嵐谷イサミの十戒 その三 後編

 大爆笑をとってしまいました。


 僕の大見得を切った言葉に四人が顔を見合わせ、同時に大爆笑。涙目になったり腹を抱えて笑う者に、テーブルを叩いて感情を必死に制しようとする人。そして、そんな三人よりも笑っているのがイサミさんで、このまま床の上を転げて笑い死ぬのではないかという勢いです。


 勿論、途轍もない勘違いと取り返しのつかない失敗をしてしまったと自覚した僕は、引き起こした大爆笑が喜べる手柄ではないのを理解しています。理解すれば顔が紅潮していき、身が萎縮していく。穴があったら入りたいという言葉が今は身をもって分かる気がします。


 うーん、どうやらイサミさんは絡まれているわけではなく、三人の男達は顔見知りか何かだったのでしょう。つまりは僕が男達三人を外見で判断し、言いがかりをつけた構図となっているようで。


 そうですよね。イサミさん、本当に絡まれたりすればきっと黙っているような人じゃないですし。


 しかしまぁ、見た目で判断したにも関わらずこうして笑って頂けるのは命拾いといった感じでもありますね。


 尾を引く乱れた呼吸を伴いつつ三人組の一人が、乱れた髪を手で整えるような挙動と共に好奇の目で僕を見ます。


「何だ、アレか。俺らが絡んでると思ったからイサミの彼氏ぶって出てきちゃったのか。どこの誰か知らないけど、随分と男気あるじゃん」


 自分の語った言葉に再び笑い出した、グレーの髪が印象的な人物。


 毛先が少しウェーブした肩に触れるくらいの髪に最初は女性かと思いましたが、声からして明らかに男性――と、なると僕の中での印象は率直に言って長髪。女性的にはセミロングぐらいでも、男性となると長く感じますよね。ですので、名前も分からないこの人物は「長髪」と呼称することにしましょう。


 で、その長髪を含めた三人はどうやらイサミさんを助けるため、無関係の僕が彼氏を名乗って介入したと思っているようですね。


 彼氏なのは事実なんですけどねぇ。


 でもそのように訂正すれば、それさえ笑われるのでしょうから気が進まない――と思っていると。


「いや、そいつがアタシの彼氏なのは間違いないんだけどな」


 随分と長い間笑ってくれていたために伴った涙目を擦りながらイサミさんが明言しました。


 おお! そんな風にイサミさんから言ってくれるなんて!

 この発言一つのために差し出した恥だったというなら納得できるくらいに嬉しいですね。


「おいおい、おめーの彼氏ってそんな……俺らをこれ以上、笑わせる気だべか?」


 美しい金色のモヒカンがスキンヘッドの上で半分に切ったバームクーヘンみたいに乗っている小太りの男が、派手な見た目に似合わぬなまった口調で言いました。


 どういうキャラクター性してるんですか。

 ――いえ、それはこの際どうでもいいです。


「なんですか。僕がイサミさんの彼氏には見えないってことですか?」


 イサミさんという味方がいるのでちょっと強気になった僕が咎めるように語ると、今度はウニのような頭をした男が「いやいや、そういう訳ではありませんよ」とえらく紳士的な口調と落ち着いた低音ボイスで割り入ってきました。


「語弊があるようですので訂正させて下さい。私達は嵐谷さんが彼氏を作るタイプの人間とは思わなかったために驚いているのですよ」

「……あぁ、そうなんですか。そんなことより僕は今、あなた達の見た目からはかけ離れたキャラクター性に驚いてますけどね。……とはいえ、見かけで判断したことは深く謝罪させて下さい」


 とりあえず頭を深々と下げて謝罪の意を表明すると、長髪が「まぁ構わねぇよ」と僕の行動を寛大に受け止めてくれました。


 そんな長髪はどこか直感的に他の二人を率いるリーダー格だと感じさせるものがあります。しかし、それが個性だと言わんばかりに一人だけ見た目の奇抜さにおいては控えめな印象。皆が出落ちするような髪型に統一してしまうと逆にバランスが悪いとかそんな理由でしょうか?


「まぁ、何にせよだ。アタシはこいつの彼女なわけだから、ガラの悪いお前らを見て咄嗟に助けにきてくれたんだ。中学生だってのに偉いもんだろう?」


 イサミさんは僕の頭をポンポンと軽く叩き、まるで子供扱いなその挙動で唇をへの字に曲げて不服を露わにする僕。


「しかしイサミが彼氏なぁ。そういうキャラじゃないと思ったべが……ついに春がきたんだなぁ」

「あなたもそんな感じのキャラじゃないと思ってましたけどね」

「まぁ、いいじゃねーの。イサミだってこう見えて女の子だ。彼氏の一人や二人は出来るだろうよ」

「僕としては一人に留めておいて欲しいものですけれど」


 どこか減らず口をたたくような自分の言葉に、妙な危機感を感じている僕。イサミさんの威を借り、いつもの軽い感じで返答してますけれど……相手の外見を考えればやっぱりまだちょっと怖い!


 ……とはいえ、こうして会話しているのも中途半端に話し掛けてしまったために離脱できず、仕方なくといった感じでして。勢いよく割って入った自分の勇気だけは守りたかったのか、おどおどした態度にならぬように努めた結果がこれなのでしょう。イサミさんを欠いてはまずできない、危なっかしい言動ですね。


 ――と、思っていたそんな時。


 お客がベルを鳴らしたらしく、注文のためにイサミさんはその場を離れてしまいました!

 そうなれば無論、三人組を前に取り残される状況。


 あ、ヤバい!


 ……という訳で僕も忍び足といった感じで、そーっと流れに乗じて場を離れることに。


 そうですよね! 僕は勉強をしに来ているのですから、いつまでも雑談に興じている余裕はありません。結局、恥はかきましたがイサミさんが絡まれているわけではなかったので一安心。よかった、よかったぁ――と思っていたのですけれど。


「まぁ待てよ。せっかくイサミの知り合いってんだから、ちょっと話そうぜ」


 長髪の呼び止める言葉。イサミさんを失った僕は先ほどまでの強気な姿勢も消え去っていたために、思い切って無視することも出来ません。体をびくっと反応させて立ち止まり「うわぁ、嫌だなぁ」と心の中で呟きつつ、踵を返して「は、はい……」となし崩し的に了承してしまいます。


 落ち着かない心境を抱えながら長髪の隣、ウニとモヒカンに向き合って座る形となった僕。パンキッシュな恰好をした三人の中に平々凡々な中学生。これはこれで絡まれている絵面にしか見えないですね。


 しかしまぁ、こうなってしまっては仕方ありません。僕の方も聞いてみたいことはありますし、何より――この人達は見た目から受ける印象とは逆に悪い人ではなさそうですので。


「あの……皆さんはイサミさんとどういった関係なんですか?」


 僕が恐る恐るといった感じで切り出した質問。それに反応したのはウニで、澄ました表情と共に「私から説明いたしましょう」という違和感たっぷりな紳士的対応で語り出しました。


「嵐谷さんと我々は過去にバンド活動をしていたことがありまして。その時の縁でこうして会えば話をする程度の仲ではあるのですよ」


 ウニの言葉。それによって三人が身に纏うハードな衣装の理由、そしてイサミさんがこのような集団とどうして関わりを持ったかが一瞬で理解出来ました。


 なるほど、バンドですか。つまりイサミさんが興味を抱いたことの一つとしてバンドがあって、過去にこの人達と共に活動していたのですね。


 本当に何でもやる人だなぁと思います。……しかし今回に関しては年相応の興味だというのに、どうしてメンバーの外見やバンドの雰囲気まで選ぶことが出来なかったのか。惜しい!


「まぁ一緒に活動していたとはいえ、バンドにあいつが入ってたのも三週間くらいだったと思うけどな。ある日突然、辞めるって言いだしたから」

「あー、なんか分かります。きっと飽きてやめちゃったんでしょうね」

「彼氏だけあって分かってるべなぁ。まぁ、俺らもイサミと関わっている内に長続きする子じゃないというか――音楽が好きで入ってきた感じとは違うって分かったべ」


 片肘をついて、どこか懐かしさに浸っているようなイントネーションで語るモヒカン。その言葉に相槌を打つようにウニは頷いて口を開きます。


「きっと我々でなくても入れるならどのバンドでもよかったのでしょうし、我々を演奏者以上の認識なんてしていなかったと思われますね。しかし、そういう姿勢はともかく才能は素晴らしいものがありました。触ったこともない楽器をあっという間に弾きこなし、四人で音を合わせる度に上手くなっていくんです。普通はそういうレベルアップが楽しくなっていくんですが……」

「分かります。満足して飽きちゃったんですよね。イサミさんの興味が尽きる瞬間って多分、そんな感じで……どこか自分が躓くものを探しているようで」


 不意に僕の口から洩れた言葉は内心でずっと思っていたことで。イサミさんが次から次へと色んなことに興味を持っては飽きていく光景。それは何となく壁にぶつかるようなことだったり、本当に熱中できるものを探しているような感じがしていたのです。


 根拠は、ないのですけれど。


「でも、そんな自分勝手はイサミさんが一人で何かをするからこそ許されることだと思いますけれど。皆さんはそんな人間性を理解しているのにどうしてイサミさんが辞める瞬間まで一緒に活動したんですか? 冷たい言い方をすれば、人間性が分かってきた時点でメンバーから外す選択肢もあるでしょうに」


 集団で行う活動であるために伴う疑問を口にした僕。そんな言葉に長髪は苦笑して「お前も分かるんじゃないかなぁ」という前置きを口にして語り始めます。


「あいつは天才だ。何だって出来る。その上、思考がぶっ飛んでるじゃないか。自分の欲求に素直で、嘘をつかずに生きている自然体。初対面でも喋ればすぐにイサミは普通の枠に収まらない奴だってことが分かる。俺達だって他人と同じことはしたくないからバンドをやって、自分の言葉を歌で届けるんだ。普通ではいられないから特別だと思うことをやる。でもその限界ってやつがある日、まるで境界線みたいに引かれてるのが見えるんだ。そこで立ち止まってたら……アイツはそれをあっさり飛び越えていくんだよ」

「いつか辞めてしまう予感はありました。こんな場所に留まっているような人ではないと感じていましたからね。しかし、瞬間的にでも一緒にバンドをやっているだけでプラスになるのですよ。この上ない刺激だったのですから、我々が拒む理由はないでしょう?」


 そのように長髪とウニから語られて僕は共感したり、不鮮明だった感覚が名前を得ていくような、もしくは視界が晴れやかになっていくのを感じました。


 ――きっとイサミさんと出会って僕は随分と、影響されているんですね。


 色んな思考の壁を破って、見向きもしなかった景色を知りました。イサミさんが語るからこその説得力みたいなものがあって、それは衝撃となって頭をどんどんと揺さぶっていく。


 例えば僕が勉強すること、進路をただ何となく歩むこと。


 薄っぺらく感じるようになったり、物事の意義を立ち止まって考え疑問符を浮かべられるようになったのと同様に――彼らも常識や思い込みを壊されたのかも知れません。彼らにとっての限界を飛び越えたイサミさんによって。


 そんな一緒にいれば触発されるような人だから。

 底抜けに自由で、何にも捉われない――あの人のようになりたい。


 そんな想いが僕の中では知らず知らずの内に芽生えていたのかも知れません。少しずつ育って、高い所を目指し伸びていく。一オクターブの差を持つ僕の心が必死に手を伸ばしている。憧れてしまえば、同じものになりたいと願うのは必然。そして、その感覚は彼らだって似たようなものなのでしょう。


「まぁ、こっちの事情はそんな感じだべ。そんでもって逆に聞きたいんだけど……君ってイサミと付き合ってどれくらいになるべ?」


 自分の心の声を聞いたような気持ちになっていた時、不意に投げかけられたモヒカンの問いでふと思考に没頭していた頭を横に振ってリセットする僕。


「二カ月と少しって感じでしょうか」

「なら俺達よりも長いじゃないか。……となると一体、お前の何がイサミを惹きつけてるんだって話になるな。何か目立った特技もなさそうなのに」

「随分と失礼なことを言ってくれるじゃないですか」

「いえいえ。これが実は褒めているのですよ。我々は嵐谷さんがバンドという環境を求めていたから関係したのですが、あなたの場合は自身の何かが惹きつけている……そういうことになりませんか?」


 ウニの優しい口調による問いかけに対して、僕はどこか気まずい感情を感じて目線を逸らしてしまいます。表情も無意識に暗いものへと変わっていたかも知れません。


 それはイサミさんが僕に対して「恋愛」という一つの経験を目的として関係しているに過ぎないから。それを明言するのが何だか辛くて。この場を切り抜ける何か都合の良い言葉でもないかと探していたのです。


 でも、そんな時――。


「まぁ言いたくないなら構わないけど。でも体一つでお互い向き合ってんだから俺達とは確実にケースが違うんだろうな。お前らが付き合うことになったきっかけは何であれ、向き合ってれば相手の何かに惹きつけられることになったっておかしくないだろ。一つの物事でイサミが拘束されるのに二カ月は長すぎる。才能が普通はそうさせないはずだ。じゃあイサミがもし手こずるとしたら――それは人間の心くらいのものなんじゃないか?」


 どこか僕を勇気づけるもののように聞こえる長髪の言葉を鵜呑みにするのは恣意的な気もしました。そうであったなら僕はどれだけ救われるだろうかと思うのです。でも、考えてみればイサミさんは他人のことなんて気にしない自己中心的な部分があって……そんな人が自分の知らない恋心一つのためにこうも、自由を制限されることなんて許すのでしょうか?


 イサミさんは取捨選択が出来る人です。自分が自由になりたいと感じれば。一人の方が気楽だと感じれば、確実に「関わることで得られる経験とその相手」を切り捨ててしまうはず。そして、それをさせずに引き留めているのが僕の存在であることだけは、揺るがないのかも知れません。


 もう少し前向きで、そして自信を持っていいのかも知れないと思えた瞬間。付き合い始めた時から悩んでいた「飽きられるかも知れないという不安」は月日を重ね、自然に解決していたということなのでしょう。


「そうだと、嬉しいですね」

「きっと、そうだべ。胸を張るといいべ」

「モヒカン……」

「お前、心の中で俺達に変なニックネームつけてるだろ」

「あ」


        ○


 あれから沢山、僕の知らないイサミさんの話を聞くことが出来ました。


 イサミさんの脱退は「音楽の方向性の違い」ではなく「人間としての方向性の違い」だったという冗談から始まり、最初はボーカルとして加入したイサミさんが意図も簡単にギターを弾きこなしてバンド内でツインギターを成立させたこと。音楽理論を知らないイサミさんが感覚だけで曲を作り上げ、それをメンバーでアレンジして完成させた話。そして意外にも多彩なイサミさんですけれど、作詞に関しては目立った才能は見せなかったという事実。


 そのようなエピソードを交えつつ最終的には、イサミさんの作った曲を今も演奏しているからライブにも足を運んでほしいと誘われるくらいに仲良くなった僕と三人組。遠慮なく失礼なニックネームで呼べるようになり、気付けば友人のような関係へ発展していました。


 今では受験における戦友という意味しか持たなかった「友達」という言葉に、久方ぶりの温かい火が灯ったような感覚を感じつつ、僕は彼らとの会話に区切りをつけて勉強に戻りました。


 途中、休憩に入るというイサミさんが再びケーキを催促してきたため、僕の伝票で注文しました。するとえらくご機嫌そうな表情を浮かべるものですから、何だか分かち合ったかのようにこっちまで嬉しくなったりして。そして、三人組が店を出る時には軽く挨拶も交わしました。そのような時間を経て、イサミさんの勤務終了まで待つことにした僕。それから数時間後――制服から私服姿となったイサミさんが「帰ろうか」と言ったことによって、僕もお勘定を済ませて外へ。


 意外な展開を迎えた今日という日を振り返りつつ、イサミさんと並んで駅まで歩きます。


 陽は完全に地平線の向こう側へと隠れていました。そんな空はまだ梅雨の雨雲がびっしりと覆い、星の輝きも閉ざされています。何だか今にも泣き出してしまいそうな空。街の明かりに炙られ、薄っすらとした輪郭を伴う雲を見つめつつ、僕は何となく失われていた会話をこちらから切り出していくことに。


「あの三人組とも結構話し込んでしまいましたよ。見た目で判断するのはいけなかったですよね。反省しました。実際は良い人達でしたね」

「まぁ、絡んでんじゃねぇとか言ってお前が割り込んできた時は本当に笑ったけどな」

「あ、あれは……その、仕方ないじゃないですか!」


 羞恥心がフラッシュバックしたように心の中を再び満たし、顔が熱くなっていくのを感じる僕。そんな様子をくすくすと笑いながら不意に、イサミさんは「変なことを聞いてもいいか?」と言うので、僕は「はい」と返事をして促します。


「お前、今でもやっぱりアタシのこと……好き?」

「当然です! 好きに……決まってるじゃないですか」

「即答だなぁ」

「そんな質問を変とか言わないで下さい!」

「本当に変じゃないと――思うか?」


 僕のちょっとムキになった口調に対して、至極真面目なトーンで問いかけるイサミさん。


 イサミさんは僕に恋心を抱いているわけではないのです。そして、生まれてからそういった気持ちになったことがないからこそ、興味を抱いているのでしょう。そんなイサミさんにとって僕に「まだ自分を好きか」と問いかけるのが「変なこと」というのは――どういう意味を持つのか。


 そういえば僕自身のことを問いかけてくるなんて!


 もしかすると、そんな言動が自分にとって変であるとイサミさんは自覚しているのでしょうか?


 失礼なイメージではありますが、イサミさんは相手の思考に立って考えるようなタイプではないと思います。それは頭が悪いからできないのではなく、そういった勘定で動いて身動きが取れなくなるのを嫌うからだと思います。


 あくまで、しないということ。


 だからこそ――僕が「まだイサミさんを好きか」ということが気になったのは、本人からすれば「変」なことなのでしょう。


 となれば、あの長髪が語っていたように、僕自身がイサミさんにとって何らかの引っかかりとなっているのは確かなのかも知れません。


 あまりに正直なイサミさんの行動原理。

 嘘は、つかない――。


 つまり言葉を額面通りに捉えられるということで。公式へ当てはめるように思考し推理できるのだとすれば、そこから導き出した答えは――イサミさんにとっての些細な「変化」でしょうか?


 何がそんな変化をもたらしたかは分からないけれど。

 でも、その変化に僕はきちんと返事をしておきたいのです。


 イサミさんが正直であればあるほど、同じように素直でありたいと憧れ、変わっていった僕の心に従って。羞恥心とか遠慮のような心の壁全てを突き抜けて、堪らなく溢れる感情の欲動に任せて本心をぶつけてしまいたくなる。


 なら、そんな欲求に従ったっていいのかも知れません。


 一歩先を進んだイサミさんの手を引いて立ち止まらせる。

 そして振り向いたイサミさんと視線が結ばれた瞬間、僕は語ります。


「僕は今も、そしてこれからもずっと――イサミさんのことが好きです! 大好きです!」


 僕のぶつけるような言葉に小さく目を見開いて驚きを露わにしつつ、しかし次の瞬間には優しく微笑むイサミさん。


「お前って本当に凄いなぁ」

「……どういうことですか?」

「言葉通りの意味だよ」


 そう言葉にして再び歩きだしたイサミさんと、懐疑的な胸中を引き連れてあとを追う僕。


 全くもって不鮮明な言葉だと思いました。あらゆることにおいて優れているイサミさんが僕をそのように褒めるなんて。


 ――凄い。


 それはイサミさんが言われるべき言葉で、僕にはそのように褒められることなんて何一つないのです。なのに、何もかもを持っているように思えるイサミさんがよりにもよって僕へ、そのような言葉を送ったこと。


 でも、冗談めかしたイントネーションじゃなかったのです。なら、何かの言葉を隠した嘘――いえ、それはないでしょう。


 イサミさんは、嘘をつかない。

 なら、どういう意味が――?


 些細な言葉に躓いて思考が渦を巻き、混乱していく僕に対して、イサミさんがそれ以上を語ることはありませんでした。随分と不鮮明な言葉でしたが、それはきっと本人が言いたいから語ったのであって、僕にきちんと理解してもらう気はないのかも知れません。


 それから駅へと辿り着き、ホームにて電車を待つまでの間にも会話はなくて。ホームにはあまり人の姿はなく、ベンチが空いていたので並んで腰掛けました。そんな最中、さきほどの言葉が持つ意味に対する思考が脳内に横たわり、他のことを考えようにも通行がせき止められているような感覚。


 そんな時、イサミさんはふと遠い場所を見つめるようなあの瞳を湛えて口を開きます。


「さっきの続き。お前にとってはちょっと意味の分からない話かも知れないけど、自分の中での整理みたいなもんだから聞いてくれよ」

「……何ですか?」

「簡単にいえば将来の話、かな」


 イサミさんはそのように前置きを口にし、一呼吸の間をもって語ります。

 その前置きで僕が胸締め付けられる思いになっていることはきっと、知らないまま――。


「アタシはきっと高校を卒業したら大学には進まず、就職もしないんだと思う。ふらりと旅に出て……世界を見たい。色んな景色を、あらゆるものを、数々の未知と出会いたい。そんな風に思ってるんだよ。だから」


 イサミさんはそのように言葉の最後をぼかしたまま語らず、その続きは僕の想像に委ねられることに。


 でも、知ってましたし……分かってました。


 イサミさんが貯金している目的を考えた時、それは何か大きな目的のためだと直感しました。理由なく欲望の象徴たるお金を一所に留める人ではないと思うから。そして、それがそういった将来のためなのではないかと思ったのは、いつだったか語られていたからです。


 イサミさんがちょうど僕と同じ中学の卒業を控えた時、今語ったように世界を旅する願望を抱いていたこと。だからこそ、疑問という形で頭の片隅にあって……それは解き明かされないまま、今も渦巻いているのです。


 中学の卒業で諦める形となっていたその願望は今までどうなっていたのか?

 どうしてこのタイミングで再び、再燃するように選び取ったのか?

 そもそも親に勧められた進学をイサミさん自身はどう思っていたのか?


 そして、将来のビジョンを何故――話題の延長として語ってくるのか?


 イサミさんの理想、その決断や決意に僕の何かが関与している?

 凄いと言わしめた何かが、変化を与えていた?


 ――影響をもたらしていた?


 山ほどある疑問は処理しきれないほど浮かんできますけれど、それよりも――イサミさんが語った「だから」という言葉の続き。それは僕がずっと分かっていて遠ざけていた事実です。イサミさんは高校を卒業すれば旅に出る。そんな理想がイサミさんの中になければ終わらなかったとは言いませんが、それでも明確なピリオドは打たれてしまった。


 だから――僕達の関係は、その時までのもの。


 来年の三月、イサミさんがこの街を去ることによってこの関係は終わる。そんな事実がいよいよ確定的な未来として鮮明になってしまったのです。


 イサミさんはいつ僕の前から姿を消すか分からないと感じていました。まるで、天気のように移り変わる人だからと。でも、そんな懸念を乗り越えた先にもまだ別れの予感は待っていて。


 いえ――予感ではないですね。雲が空を覆っていれば、誰だって雨が降ることなんて予想できるはず。だからこそ傘を敢えて忘れれば――雨は降らないとでも思っていたのでしょうか?


 そのような僕の心模様を映したように、しとしとと雨が降り始めてホームの屋根を穿つ硬い音が聞こえる。そして強い輝きを放つライトを湛えた電車が重苦しい音を立て、ホームに到着しました。


 何もかも、変わらないままではいられない。

 そして、確実に終わる。

 手のひらを滑り落ちていくようにして。


 思わず俯いていた僕の鼓膜を震わすのは、混在する音の中にあって鮮明に聞こえる雨の音。誘われるようにして、ぼんやりといつぞやの光景を思い出すのです。それは梅雨らしい光景。公園に植えられている紫陽花が紫色の萼片に滴を湛え――そして重みに耐えかね弾き、揺れていたのを。






3.私は嘘をつきません。それは正直に生きたいと願っているからです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます