第5話「破談」と「判断」
翌日、猫戸は早めに出勤をすると、社用車を使い社長を迎えに行った。社長宅は庭も広く、中々の大きさの二世帯住宅だが、業績の割には質素な造りをしている。二世帯を繋ぐ中央の大きな玄関から、社長が夫人に見送られて出てきた。二言三言会話をして、面倒くさそうに顔をしかめる姿は社内の態度とまるで変わらなかった。
「おう、猫戸わりぃな」
昨日の商工会議所のメンバーと飲みすぎたらしく、玄関先でつまずくと「頭がいてぇんだよ、まだ」とぼやいた。そこへ娘の文恵と、その夫である
「おはようございます、文恵さん、俊明さん」
笑顔で声を掛ける猫戸に、文恵は「おはよう」と言い、後ろから付いてきた俊明はひょろりとした体を折りペコペコと頭を下げつつ挨拶を返す。娘婿である俊明の立ち位置は、家庭内でも会社でも端に置かれているようだと猫戸は感じた。
その時、猫戸の足元にまるで弾んだボールが当たるようにぶつかってきたものがあった。
「ネコトくん、おはようございまぁす!」
黄色い通学帽を被った少女は猫戸の足に抱き着き、満面の笑みで見上げていた。ピンク色にラメの混ざった色のランドセルが、ギラギラとした照りを見せ、そこに二房に分けられたお下げ髪が乗っている。
「おはようございます、
しゃがみ込んで笑顔で答える猫戸を、梨花が丸い頬っぺたを染めて見ている。そして熱い眼差しで切り出した。
「ねぇ、リンちゃんもじいじと一緒に車に乗りたい!」
「それは……」
猫戸が言い淀んだ瞬間、数メートル離れた場所から「梨花!」と俊明が呼ぶ声が響いた。父親の口調から、何を言われるのか既に察している娘は猫戸の腕にすがりつく。
「やだ!ネコトくんと一緒に行きたい!」
「またそれ言って!」
俊明が速足で戻ってきて、梨花を猫戸の体から引き剥がした。ランドセルに付いていた、少女が変身するアニメのキーホルダーが左右に大きく揺れる。俊明が梨花を抱き上げると、梨花は最後の抵抗のように足をジタバタと動かした。
「ネコトくんと行く!」
「さっきは、じいじと一緒の車に乗るって言ってたじゃないか」
二人のやりとりをしゃがんだまま見ていた猫戸は、思わず吹き出した。その時車内から社長が顔を出した。
「おーい、猫戸ボチボチ行こうぜ」
「――ッ、大変失礼いたしました!」
すぐに運転席に乗り込んだ猫戸は、バックミラーで社長の様子をちらりと見た。社長は上機嫌の様子で、車窓に目をやっている。きっと、先ほどの家族の微笑ましいやり取りを見て、ひとりその頬を綻ばせていたのだろう。しばらく走っていると、社長が掠れた声で切り出した。
「猫戸ォ、今週末、時間無いか?」
「今週末ですか?」
聞き返した猫戸には何の他意も無かったが、社長は「ああ、すまん」と言って笑う。
「いや、今週末、梨花が花見をしてぇって言っててよ、昼間っから河川敷行くかって計画立ててんだわ」
猫戸が返答に窮する。それをただのスケジュールの呼び起こしと捉えたのか、社長が続けた。
「場所取りするの面倒臭ぇから、有料で受け付けてる市のところに申し込みしてあるんだよ。別にお前に席取っとけとかそういうのじゃねぇぞ」
「はい」
唯一絞り出した言葉は、イェスでもノーでもない、曖昧なものだった。ウィンカーを出して右折をしてから、猫戸は細く息を吐いて言った。
「私のスケジュールを確認して、またご報告いたします」
「お前、俺のスケジュールなら頭に全部入ってんのに、自分のスケジュールも覚えてないのか」
まるで、話題から逃れようとする猫戸を見抜いたように社長が突っ込んでくる。口調に悪意は感じられなかったが、猫戸は冷や汗が滲むのを感じた。誘われたのが花見という野外イベントであることも、そこでおそらく食事がふるまわれるであろうことも、そもそもが社長の家族と時間を共にし続けるイベントであるということも、考えれば考える程胃がギリギリと傷んで、今この瞬間にも巨大な穴が開きそうだった。
『胃が丸ごと無くなるレベルだ……』
猫戸は思いながら、ゆっくりとビルの前に車を着けた。
先に社長が出勤をし、社用車を契約駐車場に停めた猫戸が戻ってきた。そこへ俊明が近寄ってくる。そして、猫戸の隣に並んで喋り出した。
「猫戸くん、今朝はごめんね」
「いえ、何も謝られるような事は無いですよ」
「お義父さんから聞いた?」
「――花見の話ですか?」
「うん」
猫戸は、まどろっこしい話し方をする俊明が苦手だった。人は善いのだが、相手の表情を見ながら探り探り言葉を選ぶのが癖なのか、伺うように話をする。
「どう?」
「私が、参加できるかどうかということですよね?」
「うん」
猫戸が立ち止まり、俊明を見た。ススキのようにひょろ長い、目の前にいる男の瞬きが増えた。参加できるのであれば、即「行きます」と返答しているであろう内容に対して、猫戸がわざわざ聞き返した事で何かを察した様子だった。
「もしね、無理だったら仕方ないんだけど……」
「……」
「あはは、梨花が猫戸くん、猫戸くんってずっと騒いでてね」
猫戸は黙って数歩歩くと、ゆっくりと振り返り「康男さんにも、スケジュールを確認しますとお伝えしています」と告げると社長室へ入っていった。
『あーやって、一族で外堀を埋めてきやがってんな……』
猫戸が社長室の脇にある引き戸から、社長の湯呑みと茶托、急須と茶葉のセット、そして自身の紙コップを手に取り盆に乗せると、社長室から出た。カチャカチャと湯呑みと急須が触れ、鳴った。
『孫が発案した花見なんて、祖父にとっちゃ一大イベントなんだろう……そこに俺を連れて行っといて、面倒見させるのが魂胆なんだろうが……そんなお祭り断れるほど、上回るイベントなんて存在しねぇぞ……。俺自身の結婚か葬式しかねぇんじゃねぇか?』
その時システムエンジニアの作業ブースから視線を感じたが、無視をして鉄のドアを開け、共用廊下に出るなりダッシュで給湯室へ駆け込む。運よく誰もいなかったそこで、急須に茶葉を振り入れウォーターサーバーから湯を注いだ。
「――猫戸、お前ダッシュしたろ」
少し息の上がった、その声の主は見なくても分かっていた。猫戸は引き攣った笑いを浮かべて相手を見る。
「は?ダッシュ?してねぇけど」
「あの位置から追いかけたら、いつも普通に追いつくんだけど」
「知るかよ」
猫戸は視線を急須に戻して、台に置いた。社長の湯呑みにも湯を注ぐ。
「お、猫戸も日本茶にすんの?」
「まぁ……康男さんが日本茶だから、自分だけコーヒー入れるのも面倒だし」
立川は持参していたマグカップを見た。飲みかけだったコーヒーに、さらにインスタントコーヒーを振り入れると、湯を追加する。そして、猫戸に差し出すと言った。
「飲む?」
「だからさ……お前」
呆れた様子で眉間に皺を寄せた猫戸に向かって、立川が肩を竦めて「ごめん」と笑った。いつもと違う返答と仕草に、猫戸はふと表情を変える。立川は、マグカップの中で湖面のように穏やかに揺れるコーヒーに目をやり、口に運ぶと、溜息を吐いて小さな声で言った。
「この間お前、ココで『俺のことわかんねぇ』って言っただろ?」
「言った」
猫戸は返答しながら『そんなの、よく覚えてたなコイツ』と思った。度重なる嫌がらせに心を乱され、苛立った猫戸が吐き捨てた言葉がそんなに重要だったかと言うと、自身でもそうではないように思えた。
猫戸は湯呑みの湯を捨て、急須から日本茶を注いだ。瑞々しい、爽やかな香りと湯気がふわりと猫戸の頬の産毛を撫でた。長い睫毛でその頬へ影を落としながら、淀みのない滑らかな手付きで作業をする猫戸を見下ろして、立川が告げる。
「多分俺、断られる事が予想されていることを断られるのは、平気なんだよ。だけど――」
音もなく近づいた立川に気づき、猫戸は顔を上げた。
「俺の本音の部分を否定されるのは、きっと――怖い」
立川のその言葉は、猫戸の目前で低く響いた。冬の海のような澄んだ香りが猫戸に迫ったことで、その時初めて立川が香水を付けていた事に気づき、猫戸は目前にある、見た事のない黒々とした眉と瞳を何事かと見返している。そして――
「んぶ!」
猫戸が咄嗟に茶托を構えた。瞳を閉じて、それに熱い口づけをしている立川が目前にある。真っ青な顔で震える猫戸は「ギャ――ッ!汚い!」と叫ぶなり、竹製の茶托をシンクに放って間髪入れずに食器用洗剤をぶっかけた。それを見た立川が横柄な態度で言った。
「竹って洗剤使って洗っちゃいけないじゃないの?」
「じゃあどうしろって言うんだよ!近くに焼却炉ねぇのか!」
猫戸が荒々しく言い放ち、立川を睨みつけた。立川の唇が触れたくらいで、竹製の茶托をこの世から抹消しようとしている。立川は唇を袖で拭いながら、不服そうに抗議をした。
「あのなぁ、俺、今しがた『本音を否定されたら怖い』って言ったよな、空気くらい読めよ」
猫戸は何も言わない。肩を怒らせ、キッチンペーパーでゴリゴリと茶托を洗っている。
「あーあ、妖怪『茶托使い』を怒らせちゃったなぁー」
立川が揶揄って笑うと、猫戸は立川の方など少しも見ずに「違うだろうが、妖怪『茶托は絶対に使ってください』だろ!」と「自分を真似する立川の真似」をして言った。
立川は機嫌よく自分のブースに戻ってきた。猫戸はやはり、立川の気持ちを否定しなかった。ダメもとで挑んだキスはさすがに拒まれこそしたが、相変わらず、一度も立川の想いを否定してはこない。
立川のブース内で歴代ライダーが並ぶレターケースの上には、未開封の菓子がダース入りの箱で積み上げられている。卸問屋からそのまま買ってきたような状態だ。これは今朝がた増えた「立川の巣」の要素の一つだった。通りがかりにそれを見た女子社員が「うわぁ」と声を上げた。
「すごーい、どしたんですかそれ!」
「凄いでしょーヘッヘー!欲しい?」
「欲しい!」
「じゃあ、あげよう」
ライダーフィギュアを倒さないように手を伸ばし、積み上げた中から人気のチョコレート菓子とキャラメルをピックアップする。「これでいい?」と聞くと、女子社員は嬉しそうに「こんなにいいんですか!」と笑った。立川がニヤニヤと笑いを返しながら、三つ奥にあるブースを顎で指して、いたずらっぽく片目を瞑る。
「いいよ、いいよ。優しい楠原おじさんが、俺への贖罪のつもりで、スロットで当てた八割くらいをガッツリくれたんだよぉ」
「当てた八割をもらうって、何をされたらそんなお詫びもらえるんですか」
女子社員がくすくすと笑い、立ち去っていった。『まぁ、俺に面倒なトコ押し付けてスロット行った結果が良かったから、むしろ俺が八割奪った感じなんだけどね』と考えながら、席に着く。立川はまた、花屋のシステムを構築する為に意識を集中させた。
それから六時間が経った。時計の短針は項垂れる位置まで動いており、陽は斜めから射している。集中するために装着していたヘッドホンを外して、立川が呻きながら伸びをした。昼食も取らずに集中していたため、今更空腹を感じて腹を擦る。何食おうかな、とぼんやり思っていた立川の所へ、カッカッというヒールの音が近づいてきた。瞳を瞬かせて見ると、そこに文恵が立っていた。
「立川くんさあ、昨日の請求書まだ出してないよね?」
「あー……スミマセン、すぐ出します」
言った立川は、レターケースを開けた。そこに入れていた申請書類と、タクシーと菓子折りの領収証をクリップで留めて文恵に手渡す。それを見て、文恵はすぐに指摘をした。
「電車賃が書かれてない」
「あ、スミマセン」
「あと、トータル金額に¥マークが無い」
「スミマセン」
「ここに書く請求先はウチじゃなくて先方の名前だから」
立て続けに言われた指摘内容を、立川は朦朧とした意識で聞いていた。いや、聞いていたといより、耳に辛うじて入っているだけだ。立川はたまにこのような状態になることがあった。長時間の作業に没頭した後、意識は安易に現実へ戻ってきてくれない。まるでパソコンと一体化していた自分の精神が、放置されていた肉体に降りてきたような、そんなバラバラの状態だった。その状態で、文恵の繰り出すマシンガンのような指摘に付いていけるはずも無かった。
『文恵が何言ってんのか全然わかんねーよ』
立川はイスに座ったまま文恵を見上げたが、淡い色の口紅を引いた唇がやけに浮いて見えるだけだった。それは皺を寄せては上下左右に開かれる。何かを引き続き指摘しているらしかったが、立川には何も聞こえなかった。
「文恵さん。その領収証はまだ作成途中で、私と一緒に一度見直そうと言っていたんです……提出が遅くなり申し訳ありません」
突然、猫戸の声が割り込んできて立川は我に返った。文恵に頭を下げ、そして眉も下げて困ったように笑みを浮かべた猫戸は、何か一言文恵に言われると「そうですね、気を付けます」とまた頭を下げた。去っていく文恵の事をしばし微笑んだまま見詰めた後、猫戸が立川の巣に身を乗り出し、噛み付かんばかりの勢いで立川の胸倉を掴んだ。
「お前、何考えてんだよ!文恵さんすげぇ怒ってんぞ!」
小声でありながら、その口調は咎めるような厳しいものだった。立川が、焦点を猫戸に必死に合わせ、焦った様子で言う。
「わ、悪い……文恵が何言ってんのか全然わか……」
言い掛けた立川の口を掌で押さえ込むと、猫戸は立川の腕を掴んで立ち上がらせ、ふらふらとした足取りの立川を共用の廊下に引きずり出した。ひやりとしたコンクリートの冷たい壁が、立川の身体を支える。猫戸は腕組みをしつつ怪訝な顔をして「熱でもあんじゃねーか」と言った。立川は首を振って、弱々しく笑う。
「いや、集中した後はいつもこんなモンだ。さっきは気持ちの切り替えができないまんま、文恵がワーワー言ってきたからさぁ」
「とりあえず、その、文恵さんを呼び捨てにするのやめろよ」
「ごめん」
額に手をやり、自嘲するように笑いを漏らした立川の鼻っつらに、猫戸が人差し指を突き付けて言った。
「領収証は一旦俺が申請しなおしとくから、お前は頭を冷やしてから戻ってこい」
「あ、猫戸」
「なんだよ」
立川は何かを言い掛けて、押し黙り俯いた。胸元で猫戸に掴まれたシャツが、乱れて寄っていた。
「なんでもない」
「呼び止めんな、俺は暇じゃねぇんだよ」
去っていくその背中に向かって、立川は聞きたかった。
『暇じゃねぇのに、俺の事心配して来てくれたのか?』
『俺の胸倉とか、腕とか、掴んだの初めてじゃないのか?』
そして――
『俺の唇に掌が当たったけど、汚いと感じなかったのか?』
声に出して聞けば、おそらく猫戸はすぐさま消毒に走るだろう。ただ触ったか、触ってないかが問題なのではない。「猫戸が汚いと感じるもの」に「意識して」触れたかが問題なのだ。『じゃあ、俺の体は猫戸にとって汚いと感じるものじゃなくなったんだろうか……』一瞬真剣に考え込みそうになって、立川は頭を振った。ものの数分前まで、散々頭が熱くなる程作業をして脳を使い込んでいたのに、それ以上に答えの無い無駄な事を考えるのはやめようと、違う事を想像する。
それにしても、猫戸の手……石鹸のいい匂いがしたな……でもちょっと汗ばんでたな……あれかな、やっぱ文恵……文恵さんに責め立てられたらアイツでも緊張すんのかなぁ……
立川は至極どうでもいい事を考えながら、トイレへ歩いていった。
立川が巣に戻ると、ディスプレイに付箋が貼り付けられていた。『一八時までに一度声かけてくれ』と書かれた文字は、神経質そうに角ばった猫戸の筆跡だ。声を掛けようと覗き込んだ社長室だったが、社長もろとも姿が無かった。すごすごと巣に戻ろうとした時、楠原が作業ブースから立ち上がった。
「じゃぁ俺、『スーパー寺門屋』で打ち合わせして直帰します」
「はーい、お疲れ様でーす」
数人の返答を聞き、リュックに入った荷物を持ち上げようとして、立川のじっとりとした眼差しに気づいた楠原は「ウッ」と呻く。
「楠原さん、スロット行くんじゃないでしょうね」
「行かない!行きません!」
楠原が今担当している案件『スーパー寺門屋』は、千葉県内に三店舗を構える地元密着型の生鮮食品販売店だった。上得意様を逃す事は許されず、楠原が本気で挑んでいることは立川にも良く分かっていた。それでも、ねちねちと虐めずにはいられない。立川が、まるで玩具を取り上げられた子供のように頬を膨らませた。
「なんだぁ、猫戸が戻ってくるまで楠原さんいたぶって遊ぼうかと思ったのに」
「俺の事なんだと思ってんだよ、やめろよ……」
楠原は立川に背中を見せないようにドアまで近づくと、素早く身を翻して去っていった。
時刻は午後五時五〇分を回った。声をかけろという付箋を見て、声を掛けようと思ってはいるものの、その当人が戻る気配が一向に無い。立川は集中することもできず、花屋を一旦置いて、販売用の会計ソフトを弄っていた。楠原以外はまだ誰も退社をしておらず、作業が続けられる中をデジタル時計が無言で時を刻んでいる。
「戻ったぞ」
突如ドアを開けて社長が戻ってきた。帰社の言葉の中に苛立った棘を察して、皆が息を呑む。普段は猫戸が先陣を切って入ってくるが、その猫戸の姿が無い。思わず立川が席を立つと、閉まりかかったドアの隙間から猫戸の姿が見えた。立川が駆け寄る前に、ドアに近い場所に居る営業管理課の女性社員が駆け寄りそのドアを開けた。
「す、すみません」
猫戸は重そうな資料の入った紙袋を三つ、両手に抱えて、じりじりと社内に入ってきた。はぁ、はぁと荒く息を吐いている。俊明が紙袋の一つを受け取ると、その細い腕がピンと伸びた。
「俊明さん、すみません、これ、社長室の……チェストの、上に……」
「わかった」
猫戸が声を絞り出して、俊明に指示をした。駆け寄った立川が、さらにもう一つの紙袋を受け取る。一瞬触れた猫戸の指先は、血が通っておらず白く、冷たくなっていた。紙袋の紐が食い込んだ猫戸の手の平には、何本もの赤い線が走っている。
「助かる、立川」
猫戸の声を背中に受けながら、立川は紙袋を社長室に運んだ。
既に社長室に戻り、専用のレザーチェアにどっかりと腰を下ろしていた社長は、苛ついた様子で業界紙のページを剥ぎ見ていた。社長室に戻ろうとしていた猫戸に、文恵が小声で声を掛ける。
「――何があったの」
「昨日の商工会議所の件で……管理システムがうちに決まってたはずだったんですが……突然コンペを持ち出されたんです」
「マジかよ、うちにほぼ決まってただろ、あれ。コンペなんか必要なかったんじゃ……」
横で聞いていたシステムエンジニアが呆然と呟いた。昨日の夜から、今日の午後四時までの一日足らずの間に、取り決められた事が覆ってしまった。株式会社ジモテックの機嫌を損ねたとしても利益が確保できる程の提案が、どこからか為されたに違いない。それを覆すのは事実上不可能で、行ったとしても出来レースであることは判然としていた。
社長室からは、バサバサと業界紙をめくる乾いた音が響いた。猫戸は一礼すると荷物を置きに社長室へ入っていき、営業管理課の女性社員が慌てて客用のティーセットを準備した。給湯室から注いできた湯をティーサーバーに入れ、茶葉を振り入れると華やかな香りが立つ。それを文恵が銀色のトレイに乗せ、堂々と社長室へ入っていった。
「聞きましたよ、話」
遠慮のない切り出し方は、身内だからできるものだ。いくら一緒にいる時間の長い猫戸でも、一生言う事などできない。社長は文恵の言葉も無視して業界紙にかじりついていたが、運ばれてきた紅茶の香りにふと視線を上げた。顔には疲労と苦悩が浮かび、深い皺が刻まれている。
「お疲れ様、紅茶でもどうぞ」
じっと猫戸が見詰める前で、娘は父を気遣う素振りを見せた。いや、実際にそれは気遣いだったのだろう、文恵の瞳は温かく細められ、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「俺は日本茶が好きなんだがな」
言って、社長は紅茶を口にした。ビリビリと社内に張り詰めていた空気が、ようやく和らいだように思えた。熱い紅茶を少量飲み下すと、社長の体から「ふぅ」と息が漏れる。同時にぽつりと漏らした。
「上手くいかんもんだな」
「そうね、単純じゃないわね」
文恵が社長の肩に手を置き、微笑む。
「まぁ、やれるだけやりましょ。気晴らしもしつつ」
そうして、猫戸を振り返った。
「週末のお花見楽しみね。梨花も喜ぶわよ」
猫戸は全身が硬直するのを感じた。この女帝は、今ここで決断を迫っている。しかもその決断は一つ以外存在しない、そんな状況だった。おそらく女帝の中に猫戸の「ノー」はあり得ない。彼女とのデート?親の介護?同窓会?自分の挙式?自分の葬式?何を言っても「その程度なら来なさいよ」という女帝が目の前に現れる。猫戸の目前は一気に暗くなった。その時、猫戸の肩を叩いて掴むと、後ろに引く者があった。
「あれ?猫戸、ちゃんと報告してくれてないのか?」
ずいと、身体を迫り出して、立川は女帝の前に出た。その口調は腹が立つ程軽々しく、笑っている。
「すみません、文恵さん。元々俺たち釣りに行く約束してたんですけど、花見の話聞いて、俺ェすっごい羨ましくなっちゃいまして!」
文恵も社長も、黙って立川を見ていた。話を切られぬよう、立川はべらべらと喋り続ける。
「俺との釣りはまぁどうでもいいんですけど、一緒に花見に連れてけって言っても、猫戸が渋りやがりまして、なんか……大事な機会だから、お前に来られると困る的な?」
猫戸は目の前の背中を見ながら、動揺で震える拳を必死で押さえていた。
「なんだよお前、俺に来られるとマズいことでも――」
立川は笑いながら振り返り、真っ青な猫戸の顔を見てすぐに前に向き直った。大きく鼻息を噴き出して、自身の不満を露わにする。
「マズいことでもあんのか、とか聞いたんですけどね、マズい事はないけどって言われて。そんなんじゃ諦めつかないじゃないスか!そんじゃあ康男さんや文恵さん、俊明さんにも、お伺いして欲しい、って言ってたんですけど」
「聞いてないわね」
文恵はさして気にしていない様子で言った。社長が頷く。
「まぁ、聞いてはないが……おい、二人で来るのか、猫戸?」
呼ばれた猫戸は立川の背後から、見える場所へと移動した。背筋をしっかりと伸ばし、両手は脇に揃えている。立川が見下ろしたそのスーツは、小さく震えていた。
「そ、そうですね……それが可能かどうか伺いたかったのですが、本日中々お話も出来ずにおりました」
「二人来たって、別にいいんじゃないかしらね」
文恵が眉を上げて言った。含みのあるその言葉に、立川は一瞬胸を覆う
「いいぞ、べつに」
言ってから「だいぶ大所帯になったな」と満足そうに笑った。
社長の憤怒から始まった騒動は、午後七時には完全な収拾がついていた。コンペに関してはできるだけ本気で挑むが、本来大事にしないといけない今の顧客に影響が出るようであればすぐに降りる、と社長が宣言をした。それを聞き安堵した面々は、様々な感想を述べながら自宅へと帰って行く。
午後八時を回った社内には、立川と、猫戸と、作業ブースから中々出てこないタイプの立川の同僚が籠っている。なんとなく居心地が悪く、二人は共用の廊下に出た。まだ非常灯にも切り替わっておらず、隣の企業のドア下の隙間からは、強い光が漏れている。まだまだ業務中のようだ。
日中にも増してひんやりとした壁に凭れながら、猫戸が言った。
「俺、今回卒倒するかと思ったぜ」
「いや、お前の顔見た俺の方が倒れるかと思ったね」
言って、立川が笑う。
「イヤダヨー、イキタクナイヨーっていう顔でブルブル震えちゃってさぁ」
「してねーし、立川のやる俺のモノマネがいつも悪意に満ちてるのは何でなんだよ」
あははと笑って猫戸が言うと、立川も釣られて笑った。猫戸は、くしゃりと皺のよった立川の目尻を見ながら言った。
「あの社長室によく入って来れたな」
「だってお前に一八時までに声かけろって書置きされたからだろ」
「それでどうしてあのタイミングになるんだよ?」
「あれ多分、一八時きっかりくらいだったからな。ヤッベェ、早く声かけなきゃ一八時超える、と思って」
立川の答えを聞くと猫戸は「バカか」と噴き出した。もちろん、立川の言うそんなくだらない理由が本当だとは思えなかった。猫戸が抱えていた不安を、相談したかったことを、あの場で察して解決に導いた事が真実の全てだ。
「マジで九死に一生を得たわ。立川は俺が悩んでる事わかるんだな」
「分からんわ」
「俺、お花見の事すげぇ悩んでたぞ?」
「おう」
「ちゃんと立川に相談しようかと思ってた」
猫戸の言葉に、立川は内心驚いた。俯いた猫戸の睫毛が瞬くの見た瞬間、突然頭上から天啓が下ったように、ハッと気づいた。
自分と猫戸は共用の廊下に二人きりで立ち、心の内の本音を語りあっている。潔癖症で、常に冷たい視線を送り、たまにしか見られなかった猫戸の笑顔が、今にも触れられる場所にある。何時の間にか、二人の距離は互いの瞳が覗き込めるまでに近寄っていたのだ。
「――猫戸」
低く、静かな響きの自分の名前を聞いて、猫戸は動きを止めた。
「好きだよ」
立川が囁くと、固まったままの猫戸の腕を掴んで引き寄せた。がちがちだった猫戸の足は関節まで固定されていて、倒れ込むように立川の胸に身を預ける。直後、猫戸の腕がまるで自分をガードするかのように胸の前でクロスされた。
「……なにそれ」
猫戸は、笑いを堪えるような立川の声が、立川自身の身体で響いているのを聞いた。手のクロスを維持したまま猫戸が呟く。
「わかんね」
「あれなの?小学生の時のばい菌的なやつがうつらないぞ的な?」
「うっせぇ、知らねぇよ」
「
「なんだよ
猫戸は吐き捨てると、腕で立川を強く押し返し、自分はバックステップでひょいと体を離した。その瞬間、会社の扉を開けて同僚が出てくる。
「うっす、お疲れ様です」
ペコリと頭を下げた立川と、手をクロスさせて謎ポーズを取る猫戸を交互に見やり、給湯室へ向かって歩いていく。猫戸が立川を睨みつけ、小声で凄んだ。
「二度とすんな、次やったら殺すからな」
「はいはい、コワイコワイ」
立川は笑いながら、社内へ戻っていった。
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