第13話「デート」
その日から、二人のやり取りは始まった。詳しく日時を決めるために送った立川のメッセージも間違いなく読まれ、そして猫戸からはきちんとした返答が来る。そのやり取りの中で、スムーズに日にちが決定した。しかし依然として、行く場所は確定しなかった。立川のスマートフォンに、猫戸からのぶっきらぼうで不機嫌なメッセージが入る。
『なんでお前行く場所をはっきり教えてくれないわけ』
句読点の無い文言に、立川は笑みを零しつつ『当日のお楽しみ』と文字を打ち、アニメーション付きのスタンプで答えるが、それに対しては『不安がデカすぎて少しもお楽しみじゃない』と、また不機嫌な様子で返事がくる。立川にとっては、そんな猫戸の感情が曝け出される様子すら喜びだった。
そうして、初めてのデートの日がやってきた。立川は車を持っていない為、猫戸が自分の車の運転をして会社のある駅までやってくる。Tシャツに
「猫戸!」
車の中に猫戸を認めるなり、立川が手を上げて大きな口を開け笑った。猫戸がその前に車を着けると、立川は機敏に寄ってきて助手席を開ける。
「よぉ!」
満面の笑みで、運転席に座る猫戸を見た。猫戸は白いポロシャツを着ていたが、仕事の時には確実に閉じている首元のボタンを一つ外している。猫戸が立川に釣られて、無意識に白い歯を見せた。
「よぉ、立川」
「とりあえず、運転変わるわ」
「え、いいよ。俺が運転する」
猫戸が言うと、立川は「あれだろ、Tシャツの汗がシートに付くのが嫌とか言うんだろ」と言った。猫戸が言葉に詰まると、立川はニヤニヤと笑って眉を上げた。
「ほら、俺、今日は絶対シートに
「いや、そういう問題じゃ……」
「もー、俺が運転しないと、今日行く場所に行けないだろ」
「えっ」
驚いた様子で猫戸が立川を見て、続けた。
「カーナビに行先入れて、行くんじゃねぇの?」
「何言ってんの?」
怪訝な表情の立川が猫戸を見返している。そして、指で自分の頭を叩いて不敵な笑みを漏らした。
「全部俺のココに入っていますよ、猫戸くん」
「……不安しかねーよ、マジで」
猫戸は心から不安そうな顔をしながら、運転席から出た。
立川の運転する猫戸の車は、町から外れ始めた。人里離れた場所と言うには開けすぎて、しかし山中と言うには人の気配がありすぎる。道中「どこに向かうのか」の猫戸の質問を、立川は穏やかな笑みではぐらかし続けていたが、そろそろ限界だ。猫戸の不安も、立川のはぐらかしも天井が見えてきている。
「なぁ、立川」
猫戸が助手席から立川を睨んだ。
「背中、べったりシートに付いてんですけど」
「えっ!あっ!ゴメン!」
言われて立川が背筋を伸ばすが、五分もしないうちにだらりと弛緩してまたシートに体を預けている。
「言うだけ無駄か……」
猫戸がひとりごちると、立川が「えっ、何?」と反応した。
「いや、もういい……立川の好きなようにしろよ」
立川は「そーお?」と言うなり、嬉しそうに笑ってハンドルを握り直す。しばらくすると、うねった山道を進みながら、助手席の猫戸に声を掛けた。
「なぁ、お腹すいた?」
「え?空いてない」
「お、じゃあ目的地に行って色々してから、ランチにしようぜ」
「……この行先で『ランチ』なんて呼べるものが出てくるとは思えねぇな」
「そうだな、言い間違えたわ」
立川が笑い、天真爛漫な口調で続けた。
「目的地に行って色々してから、超有名家庭料理を頂きに行こう!」
聞いた猫戸の顔面が蒼白になる。
「いや、お前……そんな所行かずに、普通にレストラン行けばいいじゃねぇか……」
「超有名家庭料理を頂きに行こう!」
「いや……いやいや、人の話聞けよ」
「超有名家庭料理を」
「しつけーんだよテメェ」
猫戸が、運転中の立川の太腿に拳をぐりぐりと押し付ける。立川がギャーと
「ちょっと、止めろよ馬鹿!筋肉と骨の隙間だぞそこ!」
「だからやってんだろうが」
「いっててて!!!いてぇって!運転中なんだからやめろ!」
フンと鼻息を吐いて立川弄りを止めると、猫戸は車窓に目をやった。木々が現れてはすぐに流れていく景色に、今までの人生で感じた事の無い感動を覚える。自分というものを決め付けて、殻を破らないことで安息を得られていた日々はもう帰ってこない。立川の腕の中で涙を流した時に、それは決定的になった。自分から望んでそれを選んで今ここにいる。目の前に広がる全ての一瞬一瞬が、猫戸にとっては新鮮だった。
そうして、二人が落ち合ってから約一時間で立川の言う『目的地』に到着した。それを目前にして、猫戸は案の定の真っ青な顔面を晒している。
「ま、待って……なんでだよコレ」
「え?嫌い?宗教的な問題ある?」
「いや……ねぇけど……」
二人の目の前には、自然の形の石を使用してできた石段がある。階段の先には明らかに古めかしい山門が見えた。暑さはそこまででは無かったが、大自然に抱かれたそこでは、迫りくるように虫の声が響いていた。
「どうして寺なんだよ」
猫戸の声は動揺を隠せず、
「いいじゃん、別に」
「よくねーよ、他にもいろいろあっただろうが!」
「俺に全部任せたのが運の尽きだったな」
「本当、お前最悪だ」
立川は青い顔で睨みつけてくる猫戸を真顔で見返すと言った。
「お前が今までデートしてきて無さそうなところを選んだ」
「……」
「どうせ、今まで行った所なんか周到に用意されてて清潔で綺麗で虫も居ないような所ばっかりだろ」
「だからって……」
ぐじぐじと否定している猫戸の言葉を聞いて、立川は視線を落とすと溜息を漏らし、猫戸の手首を強く掴んだ。強引にその手を引くと、猫戸が「うわ」と声を上げてよろめいた。立川が大きく頷いて言った。
「分かったよ、猫戸。戻ってホテル行こう」
「!」
「嫌がろうが、絶対行く」
「……お、俺が運転して帰る」
「ハンドル横から握ってでも行かす」
立川の言葉を受けて、猫戸が耳を赤くするとギリギリと歯を食い縛った。掴まれた手首をぶんぶんと振って振り払おうとする。
「なん……なんなんだよ、調子こきすぎだろ最近!」
立川が猫戸の腰を強く引き寄せた。不意に近くなった顔に、猫戸は一瞬驚いた表情を見せた。
「調子くらい乗るだろ、お前と初デートなんだし」
「……」
「俺は今日ココで煩悩を取り払ってもらわないことには帰れません」
寄りそう立川の身体を押し返した猫戸は、黙って俯いていた。
立川の説得とは言い難い強引なやり口により、猫戸は山の中にある寺院へ足を踏み入れる事になった。実際に猫戸が仏閣へ来るのは初めての事では無かったが、好んで来る場所でも無い事は確かだ。石段を登りながら、猫戸が溜息を吐いた。
「すげぇ長い……」
「おう、まだまだだぞ」
「階段古いな……」
「そうだな、こうやって、コンクリートで加工されてない自然の石段がしっかり残ってるのは貴重だよ」
「そうなの?」
「基礎がしっかり作られてるのと、その後も大事にメンテナンスされてるから、今まで残ってるんだよ」
「へぇー……」
驚いたように声を出して、まじまじと石段を見ながら足を踏みしめている。そうして、猫戸は自分の靴を見てぽつりと「歩きづれぇな、こんなとこ来るなら早く言ってくれりゃ良かったのに」と言った。猫戸の靴は相変わらずピカピカに磨かれた革靴だ。
「教えてたところで履いて来れるような靴あるの?」
立川の声色は、やや
「あるわ、一応……ランニング用のだけど」
「えっ、猫戸走ってんの?」
「あー、うん、たまに」
「うっわー、意外!」
立川の声は嬉しそうにワントーン高くなった。「なんだよ」と猫戸が不機嫌そうに立川を見る。
「猫戸、今度さ、一緒にジム行かない?」
「ジ……」
猫戸の脳裏に、謎の機械で筋肉を傷めつけるようなトレーニングをしている立川が思い浮かぶ。立川の短く揃えた髪から汗が散り、着ているTシャツにそれが染み込んで肌に張り付いていく。想像でドキリとした瞬間、その立川の周囲には、極小のビキニ姿で己の筋肉を誇示するような、茶色く焼けた集団が現れた。立川の姿を見ながら、彼らは言うのだ。「キレてるキレてる!」「デカイ!デカイよ!」と。
猫戸の喉が「ウェ」と鳴った。
「やめとく」
「そう?ジムすげぇ良いのに」
立川のピュアな視線から逃れるように、猫戸は自分の革靴を見詰めて
石段を登りきると、下からも見えていた山門が姿を現した。間近で見ても古めかしく、至る所に苔が生え、屋根にはひょろひょろとした何かの草が天へ向かって伸びている。ぎょっとした猫戸が身を小さくした。すぐ後ろに立川が立ち、その背にそっと手を当てる。
「これ、すっげぇ古く見えるだろ?」
「うん」
「すっげぇ古いんだよ」
「そのまんまじゃねぇか」
猫戸は隣に立つ立川を見上げた。その瞳に不安と後悔が過っている。立川が微笑んだ。
「でもさ、こういうの、人がメンテナンスしてなかったら、一〇年も持たないんだよ」
きょとんとした猫戸の背中を笑いながら押すと、猫戸は意図せず山門を潜り抜けて境内に足を踏み入れた。目の前には、玉石が敷き詰められ整然と整えられた境内が広がっている。張り詰めたような、それでいて澄んだ心地の良い空気が猫戸の胸に入り込んでくる。
「すげぇ古いっていう事は、その状態で今まで残っている事が奇跡だってことなんだぜ」
立川は畏敬の籠った瞳で寺院を見詰めていた。参道の奥には、煌びやかさの欠片も無い地味な本堂が見えている。参拝客も居なければ、騒いでいる観光客も居ない。静けさを、鳥や虫の声が覆い込んでいた。
「皆に愛されて、大事にされているからこそ今まで残ってるんだ」
立ち尽くす猫戸に向かい、「だから」と付け加えて立川が振り返った。
「古いから汚いとか、新しいから綺麗とか、そういうのを今日は少しでも無くして欲しいって思ってる」
猫戸は何度か瞬きをすると、無言で寺院を見詰めていた。
二人は手水舎で手を清めて境内を歩いた。手を洗った後の癖で抗菌ジェルを取り出しそうになった猫戸は、自らそれをまたバッグに戻す。そうして揃って本堂へ行きお参りをすると、立川は嬉々として本堂の周囲を歩き始めた。
本堂の造りを見ながら「おお」等と声を上げる立川を見て、猫戸は怪訝な表情を浮かべる。
「何が楽しいの?」
「えっ、楽しくない?」
「いや、質問に質問で答えるなよ」
立川は猫戸の横に並んで、やや膝を曲げて顔の位置を同じにして本堂を見上げた。猫戸がぎょっとした様子で体を避けると、両手で猫戸の肩を掴んで「あー、もう少し後ろに来て」と言った。素直に従った猫戸とともに、改めて本堂を見上げる。
「ほら、見える?あそこの木組み」
太い梁に穴が開いており、そこから細い梁の端が噛み合うように顔を出している。
「……凄いな」
思わず猫戸も声を漏らした。まるでパズルのように組まれたそれに対して興味を抱いた様子だ。立川は興奮した様子で言った。
「だろ?昔の職人の技って、本当に凄いよ」
「どうやってやったんだろうな」
ポカンと口を開けて見上げている猫戸を見て、立川は目を細める。
「こうやって組んだら、長期間しっかり維持できるっていうのを当時の人が分かってたってのが凄いと思うんだ、俺」
「うん」
猫戸はきょろきょろと上を向いて、本堂を眺めている。立川がぽつりと言った。
「――プログラミングしてるとさ、クライアントの要求で、ある程度のエラーも見逃したりしないと納期に間に合わない事もあんのよ」
猫戸が立川に目をやる。立川が小さく溜め息を吐いた。
「俺自身は諦めたくなくても、実際に稼働してりゃ文句言われない部分もあるし」
「うん」
「だからこういう建築物見てると、俺もちゃんとプログラムを構築しとかないとなーって気合入るんだ」
立川がすぐ隣にある猫戸の顔を見て気恥ずかしそうに笑うが、意に反して猫戸は眉を上げ、自信満々な様子で立川を見返している。
「立川」
「ん?」
「俺思うんだけど……こういう建築物作ってる人たちも、諦めたりエラー見逃したりしてんじゃねぇの?」
「……へぇ?」
間の抜けた立川の声も意に介さず、猫戸はまじまじと本堂を見上げていた。
「今だからこそ崇高に持ち上げられてるけど、どっかで諦めたり、失敗したところ誤魔化したりしてると思うんだよなぁ」
立川が驚いた顔で猫戸を見ている。
「意外と、立川が組んだプログラムもあと百年したら『スゲェスゲェ』って持て囃されるかもよ」
一瞬の間の後に、立川が肩を震わせて笑った。猫戸が「なんだよ!」と顔を赤らめた。
「猫戸さぁ、今の俺の話は『わー立川すごーい、真剣に仕事してるなんて尊敬しちゃうー』ってなるところじゃねぇの?」
「するかよそんなの。何があろうと納期に間に合わせるのが優先だろうが」
管理に足を突っ込むだけあって、猫戸の指摘は冷静だった。
「本当にとんでもない所から意見ぶっこんでくるなぁ……」
立川が笑うと、猫戸も隣で肩を震わせて笑った。
そうして二人はしばらく境内や本堂を見て回っていたが、立川の腹がグゥと鳴ると、いよいよ昼食へと意識が向き始めた。猫戸がやや気落ちした様子で溜息を吐いている。
「どうしたの?」
「あー、いや……超有名家庭料理……」
「そうそう、それそれ!」
立川は腹を擦りながら、豪快に笑った。
「そこの
「……予想通りだった……」
猫戸は冷や汗をかいている。
「なぁ、もしかしなくても精進料理だろ?」
「お、よく分かるな!さすが社長秘書ですよ、察しがいい!」
「俺……大丈夫かなぁ」
猫戸が頼りなげに呟いた。
二人が庫裏に行き予約者の立川の名前を言うと、受付にいた年輩の女性が奥の座敷へと案内してくれる。靴を脱ぐことを一瞬躊躇った猫戸だったが、結局立川に
案内された静かな畳敷きの奥座敷には、隣り合って座布団が用意されていた。
「あの、今日は僕たち以外に、ここの利用者はいないんですか?」
立川の質問に、案内の女性が微笑む。
「今日は宿坊の利用者がいるんですけど、人数が多いから、お食事の時間を一般と区別して営業してるんです」
「そうなんですか、この庭を見ながら俺らだけで食事ができるなんて贅沢だなぁ」
女性は「お庭も味覚の一つですから、楽しんでくださいね」と声を掛けると、座敷から出て行った。立川が座布団に
「正座するの?ずっと?足痛くなんない?」
「ならない」
「猫戸って正座得意な人?」
「得意じゃないけど……社長に付いて行くと、お客様が年配の事も多くてよく正座するから、慣れた」
「へぇ、すごいな」
背筋を伸ばして美しい正座をしている猫戸に、立川は無心で見とれていた。芸術作品を見て、呆けて口を開けている状態に近い。そこには何の野心も欲望も存在しない。庭の奥に設置されているのか、遠くで
暫くすると、膳の上に料理が乗せられてやってきた。二人の前にそれぞれの膳が置かれる。猫戸が思わず声を漏らした。
「うわぁ、凄い、本当に野菜っぽいものばっかりだ」
「でも天ぷらとかもあるぞ。美味しそうだな」
「うん」
素直に頷く猫戸の瞳はキラキラと輝いている。立川は嬉しそうにその姿を見詰めていた。
若い修行僧がやってきて膳の内容について説明を始めると、二人は熱心に聞き入り、そして手を合わせて食材に感謝を捧げた。
精進料理は、また一つ猫戸の世界をぶち壊した。「いただきます」という言葉の重みを改めて感じた猫戸は、自分の前に据えられたそれらを
「精進料理、美味しかったなぁ」
立川が言うと、猫戸が笑う。
「びっくりしたよ、すごいいっぱい種類あって」
「ここは宿坊とかやってるから、まだ一般向けっぽい感じだけどな」
「ガチの精進料理ってどんなんだろうな」
猫戸の純粋な疑問に、立川は首を傾げて考えると言った。
「そりゃあれだろ、究極は『
「仙人じゃねーかそれ。料理でも無ぇし」
猫戸がツッこむと、立川は声を上げて笑った。
山の夜は早い。寺院を見て回り、精進料理を食べて満足した二人は周囲をぶらぶらと歩いていたが、すでに陽が落ちそうになっている。立川の「そろそろ帰るか」の言葉に、猫戸は頷いた。二人で駐車場へ戻る。
猫戸は愛車の運転席に座ると、座席の状態を調節する。
「立川、お前シート後ろに下げすぎだろ」
「俺、猫戸よりも足長いんで」
「えー?胴が長い奴がシート下げがちだって聞いたぞ(聞いたことないけど)」
「えっマジで!」
猫戸の適当な嘘に騙されてショックを受ける立川の声をBGMに、猫戸は調節を続けた。そうして、シートに僅かに腰を付けてから一瞬動きを止めた。立川の広い背中が押し付けられたシートが、今猫戸の背中に触れようとしている。
猫戸は、小さく息を吐いてそっとそこに自分の背中を押し付けた。自分専用だった運転席の調節を一度解かれたそこは、まるで自分の愛車では無いような居心地の悪さがあった。シートベルトで自身を固定すると、そこから動けなくなる。自分自身でそこに縛り付けているようで、思わず猫戸は一人笑った。
「え、どしたの猫戸」
立川がガチャガチャとシートベルトを引っ張り出しながら、怪訝な顔をして猫戸を見ている。
「いや、本当に……今日俺、経験した事ないこととか、知らないことスゲェあったなぁって思って」
言いながら猫戸がエンジンを掛ける。そうして、愛車のタイヤは駐車場の砂利を押し付けるように進みながら発進した。じゃりじゃりと小気味よい音を立てて、舗装された道路へと上がる。真剣にカーブを見やるその瞳が細められた。
「ありがとう、立川」
言われた立川は、返す言葉が見つからずに黙っている。猫戸が続けた。
「俺の世界をぶち壊してくれて、ありがとう」
相変わらず立川は何も言わない。猫戸が、フフと笑った。
「何か言えよ、俺が礼言ってんだぞ」
「――それって礼って言うの?」
「礼だろ、礼じゃなけりゃなんなんだよ」
猫戸の目線は山道から逸らす事ができない。反応の薄い立川に対して、猫戸はやや不機嫌になった。
「なんだよ、もう……何も喋らねーなら、曲かラジオかなんか掛けろよ」
「ラジオって……今日び、ラジオって……」
「うっせーな、そこ拾うんじゃねぇよバカ!」
声を荒らげた猫戸は、声を上げて笑った。
とはいえ、結局二人のスマートフォンにはピンとくる曲が一つも無かったため、猫戸の洒落た愛車には公共ラジオ発信の落語家の番組が垂れ流されている。聞き入っているのか、時折立川が「ぶふふふ」と笑い声を上げるのを、猫戸は釣られ笑いをしながら帰路を急いだ。
「立川、家まで送るぞ」
「おー、サンキュー」
「どこなのかナビしてくれよ」
「了解」
地元に戻ってくると、立川はテキパキと方向を指示した。カーナビに入力する必要も無い程、道路状況も快適でスムーズに進んだ。そうして、何のトラブルも無く立川の住むマンションの前までやってきた。あまりにもあっけない、初めての遠出の終わりだった。
「ここ」
立川の言葉でゆっくりと車を停める。ラジオを切り、ルームランプとハザードランプを点けて、猫戸はじっとフロントガラスを見ていた。――しかし一向に立川が動く様子は無い。
「――おい、着いたんだろ」
吐き捨てるように言って立川を伺い見た猫戸は、立川が自分を見つめ続けていた事に気付いた。突如ドクンと心臓が跳ねる。視線を逸らして、面倒臭いものを振り払うように、雑に手を払った。
「どーしたんだよ、着いたぞ」
乱暴な言い方で言うなり、猫戸が俯いて外を向く。立川は小さく溜め息を吐いて、ガチャリとシートベルトのロックに触れた。猫戸の左耳に、ロックが外れる金属音がやたらと大きく響く。二人の時間の終了が目前に迫る。猫戸の心臓はみるみるうちに収縮した。
立川が自分の持っていたボディバックを掴んだ。ルームランプが点いているせいで、車内の様子はまるで鏡のようにガラスに映っている。しかし猫戸からは立川の表情までは読み取れなかった。立川の手が助手席のドアノブに伸びる。はっと猫戸が顔を上げた、その瞬間だった。
ドアを幾分か開けて、立川は自分を見上げる猫戸の方へ身を翻すと、右手でルームランプのスイッチを切った。一瞬で闇を取り戻した車内は、周囲の家屋から漏れる光を素直に受け入れている。ギアに触れないよう左手で体を支えながら、運転席へ座る猫戸へ身体を寄せた。
突然の事に目を見開く猫戸の鼻孔に、嗅いだ事のある立川の香水の香りが漂う。太く濃い眉の下にある真剣な瞳が、僅かに入ってくる光を受けて星のように輝いた。
『キス、される』
猫戸が体を硬直させ、ぎゅうと瞳を
立川は顔を近づけたきり、それ以上猫戸に向かって進行してこなかった。ややあってからゆっくりと猫戸が瞳を開けると、それを待っていたかのように立川がさらに身を乗り出した。
――チュ
猫戸の短く切った前髪に、立川が唇を寄せている。猫戸のやや汗ばんだ額に、前髪越しの立川の唇が触れた。
『!!!!!!』
猫戸は素早く身を引くと自分の額に手をやり、蒼白になった顔で瞳を潤ませ、悪魔を見るような目で立川を見た。見られた本人は嬉しそうに笑っている。
「まだ許してくれないと思うから、今日はコレだけね」
「う……」
猫戸は何も言えずに小さく呻いた。一瞬遅れて、燃え上がるような羞恥が襲う。
「テメェ!何してくれてんだ!」
「ははは、ごめんごめん。あまりにもしたかったから」
猫戸は噛み付かんばかりに言うが、シートベルトがその動きをがっちりと封じている。その様は立川から見ていても滑稽なものがあった。今にもシートベルトから抜け出てきそうな勢いで、猫戸が声を荒らげる。
「全然煩悩捨ててきてねぇじゃねーか!」
「いやー、これでも減らしたんだけどなァ」
立川はのらりくらりと言いながら、ゆっくりと猫戸から離れた。そうして助手席に座り直すと、車外へ足を出しつつ「今日は本当に、俺にとって大事な一日だったよ」と笑う。
車外から猫戸を覗き込む姿は、今日のスタートと同じだった。同じ笑顔で、同じ優しさで猫戸を見ている。
「ありがとう、猫戸」
言って立川は眉を上げた。
「次のデートをどこにするか、次こそは一緒に考えような」
猫戸は黙ったままだった。立川は手をひらひらと振ると、助手席のドアを閉めた。マンションのエントランスにその背中が消えていく。
一人車内に残された猫戸は、心臓の鼓動が狂ったようにリズムを刻み、張り裂けそうになるのを感じていた。立川の姿が無いエントランスを呆然と見つめていると、額から熱がじわりと全身へ回ってくる。ぞくぞくとした震えが足元から頭まで駆けた。微かに残る立川の汗の匂いを嗅ぎ取った鼻孔は、無意識にその存在を探し求めている。『嘘だ、うそだろ』とその額を両手で押さえ込んだ。
『他人の口なんて、気持ち悪いものなのに』
『どこをどう触れられたって、吐き気しか襲ってこないのに』
猫戸が唇を噛んだ。強く噛んでいなければ、訳の分からない感情に振りまわされて、今にも涙が零れそうだった。
『――なんで俺こんなに胸が痛ぇんだ』
額から手を離して、大きく溜め息を吐くと、ドアをロックし、前を向いて気合を入れ直す。
「うん、ヨシ」
猫戸は一人言うと、ゆるゆると車を発車させた。
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