■嵐谷イサミの十戒 その十一

嵐谷イサミの十戒 その十一 前編

 変わらず一つの想いを貫くなんて、容易なことじゃなかった。


 あれから――俺は高校へと進み、新しく始まった生活に適応していく中で一つのものを守ろうと必死だった。


 そして、必死に守ろうと自覚していることが自分の気持ちを、まるで意思を強く持たなければ消えてしまう弱いものだと認めているように思えて自己嫌悪に陥ったりもした。無意識にして放っておけるほど自分にとって軽いことでもないし、しかし――それでも意識すればするほど弱い自分を肯定しているみたいで。


 そんな胸中で生まれる矛盾に苛まれながらも、知らないことに触れていく日々を楽しむことに一生懸命だった。


 高校生活に慣れてきてからはイサミさんが勤めていたバイト先で面接を受けて働くことに。特に目的なく、給料が欲しいというよりは少しでも大人になりたくて。社会の一端を垣間見るかのように飛び込んだものの、働くというのは見聞きしているよりずっと過酷だった。


 あの人はこんなにも大変なことを平然とやってのけていたんだと。

 ……そう思えば、やっぱりあの人は凄いのだと実感させられるようだった。


 そのように慣れないが故の苦悩を始めた途端に抱えさせられることとなったバイト。けれど、一か月もすれば随分と与えられた役割をこなせるようになっており、職場にとってなくてはならない存在として認められる「嬉しさ」みたいなものが自然と楽しむ気持ちを俺に与えていたように思う。


 だからといって成績は落とさないようにきちんと勉強もした。バイトと学業を両立させ始めた頃は睡眠時間の配分を誤り、体調を崩すことも多くて。そこから無理をすることが努力ではないと悟り、自分の限界を見極めた上でのペース配分みたいなものを形成していった。


 結果としてイサミさんのように学年トップというわけにはいかなかったけれど、レべルが高いとされる進学校の環境においてはそれなりに誇れる成績は収められていたように思う。もしかしたらバイトをせず学業に専念していればもう少し上を目指せたのかも知れない。


 でも、中途半端でいいから色んなことを知りたかった。

 一生懸命なるのは俺にとって、一番の本懐を遂げた後でいい。


 そう、思っていたから――。


 そんな風にしてイサミさんと別れたあの日から俺は、ずっと上を目指しているような気持ちだった。追いつきたいとか、辿り着きたいなんて気持ちを抑えることはどうしてもできなかった。でもそれは嫌々とかじゃなくて、自分が望んだように好きなことを好きなだけ。


 一見、つまらないと思えることでも、楽しみを見つけてこなしていく。それは誰にでもできることじゃなくて。そして、そういった貫くことは俺にとって唯一の武器だから。


 そして、あの人もきっと頑張っているからと思えば日々に伴う苦悩だって乗り越えられた。悩みはいつも新しいことが運んでくるから、何にでも首を突っ込みたい俺は頭を抱えてばかりで。


 でも、雨が上がって雲の切れ間から差し込む日差しみたいに訪れる、楽しさに変わる瞬間をいつだって追いかけていた。そんな感覚が好きだったから。休みの日だってじっとはしていなくて。イサミさんの見てきた景色を自分は知らない――そんなことが許せない俺は沢山の未知を求め、色んなことに挑戦した。あの人が経験に一つずつバツ印をつけていったみたいに。


 そんな日々は生きているという感じがして、好きだった。


 積み重ねた上に立って見えた景色から選び取って「次はあそこを目指してみよう」と期待を膨らませるのが楽しくて。

 

 それはきっと――約束の場所に繋がっているからだと思う。

 そして、俺を立ち止まらせるほどのものなんてなかった。


 ただひたすらに、とどまらず変化の中にあってアクティブに。

 いつかの残像を追いかける、みたいに――。


 そんな日々で友達も随分と出来た。中学の頃みたいなテストの成績を比べ合う程度の浅い付き合いじゃなくて、もっと深い意味での友人が。


 苦楽を共にできて、心の底から笑い合えるような友達といる時間は「大人になりたい」と焦る日々の中にあっても、やっぱり楽しくて。一緒にいて興味深かったし、高め合うという意味でも素晴らしい関係性であるように思えた。


 そしてある日、俺は友人に問いかけられる。


 この歳になれば当然、異性への興味は尽きない。中学の頃には自分に年上の彼女がいたことなんてどこか恥ずかしくて上辺だけの付き合いな同級生には言い出せなかったけれど、親しい友人の間では好きな女の子の話なんて平然と会話の中に飛び交っている。


 そんな話題の流れで俺にも「好きな人がいるのか」と問いかけられたことがあったのだ。


 ――勿論、いる。

 いるに決まっている。


 俺はためらうことなく口にした。

 心に決めた人の名。


 生涯でたった一人、好きになった女性――「嵐谷イサミ」さんの名前を。そして、同級生はイサミさんとのちょっとしたエピソードを興味深そうに聞いてくれた。


 自暴自棄気味に告白したのが好転して付き合うことになったこと。イサミさんは随分と変わっている人だったこと。そこからの日々で、今通っている学校にて暴れ回った事件があったこと。そしてイサミさんは変わってなどいなくて、俺にとっての特別だったこと。


 そんな話を茶化したり、時に真剣な表情で聞いてくれたけれど――その物語の結末。約束までの「七年」という期間の長さに、友人達は「感情が続いていくものなのか?」と懐疑的な表情を浮かべつつ問いかけてきたのだ。


 十代の恋心はあまりにも純真で、それだけに強いものだから飛躍した約束だって結べてしまう。だから歳相応の青さに、漠然とした数字にならない永遠を勢いで口にしているのではないかと。本当に気持ちが変わらず、時を過ごすことなんてできるのかと。


 そして、いつしか貫くことが意地になったりはいないか、と――。


 最初は友人達に対して「馬鹿なことを」と思いつつも……そんな言葉は知らず知らずのうちに俺の中に深々と刺さっていたのだ。知らぬ内に己を蝕む、毒のようにじわりと。


 そして、いつか親父の言っていた「人間は初めて掴み取ったものにこだわりたがる」という言葉を思い出した。


 この七年間で可能性の篩にかける。それはもしかするとイサミさんという一人の女性においても同じなのではないかと考えるようになった。これからの日々で俺はクラスメイトを含め、あらゆる異性とだって出会うことになるはずで。


 そんな日々で出会う全ての女性と比較して、イサミさんへの想いは打ち勝たなければならない。だからといって、誰をも好きにならず無関心でいたいと願うようになれば――皮肉にも、それは高校生の頃のイサミさんと一緒なのだ。


 でも、想いを貫くと約束したんだから……そんなの容易いことじゃないか。


 いや――本当にそうなんだろうか?


 そんな風にして自分の気持ちが変わらないことを確信していたとして、いつかイサミさんへと向ける感情が自分の中で偽りだったり、繕っていくものへ……無意識の内に変わりはしないだろうか。


 ……もしかすると変わっていく心を必死に遠ざけ、「あの人が好きなんだ」と自身に言い聞かせる日々が訪れるかも知れない。


 そんな風に思い始めると止まらなくなる。怖い。怖くて仕方ない。思考が発展していけば、逆に……イサミさんの方だって気持ちが変わる可能性はあるんじゃないかと疑い始める。


 ――今もあの人は俺のことが好きなんだろうか?


 そう思うと気が気じゃなかった。信じているはずの相手。その気持ちがちゃんと続いているのかなんて……疑うようになってしまったらお終いだ。


 そう思うも、不安になる。


 でも、どこにいるのか分からないイサミさんの気持ちが今どうなっているかなんて、確かめようがない。あの人は俺の前に姿を現すことはなく、七年の時を待つと言ったのだから――と。


 そのように考えて、今更ながらに気付いた。

 ……そうだ。

 イサミさんはあの時、俺に課題を出したんだ。


『自分の弱さと向き合ってからは一番相応しい生き方だと思わなくなった。でも旅に出たいって欲求はなくなってないんだよ。じゃあアタシはどうして旅に出たいのか……それを考えたら答えはあっさりと明確になったんだ。それは、お前と一緒にいることが今のアタシにとっては一番の幸せだからだよ』


 そんな言葉を思い出し、改めてその意味を考えれば今日まで真意を捉えられていなかったのではないかと不安になる。



 もしかしたらイサミさんは……俺の気持ちが変わってしまうのを恐れて、この街を離れたんじゃないのか?



 そのように俺は思考すると途端――思考は一気に巡っていく。

 最後のピースで、パズルが一枚の絵として成立したかのように。


 ……辻褄があってしまう!


 離れ離れになれば俺の気持ちは、永遠にあの時のままだ。もしこの七年間で気持ちを塗り替えてしまった俺がいたとして……迎えに来ない恋人を待ち続けることで更新されずに止まった認識は、頭の中で留まり、終わらない。俺の気持ちを確かめない限り、イサミさんにとってこの恋は永遠に、両想いだから。


 なら「変わっていないか」を確かめるのが怖いから――七年の間にだって会いに来ようとはしないんじゃないのか?

 

 積み上げ、重ねてきた気持ちが崩れるのを恐れているんだろうか。そして、それは俺の気持ちが変わるかも知れないと思われていたことを暗に示していて。信じてもらえていなかったのではないかとショックを受ける。


 ――でも俺の方だって瞬間的には、イサミさんを疑っていて。


 なら、それは気持ちを確かめようもないという現状が招いた心の弱さ。心がどれだけ繋がっていようと、今の気持ちは直接交わさなければ伝わらない。ただひたすら、信じることだけしかできない。でも……それでも信じることができたなら――と、思う。これくらいの疑念は振り切らなければ七年の時に俺の気持ちはあっさり負けてしまう!


 そうだ。これらはあくまで俺の妄想でしかない。とはいえ、少しでも考え得るから浮かんだ思考であり、その可能性を否定してしまうのは美化というものだろうか?


 人の心なんて一つの明確な理由で説明できるほど単純なものじゃない。俺が抱く好きの理由だって、イサミさんの持つ沢山の魅力を挙げればキリがない。でも、そんな数多の要因を纏めて「好き」と口にするように。


 俺が知らなかった部分でもイサミさんが旅に出た理由が存在していたとして、その一面が俺にネガティブな思考をさせたのかも知れない。


 でも、イサミさんがもしも……そんな理由で俺から離れたのなら。

 今度会ったら――もう絶対に離さない!


 そんな決心が逆に、俺の心を強くする。


 ……そう。そのように心で誓うほどには、俺の中で胸騒ぎが存在しているのだ。推測ではあるけれどイサミさんが旅をする理由の一つであり、俺のこんな風に思考が発展してしまった要因。そして、もっと言えばイサミさんの行動原理を裏付け、人格形成にさえ影響したかも知れない一つの「闇」というべき事実。


 どうして、わざわざ俺から離れていくのか。

 何故、俺を待つ形で約束を取り付けたのか。


 それらはもしかすると前向きで明るい、美談で終わらないかも知れないという――予感。


 フレームには収まらないと感じたあの人は、この狭い世界の片隅に俺を置き去りにして……閉じ込めたのではないか。写真にすれば、永遠になるとでも言うかのように?


 ただ、裏付ける奇妙な光景を俺は目の当たりにしていたのだ。それほど大したことではないのだが……それでも、色々と考えてしまう。察してしまう。俺は時折「ふらりと帰ってきていないか」などと、意味のない期待をしてイサミさんの家の前を通ることがある。


 そして、いない事実を確認しては毎回嘆息し「当たり前だ」と自分を揶揄するのだが、イサミさんが旅立ったなら当たり前なのか――いや、この街を出たからこそ寧ろ異質に映るその光景。


 そんないつの時もイサミさんの家に、明かりが灯っていたことなんてなかったのだ。


        ○


 それから高校三年間があっという間に過ぎ去って、大学生活が始まった。街を離れ、少し遠くにある誰もが知っている有名な大学に合格した俺。一人暮らしの大変さに苦労しつつも楽しんだキャンパスライフの中にあっても。


 そこからどれだけ新しいことを始めようと――ずっと抱いていた想いが変わったりはしなかった!


 ――三月。


 大学を卒業した俺は久しぶりに生まれ育った街へと帰ってきた。電車からホームへと降り立った瞬間に迎えた空気はあの頃のままであるような気がして、大学の四年間を過ごした街に親しんでいた心はあっという間にリセットされる。


 それが故郷の意味であるようで……どこか誇らしげに俺は自然と笑みを浮かべてしまう。


 そして駅から中学、高校と何度も歩いた道を辿って自宅へと向かうことに。そんな道中で耳にはめられたイヤホンで旧知の仲たる三人の願いが成就した形と言える音楽を聞きながら懐かしい風景を眺める。


 何だか足取りは軽くて。

 心は希望に満ち溢れている。


 今の俺なら、何だって出来る気がした。


 あらゆる経験を経て、沢山の学びから色んなものを得て、俺は今――大人になった。約束を果たすため、俺はこの街から旅に出るのだ。それが数多の可能性を前にして、自由となった俺が何よりも真っ先に抱く強い願望で。


 だから、今はイサミさんに会いたい。

 そんな約束を果たすためのスタートとして、この街に帰ってきたのだ。


 ――あれから、七年の時が経った。


        ○


 大学を無事に卒業したという報告、そして今後のことをきちんと話すために俺は実家へ戻った。


 大学に通っている間は一度も帰ってこなかったため、俺は四年ぶりに実家のドアを開くことになる。その感覚にはきっと懐かしさが伴うのだろうと思っていたけれど――しかし、まるで昨日までこの家に住んでいたみたいにあっさりと俺は屋内へと入って「ただいま」と口にできたことに驚いてしまう。


 リビングから少し早歩きで俺の方へと歩み寄る母。威厳を湛えた親父とは対極であるように優しかった姿は面影だけを残し、この四年の間で何だか少し寂しげな印象を抱かせるものとなっていた。優しさと強さを秘めた人だったからこそ、だろうか。俺がもうそういった力に包まれたり支えられる必要もないから……それが自分の中でちょっぴり寂しい感情にさせるのかも知れない。


 親としての責務を成し遂げた母を、大人になった子が瞳に宿せばこうなるのだろう。役割を終え、ひっそりと佇む建物を見つめるように、何だか切ない気持ちに胸を締め付けられる。


 そして母はいつもどおり書斎にいるらしい親父へと挨拶するように促し、俺もそのつもりだったので向かっていくことに。そして扉の前に立つと何だか感慨深いものを感じる。


 ……そういえば、この書斎の中にいる親父を最後に訪ねたのは四年前。大学に通うために一人暮らしをすべく家を出る日の朝、見送りをしようともせずに引きこもっていた親父に呆れの言葉を投げかけた時だった。随分と昔であるように感じる。


 こんな風に扉の前に立っていれば苦い思い出だってセピアが色を取り戻す。親父に用事があれば気軽に訪ねて、その逆も同じなんて父子の交流が取り戻せたのもそういえば「短すぎる家出」があったからなんだよな。ずっと昔、小学校の低学年のときみたいに親父とも仲がよくなって、本棚とそれをびっしりと書籍で埋め尽くす秘密基地のようなこの部屋で親父の真似をするみたいに段々と分かるようになってきた本を読んでいた。


 そういえばあの頃、親父といえば勤勉で真面目。何を楽しみに生きているのだろうと思うくらいに寡黙で感情の起伏もあまりない人。そんな風に思い込んでいたけれど……案外、冗談も言うのだ。


 ……あとかなりスケベ。初めてイサミさんを家に呼んだ日には「本当に胸大きいな」と耳打ちしてきたくらいだから。


 でも思えば、ずっとそんな人だったはずだったのに……どうしてあの頃は見失ってたのか。


 それは俺が、そういう年頃だったからなのだろう。


 俺はそのように懐かしさを感じつつ扉をノックした。すると、しばらく聞いていないと思っていても、やはりしっくりと来る父の声で「入れ」という返事がしたので、扉を開いて中に入った。


 そこは幼い頃に秘密基地だと感じたままの風景でありながら、昔は入りきらず床に積まれていた本が棚に収められている一方、埃を被っていた本はこの部屋にはもうなくて。そんな変化に時間の経過を感じさせられる。そして、その中央で壁に向かって設置された机に背を向け、回転椅子の上で腰を預けている親父。


 変わらず、厳格そうな表情を浮かべている顔にかけられた黒縁の眼鏡。オールバックにまとめた髪には白髪が混じり、への字に曲がった口元にも少し皺が刻まれていて……あの時から随分変わったんだと思う。


 そんな親父と向かい合い、俺は話し始める。


「久しぶり。高校を卒業して以来だからきっかり四年ぶりだよな」

「そうだな。四年ぶりか。まったく……母さんが帰ってこないと何度、愚痴を漏らしていたか」

「ははは。案外、そんな愚痴を漏らしていたのは親父の方なんじゃないのか?」

「馬鹿を言うな。私はお前の顔などさっきまで忘れていたくらいだ」


 お互いどこか揶揄するような口調で語り合いながらも、口元には笑みが薄っすらと浮かべられている。確かに色々と変わったことがあれど、父子の間でも変わらないものがあるのだと示すかのような光景だった。


「無事、大学は卒業出来たみたいだな。まぁ母さんは、お前と電話して帰ってくる日付やら、大学を無事に卒業したことなんかを何度も繰り返し話していたよ。夕飯の度に今日まで……ずっと嬉しそうになぁ」

「それだけ聞かされていれば、俺のことを忘れてたなんてのは嘘だな」

「調子に乗って……揚げ足でも取ったつもりか」

「取らせたのは親父の方じゃないか。俺はてっきりボケが早くも訪れて親父に忘れられちまったのかと思ったよ」


 皮肉っぽい口調で語った俺に対して「何を言うか」と不服そうに返す親父だったが、それでも口元を見ればどこか楽しそうというか、嬉しそうで。


 俺が先ほど冗談めかして口にした「愚痴をこぼした張本人」は本当に親父だったんじゃないかという予想が頭の中で仄かに形を得ていた。


「……で、どうだった? 大学の四年間というのは」


 親父はそのように話題を切り替えると、俺の返答を待ちながら机の上に置いていた煙草の箱を手に取る。そして吸おうとする――けれど、空っぽだったのか箱を振って確認する挙動を見せた親父は、どこか恥ずかしさを紛らすように咳払いをする。


 そんな親父に俺は胸ポケットから煙草を取り出し、手渡す。


「何だ、お前。煙草を吸うようになったのか?」

「……まぁ親父の子供だからな。あっちに住んでいた時もバイトしてたんだけどさ、どんどん煙草代でお金が消えていくもんだから参ったよ」

「ちゃんと二十歳になってから吸い始めたんだろうな?」

「はは、真面目だなぁ。……その辺もちゃんと親父の子供らしくって感じだよ」

「じゃあ、頂くとしようか」


 今日一番に嬉しそうな表情を見せ、俺が差し出した箱から煙草を一本取り出して火を点ける親父。俺の方も何だか親父に煙草を差し出す行動に強い感動のようなものを覚えてしまう。


 ……そうだよな。親父の中で俺は十八のままだったんだろうから、煙草なんて取り出されたらびっくりするよな。


 そして吐息と共に煙を吐き出すと、煙草に灯った火をどこか嬉しそうに見つめる親父に対して、先ほどの問いかけの答えを俺は口にする。


「大学の四年間、か。高校の三年間と同じで、結構がむしゃらにやってきたような気がする。やりたいこととか分からない俺としては、ひたすらに色んなことを経験する貪欲さみたいなものに委ねて生きてた感じかな。まぁ……楽しかったよ」

「勉強以上に学ぶことがきっとあったんだろうな。高校生活に比べれば時間もずっと余裕があるだろうし、お前は何だかそんな暇をぼーっと過ごしているようなタイプではない気もするからな」

「そこは結構、イサミさんに似たのかも。サークルにも所属してたし、バイトを掛け持ちすることだってあった。沢山、経験することで自分はどんどん違う何かになれる気がしてさ。そうやって日々を充実させていくのは楽しかったよ」


 俺の言葉に頷き「ならよかった」と小さく口にした親父。そしてどこか懐かしむように瞳を閉じ、印象的なへの字の口を逆さまにする。


 何にでもなれるように準備をするための期間。そんなものを経て、もしかすると親父はとうとう「子の親」というものを完遂して、言ってしまえば一つの完成となったのかも知れない。


 親というのは子供からみれば人生の先輩であり、まるで全てを知っている頼れる存在のように感じていた。でも親父だって子供の親になるのは初めてで。きっと子供を大人にするための手引きだって分からないまま俺が育っていく日々で、初めての連続はこうして終わりを迎える。


 きっと俺が大人になって親の責務を果たした今、親父は失敗を恐れて余裕もなく向き合ってきた瞬間毎の初めてを思い出しているのだろう。


 だったら、俺は言葉にしておきたい。


「親父」

「何だ」

「ありがとう」


 俺は心の底から感じた言葉を素直な気持ちで口にした。それに対して煙草を片手に親父は目を軽く見開き――しかし、すぐさま何かを悟られまいとして俯いてしまう。


 そんな親父の姿を見つめて、言い知れない気持ちを胸に俺は続ける。


「今日までの日々で揉めたこともあったけど……でも、親父が親父じゃなかったらこんな風に俺は育ってこれなかったと思う。きちんと大人に導いてくれたこと。そして俺が今のようにいられるのは親父のお陰だ。本当に感謝してる。良い親に恵まれたんだなって」

「随分昔にも言ったが、私が良い親でいられているというのならそれは、お前のお陰だ」

「じゃあ、俺はあの頃から変わらず親父にとって、良い息子でいられてるかな?」

「……当たり前だ。昔からそれは変わっとらんよ」

「そっか。なら俺が良い息子でいられているのは、親父のお陰だな」


 その言葉が決め手だったかのように――俯いた親父の瞳から涙がこぼれているのを、俺は密かに察した。目にゴミが入ったとでも言い出しそうにごまかしつつ、眼鏡を外している親父を見つめて。


 いつの日かの光景を思い出した俺は、暫しの時をそのまま無言で過ごした。


 そして、俺と向き合うことにためらいがなくなるくらいには感情の整理がついた親父は顔を持ち上げて問いかけてくる。


「お前はこれから……どうするつもりなんだ? 大学を卒業して今、真っ先にやってみたいと思うことは何だ?」

「色んな可能性を選べるよう、立派に育ててもらったからな。俺はきっと何にだってなれる。何にだってなれるっていう言葉の意味はきっと――努力の仕方を知ってるってことだと思うんだ」

「そうだろうな。努力は誰にだってできるものじゃない」

「うん、本当にそう思う。勉強なんてさ、正直言えばつまらないものだよ。でも、そういったことに向き合って、隠れている楽しみを見つけ出せるならそれは確かに、何にだってなれる人間なんだよな。そして、今の俺にはそれができる。だから沢山の選択肢があるんだ。……でも、そのどれもが俺の中でずっと抱いてきた願望を追い越すことは結局、なかったよ」

「やっぱりそうか。まぁ、就活もしていないと聞いていたし……分かっていたことではあるがな」


 驚くことなく、納得したように頷く親父を見て俺も「お見通しだと思っていた」と感じる。すると笑みがこぼれてしまい、そんな表情に親父もつられる形となって。


「だから、俺はイサミさんを追って旅に出るよ。気持ちは変わらなかったんだ。この七年間――ずっと、ずっとな」

「それがお前の幸せなんだと、私もずっと信じていた。だから、こんなに嬉しいことはないよ。お前はもう色んなことを知り、ひたむきに努力する強さを得て、信念を貫く精神を手に入れた。……彼女と結ばれてからだって、何かを成し遂げるのに遅いことはない。好きなように生きるといい。お前はもう自分で責任を取れる――大人なんだからな」


 そのように告げられ、遂に――俺とイサミさんがお互いにとっての中間点といえる場所にて落ち合うためのスタートラインに立ったことを強く自覚した。


 俺は、大人になったんだと――!


 背中を押してくれる両親、そんな強い味方に支えられて俺はあの人を迎えにいける。その幸福を共有してくれる父の存在が今は、何よりも嬉しく――そして誇らしい。


「とはいってもイサミさんは自由気ままに旅してるだろうから、どこにいるのか見当もつかないだけんどな」

「まぁ、嵐谷さんを追いかけることは旅に出るのと同義だろうな。しかし、そうなるといつから出かけるつもりなんだ?」

「やっぱり、すぐにでも行きたい気持ちはあるよ」

「そうか。でも、今晩くらいはゆっくりしていきなさい。普段は飲まないが、今日くらいは酒でも飲もうじゃないか。大人になったお前とまだまだ語れることはあるような気がするよ」

「うん……分かった。今晩は泊まっていくことにする」


 俺の首肯と共に語った言葉に親父が「泊まっていく、か」と噛みしめるように呟くのを聞きながら書斎から出ようとする時――唐突に「あぁ、あと待ちなさい」と呼び止められ、振り返って「何だよ?」と問いかける。


 すると――。


「えらく恰好をつけて……私のことを親父と呼ぶようになったんだな、お前は」


 事もなさげに指摘してきた親父。――いや、よく見ると表情にはからかって俺の反応を楽しもうとする下世話な笑みが薄っすらと忍んでいた。それに対して、目線を逸らして頬をポリポリと掻くような挙動を取りそうになるも、必死に自制して語る。


「そ、そういうことは見て見ぬふりしなきゃ駄目だろ」

「ははは。私もそんなセリフを昔、父親に言ったことがあるよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る