第24話「かさなる唇」

 猫戸は何度か唇を単純に押し当ててから、死守していた座布団という陣地から身体をはみ出させ、立川のすぐ横に正座をした。そうして立川の頬を手で包み込んで初めて、そこが濡れている事に気付いた。胸に迫るような不安と悲しみが、心臓をおかしなリズムで叩いてくる。立川の唇は猫戸を受け入れてはいたものの、積極性など皆無だった。

「……んッ、ふ……、たち、か……わ」

 猫戸が唇を僅かに開けて目前の立川を呼ぶ。立川はペットボトルをテーブルの上で手放すと、猫戸の腰にゆるゆると手を回した。ペットボトルがゴトンと倒れ、振り子のように揺れる微かな音が響く。

 猫戸が唇を開いて、ささやかに舌を出した。白い歯の間に艶めかしくそれが揺れ動く。猫戸は立川の唇に唇を重ねると、おずおずと舌を入れた。

 猫戸の腰を掴んでいた立川の手がピクリと動き、力が籠る。

「猫戸」

 立川が猫戸の舌に、舌を絡める。

「はッ……う、ん」

 猫戸が苦しそうに声を出すと、立川は一度唇を離して自分の息も整えた。猫戸は肩で息をしつつ、真っ赤な顔をしている立川を見ると、正座を崩してゆっくりと膝立ちになり、立川を見下ろしつつ唇を重ねた。

「ぅ、んぅ」

 猫戸から声が漏れた。はぁ、と吐いた吐息を飲み込む勢いで、立川が角度を変えて舌を絡めた。

「あ」

 唇をやんわりと開いて、互いの舌先を触れさせる。猫戸は、包み込んでいた立川の頬から手を滑らせゆっくりと耳に触れた。立川がピクリと反応するのを無視して唇を重ねる。猫戸の手は立川の頭を掻き抱くように撫でた後、後頭部を支えてさらに深いキスへ導いた。指先には、事故の時の縫合痕が触れた。

「ん、ぅ……」

 立川からも声が漏れた。一瞬離した猫戸の唇に唾液が光るのを見た途端、立川の背中にゾワゾワとした快感が走る。

『あんなに、汚いとか、怖いとか言ってたのに』

 立川が差し出した舌先を、猫戸が唇を窄めて吸った。

「ん……」

 僅かに声を出した猫戸が、ちゅ、と音を立てて唇を離す。立川が見る間近の猫戸の睫毛には滴が絡んでいた。

「……っ猫戸、泣いてるの?」

「立川もじゃねーか」

 言った猫戸が立川の頬にキスをした。くすぐったそうに立川が笑う。

「もう、何やってんだよ、俺た……」

 立川が喋る先から、猫戸は唇を奪う。喋るペースなどお構いなしに、舌が絡み、ぐちゅ、と互いの脳内に音が響く。

「――ん、ぅ、……ホントにな」

 そう言って笑い返す猫戸の瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。



 二人は互いの涙が止まるまで、ひたすらキスをし続けた。頬に落ちる滴に唇を寄せ、震える瞼にキスをし、目尻に溜まってゆく水分を舌ですくう。やがて猫戸の涙が止まり、次いで立川が落ち着きを取り戻した。猫戸が立川の額にたっぷりと時間をかけてキスをする。ふぅ、と大きく息を吐いた立川は、膝立ちのまま見下ろしてくる猫戸を見上げている。

「どうしちゃったの、猫戸」

「……」

 猫戸の顔は耳まで赤く、熱くなっていた。眉根が辛そうに寄せられ、潤んだ瞳はじっと立川を見ている。立川が猫戸を強く抱き寄せると、猫戸の胸に顔を埋めた。猫戸は無意識に立川の頭を撫でている。立川は、薄く、平たく、自分より華奢な猫戸の胸に顔を当て、深く息を吸い囁いた。

「ごめん、言わなくていいよ」

「――いや、立川、言わせてくれ」

 猫戸の声がその身体に反響して、立川の耳にくぐもった音となって伝わった。猫戸がいつくしむように立川の髪に指を通して抱き締め、声を絞り出した。

「俺はどこにも行かねぇよ」

 立川が胸の中で小さく頷いたのを確認すると、続ける。

「お前がいねーとどこにも行けねぇし」

 猫戸の唇がそっと立川の頭に触れた。

「お前がいねぇ所に行ったって、意味が無い」

 聞いた立川はそっと顔を上げる。猫戸と目が合うと、へにゃりと目尻を下げて緩んだ笑顔を見せた。猫戸がサラリと告げた。

「お前がどこかに行っちまうとか、考えたく無いって言ったろ?」

「……うん」

「――立川、好きだ」

「どうしたの、やたら素直だなぁ」

「ダメか?」

「全然いいんだけど」

「ならいいだろ」

 猫戸が立川の頬に手をやり、ぐい、と視線を上げさせると、優しげに微笑んでじっと見つめた。

「好きだよ、立川。好き……」

 今まで立川から散々言われ続け、溜めこんできた言葉を返すように猫戸が囁く。

 立川が物足りなさそうに唇を突きだすと、猫戸は軽いキスをして応えた。立川は猫戸の腰を抱き寄せていた腕をそっと下ろすと、猫戸の手首を掴んだ。

「猫戸、わかる?」

 そう言って猫戸の手を自身の股間に持っていく。朝から履いていたハーフパンツを持ち上げるように、立川の股間が張っている。猫戸は手を強張らせた。

「――触って」

 立川が目を閉じて熱い吐息を吐いた。当然、猫戸は自分から触ることができない。立川に掴まれた手は、無抵抗で擦りつけられた。

「気持ちい」

 囁くように言って、立川が顔を逸らす。その太い首筋に汗が流れ落ちた。閉じられた瞼がピクリと動き、頬と目尻が赤く染まっている。猫戸の掌には、布越しに硬く大きくなっている立川自身が触れていた。立川は猫戸の手首を解放したが、すぐに手の甲に掌を重ね直し、起ちあがった先端を包み込むよう誘導した。立川の身体が一瞬ふるりと震えた。

「あっ……、くッ、ぅ」

 ハァハァと大きな息をして、立川がちらりと猫戸を見た。

「ねこと」

「……ん……?」

「キ、ス」

 言われた猫戸は手をされるがままにされながら、背けられていた立川の頬にキスをした。身を乗り出しても唇の端にするのが限界だ。

「立川、こっち向け」

 立川が荒い息を吐いて、のろのろと猫戸に顔を向ける。猫戸が立川の唇を覆うようにキスをした瞬間、無意識に立川のモノに触れていた猫戸の手に力が籠った。

「あ」

 立川が喘いで、猫戸の手を覆っていた自身の手を離すと、体を支えるように床に突いた。先導する立川の掌が無くなったにも関わらず、猫戸の手はそこから離れなかった。細い指が膨らみを下から撫で擦る。立川は胸を張るように腰を浮かせてしまい、突如走った足の痛みに表情を歪めた。

「いッ……」

 肩で息をしながら、立川が「やばい、出る」と呟いた。それでも猫戸は触れていた手を離さない。膨らみを手で包み込んで擦り、先端に指を這わせて、立川のこめかみにキスをする。

「あ、ぃッ……」

 立川が高くうめくと息を詰め、体を震わせてから、大きく息を吐いた。やや間を置きじわりとハーフパンツに染みが浮き出て、その部分だけ色が濃く変わった。同時に硬い張りが無くなっていく。

「なんだよ……夢精みたいになっちゃったよ……」

 立川が深い溜め息を吐いて一人ごちた言葉に、猫戸は思わず笑いをこぼした。立川の額に浮いた汗を、猫戸が指先で撫でた。汗は固まりになって立川の頬を流れ落ちる。

「猫戸は?」

「ん?」

 立川の視線が猫戸の股間に注がれている。立川のジャージは猫戸よりサイズが大きいため目立つことは無いが、それでも通常にはない主張がそこに存在している。

 猫戸は恥ずかしそうに膝立ちをやめると、正座をし直した。そして両手を膝の上に揃えて置くと、身を小さくしながら首を振った。

「いい、俺はいい」

「どうして?」

「下着の替えが無いし」

 聞いた立川は、そっと猫戸の手を握る。

「何も、履いたまんましなくていいじゃん」

 意味がわからないといった表情で、猫戸は立川を見返していた。立川があっけらかんと答える。

「脱げばいいだろ」

 猫戸の目が見開かれ、そして瞬時に「嫌だよ馬鹿」と言い返した。立川がくすくすと笑い声をあげた。

「無理にとは言わないよ」

「当たり前だろ」

「でも、また我慢すんの?」

 立川の質問に、猫戸は俯くと、コクリと頷いた。

「あー、我慢強いよなぁ、猫戸は。俺と違って」

 言いながら、立川が自分のハーフパンツを嫌そうに見た。欲に駆られた結果の惨事がまだそこに残っている。面倒臭そうに壁に手を突いて、ゆっくりと立ち上がった。

「きもちわるーい」

 がに股で、悲しそうな顔をしている立川を見て、猫戸は思わず吹き出した。猫戸の楽しそうな笑いを確認すると、立川は猫戸の頭をくしゃりと撫でて足を踏み出した。

「パンツ替えてくる」

「うん」

 猫戸の柔らかい髪の毛が、立川の指先を名残惜しそうにくすぐった。



 下着とハーフパンツを普段愛用していたものに替えた立川は、スッキリした表情で戻って来た。安っぽい折り畳みテーブルに突っ伏していた猫戸がそれを確認するすべはない。立川はベッドに腰掛けながら、猫戸を探り見ている。

「――猫戸?」

「うん」

「どしたの」

 声を掛けられた猫戸はぼうっとした視線を立川に向け「疲れた」とだけ言って、また突っ伏した。立川が優しく笑う。

「俺も、疲れて眠いよ」

 言いながら、立川がベッドに仰向けに転がった。

「あー……一ヶ月ぶりの、ウチのベッドだ」

 小さく言うなり、立川は頭をもたげて、表情の見えない猫戸に声を掛けた。

「おいで、猫戸」

 猫戸がのろのろと顔を上げて立川を見た。立川は仰向けで寝たまま、くしゃくしゃの状態で下敷きになっている掛け布団をポンポン叩き、猫戸を誘っている。

 猫戸が、はは、と力なく笑った。

「隣においでよ」

 諦めずに説得にかかる立川を呆れた目線で見遣って、猫戸がしぶしぶ立ち上がった。ベッドには上がらずサイドレールに背中を凭れせると、ずるずると床に腰を下ろす。摩擦で引っ張られたジャージから、白い背中がちらりと立川の目に映る。

「ココでいい」

 小さく答えて、猫戸が天井を見上げた。よくある丸いシーリングライトが天井に張り付いていた。中に影ができていて、おそらく埃が溜まっているであろうことが想像つく。

 猫戸の柔らかい髪の毛が立川の手元にふわりと触れる。しばらくぼうっと天井を見上げていた猫戸の視界に、立川の振る手が入り込んでは消え、また入り込んできた。

「……なんだよ」

「何見てるの?」

「電気」

 言って、猫戸は手を挙げてシーリングライトを指さした。立川がその指を瞬時に掴む。思わぬ立川の動きに、猫戸が思わず笑った。

「なに」

「え、なんか下から出てきたと思って」

「下から何かが出てきたら掴むのかよお前」

「掴む、すっごい掴む」

「意味わかんねぇ」

 笑う猫戸の指を離すと、立川の手は猫戸の髪をさらさらと撫でた。

「なぁ、猫戸」

「おう」

「キスして」

「……お前そればっかりだな」

 不満げに言って溜め息を吐きつつも、猫戸はベッドの上の立川を振り返り、目線を合わせた。

 立川の、照れ臭そうで期待に満ちた瞳がそこにある。

「もぉー、そこからじゃキスできないだろ」

「うるっせぇなぁ、知らねぇよどこからなら出来るかなんて」

 猫戸の童貞感丸出しの返答も、立川は笑わなかった。猫戸がそっと体を上げると、ベッドに寝ている立川の顔に顔を伏せようとして、ふと止まった。

「どした?」

 立川が聞くと、猫戸は瞳を一瞬細めて笑った。

「お前が、こうやってベッドに寝たまま――ひとつも動かないのを、俺はじっと見てる事しかできなかった」

 立川が微笑み返した。

「んで、我慢できなくてその時キスしちゃったんだっけ?」

「してねぇって言ってんだろうが、記憶障害かよおい」

「本当にしてないの?」

「してねーよ、そんな……」

 言い淀む猫戸を見ながら立川は眉を上げて、真剣な顔をした。

「したいとは思った?」

「はぁ?」

「俺とキスしたいと思ったろ?」

 猫戸の眉根がぴくりと寄り、言葉を失ったことに、立川は『あれ?』と思った。『そんなこと思ってねぇよ』または『思ったよ悪ィか馬鹿が』という高オッズの返答が来ても良いのに、それを猫戸は言わない。

 立川が覆い被さっている猫戸の顔を見上げながら、そっと聞いた。

「――どうした、したいと思わなかった?」

「正直――お前があのまま死んでしまうくらいなら、キスしとこうかと思った瞬間は何度もあった」

 立川は、予想を越えた返答に言葉を失う。

「でも、近寄った時に見たお前の顔は、お前だけどお前じゃねーんだよ」

 猫戸の声は一瞬震えたが、涙は見せなかった。そっと立川の頬に左手を当てると、頬を親指で撫でる。

「俺がキスしたかったのは、この顔だ」

 言って、猫戸がそっと立川の唇に唇を重ねた。


 された側の立川といえば、あまりにも情熱的な猫戸の告白で胸が押しつぶされそうになると同時に、思考停止と酸素不足で混乱の収拾がつかなくなっていた。

「ぅっ、ん……」

 軽いキスのつもりが、何故か舌を絡める濃厚なものになっている。互いを止める術など無い。

 その時、猫戸の社用スマートフォンが鳴った。

「!!!!」

 猫戸があからさまな程に体をビクつかせると、咄嗟に立川から離れて、ジャージの袖で口を拭った。ベッドの上で放心している立川を一瞬見て、そのまま視線をクラッチバッグに向けると駆け寄った。社用スマートフォンを取り出しつつ、息を整える。その仕草はすでに様式美だ。

「――はい、猫戸です。大変お待たせして申し訳ございません」

『おう、お疲れさん、悪いな、休みの日に』

「いえ、大丈夫です。こちらこそ、昨日は半日で終業させていただいて申し訳ありませんでした」

『いいんだよそんなの』

 地声が大きい社長の声は、しんと静まりかえった立川の部屋に響いてしまっている。猫戸は苦笑いを浮かべた。

『ちょっとな、立川の様子の報告が無かったから……』

「あ……申し訳ございません!」

『いや、お前も忙しいと思ったからよ、とりあえず翌日だと思ってよぉ』

「お気遣いありがとうございます」

『――立川、どんな様子だった?』

 猫戸がちらりと立川を見ると、根転んだままの立川と目が合った。顔を赤くさせた立川は、ぷいと視線を逸らしてその顔を隠したが、先ほどあんなに出したはずの股間はまた激しい主張をしている。

 猫戸が言った。

「元気です(いろんな意味で)」

『おう、そうか、それは、とりあえず良かった』

「はい」

『何か辛そうとか、必要としてるものは無かったか?』

「――そうですね、歩くのは辛そうですが、とりあえずは大丈夫なのではないでしょうか」

『そうか……』

 間をおいて、社長が言った。

『猫戸』

「はい」

『ありがとうな、またちゃんと言うけど』

「いえ、こちらこそ、皆さんの理解に支えられていました」

 社長が電話口でハハと笑った。

『じゃあ、立川の復帰をいつにするか、本人にまた連絡するわ』

「はい、承知いたしました」

『じゃあ』

「はい、失礼いたします」

 社用スマートフォンの通話がぷつりと切れた。猫戸は全力で伸ばしていた背筋をやや緩めて、大きく溜め息を吐いた。立川が顔を背けたまま恨めしそうに言った。

「俺の事放っておいて、他の男の電話に出るんだ」

「んだよそれ」

 猫戸がスマートフォンをテーブルの上に置いて、またサイドレールに背を当てて座る。立川の口調が怪しくなった。

「アタシとソイツどっちが大事なのよ!」

「どしたよそのキメェ口調」

 まったく乗ってこない猫戸に痺れを切らして、立川は上半身を上げ猫戸を見つつ唇を尖らせる。

「――修羅場っぽい感じを出してみたんだけど!」

「お前の頭の中が修羅場だな」

 猫戸の返答に吹き出して、またベッドにどさりと仰向けになると、立川は瞳を閉じた。

「あー、疲れちゃったなー」

「そうだな」

「ちょっと、寝るわ」

「うん」

 猫戸が頷くと、そっと立川を振り返る。天を仰ぐように体を横たえて、眠ろうとする瞳が閉じられていたが、そこには今日一日で刻まれた幾つもの笑い皺が浮かんでいる。

『お前、そこはお母さん似だったんだな』

 優しく微笑みながら、猫戸も天井を仰いでそっと瞳を閉じた。



 二人が揃って目を覚ました時には、二〇時を回っていた。窓からは、遠い家屋の灯りがレースカーテンを通してぼんやりと浮かんで見える。ベッドの上で立川が呆然と天井を見上げていた。

「すげー、寝てたな……」

「うん……」

 答える猫戸の声が掠れていた。体を左右に揺らして、ギシギシと動かしている。

「体イテェわ……」

「大丈夫?」

「あぁ」

 猫戸が頷いて、息を吐いた。立川の腹から、小さい獣の咆哮のようなグウゥという音がした。

「あーお腹すいたー」

 わざとらしく立川が言った。猫戸は特に反応せず、立ち上がる。

「猫戸?」

「俺、帰る」

「え?」

 立川が慌てて起きあがる。足の痛みを感じたのか一瞬小さく呻いたが、気にする事無く猫戸を見つめている。

「帰んの?」

「うん」

「一緒に夕飯食べようよ」

「――どうせ食べるもの無いだろ」

「出前取る」

「ぜってー無理」

「コンビニ行こうぜ」

「このジャージがもう無理」

 徹底的に否定をする猫戸に対して、すでに立川の弾は無い。大きく溜め息を吐いてベッドから足を降ろした立川が、猫戸を見上げた。

「明日会える?」

「悪ィ、明日は一人にさせてくれ」

「――そうだな、お互いに……ちょっと時間欲しいかもな」

 立川は苦笑した。話しの内容はまるで倦怠期を迎えたカップルのそれだが、実際には驚くほど前向きな一人の時間を欲している。

 猫戸が、立川の荷物と一緒にバッグに入れていた、自分のスーツを取り出した。祖母が丁寧に風呂敷に包み、そして紙袋に入れてくれたそれを大切そうに持ちながら、立川に目をやる。立川はベッドのフットボードに手を置いて、立ち上がっていた。

 猫戸の荷物を見た立川がふと言った。

「あ、龍二のTシャツ置いてって。本人に返しとくから」

「いいよ、クリーニングに出して返す」

「いやいや、あんな素材クリーニングに出したら溶けちゃうよ!」

「そうか?」

 怪訝な顔をしながら、猫戸は言われた通りにダサいTシャツを取り出して、テーブルの上に畳んで置いた。

「今着てるジャージは、今度返してくれたらいいから」

「うん」

「なんなら、あげるよ」

「いらねぇ」

「トランクスも今度返し――」

「新しいやつ買ってやるよ」

 言い捨てると、猫戸は廊下へ歩いていった。立川が後を追う。

 玄関で靴を履いた猫戸が、段差の下から立川を見上げた。

「月曜は、休むのか?」

「……皆に迷惑を掛けないなら、出勤しようと思ってる」

「迷惑なわけねーだろ」

 猫戸の言葉に、立川は困ったような笑顔を見せた。猫戸が笑い返すとドアを開けた。

「じゃあな、どうするか決めたら連絡しろよ」

「あ、猫戸」

 立川が呼び止めたが、何も言わない。振り返った猫戸と視線がぶつかり、二人の唇が僅かに動いた。何か言いたいが、言えない何かがそこにあった。立川が小さく言った。

「おやすみ」

「――おやすみ」

 ガチャンと閉まった玄関ドアを見つめ続けて、立川は心臓を押さえた。

『駄目だ、ちゃんと、セーブしないと』

 頭の中でその言葉を何度も反芻して、玄関の鍵を掛ける。廊下に手を突きながら部屋へ戻った立川の視線は、ダサい体育祭Tシャツに注がれていた。

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