第12話「二人 の 鼓動」

 『スーパー寺門屋』専用プログラムの進行具合には切羽詰まったものがあった。社長からは改めて辞令が発令され、チームリーダーに楠原、メンバーには、元々チームだった金森、追加で立川が加わって再度構築し直し始める。元々の計画が無謀だったというよりも、クライアントからの要望がどんどん追加されたというのが現状だった。追加される要望と、膨れ上がる作業量。要望が増えた時点で納期が遅れる事は伝えたが、クライアントとしては「全ての店舗に研修をしなくてはならず、同時に導入をしたいから日にちはできるだけ変えないで欲しい」とのことだった。一方で、納品してからのアップグレードは手間と人、そして時間がかかる。選択としては現状でやれる限りをやるしかない。

 猫戸と昼食に行くこともままならない状態が続いたが、立川はプライドを持って制作に携わっていた。会議室を使用して進捗状況を話し合う時などは、社長室の前を通る事になる。しかし猫戸に視線を向ける暇も無く、急ぎ足で入室しては、ほぼ駆け足でブースに戻る状態だった。帰宅できない日も出始めた。

 珍しく社長が楠原のブースの前に立った。

「楠原」

「はい」

「進行具合の報告してくれるか」

「はい」

「今じゃなくてもいい、後でもかまわんから」

 楠原はタブレットを持つと立ち上がった。

「――いえ、今報告させてください。俺の作業もキリ良く終わったので」

「そうか」

 二人が社長室へ入っていく。

 立川の意識は、楠原がガタガタとブースから出て行く音を聞いて途切れた。深い瞬きと呼吸をして、大きく手を伸ばして伸びをする。集中すべき時にはするが、疲れた頭では効率が悪い。立川は首をゴキゴキと曲げながら、煎茶の粉とマグカップを持って楠原のブースに立ち寄った。資料と本に埋もれたそのブース内で、すっかり空になっている楠原の愛用マグカップを手に取ると、一歩踏み出すだけでミシミシと音を立てる足を強引に前後させながら、会社から出て給湯室に向かう。

 給湯室に着いた立川は、マグカップと煎茶をシンクに置いてトイレへ向かった。手洗い場で手に水を勢いよくかけると、頭と目の前の靄が晴れるようだった。続いて豪快に顔を洗うと、着ていた水色のシャツに飛沫が飛んで、胸元だけ色が濃く変わった。鼻先と顎から大きな滴がぼたぼたと落ちる。改めて大きく息を吐き、尻ポケットからくたくたのハンカチを取り出して顔を拭いた。

『あ、やばい髭剃ってなかった』

 鏡の中から冷静な自分がこっちを見ている。昨日から帰宅せずに、泊まり込みでプログラミングを続けていた。その弊害は、自分の状態に無頓着になるという部分で如実に現れている。

『髭剃り持ってきてなかったな』

 右手でジョリジョリとした顎先と頬周りを触り、立川は『覚えてたら後でコンビニに買いに行こう』と思いながらトイレを出た。

 そうして、サンダルをずるずるとひきずるように廊下を歩いて初めて、給湯室を猫戸が覗いている姿を見止めた。猫戸は首を突っ込むように給湯室を覗いてきょろきょろしたあと体を戻し、廊下に立ち尽くしていた。俯いているその視界に立川は入っていない。五メートルほど離れた所から、立川が猫戸を見つめた。

 猫戸はスーツから、長袖のワイシャツに衣替えをしていた。腕まくりをして前腕が現れているものの、首元までしっかりと閉められたシャツは、堅牢な猫戸の印象を損なっていない。髪型も襟足を短く刈り揃え、全体的に短くしてあった。すぐに赤くなる耳も、少しも隠れずに晒されている。

 白いシャツから、負けない程白い首筋がすらりと伸びている。柔らかな髪は遠慮がちに猫戸の表情を隠そうとしていた。俯いた物憂げな顔を見て、立川は猫戸の美しさの中に、まるでコンクリートの上に凛と立つ花のような儚さを感じた。

「猫戸」

 立川の声は今までにないほど掠れていた。言った自分で、自分の声が信じられず咳払いをする。猫戸は名前を呼ばれてすぐに顔を上げ、立川の姿を確認すると一瞬足を動かした。同時に何か言いたげに唇が開いたが、何も言わずに閉じると、立川をただ見詰めた。

 のろのろと猫戸に近づいた立川が、ハハと笑う。

「ちゃんと会うの、久しぶりだな」

 猫戸は立川をただただ見ている。立川は小さく溜め息を吐くと、猫戸の前を通り過ぎて給湯室に入り、シンクの前に立った。そして自分と楠原のマグカップを適当に水で濯いでいる。猫戸が給湯室にそっと入ってきたのを横目で見て、立川は口を開いた。

「ごめんな、連絡とかも全然しなくて」

「――いや、仕方ないだろ」

 びしゃびしゃと水がシンクに飛び散ったのも気にせず、立川は適当にマグカップを振って水を切ると台へ置いて、ハンカチで手を拭く。

 くたくたのハンカチを尻ポケットにねじ込む立川に向かって、猫戸が切り出した。

「体調は大丈夫か?」

 珍しく立川の体調を心配している。

「大丈夫だよ」

 優しく答えて、立川はマグカップに煎茶の粉を振り入れながら猫戸を見た。そうしてやっと、髪を切って腕を捲った猫戸を間近に確認する。猫戸は前髪も切っており、切れ長ながら大きな瞳が際立っていた。以前のような冷たい雰囲気よりも爽やかさが強調されている。相変わらずの美しい造形に、立川はドクンと心臓が鳴ったのを聞いた。そして、無意識に手が伸びた。

「……髪切ったんだな」

 猫戸の前髪におもむろに触れると、猫戸は小さく身体を震わせた。立川が我に返る。手を退かそうと思ったが、指先が猫戸の頬にわずかに触れた。その瞬間、猫戸は瞳を閉じて細く息を吸った。長い睫毛が影を落とし、立川の指先を暗くした。猫戸の胸は空気を取り入れるとやや前に膨らんだ。立川の頬に汗が流れ落ちる。

 猫戸が息を吐きながら、そっと瞳を開いて立川を見た。その目線は慈愛に満ちた優しいものだった。

「切ったよ」

「――いつ?」

「だいたい一週間ちょい前だな」

「そうか」

 穏やかで甘い時間を五感で感じつつも、立川にとっては一週間以上も猫戸の変化に気づかなかった事実は受け入れ難い事だった。

「似合うな」

 言いながら、猫戸の頬を右掌で包み込む。冷たい陶器のような猫戸の肌は、すぐに立川の手の温度と同化した。猫戸は笑みを浮かべて瞳を閉じると、顔をやや傾けて重みをそこへ預けた。立川の掌全体が、猫戸の肌と髪を一身に受けている。思いも寄らなかった猫戸の素直な反応に、立川の背筋がゾクリと疼いた。

 立川は、すぐにでも一方的に、強引に、猫戸を抱きすくめてその赤い唇を思い切り吸って舌を捩じ込みたいという欲望に駆られた。もちろん会社の共用部である給湯室で、そんな危険は犯せない。立川の理性はまだまともに稼働していたため、その欲望は表層に現れることは無く、ただ消えない熱となって立川の芯を燃やし始めた。

 猫戸は目尻を赤く染めながら、立川をちらりと見てそっと右手を差し出した。指先で立川の顎に触れる。二人の腕は交差し、互いの顔へ伸ばされていた。

「髭、剃ってないのか」

 猫戸が小さく呟きながら、立川の顎に生えた無精髭を指先でなぞる。立川の下半身の質量が突如増した。心臓は激しく打ち、血流はあからさまな程に股間に流れ込んでいる。突然活発になった生命活動に、立川の脳が付いていかない。物理的に血液を失っていく頭は、今にも貧血を起こしかねなかった。

 猫戸の細い指先はゆるゆると顎に触れた後、そのまま撫で上げるように頬へ上がった。立川は、猫戸の頬を包んでいた自分の掌をそっと外した。

「あ……ごめん、猫戸」

 そうして、猫戸から離した右手を自分の額に当て、顔を赤くさせながらバツが悪そうに言う。

「俺、汚いからあんま触んない方がいいよ」

「どうして?」

「泊まり込みで風呂入ってないし、多分クセーし」

 言われた猫戸は一瞬動きを止めて瞬きをしただけで、小さく「構わねぇ」と囁くと、引き続き立川の頬に触れている。そうして、スンと鼻を鳴らして「ちょっと、汗の匂いはするけど」と言った。

 立川が、自身の頬に触れていた猫戸の手首を、左手でそっと掴んでやんわりと引き剥がす。猫戸が驚いた様子で立川の瞳を覗き込んだ。立川は、猫戸の視線から逃れるように、自分の両目を右手で覆った。そして「俺、疲れてて……すぐ、っちゃうみたいで」と呟いた。猫戸は、瞬きをすると手をそっと引き込めた。

「ごめん」

 猫戸が謝る。立川がマグカップに向き直り持ち上げると、ウォーターサーバーから冷たい水を注いだ。煎茶の粉は水の中でぐるりと回ると、その存在を中へ溶かして消えていく。

「デートの話、進められなくてごめんな」

「うん」

 猫戸は、立川の謝罪を否定も肯定もしない。その時、給湯室に人影が入ってきた。

「あら、お疲れ様」

 文恵が、盆にグラスとコースターを載せて持ち、立っている。猫戸は打って変わった明瞭な声で「お疲れ様です」と言うなり素早く身を引いて、廊下に足音を響かせながら去っていった。立川も同様に、楠原と自分のマグカップと煎茶を持って一礼した。給湯室から出ようとした立川へ、すれ違いざまに文恵が声を掛ける。

「立川くん」

「はい」

 立川は立ち止まって文恵を見た。

「大型案件に加わってるらしいわね」

「ええ、まぁ……」

「忙しいとは思うけどねぇ……佐夜子が連絡が無いって言ってたわよ」

「あー、はい。特に用事も無いですし、今は時間も無いので」

 真顔で答えた立川を、文恵が驚いた様子で見ている。そしてシンクの中にグラスを置きながら、怪訝な表情で言った。

「連絡くらいしなさいよ、男なんだから」

「はあ、気をつけます」

 立川はヘラッとした笑顔で答えると、ペコリと頭を下げて、前屈みの体制で給湯室を後にした。

 システムエンジニア部への戻りぎわに立川がちらりと覗いた会議室では、まだ楠原と社長が話をしていた。楠原のブースにマグカップを置いて、自席へ戻る。すぐさま着席すると、あからさまな程どんよりとした空気を纏って突っ伏した。

『やべぇ……スゴいセックスしたい……』

『あ、違う違う、スゴいセックスっていうのは内容がとかじゃなくて、ただ単に、もの凄くエッチしたいっていう気持ちだから』

 自分自身にどうでもいい言い訳をしながら、未だに膨張している股間を意識する。

『猫戸め、なんてことしてくれてんだよ……全然集中できない……』

 むくりと起きあがって、煎れてきた煎茶を口にする。冷やりとした温度が、体の中へ落ちていった。そのまま突き抜けて股間の熱も冷ましてくれないかなぁとぼんやりと考える。

『猫戸に、お前のせいでこうなった、責任取れって言ったら、エロマンガみたいにヤらしてくれるかな』

 頭の中には、濃厚な青年漫画に出てくるキャラクターのような、ベタ塗りとツヤが過剰に盛られた猫戸が思い浮かぶ。そこに迫るのは、下品な笑いを漏らしながら野獣のような瞳で猫戸を追いつめ、そのワイシャツを剥ぐ自分自身だ。豪快に涎を垂らした顔の横には「ゲヘヘヘヘ」というベタな笑いが書き加えられる。単純に沸き立った下らない考えに、一人で笑いそうになりながら、立川は鼻息を大きく吐いて気合いを入れ直した。



 一週間が経つと、スーパー寺門屋の営業システム制作は多少軌道に乗ってきた。しかし元々あった他の商店のシステムを利用しようにもできない部分が多々あり、複数店舗を繋ぐ必要が加わるだけでも、技術部との打ち合わせが必要になってくる。時間はいくらあっても足りなかった。

 楠原とペアで担当していた金森は、立川のブースの横に巣を構えている。始めはベテラン風を吹かせていたが、今回の案件が手に負えないのが分かるなりアッサリとそれを認めて立川の助けを求めた。

「立川さん、稼働チェックよろしく」

 ハードディスクを立川の巣に持ってくると、デスクの上に置いた。小柄な女性の金森はちょこまかと精力的に動き回るタイプだ。ちりちりに掛けたパーマヘアを、頭のほぼてっぺんで一つに括っている。歩き回ればブースの衝立から独特なヘアスタイルが見え隠れする。その姿はまるで兎のようだった。年齢は立川よりも下だったが、社歴と経験は金森の方が圧倒的に先輩である。

 立川は親指を立てて答えた。

「やっときます。五時までにはバックします、無理なら途中で報告します」

「よろしく~」

 立川の返事も聞かずに去っていく金森の応答は、すでに隣のブースから聞こえてきた。その時、楠原が立川のブースを横切っていった。

「金森ちゃん、メシどう?」

「あー、もうちょっとやっときたいんですよねぇ」

 金森の声色は明らかに迷惑そうだ。ゴトゴトと楠原の足音が戻ってくると、案の定立川のブースを覗き込んだ。

「たーちかわっ」

「無理っす」

「まだ俺何も言ってないだろ」

「いや、聞こえてましたもん」

 半笑いで答えながら、立川は先程置かれたハードディスクを指差す。

「これ、チェックスタートしてから出ます」

「じゃあ仕方ないなー、俺だけ先に行ってくるよ」

 楠原が言って笑い、手を振った。立川が「はい、いってらっしゃい」と答えた。最奥のブースから「楠原さん、俺も行きますよぉー」と藤岡の声がすると、楠原はすぐに嬉しそうな顔になり藤岡のブースへ向かった。


 立川は、作業が一段落したタイミングで休憩に向かった。ちらりと社長室の中を覗くと、猫戸が集中した様子で地図を広げて何かを書き込んでいた。窓側の社長席には、電話中の社長がいる。

 猫戸は分厚い地図を肘で押さえながら、何かのデータを見ては書き加えるという作業をしている。ペンを持ったままの右手で、額を支えるようにして考え、時折唇を噛んでいる様子だった。

 立川はその姿を確認すると、満足そうに微笑んで会社から出た。真面目に、一所懸命に職務に励む猫戸の姿は、今まで幾度も立川に元気とやる気を与えてきている。

 立川はコンビニで弁当を見ながらスマートフォンを出して、猫戸に向けてメッセージを打ち込んだ。

『今やっと休憩に出たぞー!……送信、と』

 昨日と被らない麻婆丼とウーロン茶を選んで、レジの列に並びながら『猫戸が頑張ってる姿を見たよ。お前いつでも全力ですごいよなー尊敬する』と打ち込んだ。送信を押した時に、丁度コンビニの店員に呼ばれ会計をすます。立川はコンビニの袋を指先に引っかけるとだらだらと歩き、近くのコーヒーチェーンへ入った。先客が会計をする姿をぼんやりと見て、進む。笑顔の可愛い女性店員が、元気に挨拶をしてくる。

「こんにちは!」

「こんちわ、持ち帰りで、本日のコーヒーのトールをください」

「アイスとホットがございます」

「あ、アイスで」

 店員の笑顔に釣られて、立川がだらしない笑顔を返したその時だった。「同じものもう一つください」という声とともに、細くしなやかな手が横から割り込んできて、千円札をマネートレイの上に置いた。たちこめるコーヒーの目の覚めるような香ばしい薫りの中に、爽やかな石鹸の香りが一瞬ふわりと香った。横に割り入ってきた姿を立川が見る。

「お、お前……」

「おつかれ、立川」

 猫戸が口元に笑みを浮かべてちらりと立川を見ると、すぐに店員に微笑みかけた。店員は一瞬で赤面すると、アイスコーヒー用のカップを手にとって『本日のコーヒー』を注ぎ始めた。

「どしたんだよ、猫戸、作業中だったろ?」

 やや焦った様子で立川が言う。猫戸はフンと鼻を鳴らした。

「お前がメッセージを送ってきやがるから、集中が切れたんだよ」

 そう言う肩が、やや荒くなった吐息を整えるように盛んに上下している。キメの細かい肌に、薄く汗が浮いている。立川がそれに気づくと、顔を赤らめて店員の作業に目をやった。店員はてきぱきとした動きでアイスコーヒーのトールを二つ用意すると、それぞれを立川と猫戸に手渡して会計をした。

「ありがとうございました」

 店員の元気な声に見送られ、二人は店を出る。

「いいのか?店で飲んでいかなくて」

 立川が聞くと、猫戸はきょとんとした顔で立川を振り返った。

「え、だって立川昼メシまだなんだろ?美味いコーヒーは食後に飲みたいんじゃねぇ?」

「あー、うん」

 立川は頭をボリボリと掻くと、返事をして歩みを進める。その歩みをどこへ向けたらよいのか、内心は戸惑っていた。猫戸の気持ちが解らない。何を考えているのか、読み取る事ができない。それは猫戸の動きが、立川の想像している範疇はんちゅううに超えている事を現している。立川からのメッセージを受け取り、仕事を中断してでも駆けてきたであろう事もすでに、立川にとっては理解できない猫戸の変化だった。

「なぁ、立川」

「ん?」

「公園、行かね?」

 猫戸から発せられた言葉に、立川が思わず足を止めた。背後から歩いてきていたらしきサラリーマンが小さく「うわっ」と声を出し「あぶねーな」と舌打ちをして追い越していった。立川の頬に汗が流れた。

「……ごめん、よく……聞こえなかった」

 立川が声を絞り出すと、猫戸はいかにも呆れた様子で「だから、公園行かねぇかって言ってんの」とあっさりと答えた。

「猫戸……」

 ――いいのか?大丈夫なのか?――思わず言いそうになり、立川は唇を強く閉じた。そしてゆっくり唇を開いて、笑った。

「うん、行こう」

「最近お前ずっとパソコンにばっかり向かってるからな」

「――そうだな、こんな明るい時間に外で食事取れるなんて久々だよ」

 近くの公園に到着すると、陽射しが避けられる木の下に設置されたベンチへ向かった。公園に植えられた木に留まった蝉は、この夏を謳歌すべく、神経に刺さるような声で鳴いている。立川はベンチに乗っていた葉っぱを手で払うと、ドサリと腰を下ろした。猫戸は胸ポケットからハンカチを出そうとしている。

「待て、待て猫戸」

 言うなり、立川は麻婆丼と飲み物をコンビニの袋から出して、空になった袋を隣に敷いた。

「どうぞ、お嬢さん」

 胸に手をやりうやうやしく頭を下げる、その立川の後頭部を猫戸が叩いた。

「いてぇ!」

「うっせぇ、お嬢さんじゃねぇ」

 言いながら袋の上に腰を下ろす。

「女扱いすんなボケが」

 猫戸はそう言って、抗菌ジェルを取り出すと手に擦り込んだ。すぐに「ん」と言って立川にも差し出す。

「あ、ありがとう」

 立川は素直にジェルを手に出されると、それを猫戸と同じように擦った後、膝に麻婆丼を乗せて開けつつ猫戸を見た。猫戸は口元に笑みを浮かべて、アイスコーヒーのストローを咥えている。野外で二人きりになり、何かを口にするのは初めての事だ。猫戸の横顔に見とれながら立川が呟いた。

「なんつーか、あれだな」

「ん?」

「こんなに落ち着いて、お前の横顔見たの初めてだ」

 猫戸の顔がみるみるうちに赤くなった。一瞬立川に目をやり何かを言おうとしていたが、すぐに正面へ向き直った。言う言葉も纏まらないのかストローを歯で噛んでいる。風が吹くと木々が騒めいて、猫戸に落ちるまだらな影が揺れた。唇の隙間から覗く白い歯がきらりと光る。立川が眉を寄せ、切なそうな表情を浮かべた。

「お前から、こうやって公園に来ようって言ってくれるなんて、本当に嬉しいよ」

 立川の言葉を聞いて、猫戸はやや俯き、ストローを口から離した。

「俺は、お前に……出かけようって言ってもらって……」

 一瞬言葉を切って、溜息と共に笑みを漏らした。

「嬉しかったから」

 立川の動きが完全に静止する。緊張した様子で先ほどの言葉を言い切った猫戸は、隣に座る立川が動かない事に気付くと、伺うように瞳だけを立川へ向けた。立川は、今にも燃えそうな程赤い顔をしている。突然の変化に驚いた猫戸は、慌てて立ち上がった。

「だっ……大丈夫か、立川!」

「だ、め、かも……しれない」

 眉間に皺を寄せた立川が、肩を上下させて息をしている。猫戸は先ほど座っていたビニール袋の上に、飲みかけのアイスコーヒーを置いた。立川の顔を覗き込む。

「熱射病!?暑いか!?」

「あつい」

「おい……立てるか?」

 猫戸は公園を見回し「そこの水道のとこで……」と言い掛けて背を向けた。その右手を立川が掴む。猫戸が振り返ると、立川は変わらず赤く、切ない顔で猫戸を見詰めていた。

「掴まってもいいから、立ち上がれるか?」

 立川が首を振り、掴んだ手を離して視線を落とす。猫戸はベンチに座ったままの立川の前にしゃがみ込むと、心配そうに見上げながら声を出した。

「立川……?」

「ん」

「頭とか冷やした方がいいんじゃねぇの?」

 立川はゆっくりと頷きつつ、目の前に座る猫戸の左手を、右手で握った。熱い掌は猫戸の手をすっかりと覆いつくしている。猫戸はそれを振り払う事も無く、不安気な瞳をじっと立川に注いでいた。

 立川が顔を上げ、その瞳を見返しながら、小さく口を開いた。

「なぁ、猫戸」

「うん」

 立川は相変わらず真っ赤な顔をしていたが、その瞳は真剣で射抜くようなものに変わっており、一度も猫戸から外れない。そのまま、ゆっくりと言った。

「お前、俺のこと、どれだけ好きなんだよ」

「――は?」

 呆気に取られたように猫戸の唇から声が漏れ出る。立川がさらに追い打ちをかける。

「お前、俺のこと、凄い、好きだろ」

「何、言って……」

「言えよ、好きだろ、俺のこと」

「立か……」

「言えよ」

 猫戸は反射的に立川の手を振り払って立ち上がった。不安気だった瞳は、一気に羞恥と怒りを孕んで吊り上がる。

「何言ってんだテメェ」

「どうして否定するんだよ」

「否定とか……」

 言って猫戸は唇を噛むと、ベンチに置いていたアイスコーヒーを手に持ち、ドカリと座った。

「つーかお前熱射病じゃねぇのかよ!」

 指を差すように、ストローを立川に向けて上下に振るが、立川は少しも表情を変えずに猫戸を見ている。

「話、変えんな」

 立川の声色が、責めるようなものである事に気付くと猫戸はぐっと言葉を呑んだ。ストローを口に含むと、アイスコーヒーを吸い上げている。

「俺、それ以上お前がそんな話するなら帰るからな」

 猫戸が拗ねた口調で小さく言うと、立川は「じゃあ言うのやめる」とあっさり引き下がった。

 二人が言い合うのを止めた公園は、駆けまわる子供の声や大人の会話、蝉の声と、際限無く循環する噴水の音で騒々しい。静寂でないぶん、二人にとってはまだ居心地の良いものだった。

 立川が溜息を吐くと、膝に置いていた麻婆丼の蓋を開けてバクバクと食べ始める。今頃になって自分の時間の無さに気づき、やや慌てている様子だ。それを横目で見ながら猫戸が言った。

「出かける話だけど、日にちと場所、適当に決めといて」

「はぇ?」

「どこでもいいって訳じゃないけど、適当に」

 立川は麻婆丼を咀嚼して飲み下すと、視線をぐるりと上に向けて考えるような仕草をした。

「でもさぁ、猫戸は行きたくない所とかあるんだろ?」

「まぁ、たぶん」

「どこだよ」

「知らねぇよ……――あ、海岸とかは無理だ」

「それはもう聞いてるよ、他にどこ?」

 言われて猫戸はアイスコーヒーを啜ってから「イチゴ摘みとか」と言った。思わず立川が吹き出した。

「心配すんな、イチゴ狩りはもうシーズンじゃないよ」

「あ、そうなのか」

「猫戸の口から『イチゴ摘み』って聞くと笑えるな」

「なんだよ、そんなに可笑しいかよ、うっせーな」

 猫戸は恥ずかしそうに俯いた。立川が笑う。

「じゃ、繊細な猫戸くんの為に、俺がいい所探しておくから」

「頼む」

「泊まりでいいよね?」

 調子に乗った立川の言葉に、猫戸はじっとりとした瞳で答えた。慌てた立川はわざと豪快に笑い声を出した。

「本気にすんなよなー、もー」

「してねぇよ、ただクソレベルのバカがここにいるなと思っただけだ」

 猫戸の言葉に立川の笑い声の語尾は力なく消えていった。


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