第26話「当たり前の毎日」
二人は平日の仕事を淡々とこなし続けた。まるで週末に焦点を合わせるように黙々と仕事をする。昼食はたまに一緒にとっていたが、立川は終業と同時に帰宅をするため、平日でも二人が揃って帰る事は無かった。
日曜日は
猫戸が傘に付着した水滴を払い、オートロックのインターホンを押すと、応答する間もなくエントランスのドアが開いた。誘われるようにエレベーターで三階へ上がり、立川の部屋のドア前に立つ。
ほぼ同時にドアが開いた。
「いらっしゃい」
微笑む立川が、ドアを開けながら笑っている。前回見たハーフパンツに、無地の黒いTシャツ着ていた。脛は相変わらずの汚らしい毛が生えている。猫戸は「おじゃまします」と声を掛け玄関に入ったが、傘の置き所に困った。気付いた立川がやや間をおいて口を開く。
「傘……そのへんに立て掛けといて」
「壁濡れるぞ」
「いいよ」
立川の許可を得て傘を立て掛け、顔を上げた猫戸の目の前に突きつけられたのは、真新しいスリッパだった。ベージュ色で、麻の混じったような繊維で作られている。夏にはぴったりで、見るからに涼しげだ。
「ほら、猫戸用に準備したけど、どう?」
「どうって……」
「使ってくれる?」
言いながら猫戸の足元にスリッパを設置すると、立川が猫戸の手を取った。引かれるまま足を踏み出した猫戸は、自然とスリッパを履く。手を繋いだまま廊下を進む立川は、スムーズとはいかないまでも壁に頼る事無く進んでいた。
「立川、松葉杖なしでももう大丈夫なのか?」
驚きを多分に含んだ猫戸の言葉に、立川は嬉しそうに振り返った。
「よくお気づきで! 昨日、病院に言ってきて、先生のお墨付きも貰ったよ。経過もいいって」
「そうか……そっか、うん」
感慨深げに頷いて笑顔を見せた猫戸は、握られた手を強く握り返した。
室内に入ると、猫戸はカーペットの前でスリッパを脱ぎ、端に揃えて置いて以前と同じ場所に正座をした。立川は廊下に併設されたキッチンに立ってから、すぐに部屋へ入ってくる。
「せっかくの休みなのに雨だなー」
言いながら、手に持っていたグラスと瓶ビール、ペットボトルの水と袋菓子を、小さな卓の上にドサドサと置いた。
「どうせ
「昼から飲む悪い大人をやってみようと思って」
「映画見ながら?」
「うん」
猫戸は目を細めて肩を震わせた。
「やったことねーけど、もうお前に任せるよ」
猫戸の許可を貰った立川が白い歯を見せて笑い、力強く頷くと、レンタルしてきた映画を取り出した。名作と言われるタイトルがそこに並んでいた。猫戸の意見も聞かずにそのうちの一枚を開け、プレイヤーに挿入する。
「俺、見たことないんだよね。『グリーンマイル』」
「俺もない」
「あ、猫戸、手ぇ洗ってきたら?キッチンの後ろ側が洗面所だよ」
「うん」
猫戸は洗面所へ行った。洗面所兼脱衣場になっており、それを挟んでトイレと風呂場がある。洗面所には、立川が使用している洗顔料やヘアワックス、電動髭剃りやジェルが置いてあった。部屋以上に生活感を感じさせるプライベートな部分を肌で感じ、緊張が走る。
『ここで立川は、朝起きたら顔洗って……出社してきてたんだな』
立川から向けられた好意を切り捨てていた以前を思い出す。
『あの時は、こんな関係になるなんて思ってもいなかった』
猫戸は心臓が些か不穏なリズムを刻もうとし始めたのを、水で手を洗い誤魔化して、立川の元へ戻った。
立川は背中を壁に付け、足を伸ばして座っていた。袋菓子を全開に開封し、ティッシュと、徳用サイズの抗菌ウェットティッシュを準備してキラキラと輝いた瞳で猫戸を見上げている。開封されている菓子からは、辛味の強い刺激的な香りが漂っていた。猫戸が正座をしながら呟いた。
「袋菓子……誰かと食べるなんて、久々だな」
「俺だって、猫戸と一緒にお菓子食べるの初めてだよ」
「そうだな」
猫戸が照れ臭そうに笑う。
「なんか立川といると、やることなすこと、いっつも初めてな気がする」
「語弊があるだろそれ」
立川が笑いながら瓶ビールの蓋を開けた。瓶の口に、まるで小さな雲ができたように水蒸気がふわりと漂う。猫戸は立川が差し出したグラスを受け取り、続いて差し出された瓶ビールの口下に
「お疲れ」
立川の声に「お疲れ」と返すと、猫戸は瓶ビールを受けとり、立川に差し出した。互いに注ぎ合ったビールを掲げて乾杯をする。
「ぷはー!」
ビールを飲んだ立川が美味しそうに声を上げ、左手に持ったプレイヤーのリモコンを意気揚々とちらつかせた。
「猫戸! 再生するぞ!」
「おう、とっとと流せ」
淡々とビールを飲みながら、猫戸が笑った。
エンドロールが流れ終わりプレイヤーを止めても、立川はボロボロと涙を流していた。ボックスティッシュを抱えるように持ち、鼻に当てて嗚咽を堪える。元々感情豊かな男だとは思っていたが、ここまでとは思っていなかった猫戸は呆れた目でそれを見ている。
顔を上げた立川の真っ赤な瞳と目が合った。
「猫戸は悲しくないのかよぉ」
やや鼻声で言って、顔をティッシュに埋めている。猫戸は、グラスに注いでいた温いビールを煽った。
「悲しいというか……お伽話みてぇだなって思う」
「えっ」
「そもそもあの能力はなんなの?」
「えっ、そこ!?」
「そこが気になっちまって集中できなかった」
「えぇ……?」
「あと、誰かがすげぇ泣いてるせいで気が散った」
「ひどい」
立川はティッシュをゴミ箱に投げ捨てると「いてて」と声を上げて体勢を変えた。酒に呑まれているのか、ややぼんやりとした様子で、力の入っていない四肢をだらりと床に放っている。猫戸が身を乗り出して立川の顔を覗き込んだ。
立川が恥ずかしそうに顔を背けた。
「見るなよ、馬鹿にしてるだろ」
拗ねたように言う立川の髪に、猫戸がそっと触れて言う。
「馬鹿になんかしてねぇよ」
「ホントに?」
「コイツ馬鹿だなとは思うけど」
「ほら、もー! それがバカにしてるって言うんだよ」
立川は、フンと鼻息を吐いて猫戸を見た。そうして、仰向けに寝転がったままズルズルと猫戸ににじり寄る。手を伸ばして猫戸の顔に触れようとしたが、届かない。拗ねて軽く尖らせた立川の唇が小さく動いた。
「おい、猫戸、ちょっとは協力的になってよ」
「何をだよ」
「少しくらい屈んで」
猫戸が屈むと、立川の手が頬に触れた。正座を崩していた猫戸の太股に、立川は頭を這い上がらせ置き「へへへ」と嬉しそうに声を出す。猫戸は自分を見上げている立川を見下ろしながら、盛んに瞬きをした。
「重いわ」
「愛の重さだと思ってよ」
「どうりで絶妙に気持ち悪ィ重さなわけか」
「ちょ、ヒドい、マジでひどい」
立川が悲しそうな表情を浮かべたのを、猫戸は目を細めて見つめている。
「猫戸がキスしてくれたら許す」
ぽつりと言った立川の言葉に、猫戸は一瞬笑みを漏らすと、即座に唇を落とした。軽く触れただけのキスだったが、立川は気持ちよさそうに目を細めて笑う。その細めた左目から、残っていた涙がこめかみに向かって一筋零れ落ちた。猫戸が顎を上げてペットボトルの水をゴクリと飲み下すと、細く白い喉が動き、喉仏が上下した。立川がじっとそれを見上げながら切り出す。
「――なぁ、猫戸」
「うん?」
返事と同時に、猫戸は立川の髪に優しく触れる。そして、すぐにペットボトルに蓋をして立川を見下ろした。視線が絡むと、立川はほっとした様子で口を開いた。
「猫戸に言おうか、言うまいか悩んだんだけど、言っておきたい事があるんだ」
「なんだよ」
「俺、
立川は困ったように眉を下げて微笑んでいる。猫戸が目を見開いて、立川の顔をじっと見た。立川は表情を変えず続ける。
「猫戸にパソコン持ってきてもらったろ?病院であれ触ってても全然頭が整理されなくって……病院だからだとか、久々だからだって思い込もうとしてたけど、やっぱり無理だった」
「何、言ってんだよ……」
絞り出された猫戸の声は震えていた。立川は細く目を開いて、猫戸の瞳をじっと見つめる。
「この一週間、俺ってなんなんだろうってずっと考えてたよ。集中できないSEの存在意義ってあんのかな?とか」
「……」
「イライラもしたし、悲しかったし、怖かったし、色んな感情がブワァーって出たけどさ、もうなるようにしかなんないよなぁって、思うようになった」
「立川……」
まるで怯えるように猫戸が小さく声を出した。
「康男さんは、その事知ってるのか‥…?」
立川が微笑む。
「うん。一昨日、とりあえず伝えた。今後の状況によっては、配置換えも考えるって」
「――それ、お前から希望したのか?」
立川は穏やかな笑みのまま、静かに頷いた。猫戸の瞼がピクリと動き、眉が
「お前が、それ言ったのか……」
「猫戸」
「そんなの、お前から……お前の口から、言うなんて」
立川が見上げた猫戸の頬に両手を伸ばした。猫戸の唇が震えると、開いたままの瞳から
「どうして猫戸が泣いてんの」
「だって、お前……そんなのねぇよ」
「何が?」
「
ぼたぼたと頬に落ちてくる猫戸の涙に困惑した様子で立川が猫戸を見上げ、猫戸の頬に手を当てたまま微笑んでいる。
「泣かなくていいよ」
「泣いてなんかねぇよ」
「それが泣いてないなら、何が猫戸の『泣いてる』事になるのか教えて欲しいよ」
立川は笑って体を起こし、涙を拭う猫戸の顔を覗き込みながらそっと言った。
「俺が、こうなってでも乗り越えようと思えるのは、皆が居てくれてるからだよ」
「おぅ」
「別に諦めてるわけじゃないからな」
「うん」
「だから、リハビリだって、脳神経外科にだって、しっかり頑張って行く」
「うん」
頷いた猫戸の、涙で濡れた手に隠れて見え辛い口元に、小さな笑みがともる。唇を噛んで顔を上げた猫戸が、真っ直ぐな視線で立川を見つめ、自分に言い聞かせるようにまた深く頷いた。
そっと立川の顔が近づく。互いの匂いを近くに感じ、鼻が触れ合うと二人は瞳を閉じた。猫戸の唇が柔らかく立川を受け入れている。ややあってから、立川は顔を離した。名残惜しそうな猫戸の唇が、僅かに突き出されている。
立川が、長い、濡れた睫を瞬かせた猫戸に囁いた。
「――猫戸、赤い傘どうしたの?」
「え?」
「傘、紺色になってた」
立川の突然の言葉に、猫戸は驚きつつ頷く。
「あー、あれ……壊れちまったから」
「そっか」
「とりあえずで、買った」
「そう」
立川の真意を図る事ができず、猫戸はティッシュを手に取り目や頬に押し当てると、体を立川の方へ向けた。立川は穏やかな笑みを浮かべて猫戸を見つめている。
猫戸の手に、そっと立川の手が重なった。立川が指を絡めて自分の唇まで持って行くと、猫戸の細い指にチュ、と音を立ててキスをする。猫戸の顔はみるみるうちに赤くなった。
立川は猫戸の指先にキスをした後、手首の内側にキスをした。引き寄せ、腕の内側にも唇を当てる。猫戸が強く手を引いた。
「くすぐってぇ!」
立川は手を離さなかった代わりに、引かれるままの勢いで猫戸を押し倒した。
くすぐったさに笑った表情のまま、呆気にとられた猫戸は立川を見つめていた。腕の内側にキスをしていた立川の顔が、間近にある。立川は右膝で体を支えて、さらに猫戸に詰め寄った。猫戸から笑顔が消える。
「な……に」
たった二文字を怯えた様子で絞り出す猫戸に向かい、立川が顔を寄せて耳にキスをした。そのまま首筋にキスをしてくる立川に抵抗し、猫戸が肩を寄せる。
「立川、駄目だ」
猫戸の腕に力がこもったが、立川に押さえ込まれた両腕が振り上げられる事は無い。立川の全体重が伸し掛かるそれに、抗う
猫戸は足を伸ばして位置を変えると、密着する立川から少しでも距離を取るべく腰を捻って足を曲げた。その細い腰に、立川の股間が擦り付けられる。嫌でも感じる熱に、猫戸は小さな悲鳴を上げた。
「嫌だ、無理……無理だ、立川」
「どうして」
「こんなの、違う」
「じゃあ猫戸の正解を教えてよ」
立川が低く言い、
「俺だって、正解なんか分かんない。でも、俺なりに猫戸を愛したい」
猫戸の心臓が、物理的に捕まれたようにぎゅうと痛んだ。立川は瞼と頬を赤くし、緊張に顔を強ばらせている。
立川の右手は猫戸の腕からそっと離れると、猫戸が着ていた紺色のポロシャツの表面を指でなぞった。猫戸は解放された左手で、顔を隠すように覆っている。
「猫戸」
低く呼ぶ声は雨音の中に消えた。立川の指先が裾まで辿り着くと、そっと裾から手を進入させる。それでもまだ強固に肌を見せまいとする黒いインナーをめくりあげると、猫戸の白い脇腹が現れた。立川は我慢できず、そこへガサツな仕草で手を当てる。
「!!」
猫戸の体がびくりと跳ねた。自分の顔を隠していた左手で、咄嗟に立川の顔面を押し戻す。
「ぐぇ」
「無理、無理無理、むりむりむりむりむり!」
現実に引き戻された猫戸は、必死に抵抗した。立川は猫戸の脇腹に当てた手を一瞬たりとも離そうとせず、逃げようと蠢く猫戸の体に密着させていた。二人の体温は高くなり、触れている部分がやたらと熱い。
立川は猫戸の脇腹からさらに手を突っ込んでインナーごとポロシャツを捲った。
「ひッ……」
胸元まで上げられた自分の服を見て、猫戸が声を上げる。立川は、猫戸の白い肌の中で唯一胸元にある薄いピンク色の突起を見下ろしながらゴクリと唾を飲み込んだ。露骨な興奮を目の前にして猫戸の全身にゾワゾワとしたものが沸き立つ。顔はすでに火が出そうな程赤くなっていた。
「やだ、やめろ馬鹿野郎」
立川が顔をゆっくりと胸に近づける。
「クソ、やめろって言ってんだろクソが!」
その瞬間、猫戸の左手が無意識に立川の顎を掴んだ。突如ぐい、と顎を上げられた立川と、顔を真っ赤にして怒る猫戸の目がしっかりと合う。
「無ー理ーだーかーら!」
猫戸が言った言葉に、間髪入れずに立川が言い返した。
「なんで!」
「な、なんでって……」
立川は目の前で据え膳が下げられた状態だ。ムスッとした顔を隠さない。猫戸のこめかみから汗が落ちた。眉を寄せて、焦ったように言い放つ。
「汚ねぇからだよ!」
「どっちが!」
「ハァ!?」
「汚いのは、俺なの?猫戸なの!?」
「どっちもだよ馬鹿!」
「じゃあなんの問題も無いじゃないか!」
「あるある、問題あるだろ、大有りだわ馬鹿が!」
しつこく顔を戻そうとした立川の顎をぐいぐいと掴みしばらく無言の攻防を続けた結果、二人共々息が上がる。ひたすら筋肉を酷使する無酸素運動に、猫戸は「マジでもうやめよう、疲れた」と呟いた。立川も「うん」と頷き体を起こす。猫戸はガサゴソと服を戻し、立川は元々居た場所にいそいそと戻りながら、小さく「イテテ」と言った。
「痛いくらいならすんな」
もう何度聞いたか分からない猫戸の正論だ。立川はそれを聞いていつもはぐらかしていたが、なぜか今日は違った。
「痛かろうが、苦しかろうが、辛かろうが、やんなきゃいけないの」
そう言い切る立川を、猫戸がやや驚いた様子で見た。立川が笑う。
「リハビリ手伝ってよ、猫戸」
「――仕方ねぇな、付き合ってやるよ」
鼻から息を吐き偉そうにそう言った猫戸は、立川と目を見合わせると、二人で大口を開けて笑った。
立川の『新しい生活』は、二週間もすると『当たり前の毎日』になった。周囲の人も、立川の状況を理解し協力的だった。何よりも、本人が現状を受け入れ、それを意識して生活が出来ている事が良い環境作りの土台になっていた。
今日も、通常通り仕事をして午後にリフレッシュの時間を取った立川は、屋上に居た。猫戸が後を追ってやってくる。
「立川」
「おお」
猫戸は真っ白なシャツの上にベストを着用している。シャツの袖はシャツガーターで吊りあげられ、白い前腕が露わになっていた。
九月の半ばを過ぎて陽射しは和らぎ、屋上に強い風が吹き抜ける。立川が手に持っていたオレンジジュースを飲んだ。柵に
「そろそろハーフパンツやめた方がいいな」
「どして?」
「夏を忘れられない馬鹿みてぇだから」
「ははは」
立川が眉を下げて笑い、猫戸を見下ろした。少し長くなった猫戸の髪の毛が耳に掛かっている。オレンジジュースのペットボトルに蓋をしながら、立川が呟いた。
「忘れないよ、今年の夏は」
「ん?」
「今年の夏は怒濤すぎて、忘れたくても忘れられないだろ」
「そうだな」
猫戸が目を細めた。風がさらさらとその髪を撫でていく。立川が柵を強く掴んだ。
「俺、今すげぇ猫戸にキスしたいけどすっげえ我慢してる」
言われた猫戸が目を丸くさせると、悶々とした表情の立川を一瞥して「キメェ」と吐き捨てた。赤くなった目尻と耳が立川の欲を煽る。
じろじろと猫戸を観察してから、立川が大きく溜め息を吐いて突然言った。
「……こんな猫戸にも、
「はぁ!? 何言ってんだ?」
猫戸はあからさまな程の『気色悪いなこいつ』という視線を隠そうとしない。
「なぁ、猫戸知ってる?男同士って尻でセックスするらしいんだよ」
「お前、マジで頭沸いてんじゃねーのか」
やや本気のトーンで嫌悪感を露わにした猫戸を前に、立川は海溝よりも深い溜め息を吐く。
「先は長いなあ……」
一人ごちた立川に向かって猫戸が軽蔑の眼差しを向けながら、着ていたベストのポケットから何かを取り出し、差し出した。
「はい、これ」
「なに?」
黄色い封筒に『たちかわくんえ』と書いてある。立川の顔が綻んだ。
「梨花ちゃんから?」
「ああ」
受け取り、開けるとカードが入っていた。内容を要約すれば『自分の家でピアノの発表会をするから来て欲しい』ということだった。最近ハマッているという猫のキャラクターの模写らしきものの絵が描かれていて『たちかわくん、きをつけてきてね』と吹き出しが出ている。
何とも言えない立川の表情を、猫戸が覗き込んだ。
「寂しいんだろ」
「え?」
「梨花ちゃんの、立川への認識がとうとう人間に進化しちゃったから」
「あ、分かる? 分かっちゃう?」
「分かる、分かるよ……。立川は、ゴリラ扱いが唯一のアイデンティティーだったんだもんなー」
「ちょっと、そんなことないよ、もっとちゃんとしたアイデンティティーあるって!」
笑いながら言う立川が、猫戸の腕を引き寄せた。アハハ、と声を上げていた猫戸の瞳が立川を捕らえる。一瞬、立川の胸にそのまま収まりそうになり、猫戸は足を踏ん張った。
立川が眉を下げて微笑みその手を離すと、カードを大事そうに戻し、ハーフパンツのポケットに入れた。
「――猫戸は行くの?」
「うん、行く」
「じゃあ一緒にお呼ばれしようぜ」
「おぅ」
二人は笑顔で屋上を後にする。エレベーターホールで機体が到着するのを待ちながら、立川がエレベーターの下りボタンを見詰めて言った。
「ありがとう、猫戸」
「うん?」
「俺は
不思議そうに顔を上げた猫戸だったが、立川の顔を見ると優しく笑った。
「こちらこそありがとう、立川」
立川は答えない。
「俺も、
古いエレベーターの機体は、到着するなり、ポンという軽い音を立てていつもの通り二人を迎え入れた。
立川に続いて乗り込んだ猫戸が自分の左手を見詰める。
一年前、今と同じように屋上で会った立川に突然告白をされ、手を掴まれ、嫌悪感に吐き気すら催し、結果的に潔癖症が露見する原因となったその左手は今、立川に寄り沿う事を望んでいる。
猫戸が手を伸ばし、隣に立つ立川の右手をそっと握って呟いた。
「これからもよろしくな」
立川は、黙ったままその手を握り返した。
<おわり>
【BL】潔癖症のアイツが俺に___を許すまで とらの尾 ふみ文 @tora_kaibuntei
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