ぁ駄目だっていってるのに。ぅぁ……あ、何で止まらないんだよ! 何で……何で!」 


 周囲の目なんか気にせずに、僕は構わず声を上げて泣いてしまいました。


 まるで子供が帰る場所を見失い、迷子の不安感で泣き叫んでいるように。一度泣き始めるともう止まらなくて、少しでも僕の頭に今日までの日々が過ぎれば、過ぎるほど――どんどんと涙は溢れてくるのです。


 駄目だって。

 泣いちゃ駄目だって、あんなに強く決めていたのに。

 ……でも、これで最後にするから。


 ――ねぇ。イサミさん、きっとあなたも同じようにして走り出した電車、その扉の向こう側で泣き崩れているんでしょうね。分かりますよ。もう、走り出す瞬間には目が真っ赤だったんですから。そして、それはイサミさんも僕を見ていて思ったことだったんでしょうね。


 まるでちぎられたみたいに心が痛いんです。

 穴が開けられた心に風が吹き抜けて寒いんです。


 ですから、七年後の再会はお互いにとっての――責任ですよ。


 そう思い、僕はしばらく駅のホームから動けませんでした。いつだって大人の気でいた僕ですけれど、今日で本当に子供ではなくなったような感覚がするのです。子供たらしめていた自分の中での全てが涙として流れていくようで。


 その涙は何だか春を迎え、今日まで降り積もってきた雪が解けて涙となり溢れたもの。まばらに大地を染める雪の切れ間、決して萎びることのなかった憧れの芽が今――空を目指して太陽の光を浴び、育っていくのです。きっとこれからの日々にも曇り空が蓋をして雨が降る、そして冬には雪に変わる。


 でも、ひたすらに春を思って育っていく。

 ――大切に、育てていく。


 そのようにして僕は大人になるための階段を一段、一段と昇っていくのでしょう。


 雨上がりの空、かかる虹を階段にして。

 一段飛ばしで駆け上がり、計七段を歩み連ねて約束の場所へ。


 そんな先で待っている、イサミさんを目指して。


 ――僕とイサミさんの差は一オクターブという感じでした。どこまでも駆け上がっていくイサミさんを追いかけ、憧れに手を伸ばして。変わらぬ同じ音を響かせるための想いを続けていく。


 軽快なステップで、鼻歌でも歌いながら。

 靴の音を、鳴らしていく――。





10.あなたと過ごしてきた日々で得たもの全てが、私にとっては宝物です。だから、宝箱にしまって鍵をかけ、変わらぬようにと願いながら……私はずっと守り続けるのでしょう。時を経ても、色褪せないように。

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