第23話「零れ落ちた本音」
翌朝土曜日、目を覚ました猫戸は、壁掛け時計に目をやった。時刻は午前六時二十四分を指している。隣で就寝したはずの立川の姿は既に無かった。
猫戸は立ち上がり大きく伸びをすると、壁沿いに置いていたクラッチバッグの中から社用スマートフォンを取り出した。社長からの連絡が無いことを確認すると、ホッとした様子で息を吐く。そうして、畳んで置いていた服を手に取った。やや汗の匂いが感じられるそれらに袖を通す事が拒まれ、猫戸は小さく唸った。インナーは当然の事ながら着たくない。
猫戸はうんざりした表情を浮かべ、庭に面した大きな窓に目をやった。閉め切ったカーテンから朝日が隙間を縫って射し込んでいる。そこに近づいて、カーテンをそっと開いた。
「!!」
開けかけたそこでは、朝日の中で龍二が野球のバットを持って素振りをしている背中が見えた。咄嗟にカーテンを閉めたが、少しして窓がコンコンと叩かれた。寝起きの、パンツ一丁の、そしてダサいTシャツを着こなした、だらしない大人の姿を
猫戸は必死で髪の毛を手櫛で整え、咳払いをすると、体が見られないようにそっとカーテンを開けて顔を出した。表情だけはデキる大人そのものを演出する。
「猫戸、おはよう」
ガラスの窓越しに、笑顔の立川が立っていた。ぴちぴちの青いTシャツに同じくサイズ感の小さめなハーフパンツを履いている。目の前が龍二だと思い込んでいた猫戸は、虚を突かれて眉間に皺を寄せた。
「なんだよ立川かよ」
小さく呟いた言葉はガラスに阻まれて聞こえなかったはずだったが、立川はその言葉を唇の動きで読み取った様子でムッと唇を尖らせた。
「ちょっと、開けて、窓」
「……」
「ココ!ココ開けて!」
立川が鍵を指さしている。猫戸はカーテンで体を隠したまま手を伸ばし、渋々窓を解錠した。途端にガラガラと立川が窓を開け放って、客間に「よいしょ」と腰を下ろす。早朝でありながら、すでに陽はヤル気を十分に感じさせる熱を放っている。ムワッとした空気が、涼しかった客間に入り込んできた。
立川はカーテンに巻き付いている猫戸を見上げて微笑んだ。
「おはよ、猫戸」
「……おはよう」
「体調どう?」
「別に、普通」
「そ。良かった」
ニコニコと笑う立川の真意が分からず、怪訝な表情で(カーテンにくるまったまま)見下ろしてくる猫戸に向かって、立川は首をゴキゴキと動かしながら言った。
「いや、あーいう事で、体調が悪くなるとかあったら今後辛いなーって思って」
猫戸は耳を赤くさせながらも、唇を引き攣らせて嫌そうな顔をした。龍二が庭の右方向から、牛乳をラッパ飲みしながら近寄ってくる。猫戸は咄嗟に笑顔を見せた。
「おはよう、龍二くん」
「おはぉーずーっす」
口の周りに付いた牛乳を舌で舐めながら、龍二が適当な挨拶を返す。猫戸がバットに目をやって微笑んだ。
「朝早くから頑張ってるんですね」
「そっすね、兄ちゃんが帰ってきたら、いっつもフォーム見てもらうことにしてて」
「へぇ……」
「でも正直、アドバイスされてもレベル低いんで、もういいかなーって思ってきてる」
龍二の言葉に立川が「それマジで言ってんのか」と聞いている。龍二は「ハハハ」と笑って誤魔化すと、突然、猫戸に言及した。
「猫戸さんどしたんすか」
「ん?」
「顔しか見えてないですけど」
ギクリとした猫戸は、張り付いた笑顔を返しながら言葉を濁す。立川はキラキラとした瞳で猫戸を見上げていた。まるで観察者の瞳だ。猫戸は、内心ギリギリと歯を噛みしめながらその瞳を呪った。
「うーん、ちょっとね」
「Tシャツがダサイからですか」
「あー、いや、そういう訳じゃ……」
「朝勃ち?」
「いやいや、そうじゃない」
「えー?じゃあなに?」
立川家一子相伝の、親しみを込めた口調と笑顔に
「いやぁ、実は、今トランクスしか履いてないから」
「え?」
「パンツ一丁ってやつ」
龍二は不思議そうに首を傾げる。どこかで見た光景だ。嫌な予感が猫戸の頭を過る。
「え?パンツ履いてるなら別に見られても大丈夫じゃないですか」
『出た――――ッ!』
思わず口にしそうになり、猫戸は笑った。立川家で
必死に笑いを耐えようとして肩を震わせる猫戸の肩に手をやり、立川が微笑む。
「ほら、トランクス履いてりゃパンツ一丁でもいいってよ」
「アホか、そんなルールねぇよ」
三人の笑い声が早朝の立川家に響いた。
猫戸の『着る服』問題は、立川が入院時に使っていた黒いジャージを祖母が洗濯していた事で解決した。猫戸は限界まで譲歩して、汗ばんだ自分の服よりも、柔軟剤の香りに包まれた立川のジャージを借用することを選んだのだ。
立川のジャージは猫戸のサイズに全く合わない。ズボンは裾を折り返し、上は袖を返したがダブついている。未使用だった龍二の白い靴下も貰い受け、とりあえず形にはなっていた。なんとかそれらを着た猫戸が、恥ずかしそうに立川を客間へ呼び入れた。
「うっわ」
見た瞬間に立川が思わず言った言葉に、猫戸がぎろりと視線を向けた。
「なんだよ」
「すっごい……」
「なんだよウゼェ、はっきり言えよ」
「すっごいカワイイ」
顔を赤らめながら言う立川を見て、みるみる内に猫戸の顔まで赤くなる。それは喜びや照れではなく、純粋な『
「マジで、マジで嫌だ」
「どして?」
「こんな姿、誰にも見せられない」
猫戸の人生の中で、ジャージを着て出歩いた事など、学生時代の指定服以外で存在しない。社会人になってからは特に、いつ、
殆ど泣きそうな猫戸に向かって、立川がそっと言った。
「俺には見せてくれるんだね」
「は?」
「猫戸のだらしない姿」
「だらしないって言うんじゃねーよ!」
真っ赤な顔で睨みつける猫戸を見ながら、立川はデレデレと笑った。猫戸が目を見開く。
『――あ、この表情見た事ある』
いくつかのシーンを思い出しながら、猫戸は鼻の下を伸ばした立川を見つめていた。
『ああ、あれだ。看護師さんに声を掛けられた時だ』
猫戸には理解が出来なかったが、あの時同様、立川の何かには響いているらしい。コスプレと言うにはあまりにも普通のジャージだったが、それでも自分が性的な対象にされている事を痛感し、猫戸はそこで初めて耳まで真っ赤にして俯いた。
その時、トントンと襖が叩かれた。
「二人ともー、ご飯だよー」
父親の声に反応して、二人は無言のまま客間を出て行った。
「いただきます」
全員が揃って食卓を囲みながら朝食を食べ始める。ご飯、味噌汁に、アジの開きとサラダだ。先ほど牛乳をラッパ飲みしていた龍二も、何事も無かったかのようにそれを平らげていく。
「龍造は今日どうするんだ?」
父親に言われて、立川が顔を上げた。トマトのヘタを取りながら父親が続けた。
「父さんは部活の指導があるし、龍二は部活があるから、家には夕方まで、ばーちゃんだけだよ」
「うーん、今日は荷物を家に持って帰りたいんだよなぁ」
言って、視線をぐるりと巡らせると、立川が猫戸を見た。
「猫戸」
「ん?」
「俺の家に荷物持って帰るの、手伝ってくれない?」
猫戸は飲んでいた味噌汁を一瞬ぐらりと揺らし、咄嗟に持ち直した。
「……へ?」
「俺のマンションに持って帰りたいんだけど」
猫戸が呆然と立川を見ている姿を確認して、父親が焦ったように声を出した。
「――いや、龍造、お前猫戸さんに甘えすぎだろ」
「えぇ?」
「事故の時から、入院の時も、退院してからも、お前が頼ってるの猫戸さんばっかりじゃないか」
言われて、立川は目をパチクリさせて「たしかに」と言った。
「他に友達とか、彼女とかいないのか」
立川が困ったようにハハと笑う。
「いや、色々親しい人はいるけど、頼れないっていうか」
「社長の娘にお願いすりゃいいじゃん!」
突然食い込んできた『社長の娘』というパワーワードに、全員が龍二を見た。龍二が得意げに続ける。
「社長の娘だったら、付き人とかそういう人が運んでくれるんじゃない?」
「ん……?なんだその話」
父親が完全に置いてきぼりになり、首を傾げている。当事者である立川も、何故か首を傾げている。龍二と猫戸、そして病院で疑惑のシーンを共に見ていた祖母だけが、何を言っているのかを何となく察していた。立川は龍二が何を言いたいのか全く分かっていない様子で言った。
「社長の娘?――まぁ、文恵さんに頼めば一発で、一家全員で手伝いに来てくれるだろうけどな」
「そうそう」
「おい、龍造そういうのは良くないぞ、相手の負い目に付け込むような――」
龍二が適当に返事をしたせいで、話しがゴタゴタしそうになっている。猫戸は小さく溜め息を吐いた。
「立川、手伝うよ」
「えっ?ホント?良かった」
「お父さんの仰る通り、人の負い目に付け込むのは良くない」
言った猫戸は自分が卑怯だという事をはっきり認識していた。これ以上社長の家族の話になれば、佐夜子に言及されることは目に見えている。自分が卑怯である事を認めても構わないと思える程、猫戸はそれに対して焦りを感じていた。
「立川、俺からもちょっと頼みがあるんだけど」
猫戸の言葉に驚いた様子で、立川が頷く。猫戸は瞬きをしながら視線を逸らした。
「いやぁ、ほら、俺の服コレじゃねーか……外をあんまり出歩きたく無くて……」
「あぁ、うん、タクシーで行こう」
「うん。――あと、もう一つ」
「なに?」
「この服装を、俺のマンションの住民に見られたくないから、ちょっと遅めの時間に家に帰りたい」
その言葉は何の他意も無い、猫戸の『恥ずべき姿』を見られたくないというだけのものだったが、何を勘違いしたのか、立川は猫戸を見詰めながらゆっくりと箸と茶碗を下ろした。その様子に気付いて猫戸が慌てて続ける。
「このジャージダセェから、マジで見られたくない」
「あーあ、猫戸さんにここまで言われたら兄ちゃんのセンスが疑われるなコレ」
「……うるさいなぁ、『猛虎』で『今日しかない』クセに」
「そッ、それは関係ないだろ!実行委員に言えって!」
龍二が免罪符の『実行委員に言え』を持ち出し鼻息荒く立ち上がると「ごちそうさま!」と言って食器をキッチンへ持って行った。
午前七時半には、龍二と父親が家を出て行った。立川は和室で、昨日祖母が洗ってくれた下着や服をボストンバッグに詰めている。「おい、ちゃんと畳めよ」と言いながら手伝う猫戸と「後からどうせ畳み直すだろこんなの」と言い返す立川の姿を、祖母が目を細めて見ていた。
猫戸がTシャツを畳みながら、小さく言った。
「なぁ、立川」
「ん」
「もし、できればでいいんだけど」
「なに」
言い淀む猫戸の顔を立川が見ている。猫戸は意を決した様子で言った。
「立川のお母さんに、挨拶をさせて欲しい」
立川はきょとんとした表情を浮かべてからすぐに、微笑んだ。
「――うん、母さんもお前に会いたいと思ってると思う」
「ありがとう」
荷物を全てボストンバッグに詰めると、来た時と同じく二つになった。すべての荷物を玄関に置いてから、立川の案内で今まで開く事の無かった部屋に案内される。
客間から一室挟んだ先に、洋室の扉があった。開くと線香の香りが濃厚に漂った。明るい陽が射し込む部屋の中に、タンスや学習机が置いてある。その横に仏壇があった。
立川が、水の入ったコップを仏壇に置く。
「元々、親父と母親の部屋だったんだけど、今もう物置みたいになっちゃって」
「うん」
「ゴタゴタしてて悪いけど」
「そんなことねーよ」
仏壇には母親や先祖の位牌が置いてある。一段下がった所に、祖父を含めた立川家の家族写真や、立川兄弟の七五三写真が飾ってあった。たどたどしい文字で『おかあさんへ』と書かれた手紙の封筒には『りゆうぞう』と書いてある。それらの中心に母親の写真が置いてあった。肩下程の髪の毛を一つに括り、満面の笑みを見せている。上がった口角の横に深いえくぼがあり、目尻の皺が優し気な印象を与えた。
猫戸が進み出て座布団に座ると「ご挨拶が遅くなって申し訳ありませんでした」と頭を下げる。
「まー、写真見れば分かるだろうけど、すっごい明るい人だったよ」
間を持たせるように立川が笑った。
「最期は、結構痩せちゃって辛そうだったけど、いっつも笑顔だった」
猫戸が視線を落として、蝋燭にマッチで火を灯した。線香を一本取り出し火を移すと、線香立てにそれを寝かせる。そうして、ゆっくりと手を合わせた。
室内で静かな時間が流れる外では、蝉が大袈裟な声で鳴いている。立川がぽつりと「今日も暑そうだなぁ」と呟いた。
猫戸が深く呼吸をしてから、そっと立川を振り返り、松葉杖を突いて立ったままの立川を見上げた。
「なぁ、立川」
「おぅ」
「俺、立川の家族の事すげぇ好きだよ」
立川が目をパチパチと瞬かせる。猫戸は笑って仏壇に向き直り、母親の写真を見詰めて手を下ろす。
「素直に羨ましいよ、本当に」
「猫戸……」
猫戸が礼をすると蝋燭を消し、座布団から身体をずらして立ち上がった。立川の前に進むと、潤んだ瞳を向ける。
「お前を、こんな男前に育ててくれてありがとうございますって伝えておいた」
立川の顔に火が付いたように赤くなった。もごもごと口を動かす。
「ほ、本気で言ってんのか、それ」
「お母さんに聞いてみてくれ」
言いながら視線に熱を残して、猫戸は部屋を出た。
「ちょっと、母さん、マジかよ今の!ちょっと!」
立川が真剣な声を上げているのを耳にした猫戸は廊下で噴き出した。
タクシーを呼ぶと、一〇分程で立川宅前に着けられた。祖母が見守る中でトランクに猫戸がボストンバッグを積み、立川は退院時と同じように『宝物』が入ったバックパックを背負っている。
タクシーの後部座席に乗り込もうとした立川に、祖母が言った。
「龍造、無理しちゃだめだからね」
優しい言葉に、立川は視線を合わせて微笑む。
「ありがとう、ばーちゃん。もう心配掛けないようにするからさ」
「当たり前よ、心臓がいくらあっても足りないんだから」
祖母の手が伸びて、立川の頭を撫でる。照れ臭そうに、困った様子で眉を下げた立川を、先に座っていた猫戸が笑顔で見詰めていた。
タクシーは郊外の立川家から、約二〇分で立川のマンションへ到着した。以前、猫戸の運転で二人が見た光景がそこにある。時間帯が午前というだけあって、雰囲気は全く違うものだった。親子連れがタクシーの横を通り過ぎていく。運転手に支払いをして、二人は立川のマンション前に降り立った。
「約一ヶ月ぶりの我が家だよ……」
緊張に全身を漲らせて、立川はオートロックを開けた。猫戸が荷物を両手に抱えて後ろを付いていく。
エレベーターの狭い機内で二人は無言だった。三階に到着すると、立川が「ここ」と言って降りる。一番端にあるドアまで進むと、立川は「ちょっと部屋の中確認するから」と告げ、鍵を開けて滑り込むように入った。玄関でごそごそと音をさせた後にまた扉が開き「荷物、玄関に一旦置くからちょうだい」と手を伸ばした。猫戸がそっとボストンバッグを差し出す。
「ありがとう」
立川が言って、猫戸から荷物を受け取った。見えてしまう室内に、猫戸は極力目をやらないようにして俯いた。立川が恥じらいを見せて素早く動いている。
「ホントに、ほんとにちょっとだけ待ってて」
そう言ってまた立川が引っ込む。猫戸は、黒いドアの前に取り残された。
マンションの三階は全部で七戸があるようで、立川の部屋の横には『307』という表記が付いている。表札は出していなかった。他の部屋の住人が昼食を作っているのか、焼きそばと思われるソースの香りが換気扇から漂ってくる。
『こんな風に、他人のマンションに入るなんて、いつぶりだろう』
人の生活を感じながら、廊下に立って待つ猫戸の頭に、今までの経験が思い起こされる。
『大学時代の彼女の家が最後だな』
当時、大学の後輩だった彼女のマンションに無理矢理誘われ行ったが、潔癖性全盛期を迎えていた猫戸は、強引に座らされたソファから微動だにしなかった。彼女が作った食事も手を付けようとしない猫戸を、悲しそうに見つめる彼女に向かって「だから、俺、潔癖性だって説明したよな」と突き放す。夜も遅くなり、彼女がシャワーを浴びている間に、猫戸は逃げだそうとした。――その時、彼女が風呂場から出てきた――。
「猫戸」
呼ばれて、猫戸はハッと顔を上げた。立川がドアからひょっこりと顔を出して、猫戸を見ている。
「もう、大丈夫だよ。……一応」
「一応ってなんだよ、コエーなぁ」
猫戸は扉に手をかけた。立川が廊下の壁に凭れて笑っている。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」
靴を脱ぐ猫戸の前で、立川はピンク色のスリッパをぶらぶらと振った。
「スリッパ使う?」
「……誰かの使用済みならいらない」
その返答を受けた立川は苦笑した。
「お察しの通り、普通の客用だよ」
「じゃあ使わない」
猫戸は即答しながら『普通の客用でそんな女用だけ準備してる社会人があるかよ』と苛立ちを感じた。
立川は廊下の壁に手を突きながら奥へ進みつつ「猫戸用を用意しなきゃいけないね」と微笑む。靴下履きのままでそっと足を踏み出しながら、猫戸が後に続いた。
約一ヶ月間主人の帰りを待っていた室内は、閉め切られていたせいで濃厚な生活臭が漂っていた。水回りからはカビたような、湿った匂いが流れてくる。やや急ぎ足で立川の後ろにぴたりと付いても、猫戸の心中を察したのか立川は何も言わなかった。
「窓開けて、ガンガンにクーラーつけて換気扇は回してるから、ぼちぼち空気が入れ替わるよ」
「おう」
廊下沿いにあるキッチンを通りすぎると、広めのワンルームになった。生成色のカーペットの上に安っぽい折り畳みテーブルと、洋室に似合わない和風の座布団が並んでいる。壁際にはベッドが置いてあり、紺色のカバーが掛かった布団が無造作に皺を寄せている。猫戸はカーペットの上に慎重に足を乗せ、立ち尽くした。立川はキッチンでグラスを洗おうとして水を出し、水道管で何かが詰まるような音を聞いて慌てている。
「うわ、なにコレ」
小さく言ってから水が出始めたのを確認すると「しばらく使ってないと、中の水が乾燥しちゃうのかな」と猫戸に笑いかけた。猫戸はソワソワした様子で瞬きを繰り返して、気もそぞろに「うん」と答えている。
立川は眉を下げて微笑むと、手を拭いて部屋に行き、猫戸の後ろから声を掛けた。
「座れる?」
「あ、あぁ……」
答えたものの、猫戸は立ち尽くしたままだ。立川は壁に手を突いて進むと、猫戸を追い越してリビングの座布団の上にゆっくりと腰を下ろした。
「ほら、座りなよ」
言いながら座布団をぽんと叩いて勧めると、猫戸がおずおずと進み出て、座布団の上に正座をした。立川は緊張した面持ちの猫戸を楽しそうに眺めながら、優しく笑いかける。
「飲み物、常温の水ならペットボトルのがあるけど……いる?」
「今は、いい」
猫戸は膝に拳を置いて固まっている。冷たいクーラーの風が二人の頭上を最大出力で吹き荒んでいたが、一方で開け放った窓からは暑い空気がだらだらと進入してくる。汗ばんだ肌の熱は一向に冷めていく気配はない。猫戸が首に垂れた汗を手の甲で拭った。立川がその仕草に気づき、立ち上がろうとした。
「ごめんな、暑い?」
「あ、うん……暑い、かな」
「窓閉めるわ」
立ち上がろうとする立川よりも早く、猫戸は「いいよ、俺が閉める」と言って立ち上がったが、すでに立川は起立する体勢になっていた。
「立っちゃった」
悲しそうに言った立川の言葉に笑いながら、猫戸が窓に近づき、閉めた。途端に空調が効き始め、部屋と二人をしっかりと冷やしていく。窓を閉めてから、ベランダ越しに見える景観に目をやっていた猫戸のやや後ろに立川が立った。
「何が見える?」
立川の手が猫戸の腰に伸びた。抱き寄せるように腰が引かれると、猫戸は体を硬直させてレースカーテンを掴んだ。小さく「うわ」と声を上げている。一瞬で赤くなった耳が、立川の顔の近くにある。
立川がその耳に唇を寄せた。
「何が見えるのか教えて」
そっと言って、立川が猫戸の耳に軽く口付けた。猫戸が咄嗟に「わぁぁぁ」と声を上げて、体を捻り立川の手から逃れようとする。
「猫戸に退かれたら、俺倒れちゃうよ」
「自業自得だろ」
猫戸が、腰に回された立川の手を退かそうとして指を掴んだ。立川の指は触れた猫戸の指にゆるゆると絡んでいく。猫戸が体を動かして、苛立った様子で言った。
「ちげーよ馬鹿野郎!どけろっつってんだよ!」
「……相変わらず口が悪いな」
「お前が悪いんだろ、引っ付いてくるな!暑いんだよクソが!」
耳を赤く染め、レースカーテンにすがり付く猫戸は悪態を吐きながらも立川を見ない。立川は改めて猫戸の腰を強く引くと、背後から両手で抱きしめた。猫戸の肩に立川の俯いた額が当たっている。
「立川!いいかげんに――」
「俺の家に来たって事は、あの先期待してもいいの?」
「何言ってんだよお前」
「本当に分かってないのか?」
「ウゼーよお前、なんなんだよ」
「答えろよ、誤魔化すな」
立川の低く言った声が猫戸にじわりと響く。返事をしない猫戸に畳みかけるように立川が言った。
「昨日、コンドームと一緒にローションも買ってきたよ」
猫戸の体は固く緊張する。立川は抱き締めた手に力を込めて、猫戸のジャージの襟に顔を埋めると、汗ばんだ耳の下にキスをした。一瞬で猫戸の全身に鳥肌が立つ。小さな悲鳴が聞こえたが、立川は首筋にしたキスを、さらに続けて首筋へ下ろした。
「ひッ……」
猫戸の掴んでいたレースカーテンが揺れると、上部で吊っていたカーテンクリップが当たりガシャンと音を立てた。
「……立川……」
猫戸の震える小さな声がポツリと窓に向かって発された。立川は優しく「なに?」と答える。
「気持ち悪い」
「えっ」
「吐きそう」
「えっ」
立川が慌てて巻き付けていた手を離し、背後から猫戸の顔を覗き込む。赤く潤んだ瞳がのろのろと立川を捉える一方、顔色は真っ青になっている。猫戸が震える手で口を抑えた。立川が猫戸の背中を擦る。
「ご、ごめん、俺……」
立川が悲しそうに呟いたのを聞いて、猫戸が肩を竦めて首を振った。
「いや、違うんだ」
「……」
「緊張と、怖さが、振り切っちまって……
立川は猫戸が絞り出した言葉を聞いて、力無く溜め息を吐いた。猫戸がぽつりと呟く。
「お前の家に行って、泊まって……頭がいっぱいで、疲れた」
「うん――ごめん。俺が焦りすぎた」
「お前と、これ以上どうなるとか……よくわかんねぇ」
「うん」
立川がゆっくりと体を離して自嘲する。
「俺のこと、嫌いになった?」
猫戸が驚いた様子で立川を振り返った。立川はばつが悪そうに視線を逸らして頭を掻いている。
「なんか、俺、猫戸から見たら性欲が中学生並みに思われてんじゃないかって思って」
「――その通りじゃねーか」
「違うよ、今だけだよ……多分。やっぱり、正直溜まってたし」
「だからそういう事はっきり言うところがガキみてーなんだよお前」
猫戸は口に手をやったまま何度も深い呼吸をして、自分を落ち着けようとしてから、ゆっくりと元居た座布団の上に戻る。
立川は壁伝いに部屋を進むと、キッチンに立ち寄って戻ってくる。その手には、常温の水が入ったペットボトルが握られていた。それを猫戸に渡しながら、そろそろと座布団に腰を下ろした。
猫戸が「ありがとう」と言って蓋を開けている姿を見て、立川が聞いた。
「腹は、まだ減って無いよな?」
「うん、緊張で全然……」
「そっか」
立川は笑いながらペットボトルに口を付けて煽った。喉がゴクリと動いて水分を受け入れている。猫戸は水を一口含むと、飲み下してから切り出した。
「なぁ、立川。俺、時々思うんだけどよぉ」
「なにを?」
「お前さ、俺の事面倒臭くねぇのか?」
立川はきょとんとした顔で猫戸を見ている。そうして、苦笑いを浮かべた。
「――なに、いきなりどしたの?」
「俺なんか面倒クセーだろ、俺自身がそう思うんだから間違ってねぇよ」
「はは、そうだなー、面倒臭いっちゃ臭いな」
猫戸は自ら言っておきながら「やっぱりそうだよな」とショックを受けた様子で俯いた。立川が眉を上げ肩を震わせて笑いつつ、意気消沈している猫戸を見ている。
「でも猫戸のそういう『小さい事でも気にしちゃう』繊細なところ、すごく面白いよ」
「潔癖症がか?」
「潔癖症っていうより、猫戸の『人となり』が面白い」
言われた猫戸は不思議そうな表情を浮かべて立川を見ている。立川が猫戸の顔に手を伸ばして、頬に指先を触れさせて微笑んだ。
「もうちょっとこっち来れる?」
立川の言葉に「おう」と猫戸が立ち上がり、律儀に座布団を移動させると、また座布団の上へ正座をした。
「いや、もうちょっと」
同じように繰り返してじりじりと近づく。立川は思わず笑った。
「何だよ、一ターンで一マスしか進めないのか猫戸は」
「なにそれ」
「分かんないならいい」
立川は言うと、真剣な眼差しを向けた。
「猫戸、キスしよう」
「!!」
途端に猫戸の顔が赤く染まり、正座をした膝の先は、緩やかにテーブルへ向かって方向を変える。
「あー、だめだめ。逃げちゃだめ」
正座の猫戸が乗った座布団の端を立川が掴み、ぐいと引っ張った。座布団に乗ったまま、何かのアトラクションのように猫戸が進んでくる。
「おわッ!」
座布団の上で重心を取るために、猫戸は手を広げてバタバタしている。
「キスなんて、普通の恋人は何度でも何時でもやってるよ」
「俺は、普通じゃない」
「潔癖症だから?」
頷く猫戸に向かって「でも俺と居ると楽しいんでしょ?」と言うと猫戸は真っ赤になったまま黙り込んだ。
「ほら、また黙る」
「うるせぇ」
「どうしたら普通にしてくれるのかなぁ」
立川はぽつりと言うと「俺の正直な話、していい?」と聞いた。猫戸が眉を寄せ、やや怯えたように視線を落として「うん」と頷く。
「猫戸と実家でキスした時さぁ、俺、正直言って『実家かよ』って思った」
「うん……」
「雰囲気も何もないし、猫戸がそのまんま『実家じゃねーか』って思ったのも当たり前だと思う」
猫戸の視線が立川に移る。そこには、冷風に満たされた室内にも関わらず、額から汗の滴を落とした立川の横顔があった。
「でも俺――本当に焦ってたんだ」
立川の右手に無意識に力が籠り、持っていたペットボトルに指が食い込むと、ベコッと音を立てた。
「チャンスを逃して後悔したくないって本気で思ってた」
立川がゴクリと喉を鳴らす。
「どんな瞬間に、どんな事で
その言葉を聞いた途端、猫戸の視界から色が消えた。心臓だけはやたらと盛んに血流を送り続けており、まるで濁流のようになった熱い血液が猫戸の頭から足先まで一気に押し流れていくようだった。モノクロの世界に見える立川の濃い眉が辛そうに寄った。そうして聞こえてくる立川の声が、僅かに上擦る。
「いつ、俺が……この世から消えるか分か――」
立川の言葉は、最後まで言い終わらないうちに途切れた。
「ん……う」
カーペットに手を突き身を乗り出した猫戸の唇が、立川の唇に重なっていた。
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