■嵐谷イサミの十戒 その八
嵐谷イサミの十戒 その八 前編
十一月ともなれば外気は肌寒く、冬の先達たる冷たい風に吹かれて思わず身をすくめてしまう季節となりました。今年は例年にない冷え込みとなるようでして、気温の下降も随分とはっきりしていたので僕はこの点に関しては助かるような思いを感じているのです。
まぁ大した理由ではないのですけれど、季節の変わり目というのは昨年の経験を活かせないものでして。服装の移り変わりに悩まされ、転換期を見誤って風邪を引いたりということが過去に多々ありました。その点、今年はすんなりと対応できたのです。
そんな訳で先日、新調しようと提案したことによって一緒に選び購入してきたコートを身に纏っている僕達。おかげで寒さが随分と緩和されているのですが、しかし考えてみれば十二月、一月と冬が本格的に到来すれば、さらに気温は厳しいものになることが予測されて何だか鬱屈とした気分になってしまいます。
ちなみに購入したコートの色はグレー。イサミさんが選んでくれたもので、本人曰く自分の好きな色が二つ合わさって無敵なんだとか。そんなイサミさんのコートは、好きな色である二つから取捨選択。首元に巻かれた赤いチェックのマフラーがよく映えていて、可愛らしいと思います。
とまぁ、そのような防寒で季節の変わり目を過ごしているのですが、それでも冷え込みを理由に僕の手を強く握り、もたれるように体を寄せて来るイサミさん。
何だか嬉しいような、恥ずかしいような。でも、溢れてやむことはない幸福感が体中に温かさを伝えるようで。そのような感覚にまんざらでもない表情を浮かべながら、帰宅するために駅の方を目指して商店街を歩いているところでした。
「ちょっと……そんなに寄ってきたら歩きにくいですよ」
「えぇ。別にいいだろう? 寒いのがいけないんだ」
「そのまま倒れて怪我しても知りませんよ。……まぁ、怪我するのは僕ですけど」
「いいじゃん。こうしてると何だか心が満たされて幸せなんだ」
そのように甘えるような口調で語ると「えへへー」と笑いながら僕により一層身を寄せてもたれてくるイサミさん。
うーん、ベタベタと身を寄せるのは僕としても嬉しくて堪らないのですけれど、身長はイサミさんの方が圧倒的に高いのでかなりシュールな絵面になっていると思うのです。僕の背がもっと高ければ様になるのですけれど、これだと何だか酔っぱらいの上司を介抱している部下のように見えるんじゃないでしょうか。
でもこんな光景だって付き合い始めの僕らから考えればもの凄い進歩ですよね。
あの日文化祭での一件を終えてから、僕とイサミさんは互いに「好き」という感情を明確に打ち明け合ったことで距離を一気に縮めました。そして自分の欲求に率直という部分は相変わらずなのか、一度僕のことを好きだと自覚してしまえばそのアプローチはどんどんと過激になるようでして、今のような状況に至るのです。
……ちなみに文化祭の一件はあまり大事にならず、騒動を起こした犯人として僕が特定されることもありませんでした。まぁ、一応は僕の頬を殴っているのですから彼らとしても時の経過で流れてくれた方が好都合なのかも知れません。イサミさんという存在で捻じ曲がった性格にはなっているようですが、やはり腐っても有名進学校の三年生ですから進路に響いては困るでしょうし。
そんな訳であの時以来――イサミさんは定期的に「充電が切れた」と言わんばかりに、場所などわきまえず「好き」という言葉を口にしたり、抱き着いてきたりと大胆になったように思います。
もう少し出し惜しんで「好き」という言葉を大事にしていただきたい――などと僕自身は恰好をつけてはみますが、少しでも感情が溢れ出すと気持ちが言葉に出てしまうので他人のことは言えないのですけれど。
僕の方も付き合っていながらずっと片思いだった今までの反動もあるのかも知れません。溢れる気持ちが止まらないという月並みな表現が実感をもって真実だと知った僕。抑えることなど出来ない気持ちを伝える心地よさに取りつかれているように思います。
そんな他人が見れば砂糖でも吐き出してしまいそうなくらい幸福な日々の中にあって、僕はようやく至れた両想いの関係をただひたすらに噛みしめているのでした。これから遠くない未来、訪れる別れの時に心折れないように。幸福で脆い心を蝕んでいく矛盾を理解しながら勤しんでいくのです。
そういえばその件に関して、僕にとっては納得がリセットされているのですよね。
あの時とは少々事情が異なるので――。
「……そういえばイサミさん、やっぱり三月の卒業を機に旅へ出るんですか?」
傍から見れば「バカップル」と揶揄されるであろう、寒さを言い訳にしたじゃれつき合いもとりあえずの落ち着きを見せたところで僕はそのように問いかけました。
一度は納得したことです。イサミさんにとっては旅に出て自由に生きることこそが最も相応しい人生の形なのだと。しかし、事情は大きく変わってしまいました。恋人としてきちんと心を通わせたことや、もっと深くイサミさんの内面を知った今――改めて問いかけるべきだと思ったのです。
「ん? そりゃあそうだとも。予定が変わることはないよ」
「でも、せっかく両想いになれたんですから考え直してもいいんじゃないですか?」
「あー、それは確かにそうだなぁ。好きな人とずーっと一緒にいられるんなら、こういう灰色した街に住み続けるのも悪くないかもなぁ。だけど、そうは思うけど……これが難しい問題なんだよ」
イサミさんは幸せそうに笑みを浮かべ、甘い誘惑に楽しみながら戸惑っているような声で言いました。
でも口では考え直す方向へ促しているようでいて、どれだけ本気かと聞かれれば半分くらいで。きっとイサミさんの方も話半分に聞いていると思うのです。
僕と関わることで変化を見せたイサミさん。人間らしく規則性では推し量れない行動原理で生きる姿を見るたび、自分の色眼鏡を通して相手を見ていた過去を悔やむのですが――それでもイサミさんはきっと、自分の将来に関しては揺るがない意思を持っている。それだけは変わっていないと思うのです。
ゆずれないと口にした言葉に偽りはないと思うから、背中を押す気持ちは変わらない。
でも、素直な気持ちではなくなっているのも事実で――。
「……僕、心配なんです」
「心配?」
「イサミさんの弱さみたいなものを知るまで、気ままに旅することがあなたにとって一番の生き方だと思って疑いませんでした。相応しいって本気で思っていて……笑顔で見送れたらいいなと。でも今はちょっと心配なんです。今のイサミさんは大丈夫なのかなって」
本人に告げることへ生じるためらいと不安感で弱々しいものとなった僕の語り口調が伝えたこと。それはあの日、イサミさんの嘘を知った日からずっと懸念していたことでした。
もう強くないイサミさんの頼りない背中を僕は素直に押せないかも知れない。
ならば、無理を言ってでも引き留めるべきではないのか?
そうすることで得られるイサミさんにとっての幸せがあることを――今の僕らは知っているはずだから。
不安感に僕の手は震えていたようで、そこから伝わった内面を読み取ったイサミさんは立ち止まり、そのまま繋いだ手をそっと引いて僕を抱きしめました。僕の足りない身長はまるで母に抱かれる子供のような情けない構図になってしまいます。それでも包み込まれる安心感と温かさに解かされるような思いがする中、イサミさんは「馬鹿だなぁ」と言いました。
「あの日からだってアタシは変化してるんだ。寧ろ、あの時から変化したアタシの方が劇的かも知れないくらいなんだぞ」
「……そうなんですか? 初めて聞きましたけど」
「最近はアタシ、聞こえるように悪口を口にした連中に対して言い返すようにしてるんだ。堂々と胸を張って『聞いてやるから面と向かって言え! その代わりアタシからの罵詈雑言を覚悟しろ!』ってな」
「凄い……。いつの間にか、強くなってるじゃないですか」
「お前を見習ったんだ。存分に褒めていいぞ。誇っていいぞ」
見習ったと言われてちょっと照れたような心境になってしまう僕。
するとイサミさんは抱きしめる力を緩め、僕の頭をくしゃくしゃと撫でながら「あっはっは、可愛い可愛い」と面白がった風に言いました。
そんなイサミさんの行動に対して恥ずかしさが伴い、少し不愉快そうにしてしまう僕。自分を年下扱いしないで欲しいと思うのは無論、イサミさんと対等な恋人として関係していたいからに決まっています。
「何だか、これじゃあ姉と弟みたいじゃないですか」
「そんなことはないよ。お前はアタシにとっては大切な恋人なんだから。いざとなったらなりふり構わず暴れ回ってアタシを守ってくれる素敵な彼氏!」
「何だか悪意がありませんか」
「いいじゃないか、事実なんだし」
「まぁ……そうですけど」
「じゃあ、アタシのこともきちんと大切だって言葉にして欲しい」
小さい声で「わくわく」と呟くイサミさんに促されると、何だか改まって自分の感情を言葉にするのが恥ずかしくなってきます。今まではあれだけ事あるごとに伝えていたというのに、いつぞやのようにイサミさんの初心な反応を伺って楽しんでいた頃とは主導権が逆転してしまったような気がしますね。
とはいえ、自分にとってもそういう感情表現が心地よいのは事実です。
恥ずかしいことって、踏み出すと気持ちのいいことなんですから!
「も、もちろん! イサミさんは僕にとっては大切な彼女です。ずっと、ずっと……いつまでだって一番好きな人です。大好きな人です!」
少し前ならさらりと言えていたような気がする言葉が今は途方もない緊張感を伴っていて、その理由をついつい理屈っぽく考えてしまう僕。
もしかすると、それは一人積み上げていた気持ちを二人で共有し、交互に乗せていくようになったからでしょうか。相手が積み上げた一つ上を目指し、高まっていく気持ちに背伸びをして指先で押し上げるように重ねるから震えるのだとしたら。独りよがりの積み木遊びに比べれば随分と――本気にならざるを得ないのでしょう。
そしてご満悦といった表情を浮かべてイサミさんも、
「うん。アタシも好きー」
と、そのように答えてお互いの表情を真似するように――いえ、誤差なく同時に表情を幸福に染めていくのでした。
そうですよね。僕達はこんなにも幸福なんです。自分にとっての敵に立ち向かっているというイサミさんの言葉に対して「心配させないための嘘なんじゃないか」と疑う気持ちもありましたが、そんなことはないのですね。これだけの幸せと共にあれば、心の弱さなんて簡単に埋まってしまう。
イサミさんが嘘をつくようになって僕の中で心配する心が生まれました。
心配は疑いであり、嘘はつねに疑いを向けられるもの。
しかし、その全てが杞憂だったのです。
僕がイサミさんを弱くし、そして強くもしていく。
――踏まれても、立ち上がっていく。
そういうことなのだとしたら――不安感でためらうことなく、背中を押せるんですね。
ちょっと残念な気持ちもあるのは否定できません。イサミさんの弱い部分に触れ、ずっと続いていく時間の気配に期待していたのです。頼りなくなった背中を押さなければ不安感で振り返って僕の元から離れることをためらってくれるかも知れない。でも、そんな弱い心が生んだ浅ましい希望はあっさりと打ち砕かれて……僕はとても清々しい気持ちとなるのでした。
「あ、でも一つだけ訂正しとく。お前のさっきの言葉、今も思ってるんなら訂正しとかないと」
「……どれのことでしょう?」
「自由気ままに旅することがアタシにとって一番相応しい生き方だ、っていうやつだよ。ちょっと前まではアタシもそう思ってたけど……今は違うよ。お前が聞いてきたみたいに、アタシだって本当に旅をする必要があるのか改めて考えたんだよ」
「でも、結果は変わらなかったんですよね?」
「うん。自分の弱さと向き合ってからは生き方として一番だと思わなくなった。でも旅に出たいって欲求はなくなってないんだよ。じゃあアタシはどうして旅に出たいのか……それを考えたら答えはあっさりと明確になったんだ。それは、お前と一緒にいることが今のアタシにとっては一番の幸せだからだよ」
強い意志を口調に込めて、未来を語る時にいつもイサミさんが湛える「遠くを見つめるような視線」は今、僕に向けられていました。そして、それがイサミさんの出した答えなのだと僕は受け止め素直に、胸中を口にします。
「いや、言っている意味分からないんですけど!」
「ん? そうかなぁ……」
「何だかよく分からないというか……説明出来てるんですか、それは。もっと分かりやすい言葉で語って下さいよ」
「駄目だよ。十分に説明したから、それくらいは自分でちゃーんと考えるんだっ! お前が理解した時には『あぁ。イサミさん、きちんと分かる言葉で話してたなぁ』って思うに違いないよ」
イサミさんは僕の額をからかうように人差し指で小突いて言い聞かせるように語り、合点のいかない僕の中でその言葉はちょっとした課題となったのでした。
何だか不鮮明な言葉で僕に解き明かすことを強いてくる。これもイサミさんの変化なのかな――と一瞬、思いましたが実はそうじゃないんですよね。今までだって何度も言葉足らずで意味深な発言はありました。実ははっきり何でも口にするようでいて、どこかぼかした表現も使う。
歩み寄られたくて自分から一歩下がって語ること。
それはイサミさんに限らず、人間なら誰だってやってしまうことなんですよね。
さて、少なくともイサミさんにとって自由を求め旅をすることは、最大限の願望を叶えるためのものではなくなっているということでしょう。しかし、この人にとって自由を追って街を出る未来は、僕と一緒にいることを差し置いても選び取るべき最優先の決定事項となっているのです。
ならば――その「最大限ではない願望」が「最優先すべき事項」となっているロジックの行き着く先とは何なのでしょうか?
その先に少しでも、僕という存在は引っかかっているんでしょうか?
――両想いになった今。
イサミさんの中で僕と別れるという現実はどのように映っているのでしょうか?
聞いてみたいけれど、そのロジックを解き明かした上で質問しなければ意味がないのかも知れません。
イサミさんの取捨選択。その天秤から選び取った一つは変わらず世界を旅する未来だけれど、選び取らせたのは今という幸福な現実。イサミさんが旅立つ時までには答えを解き明かさなければならない、それは課題。何だか使命感と焦燥感が絡みついて悩まされる日々が始まりそうですね。
――と、そんな思考をしている時、イサミさんがポツリと「なぁ」と言って僕を呼びます。
「ん。何ですか?」
「好き!」
「も、もう……イサミさん、もっと出し惜しんで下さいよ。言いたくなったらどこでだって口にするんですから」
「言葉にして心が温かくなるの、好きなんだぁ」
「何だか、呆れてしまいますよ」
「仕方ないじゃないか。好きなんだもん」
「……ありがとうございます」
「だから、ほら」
「え?」
「いいから、早く!」
「……僕も好きです」
「うわーい。アタシも好きー」
無邪気に喜ぶイサミさんに対して僕は頬をポリポリと掻いて感情を体現しつつ、内心では絶えず心を満たし続けて膨らみ、破裂するのではないかと思ってしまうほどに幸福感をひしひしと感じるのです。ずっとこんな日々が続けばいいのにと思うくらいに。
でも、続かないから――。
「何だか遊び足りないなぁ……。そうだ! 駅に着いたら帰るだけになるけど、ウチに寄っていったりしないか? ゲームで対戦するのだっていいかなぁって思うんだ」
「ゲームですか……。最近はめっきり勝てなくなりましたからね。イサミさん、裏をかくようになったと思いきや、真正面からぶつかってきたりして。読み合いが本当に上達したというか」
「へへー。そうかなぁ……」
「僕の方はイサミさんから交換でもらったモンスターを育ててますけど、それだけじゃ駄目なんですかねぇ」
「そういえば今や、お前の手持ちで一番レベルが高いんだもんなぁ。大切にしてくれて嬉しいなぁ。……あぁ、そういうわけでウチに寄って行って欲しいよ」
「あー、申し訳ないです。折角の嬉しい誘いですけど、今日はこのまま帰らないといけなくて」
「ん、そうなのか? 残念だなぁ……」
「すみませんね。ちょっと――用事があるものですから」
やがて来るその日までは、守らなければ。
結ばれた手をぎゅっと強く握り返し、僕は弾んだ声でイサミさんと会話する裏で……決心をぎゅっと固めるのでした。
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