第22話「真夜中のキス」

「猫戸、開けるぞ」

 立川が声を掛けて客間の襖を開けた。猫戸は布団の横に座布団を置き、じっと正座をして、敷かれた布団を見詰めていた。

「緊張してる?」

「――ああ」

 先ほどの酒盛りから三〇分も経っていない。まだ風呂にも入っておらず、着替えもせず、何もやましい事など無い。ただ、猫戸の潔癖症だけが穏やかな時間を許さない。立川がそっと客間に入ると、襖を閉めた。

「寝れそう?」

「わかんねぇ」

「――俺、座ったら立ち上がるの遅いから、立ったままでゴメンな」

 困った様子で眉を下げる立川の言葉を聞いて、猫戸が微笑んで立ち上がった。二人の距離が近づいた。

「風呂が入ったから、猫戸に一番風呂どうぞって、親父が」

 猫戸は気恥ずかしそうに視線を下ろして小さく呟く。

「正直言って、どうしたらいいのかわかんねぇよ」

「うん」

「俺、この間まで、お前に触られるのも嫌だったのに」

「ヒデーな」

「はは、ヒデーよな」

 猫戸の瞳が何度か瞬いたのを見下ろして、立川が顔を覗き込む。

「脱衣室に、一応、俺の考える猫戸セット置いといた」

「なにそれ」

 猫戸の声に笑いが含まれる。立川は嬉しそうに「行ってからのお楽しみ」と告げた。


 和室に集まっていた立川家の面々に「お風呂、お先にいただきます」と声を掛け、猫戸は立川の案内で風呂場へ向かった。

 脱衣室と洗面所が一体となっており、棚の上には丁寧にタオルが畳んで詰めてあった。

「はい、これ猫戸セット」

 立川が指さした先の棚には、贈答用の箱に入った状態のバスタオルとフェイスタオルのセットがあり、その上に新しいトランクスとTシャツが畳まれて置いてあった。すぐ脇にはホテルの使い捨て歯ブラシ、髭剃りがある。

「他にいるものある?」

 猫戸は緊張した面持ちで首を振ったが、ゆっくりと立川を見上げて言った。

「あのさ、ズボンはどうすんだ……?」

「ん?」

「トランクスの上に何履いたらいいのか分かんねぇ……」

「おお?」

 立川は不思議そうに返事をしてから「もしかして、猫戸はパンツ一丁で寝た事無いの?」と聞いた。

「あるわけねーだろそんなの!」

 と、青ざめながらも耳を赤くして猫戸が首を振る。

『あるわけねぇ……?普通はあるんだろうけどなぁ……』

 立川は視線をぐるりと巡らしたが、新品のズボンの用意は無い。

「まぁ、流石にウチの家族に猫戸のパンツ一丁を見せるわけにいかないしな」

「あたりめーだろ馬鹿が!」

「俺が使ったジャージで良ければあるけど」

「良くねぇよ」

「じゃあパンツ一丁でいなよ」

「うぐぐ……」

 猫戸は歯を食い縛っていたが、立川の肩をどんと押すと「ほら、出てけよ、立川!」と声を荒らげた。



 猫戸にとって、他人の家の風呂というプライベートな場所に入るのは初めての事だった。自分が使う事のない、よくCMが流れている有名な洗髪剤やボディソープが並ぶ光景を、驚きと恐怖で受け止める。風呂窯には綺麗な湯が張られていたが、そこに体を浸す勇気が出ず、シャワーの蛇口を捻った。汗でべたべたとした身体を洗い流せば、爽快感が先行して恐怖はやや薄れた。

 洗髪剤を手に取り髪を洗った後、ポンプ式のボディソープを泡立てて体に乗せる。清涼感のあるミントの香りのボディソープだ。家族が共有しているであろうボディスポンジは使えなかった。

 洗った髪の毛からはぽたりぽたりと滴が落ちてくる。シャワーで濯いだ片手で髪の毛を搔き上げて、小さく溜め息を吐いた。

『立川も、実家ここに居たときこれを使ってたんだろうか』

 泡を腕に伸ばしながら、ふと考える。上半身をごしごしと手で擦ると、胸の突起に手が触れた。思わずビクリと身体を震わせた自分に驚き、猫戸は自分自身の身体を見下ろした。白い肌は、シャワーが強く当たった一部が赤くなっている。鏡に写った体に添って、濃厚な泡がボタリと流れ落ちていった。

 自宅で当然に見る自分の裸は、場所が他人の家に変わっただけで、まるで衆人の目に晒されたように緊張と羞恥を生んだ。突如気づいた事実に怯え、猫戸は泣きそうになりながら素早く全身を流して、早々に風呂場を後にした。



 脱衣場へ出た猫戸は、広げたTシャツにデカデカと『猛虎~俺たちには今日しかない~』と書かれているのを見て、甘酸っぱさに顔を真っ赤に染めながら袖を通した。高校二年生の龍二の体格は、立川家の血をしっかり引いているだけあって、肩幅や胸板もしっかりしている。猫戸が着ても十分なサイズだったが、下手をするとやや緩いぐらいの代物だ。立川から貰ったトランクスは、どこかのブランドのデザインを模したようなチェック模様だった。普段トランクスなど履かない猫戸は、すきま風の通る股間に心許こころもとなさを強烈に感じた。

 パンツ一丁問題を解決する為に、猫戸は渋々、履いて来ていたスラックスにまた足を通した。

『きもちわりぃーッ』

 自分のスラックスであっても、一日履き続けて汗の染みたそれを再度履くのは抵抗があった。うえぇ、とえづきそうになりながらそれを履き、和室へ行く。

「お風呂、頂きました。ありがとうございます」

 猫戸の言葉に全員が振り返る。父親が「次ばーちゃんな」と言った。祖母が「じゃあいただこうかねぇ」と言って立ち上がった。トコトコと歩きながら「湯加減どうでした?」と聞いてきたため、猫戸は頭を下げた。

「今日は、かなり汗をかいてしまったので、シャワーだけ使わせていただきました」

「あら、そうなの。ゆっくりできたかしら?」

「はい、気持ちよかったです」

 猫戸の言葉を聞いて、祖母が笑顔で脱衣場に入って行った。龍二は猫戸が着ているTシャツを見てニヤニヤと笑っている。

「猫戸さん、それヤバくないっすか」

「え?」

「中二っぽいでしょ、それ」

 思わず『分かって薦めたのか』とツッコみそうになり、猫戸は笑った。横から立川が口を出してくる。

「そんなモン猫戸に着せるなよ」

「なんだよ、新しいTシャツ寄越せって言ったのそっちだろ」

「だからってそのデザインは無いわー」

「うっせ、実行委員に言えよ」

 父親がぽつりと言った。

「それ、いいと思うけどなぁ」

「センセー達はそう言うけど、皆『サッブーっ』て思ってるから!」

 龍二が言う言葉に笑いながら、猫戸は引き戸の所に立っている。立川がふと言った。

「――猫戸、もう寝る?」

「あ、ああ、うん」

「おやすみ」

「うん、お先に失礼します。おやすみなさい」

 言って頭を下げ、客間へ向かう猫戸の背を見ながら、立川一家は声を揃えて「真面目だなぁ」と呟いた。


 客間へ着くなり、猫戸はスラックスを脱いでトランクスとTシャツ姿になった。流石にスラックスのまま寝るのは憚られる。

 クーラーが効いた客間は、敷布団と掛け布団一枚で十分だった。ヒヤリとした布団にそっと足を入れて、身体を横たえる。枕に巻かれたタオルからは、新品の匂いがした。

 朝から通常の仕事をこなして立川の退院を手伝い、そして立川の実家に来るという人生の中でも類を見ない大チャレンジをしてきた猫戸は、自身でも驚くほど早く、何の抵抗も無く眠りに就いた。



 一方の立川と言えば、苦労して一人で風呂に入った後、二階にある龍二の部屋のベッドで冴えわたった瞳をガンガンに開いて天井を見あげていた。

『寝れるわけないだろ!』

 立川は天井の木目がぐるぐると回るのを見ながら、胸で大きく息をした。狭い龍二の部屋に二人が押し込められただけでも暑さは増すのに、設置してあるのは首振り扇風機一台だけだ。龍二はと言えば、病み上がりの兄に素直にベッドを譲り、床に布団を敷いてグーグーと寝ている。

 父親から借りたぴちぴちのTシャツは、立川の肌に張り付き纏わりつく。扇風機が自身の方向から首を振ってしまえば、途端に蒸れた空気が自分の周りに集まってくるように思えた。ふぅ、と息を吐く。

『だめだ――ぜんぜん、寝れない』

 カチカチと壁掛け時計が秒針を刻むそれすら神経に触った。同じ屋根の下に、猫戸こいびとが居る――それなのに、自分は隔離されるように家族と一緒にされている。本当はどうしたいのかなど明白だったが、自分自身の無茶な要求にすら苛立ちが沸いてきた。

 立川はそっと起き上がって頭を振ると、ベッドから足を下ろしてよろよろと立ち上がった。トランクスの隙間に風が通り、太腿に鳥肌が立つ。床に寝ている龍二をすり足で迂回し、ドアを開ける。松葉杖には頼る事ができない。暑さと傷みで息が上がった。

 階段の電気を点け、ゆっくりと下りる。座って下りた方がラクかと思いチャレンジしたが、体勢がおかしくなるだけでラクではない事を知り、また普通に下り始める。縋りついた階段の木壁が、キュッと鳴った。

 一階に着くと、すぐに客間に進んだ。暗い廊下は幼少時代から何度も歩き、慣れたものだ。身体を支える為に壁に手を付くと、微量の砂壁が剥がれて掌に引っ付いた。手を擦ってそれを払い、客間の襖をそっと開ける。

 しんとした中に、庭の虫の声が涼やかに響いていた。客間では物理的にクーラーが稼働している。低い稼働音と虫の声に混じって、猫戸のすぅすぅという寝息が部屋に溶けている。

『天国だ……ここは天国だ……』

 冷えた空気が立川の皮膚に触れて熱を冷ましていくが、下半身だけは別だった。

 暗さに慣れ始めた目は、使い慣れた客間を正しく認識させる。客間に入り襖を後ろ手に閉めると、立川は崩れ落ちるように座り込んだ。

『いてぇ、いってぇ……痛み止め飲んだ方が良かったかな……でも酒飲んじゃったし……』

 右足を下にして、這うように猫戸に近づく。猫戸は身体を横にし、くの字に曲げて瞳を閉じていた。なだらかな体のラインが布団に包まれている。立川の股間がズクズクと反応した。

『あ、やばいやばい!違う!違うの俺!』

 上半身を擡げて、立川は股間を抑えた。布の擦れる感触すら快感になり、足の先へ痺れが走る。入院中には、満足するような自慰ができるわけでは無かった。今、奔放な性が解き放たれた状況と、恰好の、そして最強のオカズを目の前にして、無意識に立川の身体は暴走している。心臓は口から飛び出そうな程に激しく打っていた。

「ね、こ……と」

 小さく、低く呻いた立川の声に反応し、まるでふわりと花弁が開くように、猫戸の瞳が開いた。

「~~~~ッッ!!」

 当然の如く、驚きで目を見開いた猫戸が飛び起きた。ご丁寧に掛け布団をたくし上げて、ダサいTシャツが見えないようにしている。何も言えないまま、口を開いたり閉じたりしている事だけは、闇の中の立川にも確認ができた。

「ごめん、来ちゃった」

「た、ちかわ?」

 立川が這い、猫戸の寝ていた布団の上に体を乗せる。温もりが掌に伝わった。猫戸が後ずさると、小声ながら、はっきりと言い放った。

「来ちゃったじゃねぇよ……ッ!帰れ、帰れ!」

「寝れないんだよ……久々の実家だし、それに……」

 立川が手を伸ばして、猫戸の掛け布団を強く引き寄せた。引かれて猫戸が前のめりになる。顔が近づくと、立川が囁いた。

「お前が、ココにいるし……」

 猫戸が視線を落として唇をそっと開いた。

「しょ、正気かよ……?」

「うん?」

「無理、無理無理、ムリだよ、お前……実家――」

「そんなのどうでもいい、チャンスを逃して後悔したくない」

 猫戸が言い掛けた言葉に、食い気味に立川が答えつつ、さらに身を寄せた。猫戸が顔を背けると、立川が猫戸の膝に触れた。

「猫戸、こっち見て」

「ムリ……」

「見せて、顔」

 立川は体の位置を変えて、自分の上半身を支え直した。小さく「いてて」と呟いたのを聞き逃さず、猫戸はいつものように不安げで探るような表情を見せる。

 立川が手を伸ばして猫戸の頬に触れた。ゆっくりと顔を近付けても、猫戸は逃げなかった。

 そっと互いの唇が触れたはずだった――が、その感触には既視感がある。

「だからさぁ、猫戸、その『ンー』っていうの禁止だってば」

 笑いを堪えながら立川が震えて言った。猫戸は両手で縋るように、立川の前腕を掴んでいる。

「ごめん」

「謝るくらいなら、ちゃんと唇出して」

「――いやだ、無理だ」

 否定し、俯く猫戸の顎をやや強引に掴んで上げさせる。猫戸の瞳には不安が色濃く出ていた。立川がふぅ、と溜め息を吐いたが、細めた瞳は猫戸を捉えたまま離さない。

「何が嫌で、何が無理なのかちゃんと説明してくれたら諦めるよ」

 猫戸はゴクリと唾を飲み込んで、立川を見つめ返したまま喉から絞り出すように声を出した。

「……だって、今日はたくさん食べたし、酒飲んだし、歯を磨いたのも寝るまえ――」

 立川が上半身を乗り出した。説明を続ける猫戸の唇は無防備だ。立川の唇が押しつけられると、声を出しかけた猫戸の唇がフニュと変形し、言葉が途切れた。

「――んぅっ」

 柔らかく立川を受け入れた猫戸の唇は、緊張で閉ざされている。立川の唇は何度もついばんで軽く触れた。息をする方法が解らない猫戸は息を止めており、強張こわばった指が立川の腕に食い込む。

 ちゅ、と音を立てて立川が唇を離した。

「痛いよ、猫戸」

 苦笑いをしながら立川が囁くが、猫戸は何も言わず、動かない。ただフゥフゥと荒い息使いで俯いている。立川が指で猫戸の顎を上げさせて、また口付けた。今度はより永く、時間をかけて猫戸の唇に触れる。

 猫戸の体が幾分か後ろに反った。

「ん……っ」

 猫戸が声を出して、顔を背けた。立川は、肩で息をしている猫戸の唇の端から頬へ、そしてこめかみにキスをする。猫戸の肌はしっとりと汗ばんでいたが、爽やかなボディソープの香りが漂った。

 立川が猫戸の着る体育祭Tシャツを引いた。ぐらりと前傾した猫戸を胸元に受け入れて髪に手を通すと、立川は大きく鼻から息を吸った。

「俺と同じボディソープと、シャンプーの匂いがする」

 言って、猫戸の頭にキスをし「超エロい」と囁いた。猫戸は一言も喋らないまま、体を強ばらせ続けている。

 立川は猫戸の髪を撫でると首へ指を這わせた。猫戸が吐息を漏らして「うぅ」と唸った。立川の指はさらに下りる。ダサいTシャツの下から遠慮がちに主張をする猫戸の胸の突起を、無骨な指が触った。猫戸がぴくんと反応し、フッと吐息を吐いて立川の手を掴んだ。

「やめ……っ!やめろ立川」

 猫戸の声色は真に迫っていた。立川を見つめる瞳が揺らぐ。立川は胸を膨らませて荒い呼吸をしながら、我に返って動きを止めた。

「猫戸……」

 猫戸は、口に手の甲を当てて何度か擦り、ハァハァと息をしながら立川を見ていた。その姿は立川の予想を裏切る堂々たるものだ。

 立川は『経験の少ない猫戸の事だから、期待と不安を胸に秘めて恥じらい、雰囲気に流されるだろう』と思っていた。だが現実は、しっかりと意思表示をして立川を拒むいつもの猫戸である。美しいとはいえ、猫戸が男であるという事は立川にとっての小さな誤算だった。

 立川が、乗り出していた体をゆっくりと戻した。下半身はガチガチに起ち上がっており、まだ現実を受け入れてくれない。視線を落として立川が呟いた。

「ごめん……」

 猫戸は返事をせずに大きな溜め息を吐いた。クーラーの冷えた風が立川の頭に直撃して「頭を冷やせ」とでも言うかのように自動で風量を上げた。

 あからさまに落ち込んだ様子の立川を見て、猫戸が言い辛そうに切り出す。

「言っとくけど、今のが、俺のちゃんとしたファースト・キスだからな」

「――うん」

 立川の返事には苦笑が混じる。立川が困惑しながら言った。

「俺、ガッチガチなんだけど」

「知らねぇよ」

「猫戸は?」

 言うなり、立川がふざけた様子で猫戸の股間に手を伸ばした。想像だにしなかった動きに、猫戸の動きがワンテンポ遅れる。

「――ッ!」

 立川の手は、同じように硬度を増して起ち上がった猫戸のそれに触れていた。互いの顔が近づいて、互いが驚いて目を見開き見詰め合う。猫戸の体がぶるっと震え、その瞳に涙が浮かんだ。猫戸の唇が薄く開いて戦慄わなないた。

「馬、鹿……やろッ」

 瞳孔のさらに奥の感情を透かし見るように、咄嗟に立川の顔が近づくと、力任せに猫戸の唇を奪った。覆うように重なった唇の隙間に舌を挿入し、歯列をなぞる。猫戸の高ぶりに触れていた立川の手は、トランクスの上からそれを強く撫でた。

「んっ、ふ」

 拒む猫戸の手が、強く立川の胸に叩きつけられる。一瞬離した唇の間に唾液が糸を引く。息が出来ずゲホゲホと咳をした猫戸の腕を捉え、立川は動かなかった。強ばった猫戸の肩と声が震えた。

「テメェ」

「ごめん」

「謝りゃ何してもいい訳じゃねぇ」

「うん」

 答えた立川も、呆然としている。二人の熱は一向に冷めていない。猫戸が立川の手を振り払うと、その手は布団へ緩やかに落ちた。

 猫戸が小さく咳き込みながら立ち上がった。

「――猫戸?」

「顔、洗ってくる」

 猫戸は淡々と答えた。立川ははっきりと見えない恋人の姿をぼんやりと目で追って、切なげに言った。

「猫戸、俺、トイレ行きたい」

 聞いた猫戸はしゃがみ込むと、立川に手を貸した。素直にその手を取って立ち上がると、立川はやや足を引きずりながら客間から出た。互いの高ぶりが見られる事を恐れて、廊下の電気を点けるという選択肢は無い。暗い中を進みトイレに着くと、立川は困った様子で「ありがと」と笑った。


 猫戸は洗面台で顔を洗い、ついでに口を何度も濯いだ後、鏡で自分の顔を見た。真っ赤に染まった顔に、目の縁が赤くなり今にも泣きそうな目をしている。普段でもあかい唇は、さらに赤みを増して存在していた。

『キス、しちまった』

 猫戸が考えていたよりも、心臓も思考も、ずっと冷静だった。一方で経験したことのない喜びが、体の奥深くから沸き上がってくるようだった。嫌悪感も羞恥心も、アイデンティティだった潔癖性すらかなぐり捨てて、自分の芯が疼いた事は紛れもない真実だ。

 猫戸は自分の唇に指を触れさせた。そっと押すと、柔らかく弾力を以て押し返してくる。厚みのある唇が揺れた。

 猫戸は何度も顔を洗ってひたすら落ち着くのを待った。立川にも会わず独りで洗面台の前に立っていると、興奮はまるで流れる水と一緒に失せていくように思えた。

 そうして約十分後に、猫戸は客間へ戻った。襖をそっと開くと、布団の横にゴロリと仰向けに寝転がった人影が見える。猫戸が呆れた様子で溜め息を吐いた。

「立川」

「……」

「立川、無視すんな」

 猫戸の声を受けて、人影が面倒臭そうに僅かに顔を上げた。猫戸が静かに畳の上を進むと、布団の上に正座をして人影を見下ろした。

「龍二くんの部屋に戻れよ」

「やだ」

 立川はぷいと頭を戻して、畳の上に居直る。猫戸は布団を捲り、足を差し込んで体を横たえた。暗い中に、立川の姿が影になって存在している。猫戸は掛け布団を横にすると、畳の上に直接寝ころんでいる立川の上へ半分掛けた。

「退院してすぐ風邪引いたら馬鹿だぞ」

「うん……ありがとう」

「そんなところに寝てて、身体痛くねぇのか?」

「痛いよ」

 立川の言葉に猫戸は小さく笑った。それでも、同じ布団を勧めるほどの余裕は無い。今二人を物理的に繋ぐものは掛け布団一つだけだった。二人は無意識に大きく息を吐いた。立川がぽつりと切り出す。

「なぁ、猫戸」

「おお」

「枕の下見てみて」

 猫戸は枕の下に手を突っ込んだ。しばらくごそごそと探ってから、手に触れたものを引き出した。指先で摘まんで持てる程度の薄く小さなものだった。室内は暗く、はっきりとそれを確認することも出来ない。猫戸は目の前に持ってきて、それをまじまじと眺めた。

「なんだこれ」

「なんだと思う?」

「知らねーよ」

 面倒臭そうに答える猫戸の声にフフッと笑うと、立川は手を伸ばした。

「それちょうだい」

「おう」

 猫戸は言われた通り、伸ばされた立川の掌の上にそれを置こうとした。立川の手は謎の物ごと猫戸の手を掴んだ。驚いた猫戸の手が引かれたが、立川は手を離さない。布団の上に寝たまま、顔だけを立川の方に向けた猫戸が不満気に言った。

「なんだよ」

「本当に何だか分かってないの?」

「暗くて見えねぇよ」

 立川が手を握り直して、指を絡めた。二人の掌の間に謎の物が収められる。

「コンドーム」

「え?」

「コンドームだよ」

 立川が溜息混じりに言った。猫戸は何も言わない。

「布団敷いた後に、今日何かあったらなーって思って入れといたけど」

「……」

「せっかくドラッグストアで買ってきたのに、無駄になっちゃったなー」

 握っていた立川の手から、猫戸の手がするりと抜けた。猫戸は身体の位置をごそごそと変えて、立川に背を向け体を丸める。

「……おやすみ」

「うん、お休み」

 緊張した空気は、二人の眠りによって緩やかに溶けていった。やがて猫戸と立川の寝息が重なり、クーラーの稼働音とともに静かな客間に広がった。

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