嵐谷イサミの十戒

あさままさA

■嵐谷イサミの十戒 その一

嵐谷イサミの十戒 その一 前編

 僕とイサミさんの差は言ってみれば一オクターブという感じでした。


 中学三年生と高校三年生の差を持つ僕らですから、同じ街に住んでいようと小学生時代でもない限り一つの校舎で会うことはありません。僕がイサミさんを知ったのが中学一年生の時でしたので、意識し始めた時点で接点を持つことはほとんど出来なかったと言えるでしょう。しかしある日、駅のホームで毎朝電車を待つイサミさんに羨望の眼差しを送っていた日々が終わりを迎えたんです。


 この春、中学三年生となった僕は憧れていた女性――嵐谷あらしやイサミさんと付き合うことになりました。


 ちょっとした偶然とそれはもう膨大な勇気。その結果によって掴み取った――というか、無我夢中で握りしめた結果が途方もない奇跡だった感じなのですけれど。


 それでも僕は今、ずっと片思いをしていたイサミさんの彼氏。それを改めて自覚してみれば喜びで胸が一杯になるのでした。


 ――そんな僕とイサミさんが付き合うことになって一週間が経った今日。学校を終えて放課後、いつものように二人で決めた場所にて集合することに。


 さて、この嵐谷イサミさん。どういう人物なのかと問われれば、僕は間違いなくこう答えるでしょう。


 イサミさんはちょっと――いえ、かなり変わった人です。


 正直、こういった内面は僕も付き合うまで知りませんでした。……まぁ、それは外見に惹かれていた僕がイサミさんの性格もよく知らないまま告白したからなのですけれど。


 そんな中身は関わってみればすぐに悟らされるくらいに強烈でして。初対面でも喋ればすぐに、イサミさんは普通の枠に収まらない人物だということが分かってしまうくらいに。


 まぁそういった部分は敢えて思い返す必要もなく、今日――本人に会えばまた存分に思い知らされるのでしょうね。


 というわけで、イサミさんとの待ち合わせ場所へと向かう僕。変わっている人柄と関係があるか分かりませんが、イサミさんは現代の高校生にしては珍しく携帯を持っていないので口約束で集合することになっています。


 やってきたのは学校から商店街を挟んだ向こう側にある閑静な住宅街。僕達は学校に行くためこの街へと電車で通っているのですけれど、あちこちを歩き回っているイサミさんと違って僕は通学ルートしか知らないため、地理に詳しくありません。ですので、この一週間いつも同じ場所で待ち合わせてはいるものの、目印になる建物なんかを確認してきょろきょろ周囲を見渡しながら進んでいきます。


 そんな道中で頬に触れる風は、四月に入ってから随分と暖かくなりました。桜が開花するような陽気を全身で感じれば、寒さに震える感覚とは秋を通り過ぎるまで無縁でいられそうですね。


 ちょっと上機嫌な気持ちを引き連れて途中、ガラス張りの建物を鏡代わりにして制服のネクタイをきちんと絞め直し、前髪の行方を試行錯誤します。


 何だか、恋している女の子みたいですよね……。


 でもまぁ、自分の彼女がやらない仕草を代行しているような気持ちになるので、何か収まりの良さも感じますけど。


 そんな思考をしつつやがて辿り着いた場所。住む者の品性が高いことを感じさせる落ち着いた街並みの中にあって主張せず、しかし埋もれず独特の雰囲気を醸し出すレトロチックな外観。店内を満たす珈琲の香りが午後を至福の時間へと変えてくれるであろう素敵な喫茶店――の付近にある公園です。


 思わず公園と喫茶店、二つの場所を見比べてしまいます。大人びた雰囲気を漂わせる優雅さの象徴たる喫茶店。こんな場所で素敵な彼女と待ち合わせ出来ていたならどんなに幸せだろうか。そのように思ってしまい嘆息する僕。


 まぁ、素敵な彼女がいるのは事実なんですけど……集合場所が公園ですからね。しかも噴水の小気味よい音に癒され心が解けていくような公園ではなく、思いっきり遊具満載で子供達が無邪気に遊んでいるような場所ですから風情なんてあったものではないです。


 そんな風景を傍から見つめる僕。園内では子連れの親子が複数組存在しているようで、ママさんチームの談笑と子供達の和気藹々とした笑い声が混在して午後の公園風景が構築されていました。


 そんな中にあって、この一週間何度も見かけた光景。

 それが――、


「だーるまさんがっ、こーろんだぁぁぁぁぁああああああ!」


 動いた人間をピックアップして脱落させていく俗に言う「ダルマさんが転んだ」が繰り広げられる公園内にて、その声は一際大きなものでした。掛け声に対して動きを止めている子供達の視線を集めるのはきっと、その付近にいるママさんチームの中に混ぜても浮いてしまうくらいにすらりと背の高い女性。


 その人物こそ、僕がずっと恋い焦がれて求め続け、晴れて結ばれることが出来た意中の人物――嵐谷イサミさん、その人なのでした。


       ○


 ついさっきまでの願望もあってか子供達の群れにためらいながらも入っていき、イサミさんと合流した会話の中で喫茶店に誘ってみました。するとイサミさんが「丁度いいなぁ。お腹も空いてたし」と同意してくれたため、晴れて憧れの眼差しさえ向けていた喫茶店へ入ることに。


 ちなみに、もしイサミさんのお腹が空いていなければきっと喫茶店へと行くことは出来なかったと思われるので、その空腹には奇妙な感覚ですが感謝してしまいます。自分でも訳の分からない感情だと思いますが、これもイサミさんが変わっているという事実の表れでしょう。


 しかし、散々変わっていると言ってはいますがイサミさんの人柄は支離滅裂なものではなく、どこか法則性とか規則的なものを感じる行動理念が根幹にあるので、その一挙手一投足は予測可能だったりします。


 例えば「犬の十戒」みたいな項目でまとめられていれば、この人を理解するのは意外と容易いのかも知れないと――思うくらいには。


 そんなわけで喫茶店に入ると窓際の席に向かい合うように座って僕はココアを、イサミさんは珈琲に加えて空腹だと言っていたように炒飯と唐揚げを注文しました。


 随分と軽食方面にも力を入れている喫茶店のようですが、恋人同士で訪れるという憧れに憧れたシチュエーションに中華料理が顔を出してくるのは台無しのような気もします。……いや、でもイサミさんに食欲がなければこんな光景にさえならなかったんですか。


 そのように思考しているとすぐにココアと珈琲が運ばれてきました。


 目を閉じて上品な仕草で珈琲を口に運ぶイサミさん。注文の際にも平然とミルクを断っており、そんな自分には理解できない苦みを嗜んでいる様子に「まだまだ子供だなぁ」と痛感させられる気持ちも入り混じりながら。


 しかし、優雅に珈琲を楽しむイサミさんの姿に見とれてしまうのです。


 毛先が少しウェーブした肩に触れるくらいの髪は大衆の中にあっても輝き、見るものの目を引く白銀。そんな僕からすれば浮世離れした風貌に劣らないくらい鼻筋が通った顔立ちは非の打ち所のない美しさ。ぷっくりとした柔らかそうな唇は一度視界に入れば釘付けになってしまうほどの魅力があり、本人はちょっと気にしているという三白眼も強烈な個性としてイサミさんのビジュアルにクールな印象をもたらしていると思うのです。


 それに加えてすらりと高い背丈に、豊満な胸が魅力的なのは言うまでもなくて。僕も男性ですので視線が吸い寄せられそうになり、しかしそれを悟られまいと慌てて違う方向を見つめる挙動を今日までにどれだけ繰り返したか。……まぁそのような僕の葛藤はさておくとして。


 まさに立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、といった外見を有していながら――。


「どうしていつも子供と無邪気に遊んでるんですか。高校三年生、花も恥じらう乙女としての自覚はないのかと問いかけたいですよ」

「うーん。どうしてと言われれば……そりゃあ、お前が来るまでの間を有意義に過ごそうとした結果としか説明しようがないんだけど」


 口に運んだ珈琲カップを再び皿の上へ音も立てずに戻すと、首を傾げて心底不思議そうな表情とイントネーションで語ったイサミさん。


「なら、暇を潰す方法は他にもあるでしょうに。わざわざ子供に混じって遊ぶのはどうなのかと僕は思いますよ」

「でも他の候補と一緒にふるいへかけた結果、子供達と遊ぶ選択肢が残ったわけで」

「どれだけ目の粗い篩なんですか」

「他の粒が軒並み小さかったんじゃないか?」

「それでいてイサミさんの中で子供と遊ぶことは大粒だったんでしょうね」

「まぁ、粒の大小がどうとかお腹の空く話はいいとしてさ」

「想像力豊かですね」

「それよりも暇潰しって表現、まるでアタシが無駄な時間を許容しているみたいで好かないなぁ。それに、文句を言うならもっと早く来てくれよ」

「む! それは失礼しました……」


 一転して強気な態度で言咎めてくるイサミさん。女性を待たせるという男としてあるまじき行為を平然と行っていたことに猛省しつつ、しかし僕は引き下がれない思いを口にします。


「……それでもやっぱりイサミさんは高校生なんですから、年相応の遊びや友人との付き合いを意識した方がいいんじゃないですか?」

「いーやーだー」

「もうちょっと考えるフリとかしましょうよ!」

「アタシが好きでやってるんだから、好きにさせといてくれよ」


 僕の呆れ気味な発言に淡々とした返事をして会話を切り上げ、運び込まれた炒飯と唐揚げに小さく両手を広げて「うわぁい」と表情を緩ませて言葉を漏らすイサミさん。


 そう。この嵐谷イサミさんという女性はその恵まれたルックス、そして誰もが羨むようなプロポーションをしていながら何とも精神が子供的というか。例えば、興味が向く先だって年相応の女子高生が抱くような場所に留まっていないのです。


 それはイサミさんと付き合うようになって僕が一番驚いたことで、先ほどの会話へ表れていたように思います。


 ただひたすら自分の欲望に忠実で、他人から強制されることを好まない。子供とだって遊びたくなったら本気で遊ぶ。その逆だってあるかも知れない。周りの目とか、年相応などというためらいはこの人の中では働かないですし、僕がそれを意識させるように言葉を連ねても先ほどの会話で明らかなように無駄。

 

 好きなことを好きなようにやり、自分の思うがままを貫いて生きる。


 言ってしまえば欲望直結人間。

 それこそが――嵐谷イサミさん。


 まるで風のようだとか、猫のようなどと表現できそうな性格。

 自由気まま。自由奔放。


 だから、この人が満腹であったなら僕の意見など聞き入れず、今日はこうして喫茶店に来ることもなかったのでしょう。そして、昨日までの日々みたく「おおよそ現代の恋人同士ではしないであろうイサミさんの気が向いた遊び」に連れ出される流れになっていたはず。


 ――と、このように推測できるのもイサミさんの一貫した行動原理によるものと言えるでしょうか。


「それにしても今日は屋内でよかったですよ。昨日は大変でしたからね」

「まぁ、昨日はプロ野球のシーズン開幕時期ってこともあって、アタシの中にある球児としての魂が騒いだからなぁ。そりゃあ、ああなるよ」

「千本ノックって誇張表現だと思ってました。声に出して千まで数えてる人、初めて見ましたよ」

「でも、例えば千羽鶴とかって実際にそれくらい折るんじゃないのか?」

「あやうく千羽鶴を折ってもらう羽目になるところでしたけどね」


 僕の語る口調が皮肉っぽくなったのは、イサミさんの気が向くままに発案された突拍子もない遊びに突き合わされた際の一場面を想起したからでしょう。


 昨日の激しい運動のせいで今朝は全身が筋肉痛に見舞われることとなったのです。それは、どうもスポーツがトレンドとなっているように思われるイサミさんの発案によるもの。普段体を動かしたりしない文系である僕が突如として過酷な千本ノックに駆り出されたのです。やっている最中は本気で病院送りにされるのではないかと思いました。


「しかし甲子園を目指すんならあれくらい耐えてもらわないと」

「誰も目指すなんて言ってませんし、そもそも中学生なんで参加資格すらないんですけど」

「ん? じゃあ来年に備えて頑張るってことで」

「来年には言い出しっぺのイサミさんが参加資格を失うじゃないですか」

「うーん、上手くいかないもんだなぁ」


 唇を尖らせ、つまらないと言わんばかりの胸中を露わにするイサミさん。


「でも何と言おうとやっぱり高校生といえば野球、そして甲子園だ!」

「それが一昨日、ウィンブルドン目指してた人が言うことですか。とはいえ、一日でテニスから野球に興味が移り変わったみたいに、もう今は甲子園なんてどうでもいいんでしょう?」

「あはは、お見通しだなぁ。そんなわけで今日は武道館でも目指すか」

「バンドでもやるんですか?」

「武道館は別にバンドだけじゃないよ。それに音楽は昔にやってたから十分かな。それより体を動かしたいなぁ。せっかく春になったんだから」

「今日はなるべくゆっくりさせてもらいたいものですけど。……ほら、料理冷めちゃいますよ」


 ほかほかと湯気が立ち上る料理を手で指示して促すと、イサミさんは「そうだったぁー」と無邪気に語って箸を手に取りました。


 そんなあどけない表情を見つめ、思わず溜め息を吐き出す僕。でも、それは呆れとは違う意味を含んでいました。


 年相応の女子高生が抱くようなことに興味が向かないというよりは――何にでも関心を持ち、幅広い視野でものを見ていると表現を改めるべきでしょうか。それはイサミさんがスポーツ好きというわけではなく、あくまでも幅広い興味の一環という事実みたいに。


 そして、それらをやりたいと思えば自分の欲求に任せて実行してしまう。おおよそ現代の恋人同士ではしないであろうイサミさんの気が向いた遊びが、自分の年齢や性別に相応かどうかなんて本人にとっては関係ない。


 ですから、体も頭脳も大人なのに心は子供といった感じ。それこそ――イサミさんが「変わっている」と感じる一番の要因でしょう。


 もちろんイサミさんの気が向くままに連れ回されるのですから、僕の方は疲弊してくたくたになる一週間でした。けれど、それでも何だかんだ付き合っている理由は自分でも分かっていて。


 端的にいって、イサミさんが自分の思うがまま無邪気に遊んでいる時の笑顔がとても素敵だからでしょう。目は閉じ、眉が持ち上がっていて、そして白い歯が少しだけ覗く。そんな陽だまりを思わせる温かく優しい笑み。それが何もかも許せる心を僕にもたらすんですよね。


 そして、それに加えて――。


「この唐揚げ、肉汁たっぷりで美味しい。幸せだなぁー」


 イサミさんって本当、食べる時の表情も素敵なんですよねぇ!


 本人いわく「燃費が悪い」そうなので、食べる姿は頻繁に見かけているのですけれど……見ているこっちの食欲まで刺激されてしまいそうな食べっぷり。そんな風に時折見せる表情があまりに素敵なものですから、イサミさんってズルいなぁと思います。はちゃめちゃな性格をきちんとカバーしているようで。


 そんな風にうっとりとした心境でついついイサミさんを見つめていると。


「何だよそんなに見つめて」


 ジト目で指摘されてしまい、ぼーっとしていた胸中を慌てて払拭し、急ごしらえな緊張感を有する僕。


「いやいや、そんなことはないですけど。ただ、美味しそうに食べるなぁと思いまして。ちょっと見とれちゃったというか」

「なるほど。お前も食べたいってことだな」

「あー、イサミさんフィルター通したらそうなりますよね。そういう訳じゃないんですけど……でもまぁ、そんな風に食べられたら確かにお腹も減ってきたような?」

「ふーん、そんなもんかぁ。じゃあ、ほれ」


 そう語りつつ片肘をついて、空いた手で僕の方へと唐揚げを箸で差し出してきました。


 自分の快楽に正直でゴーイングマイウェイな感じのイサミさんですが、他人と分かち合うことで楽しみが膨らむことは理解している。そういった裏付けになる行動と言えるかも知れません。自分の遊びたいことに僕をわざわざ巻き込むことからもそれは明らかでしょう。


 とまぁ、そんな冷静沈着な思考はさておき。

 ――ええぇぇぇええ!


 何気ないイサミさんの行動で一気に心臓が跳ね上がる感覚を受ける僕。


 箸で摘まんだ唐揚げを差し向け、三白眼の瞳が「何をためらう必要があるのか」と暗に訴えかけている現状。勿論、箸は一人分しか用意されていないのですから、イサミさんが先ほど食事に使用していたものと同じはず。ならば、いちいち明言して興奮するのも馬鹿馬鹿しいですけど、これって……間接キスですよね?


 ――うわっ!

 何だか意識してみると鼓動が尋常じゃないくらいに高鳴ってきました!


 顔がかーっと熱くなって、このまま視界がぼやけて気絶していくんじゃないかという緊張の高まり。恋愛初心者の僕にこのシチュエーションはなかなか刺激的です。


 ふと視線を交わし合うことが恥ずかしくなってカウンターの方を見つめれば、樹木のように皺が刻まれた喫茶店のマスターと目が合い、小粋なウインクが送られてきました。


 どういう意味なんですか、それは。


「しかし、イサミさん……いいんですか?」

「アタシが構わないって言ってるんだから問題あるはずないだろう」

「な、何とも思わないんですか?」

「……あぁ、確かにアタシの食べる分が一個減るって考えたら、ちょっと惜しくなってきたかも」

「そうじゃなくて、は、箸ですよ。……意識しませんか?」

「アレか。こうやって食べさせてもらうみたいなのって子供っぽくて恥ずかしいか?」

「い、いえ、そこは寧ろ喜ばしいのですけれど……って、そうじゃなくて!」

「うーん? 何が言いたいんだ、お前は」


 狼狽する僕に対して、ピンと来ていないような表情を浮かべるイサミさん。


 そうなんです。この人はどこか、こういったことに鈍感なのかなと思わされる部分があるのです。なので自発的に間接キスという状況を導きだすのは不可能に近いでしょう。僕の内心で相反するためらいと緊張なんて微塵も理解していないに決まっています。


 自由奔放な行動原理が育てた自己中心的な性格。

 そんなイサミさんが僕の内心など考えるはずもありません。


 ――などと思っている最中、悩んでいた時間がそれなりに長かったためかイサミさんの表情は段々と不機嫌そうなものに。


 僕としては断る理由がない以上、さっさと頂いてしまうべきでしょうね。こんなことで恥ずかしがっていてはいつまで経っても僕とイサミさんの関係は進歩しないですし!


 意を決して箸で差し出された唐揚げに緊張感で震える唇を触れさせ、ぱくりと口で回収する僕。そして素早く頭を後退させます。


 本当はバカップルと第三者に揶揄されるようなシチュエーションにどっぷり浸かってイサミさんに「あーん」してもらいたい思いがあるのですが、そんな欲求が表に出て気持ち悪がられるのはやっぱり怖いです。相手が相手ですから気にされない可能性は大いにありますが……でも、セーブしてしまう。やっぱり意中の女性には清廉潔白な人間というイメージを提供していきたいので!


 そんなわけで、俊敏な動きによって口に放り込まれた唐揚げを何だかためらいがちに――しかし、間違っても嫌という意味ではない感情を胸に咀嚼する僕。


「どうだ? 美味しいだろう!」

「で、ですねぇ……」


 味なんて全く分かりません。分かるわけがありません。


 僕から同意を得られて「ふふん」と機嫌良さげなイサミさんに対し、意識が吹っ飛びそうなくらいの刺激的シチュエーションに体全体が痺れているような感覚がしている僕。とりあえず平静を装って、徐々に胸中を落ち着かせていきましょう。


 ――と、思っていたその時。


「だろう? ここのマスター只者じゃないよ」


 そう言ってまた唐揚げを口に運ぶイサミさん。

 ――あぁ、そうか!


 僕が口をつけた箸を今度はイサミさんが使う。そんなシチュエーションになることは少し考えたら分かるはずですよね。まるで不意打ちを喰らったような衝撃。機械がオーバーヒートするみたいに脳内の冷静さが蒸発してしまい、くらくらと襲ってきた眩暈に僕は今度こそ意識が飛びそうになってしまうのです。


 まぁ、何とも情けない話です。同じ箸を使ったくらいのことでこんなに慌てているのですからね。しかし、僕は初心だから仕方ないと言えるかも知れない一方、イサミさんは年上であるがために動じないというよりは、ただ単純に無自覚なだけ。どこか恋愛面には鈍感なようでして……もう少し意識して恥じらいを見せて欲しいような気もします。


 ――とまぁ、こんな風にして僕は一週間をイサミさんと過ごしてきたのです。今日までドタバタとしていてこのように落ち着いた場所で会話をするのは初めてのことでしたが、イサミさんと一緒にいれば結局――普遍的な恋人らしい光景からは縁遠いものになるなんて、考えるまでもなく必然だったのでしょう。


 しかし、無自覚だとしても意中の女性から翻弄される感覚は存外に悪いものではありません。何だか落ち着きなく心模様が何度も切り替わるので大変ですけれど――でもその度、表面張力が薄っすら弧を描く心が揺さぶられ、零れてしまう感覚はひたすらに幸福なんですよね。


 ですが、そんな幸せが続くと思っていてはいけません。

 何せ相手は――イサミさんなんですから!

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