第14話「猫戸 の 過去」

「立川が今日で『チーム楠原』から卒業になりましたー」

 七月始めになり、会社の最寄り駅にある大衆居酒屋では楠原の音頭でシステムの完成が小規模に祝われていた。参加しているのは、チームリーダーの楠原、メンバーの金森、そして立川だ。三人で乾杯をするなり、金森がジョッキの生ビールを一気に飲んで空けた。男二人は威勢の良いその姿を、口を開けて見ている。ドン!とジョッキをテーブルに置くと、金森が絞り出すように言った。

「いんやーきつかった、今回」

 小柄な身体には似つかわぬドスの効いた声が漏れてくる。テーブルに突っ伏すように伏せた頭の、頭頂部で結んだ髪の毛がワサワサと揺れた。

「私正直言うとさぁ、楠原さんの納期見積もり見て、こいつやらかしおった!って思った」

 表情の見えない所から聞こえる恨み節に、楠原が苦笑いを漏らす。立川が手を挙げて店員を呼び、追加のビールを頼んだ。楠原はビールを一口飲んで、溜息を吐くと言った。

「その節はごめんって、金森ちゃん」

「違うんすよ、納期見積もり、作業して気づいたけどすっごい的確だったんすよ」

「え?」

「追加でクライアントが言ってきた要求も、すんごい上手い着地点見つけて、向こうもこっちも満足できる限界ぎっりぎりを攻めでぎでだんすぉ」

 金森の語る語尾が怪しくなる。楠原がきょとんした顔をして、巨大な毛玉状態の金森を見ている。金森の肩が小さく震えると、突然顔を上げた。赤い顔をして、瞳が潤んでいる。

「わた、わだじっ!楠原さんを、パチスロ狂いの屑野郎だと思ってまぢだ!でも、じゃんど仕事しでだ!」

 金森の熱い言葉に、思わず立川が吹き出して笑うと、慌てて自分で口を塞ぐ。目の前に現れた興奮気味の小動物を前に、楠原は唖然として動けない。金森は鼻をすすって立川を指さした。

「立川ざん、気付いてないだろうげどね!楠原ざんは、ギミが入っでぎだ事で、仕上がりのレベルを上げやがっだんだぞ!」

「え、どういうことですか?」

「元々、わだじと二人で、死ぬ気でやりゃなんとがなる感じだったのに、まんまと康男ざんを言いぐるめで、キミ入れで、顧客の要望をことごとく叶えだんだぉ!」

 思わぬところから聞き捨てならぬ情報を仕入れた立川は、ゆっくりと楠原を見た。楠原は「アハハー」と笑っているが、頬へ流れ落ちる汗は動揺を隠せていない。

「か……金森ちゃん、気づいてたの?」

「気づいてまじだ!」

 店員が持ってきたビールジョッキをすぐに金森が煽り、細い喉がゴクリと動くと遠慮なしに飲み切った。そして、座った瞳で楠原を睨んだ。

「っつーか、途中で気づいて『コノヤロー』って思っだげど、どこまでやるか見てやろーって思っで、放っておいだっす」

「はは……ご、ごめんね?」

 楠原がそろそろと立川を見た。立川はまるで汚物を見るような瞳で楠原を見ている。楠原はショックを受けた様子で座り直すと、隣の立川からやや体を離した。ゆっくりと立川が口を開く。

「楠原さんの、あの弱り切った姿は嘘だったんですか」

「嘘じゃない、嘘じゃないんだよぉー」

「俺がどんだけ大変だったか……」

「でもさ!でも俺のおかげで猫戸と仲良くなれたんだろ?」

 突然ぶち込んできた楠原の言葉に、立川の動きが止まる。金森の目線も立川に注がれている。ビールジョッキを持つ立川の手に、無意識に力がこもった。

「な……何言ってんですか」

「猫戸すげぇ心配そうにお前のブース見たりしてたぞ」

 立川の脳裏に、一度だけあった給湯室での逢瀬が浮かんだ。突然の事に顔が赤くなる。金森は枝豆をもぐもぐと食べながら頷いている。

「見た、わたじも見た。『立川ざんならついさっき休憩行きましたけど』って言ったら、キリッとした顔で『そうですか』だけ言われだ」

「お前どんだけ猫戸と仲良くなってんの」

 立川はビールをゴクリと飲み下す。二人の視線が痛い。今すぐにでも頭に浮かんでいる猫戸の姿を退かさないといけないのに、脳裏の猫戸はしっかりと居座っている。手を伸ばして立川の顎に触れ、頬を撫でる。立川の下半身に甘い痺れが走った。

「俺……俺、帰ります」

 咄嗟に立川がボディバッグから財布を取り出すと、二千円を楠原に押し付け、立ち上がった。驚いた顔で楠原が立川の顔を覗き込む。

「えっ、ごめん、ごめん、不快にさせるつもりは無かったんだけど……」

「不快とかじゃないです、すみません」

 立川は赤い顔を隠すように手で覆いながら、言った。

「あの、また飲みに連れて来てください。お先に失礼します!」

 立川が去っていく後ろ姿を見ながら、楠原は押し付けられた二千円をテーブルに置いてほくそ笑む。

「ほらな、立川の場合『猫戸』っていうワード出すと大体の事乗り切れるんだわ」

「……楠原さん、マヂ鬼ですね」

 呆れた様子で金森が言い捨てた。


 速足で風を切って歩きながら、立川は腕時計を見た。午後九時三八分――SNSでの猫戸の返事が極端に減ってくる時間帯に突入している。立川の頭の中には、猫戸しか居ない。

『会いたい、すぐに会いたい。会いたい』

 立川が、焦る手元でスマートフォンを操作し、連絡先から猫戸の番号を選んだ。呼び出し音が無常に響く。しばらく後に、その音がプツリと途切れた。

『――はい』

「猫戸……?」

『そうですが』

「あの、ゴメン、夜に……」

 猫戸の声を聞いて突如現実に引き戻される。脳裏に浮かんでいた猫戸は目尻を赤くして、潤んだ瞳で、甘く囁くような声で立川の名を呼んでいた。――それが現実はどうだ。

『申し訳ございませんが、ただ今、康男さんのご友人の方との会合を行っておりまして』

「はぁ!?」

 道端で素っ頓狂な声を出した立川を、道行く人がちらちらと見ている。

「な、なんだそれ……そんなの今日あったっけ?」

『別に、ご報告する程のものではございませんので』

 神経に触る言い方で猫戸が言い切った。電話口の向こうで「猫戸くん、ちょっとこれ飲んでみなよ」という誰かの声が響いた。立川の心臓がドクンと鳴る。

「何かされて無いだろうな……」

『何かとは何ですか』

「いや、何かっつったらこう、あーいうナニだろ」

『――不健全な書物の読みすぎではないですか。誰も私なんかに興味無いですよ』

 そう言った猫戸のすぐ近くで「いつまで喋ってるんですか」という声が上がった。比較的若そうな男の声だった。立川のスマートフォンにはっきりとその声が入るということは、それだけ近くに相手がいるということだ。目の前が一気に暗くなる。立川は大きく首を振った。

「いや、だめ。ダメダメ!」

『何がですか』

「その飲み会ダメ!」

『ダメって……』

「すっげぇ怖いからダメ!」

『――勝手な事を仰いますね』

 猫戸の声色が冷めた温度に変わった。

『そもそも、今日飲み会だからと一方的に言ってきたのは貴方ですよね』

「――え」

『私の事なんて、どうでも良かったのではないですか?もしかして興味がおありでした?』

 猫戸の言葉に、立川は何も言えなくなった。猫戸側から「おーい猫戸、どちらさんだー?」という社長の声がする。猫戸は『申し訳ございません』と離れた所へ向かって声を掛け、電話口へ直って言った。

『とにかく、今は会合中ですので失礼します』

 一方的に言うと、猫戸は電話を切った。立川は呆然と道端に立ち尽くすと、駅へ向かってのろのろと歩き始めた。

 乗り場でしばらく立ち尽くし、ようやく来た電車に乗り込んだ立川は、ぼうっと立ったまま、流れる車窓の景色を眺めていた。ポケットに入れた立川のスマートフォンがぶるぶると震え、我に返る。見ると、猫戸からのSNSだった。

『終わった』

 たった一言が送られてきている。立川が慌てて返答を送る。

「今どこ?」

『会社の最寄り駅』

「行く」

『来んなよ』

「行く、一〇分以内に戻る」

 立川は急く気持ちを抑えるのに必死だった。

「会いたい」

 猫戸からの返答は無い。

「すぐ会いたい」

 立川はその言葉を打ち込むと、大きく溜め息を吐いて俯いた。

 電車を乗り換え、立川はまた会社の最寄り駅へ降り立った。改札の外には、金曜の夜を楽しもうとする大勢の会社員がいる。立川は改札を出るときょろきょろと視線を巡らせた。猫戸の最後の返信は『来んなよ』だ。その言葉通り居ない可能性もある。立川がスマートフォンに目をやった時、背後から声を掛けられた。

「立川」

 振り返ると猫戸が無表情で立っていた。今日仕事をしていた時の姿そのまま、真っ白なワイシャツを捲って腕を組んで立っている。

「ね……ことおぉ……」

 何とも言えない複雑な表情で見てくる立川に、猫戸は「なんだよその顔」と言い放つ。立川はううぅと唸った。

「だってお前、すっごい怒ってたし」

「そりゃ腹も立つだろ、こっちは会合って言う名前の仕事中だってんだよ、システム出来上がって浮かれた飲み会してるテメェと違ってな!」

「……」

「会合がダメもくそもねぇだろ、勝手言いやがって」

 そこまで言った猫戸がふと言葉を切って立川の背後に目線をやると、一変して爽やかな笑顔を浮かべ、口を開いた。

山本やまもと社長、つじさん、先ほどはどうも!」

 先陣を切って呼びかけると、立川の横をすり抜けて進む。立川がその方向へ視線をやると、康男と同年代の中年男性と、自分と同年代の男性が立っているのが確認できた。中年男性が赤ら顔で笑って猫戸に近づいた。

「おお、猫戸くん、まさか駅で会うとは思わなかった」

「山本社長こそ、電車でお帰りなんですか?」

「そうだよ、うちの秘書がセツヤク、セツヤクってうるさいんだ」

「僕はそんなに煩くしているつもりは無いんだけどなぁ」

 山本という中年男性と猫戸との会話に、突如割り込んできたのはつじと呼ばれた男だ。眼鏡を掛け物腰が柔らかそうに見えるが、視線は笑っていない。秘書をしているようだが康男と猫戸の関係性に比べると、かなり砕けた関係のようだ。辻が言った。

「猫戸さんはどちら方面ですか?」

「私は……下り方面なんです」

「じゃあ、僕と一緒ですね。社長は上りなので」

 立川はじりじりと近づくと、猫戸の背後に立った。突如猫戸の背後に現れた私服の男を、きょとんとした顔で二人が見ている。猫戸はハッとして後ろの立川を見上げた。立川は、まるで飼い犬が知らない人間に向かうように、疑いと警戒の眼差しを向けている。猫戸が慌てて二人へ向き直ると、笑顔で立川を指した。

「山本社長、辻さん、ご紹介が遅れまして申し訳ございません。弊社へいしゃのSEの立川です」

 そうして背後の立川に再度視線を向けて、笑顔を見せる。

「立川!こちら、秋葉原に本社を置いておられる『ハロー無線』の山本社長と、秘書の辻さん。今日会合でご一緒させていただいたんだ」

「……立川龍造デス。ヨロシクオネガイシマス」

 立川はぺこりと頭を下げた。山本が目を丸くして笑った。

「キミ、SEなの?ずいぶんとガタイがいいなぁ」

「はぁ」

「立川さん、ですよね?」

 突然辻に声を掛けられ、立川がキッと視線を向ける。辻はニコニコと微笑んでいた。

「さっきの会合で、ちょこちょこ『立川さん』っていうワードが出てたので、どんなエンジニアなんだろうって思ってました。お会いできて光栄です」

 立川が面食らって「お、おう」と声を出した。不躾な言葉に猫戸が肘で立川の鳩尾みぞおちを殴る。

「立川さんもこれからお帰りですか?」

「いや、俺は……」

 どう答えようかと口ごもった立川を察した様子で、猫戸が答えた。

「今回の開発の時に色々問題があったので、その話を聞きたくて私が呼び出したんですよ」

「そうなんですか、お仕事熱心でらっしゃる」

 辻が眉を上げて微笑んで、バッグからスマートフォンを取り出した。同じタイミングで、山本が立川に質問を投げ掛ける。

「立川さん、鍛えてるの?」

「えっ、あ、趣味程度ですけど……」

「いやぁ、俺もムキムキにはなりたくないけど、健康の為に動けって嫁さんに言われてねぇ。ジムとか行ってる?」

 山本の純粋な質問を、立川は気もそぞろに聞いていた。辻は猫戸を前に、スマートフォンを見せて笑っている。

「猫戸さん、さっき聞きそびれたんですけど、連絡先教えて貰えませんか。秘書として色々話をしてみたい事もあるし」

「かまいませんよ」

 猫戸が慣れた営業スマイルを浮かべて、クラッチバッグから社用スマートフォンを出した。辻がそれを手で押さえる。横目でその光景を見た立川の背中が総毛立った。猫戸は辻に目をやる。辻が緩く首を振って小さく言った。

「それ社用スマホですよね?」

「はい」

「僕が知りたいのは、そっちの連絡先じゃないです」

「はい?」

「猫戸さん個人の番号教えてくださいよ」

 辻の瞳は真剣だった。猫戸は何度か瞳を瞬かせたが、やがてにっこりと微笑んだ。

「辻さん」

「はい」

「初対面の方に個人の番号を教える程、私は甘くないですよ」

「そうでしょうね」

「分かっていて言ったんですか」

 猫戸は呆れた様子で社用スマートフォンをクラッチバッグに戻すと、やや冷めた目線で辻を見た。

「連絡先は本日お渡しした名刺に載っておりますので、いつでもご連絡ください」

 すでに社用スマートフォンの番号すら教える気が無い様子でそう言い切ってから「あぁ」と思い出したように付け足した。

「営業時間は午前九時から午後六時までとなります」

 耐えきれなくなった辻が、とうとう笑い声を上げた。



 立川と猫戸は、駅から程近いイタリアンレストランに入った。夜は酒の提供が中心になり、バールと呼ばれる営業になる。

 案内された席は、奥まった場所に設置された二人掛けのテーブル席だ。中央に小さな花瓶に生けられた花が置かれ、グラスに入ったキャンドルが揺らめいている。対面に座った猫戸に、立川が不機嫌な表情で言った。

「なぁ、あの辻ってヤツなんなの?」

「なんなんだろうな、俺、康男さんにあんな口の利き方できねぇよ」

「いや、そういう意味じゃなくって……」

 説明しかけて、立川は言うのを止めた。

「まぁ、いいか。あのヤローの話で貴重な時間潰すの嫌だし」

 注文したものがテーブルに並べられる。一品料理と、ワインクーラーに入ったワインのボトルだ。ワイングラスを持ち上げライトに透かして見た猫戸は、磨き上げられたそれを見て満足そうに頷いた。続いてワインを注ぐと、一つは立川側へ置いた。そうして香りを確かめて、ゆっくり味わっている。立川は猫戸に注いでもらったワインをグイ、と飲んだ。

「なぁ、猫戸」

「うん」

「二人で飲みに来たの初めてだな」

 言われて猫戸は目を見開いた。元々イタリアンレストランであるため、二人で飲みにくるという意識が薄かった様子だ。猫戸は、嬉しそうな立川の表情を確認すると、やや視線を落として微笑み「そうだな」と呟いた。立川がグラスを置いて口を開いた。

「今日はどこで会合だったの?」

「康男さんの行きつけの会員制クラブ」

「どんくらい飲んだの?」

「あんまり飲んでねぇよ……」

 怪訝な顔をして、猫戸がグラス越しに立川を見ている。

「立川だって、今日打ち上げだったんだろ。どのくらい飲んだんだよ」

「全然飲んで無い」

「嘘つけ」

「本当だって!お前に会いたくて、途中で出てきちゃった」

 猫戸が眉間に皺を寄せてあからさまに嫌そうな顔をした。立川が慌てて手を振る。

「マジだよ、マジ!なんなら明日楠原さんに聞いてみてよ」

「そんなキメェことするかよ馬鹿か」

「信じて無いだろお前。普通、打ち上げしてこの時間に一人で帰ってるわけないじゃないか」

 それを聞いた猫戸は、腑に落ちた様子で小さく溜め息を吐いた。立川がテーブルの上に置いていた手をゆるゆると伸ばして、グラスを持つ猫戸の指に触れた。あからさまに猫戸がビクリと身体を震わせた。

「た、ちかわ……」

「会いたかったよ、すげぇ」

「今日も普通に会社で会ってるじゃねーか」

「違うよ、ちゃんと、恋人として会いたかった」

 猫戸の顔が赤みを帯びる。立川の指先から逃れるように、グラスを持つ手を動かした。

「恋人じゃない」

「いつ恋人になってくれるの」

 赤い顔をしたままの猫戸から返事は無い。

 立川が手を引き、居住まいを正すと、わざとらしく大きく伸びをしてからワインを飲んだ。そして肘をついて顎を手で支えると、ちらりと横目で猫戸を見た。猫戸は「行儀が悪いぞ」と、しかめっ面で注意する。その言葉を無視して立川が視線をずらし、言いづらそうに言った。

「なぁ、猫戸って……童貞なの?」

「……!!」

 猫戸の動きが固まる。立川は盛んに視線を泳がせている。

「いやぁ、だってほら、猫戸って潔癖症だし、今だって恋人っつーのに抵抗あるみたいだし……」

「童貞じゃない」

 猫戸の口からはっきりと告げられたまさかの言葉に、立川は自分から聞いた話であることも忘れて驚きを隠せなかった。

「――えっ、え、マジで言ってんの」

「あたりめーだろ」

「え、どうやって?猫戸、人に触るのも嫌だよね?どうやってすんの?」

 マシンガンのように質問が飛んでくるのを受けながら、猫戸は真っ赤な顔で唇を噛んで立川を睨んでいる。立川が身を乗り出した。

「いや、じゃあ、まずあれだよ、初体験の時の話を聞こうか、うん」

「疑ってんだろテメー」

「疑ってるとかじゃない!ただ単に、どうやって猫戸がそんな、そういう、アレをやるっていう気持ちになったのかすっげー、すっげぇ知りたい!」

 立川の好奇心は凄まじい圧となって猫戸の前に立ちはだかる。猫戸は大きな溜息を吐くと小さく口を開いた。

「一四歳の時に……」

「一四歳!?」

 立川の顔は赤く、紅潮している。鼻から激しい吐息が吹き出している。興奮を抑えようとして、ワインボトルをガサツに掴むと、グラスにドボドボと注いでそれを煽った。猫戸が嫌そうに視線を逸らした。

「――あー、やめる。言うのやめる」

「止めないで!猫戸さん、やめないで!はい!続きどうぞ!」

 もう立川は止められそうにない。猫戸は面倒臭そうに続けた。

「一四歳の時に、付き合ってたのが一つ上の彼女で……」

「先輩と付き合ってたのか!」

「あー、うん」

「どっちが告白したの、どっちが!」

「えぇ……?先輩から言われたけど……」

「ほうほう、それで!?」

「まぁ、俺はその頃すでに完全な潔癖症だったから、キ……キスとかも一度もしなくて」

「うん」

「そしたら……」

 一瞬猫戸が言い淀んだ。立川は興奮冷めやらぬ表情でじっと猫戸を見詰めている。

「そしたらどうしたの、猫戸さん!」

「そしたら、付き合って二か月後くらいに、先輩の家に呼び出されて」

「うん」

「襲われた」

「えっ?」

 立川から間抜けな声が飛び出した。猫戸は当時を思い出している様子で、目を細めて遠くを見つめている。

「いや、マジで俺、理解できなかった……『あゆむ君は何もしなくていいから』って言われて、ベッドに押し倒されて」

 立川は何も言わない。

「他人のベッドっていう事だけで吐きそうだったのに、ズボンとパンツ、膝まで下ろされて、先輩は服着たまんまで」

 猫戸の眉間に皺が寄った。

「スカートだったおかげで、色々見えなかった事だけが救いだったな……」

 話し終わっても、立川は何も言わない。猫戸がふと立川を見ると、立川は真っ赤な顔で硬直している。

「立川?」

「……やばい、もんのすごく興奮してしまいました、俺」

「はぁ!?」

 立川が両手で顔を覆うように抑えた。

「やばい、すっごいやばい」

「な、何がだよ」

「だってさ、先輩だろ?先輩に押し倒されてんだろ?」

「――うん」

「着衣のままだろ?」

「まぁな」

「先輩から一方的になんだろ!?」

「ああ」

 猫戸の淡々とした返事を聞くと、立川は身を捩って悶えた。

「なんだよそれ!なんでそんな平気なの!興奮するところじゃないの、それ!」

「俺はそういう性癖ないから」

「性癖とかいう問題じゃないだろ、男のロマンだよロマン!」

 鼻息荒く言ってくる立川を見て、猫戸は嫌そうに「しっしっ」と手を振った。

「ほら、言っただろ、俺はドーテーじゃねーんだよ」

「なんだよチクショー羨ましい、その卒業の仕方!」

「俺にとっては拷問だったけどな」

 猫戸はふと眉を上げて自慢げに笑った。

「ま、あんな機会なければ一生童貞だったかもしれねーしな。先輩には感謝だわ」

「あーでもアレだろ、セカンドチェリーだろ」

「あぁ!?」

 立川は自尊心と冷静さを保つために必死になっているのか、だらだらと汗を流しながら張り付いた笑いを浮かべた。

「それで初めてだったら、二回目無いだろ、二回目」

「あったよ」

「あるんかい!」

 ツッコミながら打ちのめされている立川を見て、猫戸はハハと笑って言った。

「その先輩とはその後別れたから、別の人だけど」

「その、別の人とは、ちゃんとセックスしたの?」

「……ちゃんとしたセックスってなに?」

 猫戸は低いトーンで小さく言った。表情には嫌悪と羞恥が浮かんでいる。立川が真剣な顔でそれを見て、ゆっくりと口を開いた。

「ちゃんとしたセックスって、そりゃ、相手の手を握ったり」

 立川はゆっくりと手を伸ばして、再び猫戸の左手に自分の手を重ねた。興奮で汗ばんだ掌が、猫戸の手を包み込んで密着する。猫戸は指を強ばらせたが、拒否は無かった。

「口にキスしたり、首筋にキスしたり……」

 低い声で囁きながら、立川が猫戸の甲を軽く爪で掻いた。

「胸舐めたり、太腿触ったり……」

 猫戸の細い首で、喉仏が大きく上下した。小さく開いた唇から僅かに吐息を漏らすと、キャンドルの炎が揺らめいて互いの顔の影が動く。猫戸は立川の視線から逃れるように身を小さくさせて俯き、首を振った。

「――もし、立川の言うそれが『ちゃんとしたセックス』っていうもんなら、俺は今まで一度もそんなのしてない」

「……」

 深い溜息を吐いてうなだれた立川は、ゆっくりと顔を上げる。

「猫戸さ、好きになったひとに、自分から告白したことある?」

 猫戸は寂しそうに笑うと、ワインを一口飲み、ふぅ、と息を吐くと呟いた。

「結局、この人いいなぁーって思っても、その先を求められる事を考えたら責任持てねぇじゃん」

 ワイングラスをぐるりと回して、揺れる水面を見つめている。

「俺は絶対に自分から、そういう関係を求めることは無いんだよ。それが自分で分かってるのに、好きになるなんて相手に失礼だろ」

 黙って聞いていた立川の瞳に悲しげな色が浮かんだ。猫戸がワインを飲み干して自嘲する。

「俺が潔癖性を言い訳にしている限りは、誰とも深い関係になれないし、それで許されるなんて都合のいい期待をしちゃいけねーんだって思ってる」

「猫戸、そんなんで寂しくないの?」

 立川の無垢な質問を受けて、猫戸は俯いたまま「わかんねぇよ」と答えた。猫戸の手を包んだ立川の掌にいささか力がこもると、猫戸はそっと立川を見て言った。

「――あぁ、うん。でも、お前と一緒に居るようになってから、今まで見ない振りしてた色んな事を見ねぇといけなくなったから、それが無くなると、多分……寂しいと感じるかもしれないな」

「猫戸……」

 立川は相変わらずの赤い顔だったが、穏やかな笑みを湛えていた。猫戸が釣られたように、緊張した口元を緩めて微笑み返す。立川がふと眉を下げた。

「俺は正直言って不安だよ」

「え?」

「お前が色んな事を経験して、色々理解して、できるようになって、潔癖も緩和されて許せるようになって……ってなったら、俺なんか必要無くなるわけだろ?」

 猫戸は答えなかった。立川は視線を落とし、覆っていた猫戸の手をそっと表に向けると、手首から掌まで指を滑らせ撫でる。

「俺は、猫戸がこうやって触っても平気になったのは嬉しいよ。でも――」

 言い掛けた立川の指に、ゆるゆると猫戸の指が絡んだ。突然の事に驚き立川が顔を上げると、猫戸は目尻を赤く染めて、挑むような視線を立川に突き付けている。

「ごちゃごちゃうるせーんだよ、テメーは」

 言って、たどたどしい動きで立川の指先を撫でた。

「立川は自信持っとけよ」

「――猫戸、それって……」

 立川の瞳がきらりと輝いた。咄嗟に猫戸が視線を逸らす。

「それもクソもねーよ、ぐちゃぐちゃ言ってるのは立川らしくねぇっつー話だわ」

「いや、違うだろ……今のは勘違いしちゃうよ俺」

 互いの指が意思を持って絡んだ。ちらりと見た猫戸に笑い掛けて、立川は切なさを滲ませながら続けた。

「あんまり、言及しない方がいいパターン?」

「――うん。そうしてもらえると助かる」

「なんだよ、自覚あるならいい加減に諦めて抵抗するなよなぁ」

 二人は手を離すと、視線を合わせて笑い合った。許容量を超え漏れ出て積み重なる猫戸の気持ちは、乱雑に触れればあっという間に崩れてしまう。立川が触れても、他の誰かが触れても崩壊する繊細な感情だ。だからこそ、それを崩す権利を有するのは、他でも無い猫戸自身だった。

 ひとしきり笑った立川は、皿に乗ったトマトとチーズのカプレーゼを口に運びながら、美味しそうにもぐもぐと口を動かしている。猫戸もナイフとフォークを使い、それを自分の取り皿に移した。

『あ、食べ物、初めてシェアしてる』

 立川がじっと自身を見ている事にも気づかず、猫戸はナイフで一口の大きさに切ると口に運ぶ。やや前屈みになると、キャンドルに照らされて映る長い睫毛の影が揺らめいた。猫戸のふっくらとした唇の中に姿を消したトマトとチーズを、立川は他の作業を全て中止して、ただ見ていた。

 猫戸が立川の目線に気づいて、口をナプキンで拭きながら顔を上げる。

「なんだよ」

「あ、いやぁ……猫戸、初めて俺と一緒のモン食べてるなぁって思って」

「えぇ?今までも色々同じモン食ってきただろうが。この間だって精進料理食ったろ」

 そう言いながら、猫戸は二口目のカプレーゼを口に入れている。実際、精進料理はそれぞれに膳が用意されており、シェアしたわけではなかった。それでも立川は眉を下げて嬉しそうに「そうだね」と答えて笑った。

 暫く二人で食事をしていると、ふと思い出したように猫戸が切り出した。

「あーそうそう、立川って今度、休暇申請してるじゃん。どっか行くの?」

 そこまで言うと、猫戸の顔がみるみる内に赤く染まっていく。

「ち、ちげぇよ、別に気になってるとかそんな感じでもない」

 何も聞いていないのに自爆している猫戸の姿に笑いを堪えながら、立川はあっさりと言った。

「うちの母親の一周忌があるからさぁ、ちょっと実家帰って、手伝おうと思って」

 ハハ、と笑う。

「実家に、父親とばーちゃんと弟がいるんだけど、多分あの人たちだけじゃてんやわんやだと思うから、俺が満を持して登場っていう感じで」

 おちゃらけた口調で言いながら、途中で言葉を切ってちらりと猫戸を見て、困ったように笑いつつ続けた。

「そんな話したらお前、ホラ、そういう顔するだろ?だから言うのもちょっとなぁ、って思ってたから言わなかった。ごめん」

「……謝られる事でもねーだろ」

 猫戸は申し訳無さそうな顔で視線を落とした。立川がひらひらと手を振る。

「ほら、俺ここんとこ激務で休みも出勤してたから、普通に定休が溜まっちゃって!だから今回のも有給休暇じゃなくて、普通に休み振り替えただけっていう状態だよ」

「そっか」

「あっ、もしかして、俺がいなくて寂しいのかなぁー?」

 立川の言葉に、猫戸の頬に差していた赤みがサッと引いた。

「全く」

「えっ」

「立川の言っている意味が理解できねぇな」

 フン、と鼻を鳴らして猫戸はワインを注いだ。

 そうして二人の初めての飲み会は、午前〇時二〇分に解散になった。二人が電車の終電で帰る事の出来るぎりぎりの時間だった。

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