第25話「新しい生活」
月曜日、立川は朝から出社することを決め、久々に電車で通勤をした。たまたま乗った車両には優先座席があり、松葉杖を突いている立川に女子高生が席を譲ろうとしてくれたが、断った。一度座ってしまうと、立ち上がるのが大変だったからだ。とはいえ、電車の揺れに耐える行為は中々に筋力を必要とするものだった。
せっせと松葉杖を前後させて会社の入るビルに着くと、緊張した面持ちでビルを見上げる。そこに、オーナーが掃除道具を持って現れた。立川の姿を確認するなり、皺だらけのその顔がくしゃくしゃの笑顔になった。
「立川さん!」
「おはようございます藤田さん」
「今日から復帰なんですね、いやぁ、良かった良かった」
「はい、ご心配お掛けしました」
変わらないオーナーの態度に、笑って答える立川から緊張が取れていく。
「自転車置き場、まだ残してるからね」
「え?」
オーナーが入り口ドア横の暗がりを指した。そこには真新しい赤い三角コーンが立っている。コーンには『立川氏 契約駐輪場』と手書きで書いてあったが、コーンの円錐系に翻弄され、上手く書ききれなかった様子が伺える字の乱れ具合だった。
立川が眉を下げて笑った。
「はは、ありがとうございます」
「あんまり、無理なさらないでね」
オーナーの言葉に頭を下げると、古いビル内部へ入っていく。タバコの匂いがほんのりと漂う入り口に驚きながら、エレベーターのボタンを押した。
『入り口のところが喫煙コーナーだから、こんな匂いだったんだなぁ……』
自分が所属するビルの匂いすら忘れている。時間が経った事を痛感するには、それだけでも十分だった。
ガコンと音を立てて、古いエレベーターは変わらない様子で立川を機内へ迎え入れる。松葉杖を突き足を踏み入れ、立川が四階のボタンを押した。エレベーターは何事も無く、指示を受けた通りに立川を四階へ連れ、排出した。
株式会社ジモテックまでの通路が、等間隔に設置された窓から射す陽の光に晒されている。高い湿度でムシムシとした空気が満ちたそこを進んで、途中にある給湯室前で立ち止まった。
立川の頭には様々な事が蘇ってくる。廊下がまだ寒く、床に淀み冷えた空気が全身の熱を奪うような二月「お前の事が分からない」と猫戸に突き放された。四月には妖怪
立川は腕時計を見て深く息を吐いた。時刻は八時三〇分時だ。始業の時間には十分間に合っており、ともすれば普段の立川よりも早かった。意を決して、立川は会社の扉を開けた。
「おはようございます」
「おはようございます!」
立川の挨拶にほぼ被るように、営業管理課に所属する女性社員の挨拶が返ってきた。ドアを開けたまま立ち尽くす立川を「入って入って」と促して社内に入れると、わらわらと営業管理課の人たちが集まってきた。
「おかえりなさい、立川さん!」
「大丈夫そうですね!」
「もー寂しかったんですからねー!」
口々に言われて、立川ははにかんで笑った。既に誰が何を言ったのか把握できない。
「心配かけて、すみませんでした」
頭を下げた立川に、営業管理課の中に混ざって立っていた俊明が駆け寄ってくると、荷物を受け取った。
「立川くん、本当に、戻ってきてくれて良かったです」
俊明は荷物を持ち直すと「ほら、SEの皆も待ってるよ」と促した。
顔を上げた立川は、衝立の向こうから、待ちきれない様子で乗り出して様子を見ている仲間を見つけた。思わず吹き出して笑い、ブースへ向かって松葉杖を盛んに動かし、進んでいく。
「ただいま!」
立川の言葉に、楠原ががっしりと肩を組んで笑った。金森は嬉しそうに目を細めてから唇を尖らせる。
「もー、依頼溜まってますよぉー」
「すみません、精一杯やるんで許して下さい」
二人のやりとりを聞いて、楠原がアッハッハと豪快に笑っている。
「――あれ?藤岡さんは?」
立川が見回す人の中に藤岡は居ない。金森が身を乗り出した。
「聞いてよ!なんと、藤岡君一人で打ち合わせに出てるの!」
「真っ青な顔して『立川さんのぶんまで僕がやんなきゃ』って張り切ってたよ」
それを聞いた立川はポツリと「大丈夫かなー……」と呟いた。
久々に出社をした立川を、全員が暖かく出迎えた。しかし、重要な二人が居なかった。思い思いに立川を出迎え自席に着こうと解散し始めた時、ブースに入りかけた楠原を捕まえる。
「楠原さん」
「ん?」
「社長と、猫戸は……」
「あ、あぁ、直行でIT企業の意見交換会に参加してから、昼過ぎには戻るって聞いてる」
「そうですか」
残念そうに俯く立川に向かって楠原が言った。
「猫戸、すごい心配してたぞ」
「……はい」
「物憂げな顔してウロウロしたり、お前のブース覗いたりしてて可哀想だったよ」
立川の胸がちくりと痛む。楠原は困ったように眉を下げて笑った。
「なんかさぁ、今回の事で、猫戸とちょっと喋ったりすることも多かったんだけどさ」
「はい」
「やたら幸薄そうでさ、なんかこう……守ってやらなきゃっていう気持ちが初めて沸いたよ」
頬をポッと染めて、ニヤニヤとした笑いをこぼす楠原を見た立川の頬が引き吊った。楠原は気づく事無く、自分のスマートフォンを取り出す。
「ほら、コレ見てこれ」
楠原のSNSの画面が掲げられた。そこには、猫戸の登録IDとともに、二人のやりとりが表示されている。一瞬見えたその画面は、まるで写真に撮ったかのように立川の脳裏に焼き付いた。
『クスパラさん:じゃあこれからはこっちでよろしく』
『クスパラさん:(疲れたサラリーマンのスタンプ)』
『猫戸:よろしくお願い致します。日程など、またこちらでご連絡致します。』
『クスパラさん:(サラリーマンの「はーい」というスタンプ)』
『クスパラさん:猫戸は体大丈夫なのかー??』
それ以降の会話は、画面をスクロールさせないと見えない。楠原は手を下ろしてスマートフォンを触りながら、ちらりと立川を見た。
「お前が苦労して手に入れた連絡先、さらっと向こうから教えてもらった」
その瞳は自信に溢れ、自慢げだった。立川が楠原にずい、と体を寄せると、ギラギラした瞳で見下ろす。楠原が後ずさった。
「な、なんだよ立川」
「楠原さん」
「なに! こえーよお前!」
「スマホ貸してください」
「なんで!」
「楠原さんのスマホ、ぶっ壊しますんで」
「それ聞いて貸す奴いると思ってんのか!」
「思いません」
立川は言うだけ言うと、すごすごと背を向けて自分のブースへ歩いていった。背後から楠原の「なーに怒ってんだよぉーもぉー」という訴えかけがあったが無視をする。
徒歩八秒で自分のブースの前に立った立川は、思いの外普通にブースを眺めていた。まるで、昨日作業をして帰宅し、そしてまた出社してきたように、それが当然の光景だと頭が認識している。バックパックを椅子に置いた時、爽やかな「カノン」がスピーカーから流れ始めた。
「朝礼です」
集合を促す文恵の声に急かされるように、立川は慌てて営業管理課へ歩いていった。
朝礼を終えた立川に与えられた仕事は、事故前まで作成していたプログラムの続きではなく、ハードディスクの中身を整理するシステムの構築だった。分かっていたつもりだったが、立川の気持ちが無意識下で萎えかける。
『俺に求められていることは、まずカンを取り戻すことだもんな』
黙って頷き自分を納得させ、立川はパソコンに対峙した。
そうして黙々と作業をすること三時間、その間に楠原や金森は立川を気遣い何度も顔を覗きにきた。終いには立川から「集中できないんで放っておいてください」の言葉を引き出し、二人はすごすごと自分のブースへ戻っていった。
ややあってから、藤岡が帰ってきた。「おかえりなさい」という営業管理課の挨拶に無言のお辞儀を返し、そそくさとシステムエンジニアブースに進んでくる。そして、立川のブース前で立ち尽くし、両手に持っていた荷物をドサリと落とした。
「た……た……」
人影に立川の集中が途切れ、顔を上げる。その瞬間、立川に向かってすさまじい早さで藤岡が抱きついた。途端に汗の
「うわっウワあぁ!」
状況を飲み込めない立川は思わず悲鳴を上げた。藤岡は顔を涙でぐしゃぐしゃにして、わんわんと声を上げて泣いている。
「たちっ、たちかわさあぁぁん!」
「藤岡さん!? 泣いてるの!?」
立川は肋骨に走った痛みを顔に出さないように、はは、と笑った。
「どしたんすか、泣かないでくださいよ」
「もう、もう僕心配したんですからねぇっ」
そう言って藤岡が縋り抱きつくのを、立川は困ったように笑いながら慰めるしかない。通路沿いにある衝立の向こう側にモコモコとした髪の毛が見えた直後、立川に抱きつく藤岡の背後から、金森が襟首を掴んだ。
「藤岡さん!」
「ウェッ」
引き剥がされた藤岡は目を白黒させながら金森を振り返っている。金森が低く、ドスの利いた声音で藤岡を睨んだ。
「うるさい」
「は……す……すみません……」
それだけやって立ち去っていく金森を見ながら、藤岡は目をごしごしと拭いて子供のようにしゃくりあげた。
「立川さん、すみません、嬉しくなっちゃって、俺……俺」
「藤岡さん、ありがとうございます。おかげで俺戻ってきました」
立川が照れ臭そうに笑うと、藤岡は首をガクガクと振って頷き「じゃ、また」と言って荷物と共に自分のブースへ帰って行った。
時刻は昼を過ぎた。立川は作業の手を止めて、給湯室に向かった。右手にマグカップと緑茶の粉、左手に松葉杖を持って支えにして、トコトコと進む。途中で気づいた男性社員が「僕行きましょうか?」と声を掛けてくれたが、立川は礼を言って断った。これから足が治っていくにあたり、できることは全て自分でしておきたかった。
廊下に出て歩く立川の後ろから、誰かが声を掛けてきた。
「立川」
「あ、おつかれっす」
振り返ると楠原と藤岡が並んでいる。
「これから俺たちメシ行くんだけど、一緒にどうよ」
楠原の言葉に、立川は一瞬考えて首を振った。
「ありがとうございます……でもやめときます。今、調子取り戻してきたところなんで」
「そうか」
楠原が答えて、立川の姿をまじまじと舐め回すように見て言った。
「お前から『ありがとうございます』とか聞くと気色悪いな」
「なんすかそれ!」
「なんかな、しおらしすぎるんだよ」
立川はぐっと口を噤んだ。楠原は豪快に笑いながら、立川の肩を叩く。
「ま、そのへんのカンも取り戻してくれよな、早々に。――じゃあ行ってくるわ!」
「いってきまーす!」
藤岡が元気に手を振って楠原の後を追うと、エレベーターに乗りこんで行った。
立川は小さく溜め息を吐いて給湯室に入った。むしむしとした空気は、水回りだと濃厚になる。台の上にマグカップを置き、さらさらと緑茶の粉を振り入れる。そうしてウォーターサーバーから冷たい水を注ぎ溶かしながら「猫戸遅いな」と呟いた。
結局、猫戸と社長が戻ってきたのは午後三時前だった。ドアを開けて入ってきた猫戸と、後から入ってきた社長に向かって営業管理課の皆が「康男さん、猫戸さん、お帰りなさい」と声を掛けている。猫戸が先に社長室へ荷物を置きに入っていった。
「立川は出社してんのか?」
社長がシステムエンジニア部に目をやりながら言った。座っていた文恵が「はい」と答える。社長は安堵して微笑むと「そうか」と呟いた。
社長室に戻った猫戸は資料や自分のクラッチバッグを置くと、手をウエットティッシュで拭いた。すぐに盆を用意し、社長用グラスと茶托、自分の紙コップを乗せて社長室を出た。入ってくる社長とすれ違う。
「お水をお持ちします」
「おう、頼む」
一礼した猫戸の足は、すぐに給湯室に向かうことは無い。その足は、意図的に、当然の如くシステムエンジニアブースに向かう。
背筋を伸ばし、颯爽と自分のブース入り口を過ぎった猫戸を、楠原はちらりと見た。
立川のブース前で猫戸が立ち止まる。立川は大きなヘッドフォンを着け何かを聴きながら作業をしている。入り口の衝立には松葉杖が一本だけ立てかけてあった。作業デスクの左にある大きな窓にはブラインドが降りており、厳しい夏の日差しを柔らかく室内に届けていた。その前に、立川の真剣な横顔がある。
黙ってじっとそれを見て、猫戸は何も言わず給湯室に向かった。シンク台に盆を置き、社長のグラスを濯いでキッチンペーパーで拭く。そこへ冷水と温水をサーバーから注いで、やや温いくらいの水にした。社長の体を気遣い、冷水を出す事はしないのが暗黙のルールだった。
「――猫戸」
……来た、と猫戸は思った。ちらりと視線を向けると立川が立っている。左手で松葉杖を突き右手には何も持っていない。猫戸は細く息を吐くと、グラスを茶托の上に置いた。
「おかえり、立川」
小さく言って猫戸は立川に対峙した。立川の、やや照れくさそうな、まぶしいものを見るかのような視線が猫戸に注がれている。しかしその瞳の奥は、圧倒的な不安が濃い影を作っていた。猫戸が眉根を寄せた。
「何かあったのか?」
立川は猫戸の問いに答えないまま、右手を伸ばして猫戸の顎に触れた。立川の胸の内が分からない猫戸は、その行動をどう受け止めるべきか察することすらできない。避けることも、積極的に受ける事もせずに、甘んじてその状況を受け入れている。
「戻るの遅かったね」
立川は顎に触れているだけで何もせず、小さく言った。猫戸が首を縦に振って答える。
「本当は正午には戻れる予定だったんだけど、昼食会が入っちまった」
「そっか」
「立川、メシちゃんと食ったか?」
「うん」
立川は頷いたが「猫戸をちょっと待ってみたけど、諦めちゃった」と続けた。
蒸し暑い給湯室で、猫戸の背中に汗が落ちる。
「ごめん」
瞼を伏せて猫戸が謝ると、立川が慌てた様子で言った。
「あ、別に責めてないんだよ、猫戸の状況は分かってるつもりだし……こういう事は当たり前だし」
「おぅ」
立川の人差し指の背が頬を撫でる。途端に雰囲気は熱を帯び、蒸し暑さが増した。息苦しさすら感じる熱量に、猫戸は困ったように視線を逸らして笑った。
「立川、悪いんだけど、俺、康男さんに水持ってかなきゃいけねーんだよ」
「あ、ごめん……はは、俺が止めてたら康男さんカラカラになっちゃうな」
立川は笑うと、そっと手を下ろした。猫戸が自分の紙コップになみなみと冷水を注いで盆に乗せる。無駄のない仕草でそれを持つ猫戸を見た立川は、廊下へ退いた。すれ違いざま、猫戸がそっと聞いた。
「今日、やっぱりすぐ帰る……よな?」
「そうだなぁ、疲れてるし」
「そっか、そうだよな」
口元に寂しげな笑みを浮かべた猫戸の耳元に唇を寄せ、立川が囁いた。
「猫戸が泊まりに来てくれるなら別だけど」
猫戸が咄嗟に立川を見上げた。盆が一瞬傾いたのを慌てて戻すと、猫戸は視線を廊下に向けてはっきりと言った。
「それは、無理だ」
「――うん、分かってる」
「立川、週末時間あるか?」
「日曜なら」
「じゃあ、日曜に会わないか」
二人の視線が重なる。立川は目を細めて微笑んだ。
「うん、日曜に」
「おう」
猫戸はそう言い残して、颯爽と廊下を戻っていく。
立川はその背中を眺めていたが、会社のドアを開けて猫戸の姿が見えなくなると、視線を落として溜め息を吐いた。
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