嵐谷イサミの十戒 その七 後編

 傷む頬を手で抑えながら、僕は向けられた視線を素直に見られませんでした。


 あれから僕は悪口を言っていた生徒の一人に掴みかかってしまったようで、場は騒然とした状況。もみくちゃとなった拍子に相手の生徒から頬に一発、拳による殴打をもらってしまいまして。やり返そうと向かっていった瞬間、割って入ってきたイサミさんが僕の手を掴み、走り出して現在――使われていない教室へと逃げ込んだのでした。


 息を切らしてお互い肩で呼吸をしている時間が続いており、その最中で僕の心に横たわるのはひたすらな後悔。やってしまった、という自覚。こんな行動が自己満足でなくて、何だというのか。イサミさんのためには決してならず、自分の中でも晴れ晴れとした感情の一つもない。ただ自分の不満を叩きつけただけの責任感なき行動。


 ――何故、あんなことをしてしまったのか。


 そんな無言の中、先に口を開いたのはイサミさんでした。


「どうしてあんなに暴れてたんだよ。ひょっとして珈琲に虫でも入ってたのか?」


 どこか茶化すように語っているイサミさんですが、その口調が作られたものであることは明らかでした。あれだけ暴れる事態となった理由がそんな些細なものであるはずがない。そして、僕がそのようなことで怒るタイプではないと分かっているからこそ、それはあくまでも会話の入り口。


「……本当にそうだと思いますか?」


 素直になれず、目線を逸らしたまま不貞腐れたような返答をしてしまう僕。

 まず謝るべきなのに――それが出来ないのは何故なのでしょう?


「流石に思わないよ。お前はそんな些細なことで怒るタイプとは思わないから、よっぽどのことがあったんだろうな。……だから教えて欲しい。何があったんだよ?」


 僕の両肩にそっと手を触れさせ、正面から瞳を覗き込んでくるイサミさんをやっぱり、直視できませんでした。


 何に対して怒っていたのか。それをイサミさんに告げれば、知りたくもない事実を聞かされることになるのではないでしょうか。あなたの陰口を言っていたのが許せなかった、とは言えないのです。隠れている内は陰口のままでいさせてやればいい。無理に知らせる必要はないと。そんな風に口を噤んでいる僕をじっと見つめていたイサミさんは、自身の中に浮かんだ予測をぽつりと口にします。


「とりあえず、お前はアタシのために怒ってくれてたんじゃないかって思ってるんだけど……それは間違ってるのか?」


 イサミさんの推測に対し、素直に「そうです」と口は動かせませんでした。


 実際、僕はイサミさんのために感情を露わにし叩き付けたのだと思います。それは紛れもない事実で。自分の好きな人が悪く言われている状況に対して「憤慨はあなたのためです」と胸を張って言えたらいいのですけれど……。こんな感情の破裂がイサミさんのためになっているはずがない。


 でも、名誉を守りたかったという動機は汚したくないから、イサミさんに対して掛けた迷惑を謝ることもできないのでしょう。


 じゃあ、何のためだったんでしょうか?

 ……分からない。


 ですから――。


「……自分のためです。自分が納得するために、やったんです」

「嘘だな。お前はそんな奴じゃないよ」

「どうしてそう思うんですか?」

「ずっとお前を見てきたからだ」


 芯のある強い口調で語ったイサミさんの視線を少しずつ躊躇いがちに見つめる僕。


 自己満足であることを否定されてしまったら、もう「あなたのためです」と言うしかないんでしょうか。

 本当にそれでいいんでしょうか。

 そんな図々しいことを口にする自分ではいたくない。


 でも――この人のために恥も外聞も捨てた自分を褒めてほしい心もあって。


 そんな感情が浅ましくも渦まき、僕は惜しんで海底に沈めることもできずにいた蛮勇を掲げたくなる。


「確かに、今回のことは僕がイサミさんと関係していなければ起こり得ないでしょうね。そこは認めます。……でも、あなたのためだなんて素直には言えないんですよ。イサミさんのためになっていない行動はもう、ただの自己満足なんです。……いえ、僕すら満たされないただの我がままだったんです」

「それがアタシのためだって、アタシ自身が認めても駄目か?」

「イサミさんのためになる道理がないじゃないですか。……ただの迷惑でしかなんですよ」

「そうかな。恐らくだけど――あいつら、アタシの悪口でも言ってたんだろう。だったらそんな奴らに対して怒るのはアタシのため以外、あり得ないんじゃないか?」


 事もなさげに語られた言葉に僕は思わずはっと息を飲んで、驚きを露わにしてしまいます。


 そんな表情で簡単に読み取られてしまったのかイサミさんは「やっぱり」と小さく口にして嘆息し、おおよその状況に対して納得した様子を見せました。


「何でそれを知ってるんですか。知ってるってことは……」

「あんなもん日常茶飯事だよ。お前は陰口だと思って必死にアタシへは伝わらないよう口を噤んでくれたんだと思うけど、そういうことならやっぱりアタシのためじゃないか」


 平然と語るイサミさんに対して、僕の心はぎゅっと締め付けられるような悔しさにも似た感情で一杯になってきました。


 あんな風に悪意を叩きつけられることが日常化している。それはここへ来る前から漠然と予想していたことです。彼らは本人が目の前にいようが構わず悪口を語っているのでしょう。きっと、陰口に留まらず。そこまで明確な予想ではありませんでしたが、そういった悪意がイサミさんの他人に無関心ではいられなくなった心を育てた原因だろうとは思っていました。


 でも、そのように予期していてる僕がやはり――驚きや悔しさを隠せない理由。


 それは、ためらいなき悪意がずっと日常の中にあって。

 そんな状況に身を置いて、どうして平然としているのかということ。


 どうして――イサミさんは平気なのでしょうか?


 突如として湧き上がってくる感情が、それまでの悔しさに似た悲哀を湛える心境を塗りつぶしていきます。やっぱり僕の予感は正しくて。裏切られたかった全ての感覚を勝手な解釈に押し付けて見ないふりをしていた。見ないふりをしているのですから、知っていたということ。そのような裏切られたい思いを胸にしていたから――やっぱり、僕の行動は。


「きっと聞いていてお前自身は許せなかったからあんな風に感情を爆発させた。……そんな感じなんだろうな。お前はアタシのためでない限りあんな風に暴れたりしないだろう。でもな。嬉しいけど、そこまでしてくれなくても大丈夫だぞ。アタシは気にしてな――」

「何なんですか、それ」


 重く、強い口調で僕はイサミさんの言葉を遮りました。

 そして瞬間、僕は理解したのです。

 自分が無意識下でどうしてあんな行動を取ったのか。


 あの時――イサミさんに判断を委ねることは間違いだったのです。


「……どういうことだよ」

「そんな風に言われていることを知っていて、それも日常的だっていうなら――イサミさん自身は、何とも思わないんですか!」


 もうイサミさんの言葉など耳には入っていませんでした。それはもしかすると、先ほどまでとは違った意味の怒りを覚えていたからかも知れません。


 苛立ちが募っていく。

 違う色をした怒りが僕の中で燃え上がっていく。


「そうですよ、あなたのためなんですよ! そんな風に……気丈に振る舞っているから、傷付いた素振りも見せないから代わりに僕が怒るんです。自分のことのように悔しいから! 僕は……僕はイサミさんの素敵な所を沢山――沢山知ってるんです。あいつらが気付けもしない魅力をいくつも知っているから怒ったんです。何も知らないくせに好き勝手言うなって、そう思って仕方なかったのに! そんなあなたが……イサミさん自身が平然としていないで下さいよ!」


 感情に任せて吐き出された言葉の全てが叩き付けるような叫びとなって。差し向けられた想いに目を見開いて驚きを露わにするイサミさん。そんな姿を強く睨むように見つめ、僕は視線を捉えたら離しません。今度はイサミさんが視線を逸らそうとしていたから。


 ――自分の興味が向かないものに対しては無関心。

 ――きっと自分に投げつけられる悪意を振り払うこともなく、凛としている。


 イサミさんはそういう強い人だからと思い込んでいるのなら、どうして僕は守ってあげたくなったのか。必死に彼らの言葉を否定しないと気が済まなくなったのは何故なのか。


 過去に助けようとして恥をかき、自分で何とかできる人なんだから必要ない気回しなのだ――と、感じたことがあったのに。


 それは無意識に気付いていたからなのでしょう。

 意識していながら、無意識へと放り込んでいたからでしょう。


「僕自身ももっと早く気付くべきだったんです。何事も平然としていて、傷付かず悲しまない。いつだって笑っているような人だと思い込んでいたんです。強い人だって。何にも屈しない凄い人だって。でも今は違います。そんな印象や表面しか見ていない自分が今は許せないですよ」


 イサミさんの悪口を聞いた時に感じた怒りとは異なる色をした炎が胸の中に灯る感覚。それはイサミさんが自分を大切にしていないように見えたことへのものでした。そして今、また色を変えて燃え上がる怒りが自分に矛先を向け、悔しさが募っていく。


 僕のやってきたことはもしかすると、イサミさんの悪口を口にしたクラスメイト達と同じなのかも知れません。印象で判断して、イサミさんを特別の名札がついた枠組みに追いやり遠ざけ、内面を法則でしか考えなかったから……「そういう人だから」だとか「イサミさんらしい」なんて言葉で視野を狭窄させてどんどんと真実は曇っていった。まるで言葉が話せない犬に十戒を当てはめ、胸中を探るような真似をして向き合わなかった! 


 予兆はあったのです。


 なのにイサミさんの胸中で雨雲が今にも泣き出しそうな様相で黒々と空を汚していることを――見てみぬふりなどして。


 それはもしかするとイサミさんが特別な存在であることに強い憧れを抱いていたから、弱い人であって欲しくなかったのでしょうか?


 ――馬鹿な話だ!


 変化していくイサミさんらしさに自分の恋心が冷めるのではと懸念し、無意識に変わっていく部分から目を逸らしていたのです!


 そんな心境を今は、惹かれ傾いて熱くなることを止めない心が嘲笑っている。弱さを蔑んでいる。そんな微弱なものじゃないと知りながら、どうして盤石だと信じられなかったのか。変わっていくイサミさんに対して、今日までの日々にできることだってあったのではないか?


 自己嫌悪を胸に抱き――しかし、敢えて振り切って僕は語ります。

 

「答えて下さい。本当は悪意を向けられて平気ではいられないんでしょう? 傷付いているんだと思うんです。悲しんでいると感じるんです。僕はあなたを守りたいって思った……それは、あなたが本当は強くないことに気付き始めていたから。……そうなんでしょう?」


 僕の言葉に視線を泳がせ、混乱を露わにするイサミさん。


 感情の整理がうまくいかないのか、困惑の中で唇が言葉を紡ぎかけては震えるだけを繰り返し――ようやく口を開きます。


「アタシは……大丈夫だよ。あんな奴らなんて興味ないから、平気。アタシがそんな些細なことで気に病んだりするわけないだろ? 本当に……心配いらないから。ただ、お前の怒ってくれた気持ちが嬉しいってことを言いたいだけで」


 わざとらしく快活な口調で返事をしつつ、笑みを浮かべて安心を誘うイサミさん。それは僕の目でなくともそのように映ったはずでしょう。


 人は同じままではいられない。

 変わっていくからこそ、気付かなければならなかったのでしょう。

 イサミさんだって変わっていく。


 だからこそ――。


「……妙ですね」

「え?」

「イサミさん……僕は今、嬉しいのかも知れません」

「……嬉しい? 何がだよ」


 思わず口元に笑みが浮かんでしまう僕は、その名前も分からない感情の高ぶりに乗せて口にします。


 目の前で不安感をほんのりと露わにし始めたイサミさんを見つめて。


「ちゃんと嘘、つけるようになったんですね」


 そのように口にした瞬間――揺さぶられ、衝動に駆り立てられて忙しく暴れ回っていた混沌とした感情。それが不意に涙となって僕の頬を滑り落ちたのです。


 イサミさんは、嘘をつかない。

 そんな定義はもう、とっくに消えてしまいました。


 人がいつまでも同じであるはずがない。

 そんな単純なものであるはずが、ない。


 その事実に至った瞬間、僕の中で感情が溢れたのでした。

 震える手が、流れる涙が感じさせた。


 僕も、目の前にいるイサミさんも同じように感情を抑えることができないんだと。


「嘘なんかじゃ……」

「イサミさんが僕の肩に触れている手が……さっきからずっと震えてるんですよ。それに泣いてるじゃないですか。気付いてないんですか?」


 僕の言葉でイサミさんはそっと頬に手で触れて、いつの間にか自分が涙を流していたことに気付いたのでした。混乱したようにおろおろと戸惑った挙動を取れば取るほどイサミさんの瞳から涙が溢れ出して、僕はそんな姿を穏やかな心で美しいと思うのです。


「あれ……何でだろう。何とも思ってないのに。そのはずなのに、何で止まらないんだろう。……あぁ、きっとアレだよ。埃が目に入ったのかな?」

「違いますって。今まで知らなかった好意の入り口に立って初心な反応を見せたみたいに、他人からの悪意と向き合って心が悲鳴を上げているんですよ。……もっと早く気付いてあげられればよかったんです。信じてあげられたら、よかったんです。あなたはいつの間にか……こんなにも弱くなっていたのに」


 僕はそのように自分の心の中で結びを得たような感情を口にしつつ、イサミさんの行動や言動の裏側を紐解く推測が頭の中で巡っていました。


 きっと、イサミさんは今日、僕がここに来ることを望んでいなかった。


 ――僕が、イサミさんに対して悪意を向けるクラスメイトを見れば、不快になることは分かっていたから。イサミさんのために感情を爆発させることを予測していたから。


 でも「来るな」と言えば何らかの裏があるように聞こえるから、せめて自分が席を外せばいい。そうすれば自分の存在がクラスメイトの念頭になくなって、悪口をわざわざ口にしないかも知れない。そして、こっそり教室を見つめて僕が帰るのを待つ予定だった。でもそのために時間を指定していたのにちょっとした足止めを僕が喰らったことで狂ってしまい、休憩時間をオーバーする事態が起きてしまった。


 本当は来てほしくなかったに決まっている。


 でも、そのようには言えなくてイサミさんは嘘に甘えた。

 そんな言葉に嘘をつかない人だからと僕も分かっていて甘えた。


 まるで苦みをごまかすため珈琲にミルクや砂糖を注ぐみたいに。


「……最近、どんどん自分が自分じゃないような感覚になってるんだよ。周囲から投げかけられる言葉が頭に残ったりして感情が乱されることもある。そんなアタシになってしまったら、お前にとっては期待外れなのかなって思うようになったんだ。今までのアタシみたいに、興味のないことに無関心ではいられない。色んなことに気を取られるんだ。気を取られて……変わってしまったらお前までアタシを嫌うようになるんじゃないかって思い始めたんだ。きっとお前が喜ぶような変化だけがアタシに起きたわけじゃなかったから」


 内心で膨れ上がる不安感に煽られたように、頼りなくイサミさんが口にした本心。


 ……何だか、分かる気がしました。

 僕だって真逆の考えを無意識に抱いていたのですから。


 人は誰かを好きになると、嘘をつき始めます。ちょっとでも自分を良く見せたかったり、悪い部分を見られぬように繕ったり。イサミさんの中でもそういった変化は起こっていたのでしょう。僕が好きだと語っている「自分」が変わっていってしまえば、いずれは嫌われるかも知れない。そのようにして変わっていく自分を隠すこと自体もイサミさんにとっての変化だというのに。


 そんな嘘の原動力はイサミさんが他人から嫌われる苦痛を知ってしまったということ。今まで他人など無関心で何とも思ってこなかったのです。誰も好きにならなかったイサミさんは他人に対して平等に無関心を貫けていたのに、その均衡が崩れたから――他人の悪意を感じられるほどに弱くなってしまった。


 孤独ほど強いものはないから、もう一人じゃないイサミさんは一人では強がることしかできない。


 本当に僕は、そんな我慢をさせるなんて――!


「好き嫌いっていうのは興味の中での左右みたいなものであって、それらの対極にあるのは無関心だって言いますよね。きっとイサミさんは僕と関わる中で、誰かと関係することや興味を抱いたために、ああいった他人の悪意を無視できなくなったんでしょうね。表の存在って、暗に裏があることを指し示していますしね」

「じゃあ……アタシは、誰かを嫌うことや嫌われることをその逆から教わったっていうのか?」

「だから無関心だったものを無視できないんでしょう。対極のものは比べてしまいます。比べるから差異がはっきりとして自覚するんですから」

「なら……なら、こんな気持ちになるのはお前のせいじゃないか」


 イサミさんは弱々しい声でそう呟くと膝からその場に崩れ、僕の服を掴んですすり泣いてしまいました。まるで責任を問いかけるようにぎゅっと引っ張って。


 今までのイサミさんが幻想であったかのように弱々しい姿。


 心がそっと、くすぐられる。

 決断を迫られている。


 ならば勝手に好きになった僕が、好き勝手に他人を変えたことだけは我がままにしたくない。



 そんな責任、それくらいなら――背負える!



 僕は同じように膝を折り、感情に打ち震えて泣くイサミさんの体をそっと抱き寄せたのでした。暖かく、一人分の存在を感じる中に孤独感や不安感に苛まれて怯えるような震えがあって……僕はそんなものがこの人の中で悲しみを生み出していることに共鳴して、涙が溢れてしまうのです。


 何とかしたいと、強く思うのです。

 二度と、こんな涙を流させぬように!


「こんな風に、こんな風になっちゃったのは……お前のせいなんだ! お前が好きだなんて言ってくるから……言い続けてくるから、アタシはこんなにも苦しいことや辛さと向き合わなくちゃならなくなったんだ!」

「確かに僕のせいですね。……でも、謝ったりはしませんから。謝ったり、しませんから!」


 子供のように躊躇のない涙混じりの声で強く感情を叩き付けるイサミさんの全てを受け止めるように僕は優しく、しかし燃え上がるような気持ちを込めて返事をしました。


 そんな言葉と、互いを通い共有するようになった体温に溶かされて、内側に秘めていた感情はどんどんと放流していく。イサミさんの内側で凍り付き閉じ込められていた感情は際限なく溢れ出して、震えや涙は、止まる様子を見せませんでした。


 そんな姿を見ていれば思います。好きは嫌いを明確にする単純なスイッチではなく、もしかしたらこの人の中でそういった感情が抑圧されていただけなのかも知れないと。


「怖いよ、怖いんだよ! 誰に嫌われるより、お前に嫌われるのが怖いんだよ! でも、どんどんとアタシは変わっていくんだ。弱々しく、頼りなくなっていくのが分かるんだよ! でもアタシは誰かに嫌われないようにするなんて、どうしたらいいか分かんないから……」

「大丈夫ですよ。嫌ったりするわけないじゃないですか!」

「嫌いに……嫌いになったりしたら承知しないからな! 許さないからな! 見損なったりしたら、もうアタシは壊れちゃうからな!」


 なりふり構わず心の底を打ち明けるイサミさんは、まるでしがみつくように強い力で僕の体を抱きしめていて。それを感じれば感じるほどこの心は締め付けられ、愛おしい感情で一杯になるのです。


「心配しなくても大丈夫です。僕はあなたほど器用じゃないですけど、でもたった一つのことを貫くくらいはできるはずですから」


 僕はイサミさんの不安を何とか取り除けないかと考え、そして――ふとした瞬間に自分で語った言葉に気付かされたのでした。


 それだけのことだったんだ、と。


 イサミさんのことが好き。その感情だけはずっと続いていて、そんな日々でこの人は変化していった。そんなイサミさんの変化を感じていた日々でずっと疑問だったのです。


 何がこの人を変えたのか。

 僕の、何が――?


 それが分かった気がしたのです。この人が誰かから向けられる悪意に怯え、悲しんでしまうくらいに変わってしまったのはまるで毒のような言葉のせいで。ずっと閉じ込め、感じてこなかった感情を溶かしてしまう、まるで熱を持ったような想いのせいで。だからイサミさんにはなくて僕にだけある唯一のものが、この人を変えたのかも知れないと。


 目を閉じ、思い出します。イサミさんと付き合うことになってからどんどんとこの人を知っていき、その度に気持ちが深くなるような感覚がしたのを。


 そして今だって深くなっていく。

 想いが重なるほどに沈んでいく。


 ――深海に身を投じるみたいに。


 毒であり薬でもある想いは泡のように刹那的で続かない。だからこそ続けていくべきなのでしょう。人間は誰かと関わることで傷付くくせに、結ばれないと不安に震える愚かな生き物だから。深海の奥底で息苦しさに死んでしまわぬように。僕が貫いてきた一つの言葉でずっと続けていられれば――終わらない。

 

「イサミさん、僕はあなたのことが好きです。これからだってずっと好きで……それは変わらないでしょう。あなたがそんな言葉で弱々しくなってしまったって、僕は口にすることをやめたりしません。だって、それが僕をさらに恋へ落としていくんですから。知れば知るほど――好きになるんですから!」


 口にする度深まっていく、強まっていく言葉を伝える僕。


 ありふれている言葉ですけれど、これでいいのでしょう。曖昧なものでしか繋がれない人間の感情が最も原型を留めて体を飛び出していく、唯一の言葉なのですから。


「うん」

「好きで好きで、仕方ないんです」

「……もっと言って欲しい」


 その甘えるような言葉に呼応してイサミさんがぎゅっと、僕の体を強く抱く理由が脳ではない別のどこかで感じ取れる感覚。甘い痺れに全身を浸したような、眩暈にも似た幸福感。 


「きっと苦しくなっちゃいますよ?」

「別にいい。お前のために苦心するのは、悪いことじゃないから」


 互いが見つめ合えるくらいにまで抱きしめていた力を緩めて、そして額同士をくっつけて僕はゆっくりと微笑みを浮かべて口にします。


「僕はイサミさんが、好きです」

「……うん。アタシも好き」

「やっと、言ってくれましたね」


 はにかみ語る僕に対してイサミさんは幸福な笑みを浮かべ、また瞳から涙が零れる。


 暗雲は泣き出して雨粒が地表に降り注ぐ。ひとしきり降り続けて泣き止んだら、いつの間にか雲は消えさって青空の中で太陽が燦然と輝く。そのようにして少しずつ背を伸ばしていったイサミさんにとっての変化という芽は今、美しい花を咲かせた。


 いつか、どこかで見たような花を。


 そしてやっと思いが重なったことに僕の心さえも満たされていくのを感じます。


「そんな風に誰かを一途に想えるお前を見ていると、いつの間にかアタシ……こんな風になっちゃったんだ」

「それは素敵ですね」

「……そう、かな?」


 恥じらいを忍ばせた表情を浮かべ、変わっていく自分を徐々に認めていくイサミさん。知らない部分に触れて、実は思っていた以上に弱さを隠していたことを知って。また自分が恋に落ちていく感覚に苛まれるのを感じます。


 知れば知るほど、触れれば触れるほど。

 際限なく、限界なく――続いていく。


「ええ。ですから、もっとあなたのことを好きな僕に変えてしまって下さい」


 




7.変化を愛する私も、人が変わっていくことには抵抗があります。私が昨日のようでいられなくなったり、あなたが今日のまま明日を迎えないことが何よりも怖いのです。

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