■嵐谷イサミの十戒 その五
嵐谷イサミの十戒 その五 前編
手に馴染まないカメラを手に電車に揺られていました。
比較的都会化が進んでいると思われる僕らの住む地域でも、少し走り出せば流れる景色には段々と緑が増えていき、のどかな田園風景、そして遥か遠くでそれらを山々が囲んでいることにちょっとした驚きと感動を感じます。その気になればいつだって飛び出せる街の外にはこんな景色が存在していたのかと、ただひたすらに。
八月、夏休みも中盤戦となりました。今日は待ちに待ったイサミさんとの旅行当日ということで、電車にて割と有名な温泉地へ泊りがけで行くのです。海や山など夏の代表的な観光スポットも検討したのですが、泊まる場所の確保に苦労しそうなイメージがありまして。今から行く温泉地はシーズン的に混んでいることはなさそうで、唐突に立てられた計画でも宿を押さえることができるだろうという理由で決定したのでした。
最初は皆が冷たい海やプールに身を投じている夏に、わざわざ熱い風呂に入るのはどうなのかとも思いました。しかし、イサミさんが言うにはこの時期の温泉はぬるめに設定している所もあり、冬には厳しいであろう人肌くらいの水温が夏だとプールや海なんか比にならないほど心地よいらしいのです。それに汗をかけばすぐ流せる環境というのはそれなりに良いのかなぁという気も。
そういう訳で家には自由研究という名目を用いて宿泊の許可を、そしてカメラも借りてイサミさんとの旅行に出発したのです。
それにしてもカメラというのを僕は携帯に付属しているもの以外使ったことがありません。ですのでさっきから僕は色々と動かしてみているのですけれど、さっぱり使い方が掴めないのです。まぁ、カメラ自体は父の所有物ですから使い方を聞いてくればよかったのかも知れませんが……どうにも気が進まなかったので。
そのように難しい顔をしてカメラと悪戦苦闘している僕に対して、向かいに座るイサミさんが呆れたように嘆息しました。
「お前、携帯にカメラあるって言ってたじゃないか。なのに何でそんな仰々しいのを持ってきたんだよ」
「現像したいんですよ。そりゃあ携帯のカメラで撮った写真も印刷できますけど、画面に表示して見られますから何だかそれで納得しちゃいそうで。この前、イサミさんが語っていた本物に対するこだわりですよ」
「写真の時点で本物とは言えないだろ。現像して実物にしようとも、結局は撮影したごまかしなんだから」
「でも美しいものをその瞬間のまま保存したい、手に入れたいって欲求で人はきっと絵を描き始めて……そして写真まで到達したんです。そんな思いはもしかしたら、失われていくものをごまかすこととはちょっと違うかも知れませんよ?」
僕はそのように言いつつ、何となくレンズを覗き込んでイサミさんをフレーム内に収めてみることに。するとイサミさんは窓際で片肘をつき、外の風景へと顔を背け「アタシなんかとっても面白くないだろ」と恥ずかしそうに言います。
「でも、イサミさんを撮るために持ってきたんですよ」
「何でアタシなんだよ。もっと沢山あるだろ。例えば……ほら。風景とか! 温泉地はもの凄く絵になる風景してるんだぞ」
「じゃあ素敵な背景は約束されてますね」
「お前、今日の主役をはき違えてるなぁ」
イサミさんはそう言って、再び溜め息を吐き出しました。
僕はそんなイサミさんの反応に対して、補足するように言葉を言葉を付け足します。
「一応言っておきますど、これは代わりやごまかしなんかじゃないんですよ? 撮った写真では代えられないですから。イサミさんを欠いて、心に空いた穴はきっと変わりなく風が吹き抜けるだけです。思い出を作るっていうのは今の証を残すということ。そして、過去になっていくものを記憶ばかりに任せておく不安感に勝てないから、撮りたくなるんです」
ちょっと寂しそうなイントネーションになってしまったと感じた僕は言葉の締めくくりをなるべく柔らかな笑顔で。そのように意識したのですが、イサミさんは何かを察したように神妙な面持ちで「確かにそうだよな」と言いました。
「どうしたって悔いのないようにしないとって思っちゃうよな。思い出を作らなきゃ、残さなきゃってな。この旅行って結構、ネガティブな理由で企画されてるわけだし」
イサミさんはどこか自分の察しが悪かったことを悔いているような歯切れの悪さで言いました。
どう繕ったっていつか来る終わりの時に、心を引き裂くような痛みは避けられない。そしてその痛みを和らげるとか、治癒してくれるようなものを作るための旅じゃないのです。
思い出が僕を救うことはないでしょう。素敵な思い出なんてもの、作れば更に別れるのが辛くなるだけなのですから。それでも、二人でいる時間をより充実したものへと変えることはやめられない。毒だと分かっていても止められないのです。そうして「切り離せば止まる痛み」にしがみついて、いつか終わりを迎える。離れれば身を割かれる思いがするのでしょう。もう自分の一部みたいな存在だから。
快楽を貪る手が止まらない。ひたすら、限りある時間で愛しい瞬間を掴んで握りしめ、甘い感覚が鮮烈に幸福を教え込む。そんな大切な人との思い出が形に残れば嫌でも思い出す。中毒みたいにまた欲しくなって、会いたくなって、恋い焦がれて遠くにいる人を思う。
三月以降の僕が苦しまない方法はきっと、去っていったイサミさんを忘れてしまうことなのでしょう。でも、苦しんだって僕は今の気持ちを捨てたくない。だからこそ、強い思い出が欲しいと言ったのです。
忘れ、癒す薬より――痛み、忘れぬ毒を選ぶ。
苦しみ抜いても忘れないことを選んだ決意が僕の弱さをいつか殺すから。
代わりなんかじゃない。
変わりたくないから――証を残す。
そう思ってか、僕はカメラを無意識に撫でつつそっと語ります。
「それがどんな理由から始まっていても……僕は素敵な思い出の残る旅にしたいです。忘れられないくらいの大事な宝物になるような旅に」
「うん。そうだよな。せっかくだし、楽しまないとな」
僕の言葉に快活な笑みを浮かべて同意してくれるイサミさん。そんな表情に僕も同調して明るいものへと変わっていくのを感じました。
しかし、表情の裏で僕は未だに振り切れていない思いがあるのを感じているのです。先ほどから語っているように、きちんとイサミさんと三月で別れることを前提として思い出を残そうと。悔いのないように楽しもうと心に決めているのに、どうしたって頭から離れずに僕の中で渦巻いているのです。
イサミさんはどうしても――どうしても旅に出ないといけないんでしょうか?
考えてしまうのです。自分といることや、それに伴う時間はどうしたって地平線の向こう側には勝てないのかと。そして、どう考えようともイサミさんの生き方は手の届く距離の向こう側にしかないのかと――思ってしまうのです。
少しずつ変化を見せてきたイサミさんも、そこは揺るがないのかと。
理屈で納得できないと腑に落ちなくて。
そんな風にして腑に落ちなければ、僕は自分の願望を捨てきれない。
僕にとって最大級の願望はやっぱり、イサミさんといることですから。
それにイサミさんだってきっと迷ってはいると思うのです。僕と離れることに無関心ではいられないと言ったのですから……間違いなく迷っている。それを思えば自分の中にある思い上がりのような気持ちが囁くのです。
我がままを言えば引き留められるのではないか、と。
そして、そう感じてしまうから――僕はイサミさんが旅立つ意義を疑い始めている。
もう解けないくらいに固い決意なのかと。
心の中で「何故」や「どうして」、「本当に」という言葉がもやもやと浮かび、晴れ渡った心で楽しむべき旅に何だか雲がかかっているような感じになるのです。
きっとイサミさんにとって同じ場所に共存できないからこそ、それは天秤にかけられているのでしょう。イサミさんは両手に二つの大事なものを乗せ、見比べて取捨選択する。僕という存在が地平線の向こう側にあるものに勝れば、イサミさんは街を出ずに留まる可能性だってあるのではないでしょうか?
迷っている今ならば、何とかなるのではないでしょうか?
まだ間に合うのでは、と。
――そのように思うけれど。
そこまで考えていて、口にするのが自分の中でタブーであるかのように扱われているのは何故なのか?
今日までだって言えたはずの言葉を噤んで、まるでイサミさんの旅立ちを心から応援しているような。背中を押して笑顔で祝福する覚悟が決まっているような。
僕だって迷っているのです。イサミさんが旅をする意義に疑問符を浮かべて問いかけたくなる気持ちと、それを制して背中を押すべきと感じている心が混ざり合って、頭の中で渦を巻いている。自分の欲求に従って我がままを語れば何かが変わるかも知れないと感じつつ、それを躊躇う気持ちの正体が分かれば――答えは自ずと出るのでしょうか?
○
電車を降りて改札を通りぬければ、すぐそこに広がる光景はまるで異世界でした。
ノスタルジーを感じさせる和の趣ある街並み。日本家屋のような外観の建物が向かい合うようにずらりと並び、それらが挟んでずっと続いている大通りには溝ができており川が流れていました。そして流れる川を見下ろせる形で架かっている、鳥居を思わせる朱色の意匠をこらした橋が対岸への行き来を自由にしていて。加えて効果的に残された木々の緑が絶妙な調和で風景を構築する……そんな風景に僕はただ口をポカンと開けて唖然としてしまうのです。
幼い頃にはこういった観光地に家族で訪れることもあった気がしますが、その時とは感受性など全く違うのです。十五の心に訴えかける和の様式美、風流や侘び寂びの心、それらは理解するのではなくこのように感じるものだと素直に思えました。
筆舌に尽くしがたい美しい場所。少し自分の街から踏み出すだけで、こんなにも違う世界があって……自分はそんなことも知らないでどこか大人になったような気でいたのです。この世などはと憂いを口にすることもあったでしょう。
井の中の蛙、大海を知らずとはまさにこのこと――。
「すごいですね……。きっとネットで検索して画像を見ただけではこんなに感動しなかったでしょうし、今みたいに心が震えることを想像できなかったと思います」
「知らない場所にくるとそわそわするような、地に足つかない感じになるよな」
「……まさにイサミさんの言うとおりですね。現代に存在する街とは思えません。まるで時代の流れが止まったみたいで」
「ただ夏だからって海やら山に行くよりずっとよかっただろ? ガラッと違う風景がこの国だけでもまだまだあるんだから、飽きないよなぁ」
「確かに……否定できないですね」
呆気にとられっぱなしの僕。イサミさんに促されるまま街の中を歩き始めるも、何だか地に足がついていない不思議な感覚は目の前の光景をまるで夢だと錯覚しているようで。
少し見上げてみれば建物の屋根、その上に広がる空を煙突の吐き出す蒸気がぼやかしています。通行人には浴衣姿の人もおり下駄の鳴らすカランコロンと小気味の良い音が歩く度について回る。それらが当然のように溶け込んでいる光景。
そんな場所の空気を僕は深呼吸で吸い込んでみます。山間にあるというこの温泉街を満たす空気、それが普段自分が暮らしている街に漂っているものとは全然違う気さえしてくるのです。気のせいではないんでしょうね。
どんな些細なことにもまだ見ぬ感動が詰まっている温泉街を少し歩き、イサミさんが予約を取ってくれている宿へと辿り着きました。未成年同士ということで、イサミさんは十八歳になっているそうですが、それでも学生となると宿泊出来る場所の確保はそれなりの苦労だったようです。
そんな今日の宿泊先たる旅館。建物が時代の進化を拒否したかのように古風な街並み、その中の一軒が今日の泊まり宿だったということにまたもや驚いてしまう僕。随分と高級そうな外観、歴史のありそうな木造の大きな建物の中へ。物怖じすることなく入っていくイサミさんの後を追い、あれだけ興奮気味に辺りを見渡していた僕は急に萎縮するような思いがします。
そして流れるようにイサミさんはチェックインを済ませ、案内されるまま辿り着いた客室。襖を開ければそこは、派手と言い難いにも関わらず――いえ、控えめだからこその気品を感じさせる畳張りの和室で。普段フローリングの家屋で暮らしている僕にも何だか懐かしい、落ち着くような感覚を与えるのです。自分はやはり日本人なのだと自覚させられるような感じがしますね。
その部屋にて腰を降ろしゆっくりする――ことはなく、荷物を置き去りに旅館を出る僕ら。夕食前に入浴を済ませられるくらいの時間を目安に帰ってくる計画で、僕達は旅館を出て再び街へと繰り出すことに。
性急さだったり、ストレスのようなものから完全に隔絶されているような印象のある街並み。夏特有の体が火照る感覚に、昼下がりの涼しい風が吹きつければ心が鎮まるようで。特に目的なく、歩みを進めることに楽しさを見出しているのでした。
そのように歩き連ねていると、ふと視界に入った一軒の甘味処。店先に設置された椅子に腰かけ、お茶にぜんざいや団子がいただけるようです。まるで絵に描いたような日本の昼下がりだなぁと僕が思っていると、イサミさんが唐突に立ち止まりました。
数歩戻って同じ位置で、首からぶら下げているカエルのガマ口を握りしめているイサミさんが注ぐ視線の先を同じように見つめてみることに。
「じーっとお品書きを見つめて。まさか夕食前なのに何か食べようとしてるんじゃないでしょうね」
「いや、そのまさかなんだけど……どうしたものかと迷ってるんだよ」
「迷うも何も夕食前なんですから一択じゃないですか」
「一択かぁ。そうだよな、団子に決めるかぁ」
「あぁ、食べることはもう確定してたんですか」
イサミさんは僕の言葉に耳を貸さず、お店の方へと歩み寄って団子とお茶を二人分注文しました。
どうやら僕のお腹にも放り込まれることが確定したみたいですね。……まぁ、それほどの量ではないですから大丈夫でしょうけれど。
注文から数分で提供された団子とお茶を椅子に並んで腰掛け、外の空気を感じながらいただくことに。お茶はもちろん抹茶で、冷たいものではありませんから夏にはちょっと適さないかなぁ……と感じます。しかし実際に食べてみると温度は気にならず、それ以上に僕の未発達だったり普段は使わず眠っている舌の神経が覚醒するような感覚に目を見開いてしまいます。団子の甘みがお茶の仄かな苦みに引き立てられ、絶妙なハーモニーとなって口の中で深い余韻を残して喉を通り抜けていくのです。
その非の打ち所ないお茶と団子の組み合わせがやみつきになってしまう僕。
うん。そりゃあ古来から日本でこの二つを組み合わせて楽しむわけです!
僕とイサミさんは特に会話もないまま、そのとろけるような甘みと深い苦みのコントラストに酔いしれて時間を過ごしました。ゆっくりと。六十秒で一分を、六十分で一時間を刻んでいる世の中の法則が怠惰にしているのではないかと思うくらい落ち着いた時の中で、ほんのりと灯るような幸福感が内側から全身を満たしていくのです。
それから存分に余韻を楽しんで、イサミさんがおもむろに立ち上がったのを合図として僕も同じようにうーんと伸びをしつつ、再び歩き出しました。そして、和の甘味がもたらす濃厚で深みのある余韻がまだ残っているような感覚を引き連れて街を歩く最中、何となく心に思っていたことが言葉となって出ていくのです。
「何だか大きな世界から見れば些細な場所かも知れませんけど……自分の知っている範囲外にこれだけ素敵な景色や美味しいもの、不思議な文化があるのを感じるって楽しいですね」
閉鎖的だった自分の視野に飛び込んできた数々の知らないもの、見たこともない風景。それらに深く感銘を受けて語った言葉に、隣を歩くイサミさんは得意げに笑みを浮かべて「だろ?」と返します。
「アタシが卒業して旅をしたいっていうのはどこか漠然としてる目的だなって自分でも思ってるんだけど……なんか再認識した気がするよ。実際はかなり単純で、こういう楽しい経験や新しい発見を毎日積み重ねていきたいだけのことなんだって」
どこか楽しそうに弾んだ口調で語ったイサミさん。それに対して「何だかイサミさんらしい理由ですね」と言いかけて突如――僕はその何気ない言葉に目を見開き、はっと口を開けて一つの「至り」を感じたのです。
ついさっき自分が口にしたことをゆっくりと思い返す――いえ、そんなことをしなくても心がまだ覚えています。そして僕は知らない内に求めていた答えを感じていて、自分でそのことにひどく驚いているのです。きっとそれは、自分がイサミさんも言っているような単純な答えで強い納得を感じるとは思わなかったからでしょう。
機嫌良く鼻歌を交えて歩いているイサミさんの隣、雲の切れ間から日差しが零れてくるような爽やかな気持ちを感じていました。
それは笑ってしまいそうになるくらい簡単なことで。複雑かつ緻密で、理屈の上に成り立つ理路整然とした答えを求めていたはずなのに。形の合うピースを探していたら、組み立ててきた完成間近で残す穴は一つとなったパズルを突然ひっくり返されたみたいな……そんなひたすらにまっさらで、見通しの良い答えがそこにあったのです。
答えは最初から明白だったのでしょう。その上にピースを並べて隠そうとしていたのは僕の方だったというだけで。欲望で塗りつぶし、理屈で陰らせて純粋かつひたむきな一つのことを覆い隠していた。
僕は自分に対する呆れや、物事が単純だったという事実に対して何だか無性におかしくなって声を上げ、笑い出してしまいました。
愉快そうに、そして快活に。
そんな光景に驚いた表情を浮かべて僕を見つめるイサミさんですが、気にせず感情を堪えないで笑い続け――そして、語ります。
「そうですよね。街から出てちょっと電車に乗り込んだだけでもこんなに楽しいことや知らないもの、見たこともない景色が広がってるんです。共感しちゃいますよ。自由に生きられれば――生き続けられれば、イサミさんの旅は楽しいことだらけなんでしょうね」
「うん、そうだとも。自由は楽しいんだ!」
イサミさんはそう語って手を空にかざしました。それはまるで広がる青空の全てを掴もうとするかのように見えて。ただひたすらに自由を見つめて遠い視線を送るイサミさんの横顔を見つめ、僕は自然と微笑みを浮かべてしまうのです。
「人は雲に隠れた空を見て遠くのものに憧れることを忘れるんだ。近くにあるものばかり愛して、手の届く距離のものにしか触れなくなる。けど、この青空はどこまでだって続いている。そして、そんな空の下にはどれだけ経験したって埋め尽くせない未知が溢れていて。この地平線の向こう側に行けばその向こうにだって、まだアタシの知らない景色がたくさんある。……そんなの素敵じゃないか!」
活き活きとした表情、そして生命力と希望に溢れて込み上がる感情が言葉に果てしない説得力を与えていて。この人にはやっぱり適わないなぁと心から思います。
そんなイサミさんの心から出た言葉と、そして今日という日に僕が経験した感覚で――もう完全にこの心は納得してしまったのだと理解しました。
どうしてもイサミさんは旅をしなければならないのか?
簡単なことなんですよね。
――どうしたってこの人は旅へと出ていくんです。
イサミさんは、そういう人だから。
心が望むことを素直にやってみたい。
理由なんて、やりたいからに他ならなくて。
そんな単純な言葉を信じられないのは理屈や理由で組み立てられた複雑な世界で生きてきた人間の性なのかも知れません。イサミさんは心に思った素直な欲望を口にしただけ。嘘偽りのない心の声に従って生きる人だから、悩むまでもなく旅に出る理由は単純で、だからこそ何だか――イサミさんらしい。
どうしてそれを忘れていたのでしょうね。
僕が一番、憧れたイサミさんの素敵な所だったはずなのに。
そして共感をもって納得してしまったから逆にだって考えられるんです。もしかするとイサミさんが自由を愛し変化を求め続けるのはきっと、非日常的な楽しい時間が終わりへと向かっていく感覚、それが寂しいからなのかも知れないということ。
楽しかった祭のあとみたいで。
八月三十一日の夕方みたいで。
終わりの侘しさから必死に逃げるために――旅をするのでしょう。そして、それが何だか分かるなぁと感じたのは……今の僕がそのように思っているからに他なりません。だからこそ、イサミさんのことをもう引き留められないなと強く思うのです。
もしかすると僕がわがままを言えば引き留められるかも知れないという自惚れもありました。この人にとって特別な存在になりつつある僕なら、何かを変えられるかも知れない。でもそんな感覚はたった今、完全に説得されてしまいました。
この人は非日常を行き、常に日常へと色褪せていこうとする日々を遠ざけ続けて旅をする。そんな生き方が何よりも正しいのだと僕は確信しました。
吸い込まれそうな空を見上げているイサミさんを見つめる僕。口元を緩ませ、キラキラと輝いた青い瞳は曇りなく美しい宝石のようで、全身で自由に伴う楽しいという感情を感じている。こんなにも幸せそうにしているんですから、もう何も言えません。
「何だかピーターパンを連想してしまう生き方ですよね。ずっと子供のまま、その心を忘れずに冒険しているみたいで。……何だか、そういう自由な生き方も素敵だなって心から思いますよ」
それはイサミさんの生き方を認めた上で語った心からの言葉で。
しかし、それをイサミさんは不思議そうな表情で「アタシはそうだとは思わないよ」と言って頷くことはありませんでした。
「無責任な奔放は自由じゃないんだよ。それはただの我がまま。責任の取れない好き勝手は我がままとしか言えないんだよ。だから自由っていうのは子供のものじゃなくて大人の特権だと、アタシは思ってる」
「へぇ……そう考えるんですか。何だか思ってたのと逆で驚きました。考えたこともなかったですね。身軽なのが子供。そして責任やら義務でがんじがらめ。それが大人だと思ってましたけど」
「うーん、自由の代償がきっと責任なんだよ。そして、それに追われ縛られてるやつが大人をそんな不自由なものだと子供に錯覚させてるんだ。だからアタシはそんな大人にはなりたくない。例えば、手でカメラのフレームを作るみたいな視野が狭い物事の切り取り方はしちゃいけないんだ。沢山責任を抱えるとフレームに覆われた自由しか見えなくなる。伴う責任をきちんと見つめるのが自由なのに、責任の隙間に見えた自由じゃ狭すぎるよ。雲の切れ間に見える青色を空って呼ぶんじゃないんだぞ?」
溌剌と――しかし、先ほどまでの楽しそうな口調は控えめに。どこか切なさを含ませて語られた言葉に僕は何だか自分の中にある常識が反転するような感覚がしていました。
語る上でのジェスチャーとしてイサミさんが手で作ったフレームに収められた空は景色の遥か向こう側、山々のさらに先にだって続いているのでしょう。なのに雲の切れ間が描いた青い鳥を追いかけるなんて、確かに寂し過ぎる。
――と、そんな思考をしている最中にイサミさんは軽快なステップで数歩歩み出して、僕はそんな挙動に呼応するように立ち止まってしまうのです。何かの比喩であるかのように。そしてイサミさんは手を伸ばしても届かない場所でくるりと振り向いて、後ろ手を組みます。
不意に首から下げていたカメラをぎゅっと握ってしまう僕。イサミさんが佇む姿に美しい街並みは全て配下に下ったように背景へと甘んじ、その中央からこちらに送られる視線を見つめて思います。
結局、僕は地平線の向こうにある沢山の未知には勝てなかった。近くにあるものばかりを愛する僕を置き去りに、イサミさんは旅に出ていくんでしょう。そうして、僕達の街に溢れるありふれたもので満足できなかったイサミさんを満たすものがもしも、世界の果てで見つかれば……僕のことだって忘れてしまうのでしょうね。
取捨選択できる人だから。
少しためらって、それでも失うことを恐れない。
――でも僕は、忘れたくないから。
「アタシは早く大人になりたいんだ。大人になって、自由になって、好きな物や好きなことに囲まれて暮らしたいんだ。そして――」
そんな言葉をゆっくりと噛みしめるように語り、儚さを湛えた笑みを浮かべるイサミさん。そして、手に握っていたカメラをそっと持ち上げ、レンズを通してそんな光景を思わず見つめてしまう僕。
それはフレームに収め、狭い世界へ必死に愛しい人を閉じ込めようとする行いのようで。でもイサミさんはそんな写真からだって飛び出していくように、ひたすら世界を旅するのかも知れません。
目の前の青い鳥を捕まえたくて。
でも高い所を飛ばれたら手が届かないから。
だから、せめて思い出にしてそっとしまっておく。
そんな思いを最後にすれば、あとは背中を押せるから。
でも、隠せない本心がある。
――どこにもいかないで欲しい。
「アタシは幸せになりたいんだ」
シャッターを切って、そして罪悪感が伴ったかのように両手を離してしまえば落下したカメラが僕の胸あたりで大きく揺れて留まる。イサミさんと同じ表情を浮かべようと努めてみるもぎこちなくて。……でも、僕はもう我がままをいって引き留めたいという気持ちなんて、この胸に残っていないと自信を持って言えるのです。
何だか子供っぽいなと思っていたイサミさんが随分と大人っぽく見えました。今までどうしてそんな風にこの人を捉えていたのかと思うくらいに。子供と違って大人はどこへでも行けて、自由で本当に羨ましい。だから、イサミさんみたいになりたいと憧れていた僕は今――大人になりたいと強く願う。
それはまるで、憧れを一心に見つめ続ける八月の向日葵を思わせるのでした。
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