■嵐谷イサミの十戒 その七

嵐谷イサミの十戒 その七 前編

 もの凄い活気の中に包まれ、その海で溺れてしまいそうでした。


 十月の某日――イサミさんが通い、僕が受験を予定している高校にて文化祭が開催されました。自分が将来通うことになるであろう学校の見学も兼ねて訪れたのですが、高校の文化祭が噂に聞いてはいたもののこれほどまでに力の入ったものだとは思いませんでしたね。


 一般客の出入りが自由となった学校の敷地内には数多の人が溢れかえり、行き来しています。そんな通行人を一人でも多く捕まえようと設営されたテントの下で屋台を運営する生徒達の声が飛び交い、お祭りなんかで見かけるたこ焼きのような粉ものからデザートだったり、創作料理、部の活動を活かした体験コーナーなどを展開しているグループまで見られました。


 そして来場者の年齢もかなりばらけていて子供が友達を誘って訪れている組もあれば、おじいちゃんの代までを含めた家族で訪れていたり、恐らく他校の生徒と思われるグループが歩き回る姿も。そんな内輪だけの盛り上がりで留まらない様子が学校の行事に留まらない、れっきとした「祭」であるという感覚を強めているように思います。


 さて、今日一番の目的は言うまでもなくイサミさんのクラスが開いている喫茶店です。幾度となくイサミさんのバイト先にお邪魔しているので接客姿などを見て新鮮さを感じることなんかはないのですけれど、それでも何らかの心が熱くなるものがあるのではないかと期待している僕。


 文化祭限定の喫茶店だからと手を抜き、フリルがついた程度のエプロンを制服の上から身に着けたくらいで接客しているのではないかと予想はしています。何だかそういうB級感みたいなものが逆に楽しめるのではないかなぁと思っていまして。


 そんなわけで寄り道などは特にせず喫茶店へと向かいます。休憩時間の関係もあって予め訪ねる時間を決めていますので遅れないように辿り着きたいところ。……なのですが、勝手が分からない学校の敷地ですからまっすぐに辿り着くのは難しいかも知れません。とりあえず、喫茶店なのですから校舎の中で営業していることは間違いないと思います。となれば三年生の教室はやはり最上階でしょうか?


 余裕のための五分前行動が仇となっているので急いだ方がいいでしょうね。


 そのように思いながら校舎の方へと人混みを掻き分け進んでいると不意に――僕の肩を後ろから掴んで引き留めてくる誰か。突然の感覚に体をびくっとさせつつ、立ち止まります。


 こんな所で引き留められるなんて……イサミさん、ひょっとして休憩時間だとかで教室から離れていて僕を見つけたんでしょうか。というかイサミさん以外に引き留めてくる人なんていないですよね。アウェーな場所で他に選択肢もないので僕はイサミさんに引き留められたという前提で振り返り、いざ正解発表されると素っ頓狂に声を挙げてしまうのです。


「わぁ! 出た!」

「出てねぇよ……。そんなに驚くことはねーだろうよ」


 僕の言葉に呆れ混じりなイントネーションと表情で答えた人物――というか三人組。

 見れば一発で覚え忘れられなくなるインパクト。そして喋れば更に深まっていく印象。


「長髪にウニとモヒカンじゃないですか! 久しぶりですね」

「お前、もう俺達をそう呼称することに何のためらいもないのな」


 いつだったでしょうか……イサミさんの職場で赤っ恥をかきながらも僕が絡んでいったガラの悪そうな三人組。実際はイサミさんと短期間ではありますが、バンドを組んでいたという縁が発覚して妙に仲が良くなった三人組があの時と変わらぬパンキッシュな服装のまま、人混みの中から僕を見つけて引き留めたようでした。


「お久しぶりです、嵐谷さんの彼氏くん。あれほど印象的な邂逅をしたものですから、こんな人混みの中にあっても分かるものですね」

「相変わらずウニも見た目にそぐわない紳士的な口調ですね。印象的という言葉はどちらかといえばあなた達のためにある言葉だと思いますよ」

「あぁ、この減らず口……懐かしい気がしてくるべ」

「モヒカンも変わらずギャップが炸裂しているようで。これだけ印象的な二人を率いているリーダー格の長髪が無個性なことまで全部、あの時のままで嬉しいですよ」

「好き勝手言うなぁ……。ったくお前、本当に中坊のくせして肝が据わってるよ。まぁ流石はイサミと付き合ってるだけある感じだし――ここに来てるってことはまだ続いてるみたいじゃん」

「ええ、勿論です。当たり前じゃないですか」


 長髪のどこか嬉しそうな物言いに対し、堂々とした口調で胸を張って答える僕。


 視線を結べばお互い、戦友と再会を果たしたかのような笑みを浮かべます。この長髪の反応、もしかするとイサミさんにとって自分が特別になりつつある自覚を持てていなかったあの時の僕をずっと心配してくれていたのかも知れません。そのように人の情に触れた気分になると、何だかこうして久しぶりに会えたことさえも心から嬉しいと思うのでした。


「ふむふむ、再会に胸が打ちふるえて泣きそうですよ。会えてよかったです。それでは僕は先を急ぐので」


 そのような言葉で僕は彼らに背を向け、再び校舎の方へと歩き出そうとします。しかし僕が一歩を踏み出した途端、またもや肩をがっしりと掴まれて前進を阻まれる。今度は相手が誰なのかも分かっていますので、ちょっと不機嫌そうな表情を浮かべて振り返る僕。


「何ですか」

「いや、折角こうして会ったんだぜ? 一緒に見て回ろうじゃないか」

「僕はイサミさんのクラスがやってる喫茶店に用があるんです。きっと、分かってるでしょう? 時間ちゃーんと決めて約束をしているので遅れたくないんですけど」

「そう言うな。俺達はさっき行ってきたんだけど、別に喫茶店が二回目になろうが構わないんだ。一緒に見て回ろうぜ。そういえばこの学校は毎年、お化け屋敷がえらく怖いらしくてな。どうだ、行ってみないか? 約束の時間ってのも絶対厳守じゃないだろう?」

「あなた達がお化け屋敷なんて道場破りじゃないですか。それに、そういうスポットはイサミさんと行きたいものですよ」

「嵐谷さんが怖がる姿なんて想像できませんから、恐らくあなたが期待しているようなシチュエーションにはならないと察せられますが?」

「だったら僕が怖がります!」

「それでいいべか……」


 呆れを顔に出しているモヒカンと、相も変わらず澄ました表情のウニ。そして何度も僕を懐柔しようと試みてくる長髪を見つめ、肩を落として嘆息する僕。


 変な人達に気に入られてしまったなぁと心から思います。そういえばイサミさんのバイト先で初めて知り合った時もこの三人は自分達の席に僕を座らせ、ずーっと雑談に興じていましたっけ。誰かと交流することが好きだったり案外と人懐こい所もあるので、バンドというイメージのために外見は随分と派手にしていますけれど中身はらしくない。だからこそ何度も思ってしまいます。


 人って本当に見かけや印象だけで判断してはいけないんですねぇ……!


 そんな気さくな三人組と話していると何だか無下にしていることに罪悪感さえ感じてきました。

 あまり時間にルーズなやつだと思われたくないのですけれど……遅れた理由はこの人達のせいにすればいいですかね。


「分かりました。じゃあお化け屋敷だけ付き合いましょう。ただし、イサミさんの所に行く時は僕を一人にして下さいよ?」


 そんな風に僕が渋々語ると三人の表情は晴れやかなものになるのでした。


        ○


 ――凄まじく怖かったというのが率直な感想です!


 お化け屋敷のクオリティとかそういうことではなく、大人げなく悲鳴を上げて震える三人を見ることが何だか言い知れない恐怖心を感じさせるのでした。加えて、暗がりで彼らを見たお化け役の人も思わず悲鳴を上げてしまうものですから、思いもよらないところから湧き上がる叫びに驚きも入り混じって心拍数は上がりっぱなし。おかげでお化け屋敷の内容なんて全く覚えていません。四方八方から飛び交う悲鳴、そして三人とお化け屋敷サイドの驚かし合いに気が気ではなかったのかも知れません。


 結局、三人が怖がって僕にずっとしがみついているものですからお化け屋敷内をスムーズには進めず、約束の時間を大幅に過ぎてしまいました。……にも関わらず、お化け屋敷だけと言ったのに他の場所も一緒に行こうと言い出す彼ら。その申し出は流石に断り、三人のつまらなさそうな視線を背で受けて僕は喫茶店を目指して校舎内を歩み始めることに。


 そして現在、僕はイサミさんのクラスが存在する三階の廊下を歩いています。するとプラカードを持った女子生徒が教室前で客引きをしているのですが、その子が随分と変わった格好をしているのが目に留まります。このクラスは一体何をやっているのか気になって入り口の上部を見てみると、木の板で作ったと思われる看板にカラフルな文字で「喫茶店」と書かれていました。


 あっさりと見つかったことに安堵しつつ、やっぱり手作り感が溢れていてまさに文化祭の模擬店だなぁという感想を抱いていたのですが――。


「衣装だけはえらいクオリティなんですね」


 思わず声に出してしまうほど作り込まれた衣装を身に纏った女子生徒が看板を持っていたものですから驚きです。


 僕がイサミさんのバイト先に期待していたようなウェイトレス姿。モノトーンを基調としているので派手さはありませんが、それでも若干コスプレのようにも見えるくらいに浮世離れしたデザイン。それでも無理がないように見えるのは、きっと女子生徒だから着こなせているということなのでしょうね。裁縫の得意な生徒がこの日のために仕上げたりしたのでしょうか。


 などと思っていると――。


「そうなんだよ。ウチのクラスは衣装が売りだから気に入ってくれたら寄っていってね!」


 愛嬌を交えた元気な語り口調で僕の独り言に返答し、教室内を手で指示しながら看板持ちの女子生徒が言いました。


 可愛らしく甲高い声で、僕が年下と分かっているからこその砕けた口調を語られたため妙な緊張感を覚えます。イサミさんはややハスキー気味な声をしているものですから可愛らしさはちょっと欠けていて。そして何より現役の女子高生ってこんなに背が低いものなんですね。イサミさんはファッションモデルのような高身長でして、普段からそんな人と一緒にいる僕としては目の前にいる看板持ちの生徒に背が及んでいないながら「女子高生って小さい!」と思ってしまうのです。


「そ、そうですね……なら折角なので」


 最初から入る気で来ているにも関わらず、何だか年上の愛らしい女性に勧誘されたことに気を良くしてしまって誘いに乗る形で教室の中へと入っていく僕。


 誘導されるまま入った内部は机を組み合わせてクロスを敷いたような客席がいくつかと、巨大なボードで飲食スペースとを仕切って調理場を確保しているようです。客の入りはそこそこといった感じで空席の卓へと案内され、腰掛けることに。看板持ちの子と同じ衣装を身に纏った生徒が客の注文を運んだりして行き来しており、察するに男子が調理担当で女子が接客担当の構図。


 もしかすると時間帯だったり客層で男女の役割を入れ替えたりという可能性もありますが、少なくとも現在イサミさんは接客担当みたいですね。


 ……だとしたらこの衣装を身に纏ってるんですかね!


 何だかワクワクしてきますが、今の所は姿が見られません。動いている人数的にクラスの総数と合わないため、時間帯でシフトが組まれて非番の人間は文化祭を回ったりしているのだと思われます。そして、そんなタイミングでイサミさんが休憩中なのだとしたら――あの三人組を許すわけにはいかないですね。こういうことが起きるなら時間はやはり厳守するべきでした。真っ直ぐ訪問していればイサミさんはきっといたはずなのに!


 そのようにイサミさんの姿を求めてきょろきょろしていると、一人の女子生徒が僕の注文を聞くため歩み寄ってきました。


「あらあら、落ち着かないみたいね。とりあえず注文を聞いてもいいかな?」


 何だか包み込むような柔らかさを感じさせる声で話しかけてきたその女子生徒。


 その声がもたらしたイメージどおりのふんわりとセットされた髪に愛らしい小動物のような顔立ち。まるで訓練された兵隊のように自覚的な可愛らしさを挙動へ忍ばせてくる様は看板を持っていた子も共通しているようで。総じて最近の女子高生、という印象を受けます。


「あぁ、すみません。メニューは何があるんでしょうか?」

「メニューはあそこの黒板に書いてあるんだけど、飲み物は珈琲やジュース。そこにホットケーキだったりサンドイッチみたいな軽食を組み合わせて注文してもらってるの」

「本当だ、書いてありましたね。すいません見てなくて」

「うふふ、いいのよ」


 自分の視界がいかに偏った部分だけ見つめていたかを猛省しつつ語った言葉に対して、トゲのない返事をしてくれる女子生徒。


 あぁ! まるで天使か妖精に甘く囁かれているかのように心地いいです!


「うーん、ジュースはあまり飲まないもので好きじゃないんですよね。となると珈琲しかないわけで。困りましたねぇ……ココアとかがあればよかったんですけど」

「あら、そうなんだぁ。ごめんね。でも珈琲にお砂糖を沢山入れても飲めないかな?」

「え。あ、お砂糖?」


 腰を低くし、上目遣いで僕の瞳を覗き込んで問いかける女子生徒の言葉に思わず狼狽を隠しきれずに晒してしまう僕。


「うん。ミルクとお砂糖を入れたら飲みやすくなるんじゃないかなぁ?」

「あ、え、あー。それなら大丈夫です……かねぇ?」


 大丈夫ではないのですが、流れに飲まれてしまってついついそのように返事をしてしまいました。


 飲めるか心配です……。砂糖とミルクを沢山入れても何だか元が珈琲だったことを認識しているからか、どうしても苦みに対して敏感な舌を作ってしまうんですよね。


「あ、あとはホットケーキをつけてもらえたらそれでいいです……」

「珈琲とホットケーキでいいのね。なるべく珈琲は薄く入れるようにしてもらうからお口に合うといいわね」

「あ、合うと……いいですね!」

「うふふ、何だか緊張しちゃって可愛い」

「い、いや……そんなことは」

「小学生よね?」


 年上の女性に「可愛い」と言われてもの凄く――それはもう凄く良い気分だったのですが、たった一言でここまで天にも昇るような気持ちが地に叩き付けられるとは思いもしませんでした。


 ええ、確かに僕は背が低いですけれど……。


「……中学生です」

「あ、あらやだ……ごめんなさい。私ったら! 今年、中学校に入学したのね?」

「いえ。来年からは高校生です」

「あっ」


 何かを察したような言葉の途切れと共に目線を僕から逸らし、口を真一文字にする女子生徒。勘違いさせるような身長をしておいてそんな表情をさせたのですから責任を感じずにはいられないのですが、こちらとしても理不尽に傷付けられたため、互いに言葉が出ない状況。そんな事態に接客する立場を思い出したのか女子生徒は咳払いをして仕切り直します。


「こ、高校はどこを受けるのかな? もしかしてこの学校を受験したり?」

「ええ。一応はその予定です」

「そ、そうなんだ……ウチの学校難しいんだよ? 君って結構成績とか良い方なのかな?」

「塾にも通ってますから、確実に合格する予定です」

「じゃあ頑張らないとね! お姉さん、応援しちゃうぞ!」


 どこか繕った感じで僕の合格祈願を口にしてくれた女子生徒。そこに気持ちがこもっているとかは問題ではなく、言葉と共にガッツポーズをする仕草があまりにも可愛らしくて一気に心が解けてしまう僕。何だか単純な自分が嫌になる気がしてきますが、心が喜んでいることは否定できないようです。


「が、頑張ります!」

「よし、その活きだ!」


 そのように僕の言葉へ相槌を打ちつつ、聞いた注文をボードの向こう側に設けられているのであろう調理スペースへ伝えに戻る女子生徒。流石に教室の広さ的に仕方ないのか、ボードの向こう側で交わされている会話も全て筒抜けで、僕の注文だったり珈琲をなるべく薄めにするような言葉添えも全て聞きとれました。ちゃんと配慮してくれているみたいです。


 うーんそれにしても、今どきの女子高生という言葉が似合う先ほどの女子生徒。流石は秀才が集まる学校だけあって、あの人に限らず気品と知性を備えた生徒が多いです。そして何だか、ああいう感じの女性に甘やかされるのも素敵だなぁと思ってしまう僕。


 とはいえ――こうしてイサミさんを同年代と比べてみるとやはり思います。


 付き合うまではイサミさんと言葉を交わす機会もありませんでしたから、それまでは外見に惚れていたのです。まるで現実から浮いたように美しく、高潔であるように思えて自分のクラスにはいない女性だと憧れました。そして同級生をこうして目の当たりにして思うのは――やはりどこにいたって埋もれず、輝いてしまうくらいにイサミさんは綺麗な女性なのだなぁということ。


 やっぱり女性として――人間として非凡なものをいくつも持っているのです。そして比較対象をこの場で得たことによって、イサミさんにとっての特別でいられる優越感に浸れるようで。気分良く注文の品が来るのを待っていられるのでした。


 ……これでイサミさんが接客してくれてたら何も言うことはなかったのですけれど。おそらく休憩とは思われますが、戻ってきませんね。まぁ、のんびり待ちますけれど


 そのように思考していると注文の品が運び込まれ、僕はまず問題の珈琲に目一杯の砂糖とミルクを入れて飲んでみることに。するとこれが意外にも抵抗なく舌を通り抜けたのです。そして鉄板から降ろされたばかりで熱を多分に含んだホットケーキを区切って口に放り込めば、甘みの凝縮されたメイプルシロップと共に口の中で優しい味が広がり、引き立てられた珈琲の苦みが持つ良さを理解できる気がしました。


 大人のものと認識していた味覚を楽しめたことに気分が更に良くなっていく僕。実を言えば公園の前にある例の喫茶店に行けばイサミさんは珈琲、僕はココアを注文するのがお決まりで、いつも「味覚が子供だなぁ」と気にしていたのです。イサミさんの比喩を借りればミルクや砂糖を入れているので「補助輪がついた自転車」ですが、甘いものに囲まれて引き立てられた苦みを楽しめたのは紛れもない事実でしょう。


 今度、あの喫茶店でも珈琲を注文してみますか――などと思っていた時、ボードの向こう側から話し声が聞こえてきました。


『……おい。交代の時間過ぎてるのに嵐谷のやつ、まだ帰ってきてねーぞ?』


 恐らく調理を担当しているのであろう男子生徒の声が、嵐谷――無論、このクラスに在籍しているイサミさんを指して話題に挙げたのでした。


 もう一口、と唇に触れかけていた珈琲カップを手に持ったまま止める僕。


 ……気のせいでしょうか。男子生徒の口調が何だか苛立ち、ぶっきらぼうなもののように聞こえたのです。どこか吐き捨てているかのような。まぁ内容からしてイサミさんに非があることのようですけれど、そのような話題がついさっきまで聞こえていなかったにしては――随分と温まりきった語り口調というか。


 そもそもからして、イサミさんに何か不満でも持っているような?

 いえ。それは僕の先入観というか、予め脳内で引き連れていた可能性というフィルターを通した恣意的な解釈なのかも知れません。


 そう、思ったのですけれど――。


『本当にあいつ自分勝手っていうか、気の向くままっていうか……。協調性がないのも大概にして欲しいよね』


 今度は女子生徒の声。随分と苛立っていて聞くものの心が凍てつくような言葉と口調でしたが、それは間違いなく……天使だとか妖精などと印象の僕を接客してくれた女子生徒が発したものでした。ボードの裏側から響いてはいますが、声色は薄っすらと柔らかで優しそうな印象を残していて。まるで別人のように変わり果てた一面に、心臓が冷たい六本の指で握られる感覚。


 今度はもう明確に――蓄積した不満が爆発したような意思が含まれていました。


 気品と知性を兼ね揃えた生徒だと思っていたのにどうして、こうも愚かな掛け合いを行っているのか……そんな風に疑問を抱えた瞬間、いつだったか自分でそういったことに関して懸念をしていたのを思い出します。


 想像の範疇でしかなかった思考が現実味を帯びてきたようで。


 同級生からは嫉妬の目で見られていそうだ、と。県外から一人暮らしをして通う生徒までいるこの高校にはあちこちの中学から秀才が集まるわけですから、イサミさんのような人が一人いるだけで頑張ることが馬鹿らしくなりそうだ、と。


 そのように考えたことがありました。思えばそうなのです。僕やあの三人組のように素直にイサミさんを尊敬できる人もいれば、その逆だって――。

 

 想起する最中も吐き出される不満は絡み合って会話となっていく。


『今回だってもの凄く非協力的で準備も本気でやってるのか分かんないっていうか……。なんか、私達のことを見下している風で腹が立つよね』

『まぁ、そりゃあ見下すんじゃね? 我が校が誇る天才頭脳様だし。あれだけぶっ飛んで頭が良けりゃ俺らと同レべルで何かに取り組むなんて出来るわけないでしょ』

『言えてるかもねー』

『そもそも頭が良過ぎて逆におかしくなってる感じするよね。嵐谷さん、自分が特別な存在だって自覚してるのか知らないけど、滅茶苦茶やりまくってるじゃない? で、先生も優秀な生徒のご機嫌取りたいのか強くは言わないし』

『まぁ、俺ら凡人には理解できないんだろーよ。……あーあ。嵐谷、顔やスタイルはいいのに中身があんなに破滅的なんだもんなぁー。本当に惜しいわぁ』

『うわぁ、中身があれだけ終わってるのに外面で評価持ち直すとか男って本当に単純よね』

『女子的にアレはマジでないんだけど』

『いやいや、ほんと外見だけだぜ? 中身もまともだったら付き合うんだけどなぁー』


 何となく発した男子生徒の不満はあっという間に悪口となり、言葉を重ねるほど口調の中に嬉々としたイントネーションが強まっていく。もう何人がその悪口に加担しているのか聞き分けられなくなってきた状況。お客にも聞こえているであろうことをあまり気にしていないのは所詮文化祭だったり模擬店だから、という油断なのでしょうか。


 いえ――そんなことはどうでもいいです。


 落ち着きを取り戻すために震える手で珈琲を口に運ぼうとする僕。

 しかし、すぐに気付きます。


 ……あれ、何でこんなに不味いものを口に含もうとしているのでしょう。砂糖とミルクでひたすらに汚された甘ったるい飲み物を喜んで飲んでいた自分は一体、何だったのでしょう?


 バクバクと鼓動が内側で反響するのが聞こえます。強く早鐘を打つその脈動は周囲に聞こえているのではないかとさえ思ってしまうくらいに激しくて。まばたきをすることも忘れ、内側で熱を帯びていく感覚がどんどんと理性を溶かしていくのを感じます。そして思考能力の低下に逆らえなくなっていき、うるさいくらいの鼓動が体の内側を反響するも、生徒達の悪口だけは意図して集めているかのように耳へと入り込み、まるで薪をくべるみたいに燃え上がる感情を育てていく。体はやがて自制に打ち震え、しかし自分の中で制御下に置かれている感覚のリミッターが一つ、二つと音を立てて弾け飛んでいきます。


 そういえば前にもイサミさんのために怒りを露わにして失敗したことがありました。あの時は大恥をかいて身が萎縮する思いがしましたね。


 ならば今回もそんなオチが待っているのでしょうか?


 ――待っているわけがない。


 そして、黙っていられるわけがない。

 感情が僕をどんどんと支配していく最中、聞こえてくる声。

 ひたすらに頭の中で反響する罵詈雑言。


 自分のことのように――いえ、自分のこと以上に悔しい!


 きっと一つだって及ぶことを持たない平凡な人間のくせに優れたものを素直に認めることも出来ず、捻じ曲げて筋を通した解釈で笑いあっている。世の中にはこういう人がいるのです。消えずに一定数が必ず存在していて。彼らは他人の凄い所を素直に「凄い」と言えず、優れた部分のどこかに隙間はないかと探して回ることが楽しくて仕方ない下劣な人種なんです!


 お前らに――お前らなんかに、イサミさんの何が分かるっていうんだ!


 僕の中で彼らに対する憎悪がドス黒い渦となって頭の中をぐるぐると回っていく。しかし、それでも体裁だとか空気を壊さないようにとほつれた理性で必死に感情が暴れ出すのを制することは出来ていたのです。我慢している自分に対してさえ苛立ちを覚え、暴れたがる心が「怪物」を模して理性の鎖を食いちぎること、それに耐えていたのです。


 ――でも。


 そんな最中も繰り広げられる会話の中で。

 口々に漏らす汚らしい言葉の数々。

 その中で誰か一人がぽつりと、決定的な言葉を口にしたのです。


 それは差別的で、あまりに下劣で、口にした本人の品格が本気で問われるような言葉。





『嵐谷さんって、正直――    よね』





 持っていた珈琲カップを床に叩き付けていました。


 鳴り響く破砕音。

 客の注目を集める行動。


 僕もその音で初めて結果を認識しました。カップは砕けて散らばり、珈琲はヘドロのように床の上をじわりと広がっている。理性の管轄外な行動に僕自身も自覚が遅れるほど脳内は沸騰していたのでしょう。ですから気付けばボードで仕切られた調理スペースの前に立っていました。


 次の瞬間には彼らを隠し隔てるボードを手で力任せに押しのけて調理台としていた机の上に腰掛け談笑している複数人の男女の中から無差別に一人の胸倉を掴んで引き寄せひたすらの憎悪を込めて可能なら眼力だけで殺してやろうという気概で睨みつけます。


 そして人生で出したこともないような荒々しい声で――僕は叫ぶ。


「お前ら、今言ったことを撤回しろ。何も知らないくせに……何一つ知らないくせに好き勝手言いやがって! 撤回しろ!」

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