第7話 花見―2―
立川はリンゴジュースの瓶をクーラーボックスから拾い上げると、佐夜子に近づいた。
「佐夜子さん、お代わりいかがですか!」
腹から出される響きわたるような立川の声に、梨花が咄嗟に立ち上がると、仁王立ちをして佐夜子の背後を守った。
「だめ!ヒデくん寝てるから!」
「え?」
「ゴリラは来ちゃだめ」
突然の梨花の言葉に、細い佐夜子の肩がふるふると震えた。笑いを必死で堪えている様子だ。立川の背後にいた猫戸は、露骨な笑いを漏らした。言われた立川は名誉毀損だと眉を寄せる。
「梨花ちゃん、俺のことゴリラだと思ってんの?」
「ゴリラは喋らないんだよ!」
「喋るゴリラだっていていいだろ!」
あまりにも酷い、低レベルなやりとりに佐夜子が耐えきれずに笑い声を出した。
「梨花ちゃん、お兄さんのどこが……ゴリラ……ふふふふ」
「あっ、佐夜子さんも酷いなぁ!」
「全部ゴリラじゃん!」
梨花の容赦ない追撃は続く。猫戸が微笑んだ。
「梨花ちゃんの観察眼は流石だね」
「ふざけんな、ダメなもんはダメだってちゃんと教えてやんなきゃ、甘やかしてばっかりだとロクなオトナにならねーぞ」
「立川みたいな、ロクな大人じゃない代表みたいなやつに言われても響かないだろ」
佐夜子のやや右後ろに猫戸が正座する。梨花は嬉しそうに猫戸の首元に抱き付いた。憤懣やるかたない様子のゴリラがその横に座り、猫戸にリンゴジュースの瓶を渡す。
梨花に向かって立川が「ゴリラじゃなくて立川っていう名前なの!覚えてよ」と言ったが、梨花は何も言わずにゴリラを一瞥すると、大好きなネコトくん越しに佐夜子に笑い掛けた。
「ネコトくんが佐夜子ちゃんにそれあげるの?」
純粋な梨花の問いに、一瞬猫戸の手が止まった。『俺が、佐夜子さんにあげる?』姿勢も顔の位置も変えぬまま目線を文恵と俊明に向けると、二人はそんな猫戸の視線に気づかずに猫戸の様子を凝視していた。
『――気にするな、気にするな』
猫戸は自身に言い聞かせると、いつもの笑顔を取り戻して佐夜子へリンゴジュースの瓶を差し出した。あくまでも見られているのを意識して、徹底的に自然を装う。
「佐夜子さん、いかがですか?」
佐夜子がその時やっと猫戸の方を見た。『地味なのに化粧の主張がやたら強い文恵』の妹と思えない程、透明感のある女性だった。頬の上にほわりと赤みが差して、優しく細めた瞳に濃い睫毛が瞬いた。唇は小さな花が咲いたかのように、白い肌の上に存在している。佐夜子はやや気恥ずかしそうに微笑んだ。
その佐夜子の様子を見て、猫戸は自分の認識の甘さに気づいた。一族ぐるみで自分を固めにきたのであれば、その主役である佐夜子本人が話を知らないはずはない。
「まだ、飲みかけなんですけど、それでも良ければお願いします」
そっとカップを差し出した佐夜子の胸と腹にぴったりと沿うように、乳児用のスリングに包まれた赤ちゃんが寝ていた。ジュースを注ごうとしてそれに気づき、猫戸が姿勢を正した。ジュースを零したり、落としたりしてはいけない。赤ちゃんを起こしてはいけない、傷つけるような失敗は
「赤ちゃん、珍しいですか?」
佐夜子が突然言った。驚き、猫戸は間近で顔を上げる。
「えっ、あ、赤ちゃんですか?」
「そう。真剣に見ていらっしゃるから」
「あ、あはは、いや、そうですね……私の周りにもあまりいなくて……申し訳ありません」
「赤ちゃんって、あんまり、そこら中にいるわけでもないですもんね」
そう言って佐夜子は赤ちゃんを覗き込んだ。すっぽりと包まれたままずっと寝ている。
猫戸は同じように覗き込む振りをしながら、先ほどと同じように姿勢を変えず目線を文恵と俊彦へやった。案の定、猫戸と佐夜子を観賞しながら、まるで重要案件を締結させたかのような、なりふり構わぬ様子で嬉しそうに酒を煽っている。あの娘婿の俊明は、こういう部分では嫁と一致団結ができるのか、と猫戸は思った。
「猫戸さん?」
言われて、猫戸は我に返って微笑むと、そっと佐夜子のコップにリンゴジュースを追加した。
その時、立川が猫戸の反対側から佐夜子の横に現れ、赤ちゃんを覗き込むと
「ヒデくんに近づいちゃだめ!」
飛び出した梨花の足が佐夜子の手に当たった。カップは一瞬の衝撃に耐えられず、佐夜子の手の中で踊る。そうして満ちていたリンゴジュースはカップから飛び出すと、佐夜子の白いサブリナパンツの膝から太腿にかけて染み込んだ。
「――あ」
小さく梨花が言った。立川に向かって行った時には歯を見せて笑っていた表情が、一瞬にして真顔になる。
「佐夜子さん――赤ちゃんも大丈夫?」
立川が聞くと、佐夜子は苦笑いを浮かべて、小さく頷いた。
「はい、大丈夫です、ケガするものでもないですし」
返答を聞き終わらないうちに、立川が尻ポケットに入れていたクタクタのタオルハンカチを取り出して佐夜子の膝に当てる。一瞬、猫戸はそれを見て心臓の辺りに淀んだものが過ったのを感じた。立川はさらに近くにあったタオルも引き寄せて佐夜子の腿に被せた。猫戸は一瞬眉を動かしたのみで、それ以外は何も動くことができなかった。
佐夜子のフォローをしながら、立川は真剣な表情で梨花を見た。二人の視線が交差する。
「梨花ちゃん、謝ろう」
言われた梨花は驚いた様子で立川を見詰め返す。
「佐夜子さんは、手に梨花ちゃんの足が当たったからジュースを零しちゃったんだよ」
梨花はみるみるうちに顔を赤くさせ、無言で後ずさると、正座を続ける猫戸の首に抱き付いて、背後に隠れた。立川はそれでも梨花から目を離さなかった。
「私は大丈夫です、立川さん」
佐夜子がまるで梨花を庇うように言った。続いて、まさかの位置からも声が掛かった。
「おい、立川、ただの事故だろ、佐夜子も大丈夫って言ってるんだから……」
立川は、社長が喋り終わらないうちに振り返ると、その顔をじっと見た。
「康男さん、大丈夫かどうかは今の問題じゃありません。梨花ちゃんに悪意が無いのは分かっています。だからこそ、一言だけ佐夜子さんに謝ればそれで終わります。事故が起こらないようにするには、どうしたら良かったのか自分でも考えるでしょう」
「でも梨花は嫌がってるぞ」
「嫌がったら謝らなくても済むんですか?こういう成長のチャンスすら奪うのは、子供の機嫌に振り回されたくない大人のエゴでしかない」
猫戸は呆然と立川の背中を見詰めていた。実際は、猫戸だけではなく全員が呆然と立川を見ていた。立川の正論が「子供の機嫌に振り回されたくない大人」達に突き刺さる。社長はバツが悪そうに口ごもると、猫戸の背後にいる梨花に何かを言おうとして顔を上げ、また口を閉ざした。
「――梨花ちゃん」
猫戸が、背後の梨花に小さく声を掛けた。右腕を曲げ、肩越しに手をやると、梨花の髪の毛が指先に触れた。それを優しく撫でながら言う。
「謝ろう?」
猫戸の背後で、梨花が身じろぎをした。本人の意思が頑なな以上、大人は見守る以外無い。
「佐夜子さん、それちゃんと拭いた方がいいかもしれませんね」
立川が言って、佐夜子の太腿に当てていたタオルを外し、自分のタオルハンカチは畳んでまた尻ポケットにしまった。白いパンツには、リンゴジュースの淡い黄色が広がっている。佐夜子は苦笑いを浮かべた。立川が立ち上がると、佐夜子に手を差し伸べた。
「お手洗いに行っときませんか、そこでちょっと叩けばシミにならなさそうだし」
佐夜子は「そうですね、じゃあ行ってきます」と立川の手を取り、立ち上がった。重そうに赤ちゃんを抱える細い腕を、立川が支える。
その光景を全員が唖然とした表情で見ていた。予想外の立川の強い意思とフォロー力、そして気遣いに驚きを隠せない。いつもフラフラと不真面目な様子で職務に当たっていたという認識は間違っていたのだろうか、それとも相手が女性だからだろうか、と誰もが訝しがっている。猫戸は握られた二人の手をじっと見つめていた。
立川と佐夜子は並んで歩きだした。桜は来た時同様にずっしりと垂れさがり、薄い桃色を幾重にも重ねて、空へ近づくほど色が濃く見えた。佐夜子が微笑んで立川を見上げる。二人の視線がぶつかった。
「立川さん、今日のお花見すごくいいタイミングでしたよね」
「そうですね、天気もいいし風もあんまり無いし、すっげぇ春らしくて気持ちいいですね」
「私、この子もいるし、来るの悩んでたんですけど、来て良かったです」
「えっ?そうなんですか?俺もです、俺も誘われては無かったんですけど、猫戸に付いて無理矢理来ちゃいました。来て良かったー!」
ヘヘヘと笑う立川を見ながら、口に手を当てて釣られて笑っている。立川は、佐夜子の胸の中で眠る赤ちゃんに目をやった。
「赤ちゃん、男の子なんですよね?」
「はい」
「名前はなんて言うんですか?」
「
「あ、康男さんのヤス、ですか?」
「そうです」
父親の名前が出た事に気恥ずかしさがあったのか、佐夜子は頬を赤らめて笑った。
公衆トイレは比較的近くにあったため、佐夜子がその中に入ろうとする前に立川が声を掛けた。
「佐夜子さん、良ければ、康英くんを俺が抱っこしときましょうか?」
「――いいですか?ありがとうございます」
佐夜子は無用の遠慮をしなくなっていた。立川からの気遣いを素直に受け入れ、信頼し、感謝をしているのが立川自身にもよく分かった。佐夜子が立川に近づくと、スリングに包まれたままの康英を立川の腕の中にそっと置く。立川も、慎重に康英を抱いた。康英は相変わらず小さな鼻をフン、と鳴らして寝ている。
「ちょっと緊張しますね」
言葉通り緊張した様子の立川に「絶対落としちゃだめですよー」と微笑み返して、佐夜子は女性用トイレに入って行った。
戻ってきた二人を遠目から確認して、一同はまた声を失った。立川がスリングを掛けて、その太い腕に康英をしっかりと抱いている。靴を脱ぎ、ブルーシートに上がろうとしながら立川が照れ臭そうに言った。
「いやぁ、さっき抱かせてもらったら意外としっくりきちゃいまして」
「そうやって見るとすげぇな、お前達普通に若い夫婦にしか見えねぇぞ」
社長が上機嫌で言った言葉に対して、二人はただハハハと頬を赤らめて笑う。社長の膝を文恵がバシッと叩いた。立川は、猫戸を見る事が出来なかった。万が一見たとしても、何も言えず何が出来るわけでもない。
佐夜子は先ほどよりもやや社長寄りに座り直した。少し間を開け、隣に当然のように立川が座る。その距離は明らかに狭まっていた。ふと、立川の右横に人影が現れた。梨花だ。赤い顔に、瞳を充血させて、拳を握っている。
「……」
梨花は何も言わず、俯いて立っていた。立川はやや身を引き、梨花と佐夜子が十分に見える距離を取る。すると、梨花が消え入りそうな声で呟いた。
「――なさい」
佐夜子が不安気な様子で梨花を見返している。
「佐夜子ちゃん、ごめんなさい」
梨花は佐夜子を見詰めて、はっきりと言った。居てもたってもいられなくなり、佐夜子が梨花を手招きする。招かれるまま行くと、梨花は佐夜子に抱きしめられた。
「大丈夫だよ、立川さんと一緒にお水で洗ったら、すっかり落ちて綺麗になっちゃった!――梨花ちゃん、よく謝れたね、偉いね」
梨花の瞳からみるみるうちに大粒の涙が溢れ出る。それは佐夜子の胸元をじっとりと濡らした。対岸で一連の流れを見ていた本当の親は、自分の娘の変化に驚きつつも何も反応しなかった。梨花はしゃくり声をあげて泣き止み始めると、横にいる立川に目をやる。その眼は涙を限界まで出し尽くしたかのように、すっかり腫れて真っ赤になっていた。立川が一瞬たじろぐ。梨花の口が僅かに開いた。
「きらい」
梨花がはっきりと言い放つ。
「リンちゃん、タチカワくんきらい」
言われた立川は、衝撃を受け、感動すら覚えていた。「きらい」と言われた内容はともかく、ゴリラ呼ばわりしかしてこなかった少女は自分の名前を憶えている!立川が梨花の頭をぐしゃりと撫でた。
「俺は梨花ちゃんのこと好きだよ」
梨花が突然顔を真っ赤に染めて、また佐夜子の胸の中に顔を埋めた。佐夜子は自分の目尻に溜まった涙を人差し指で拭うと、梨花の頭を撫でた。
「おう、猫戸、そのへんのエビとホタテ取ってくれねぇか」
ややしんみりとした空気を打破するかのように社長が言った。猫戸は無表情で「はい」と返事をすると、皿を持ち、長い菜箸を使用してお重の中からご指定の品をピックアップした。指定されなかった野菜の煮物も載せて社長の元へ届けると「お前もいっぱい食えよ」と背中を叩かれる。猫戸は返事もせず、また元の位置に戻って正座をした。
「ほら、猫戸くんビールはどう?」
右隣に座っていた俊明が、気を利かせて缶ビールを差し出したが、猫戸の手元にはカップが無かった。――社長へ酌をしに行った際に、立川に奪われたままどこかへ行ってしまったようだ。探す気力も、新しく準備する気力も何もかもが失せて、猫戸は首を振った。
「ありがとうございます。すみません、ちょっと酔いが回ってきてしまったようで……一旦休憩しておきます」
「嘘よ、全然飲んでないじゃない。むしろ飲んだ方がいいんじゃないの?それで勢い付けていきなさいよ」
割り込んできた文恵が言った言葉を猫戸はぼんやりと反芻した。
『勢いを付けるって?何に?これ以上何を頑張ればいいんだよ』
「何やってんのよ、猫戸くん本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「“大丈夫じゃない”から言ってんのよ、あなた、相方に攻められて防戦一方じゃない。何か佐夜子に対してアピールすること無いの?」
猫戸は何も言わなかったが、最後に文恵が一人ごちるように言った言葉が強烈に胸に突き刺さった。
「――私、立川くんと身内になるの嫌だもの」
それぞれが酒を飲み、食べたいものを食べて花見は佳境を迎えていた。立川は胸に抱いていた康英を名残惜しそうに佐夜子に返し、康英がぐずるとその顔をすぐに覗きに行った。猫戸は、梨花の提案で新しいカップを用意し、飲み口を消毒したビールを注いで貰って再度飲み始めていた。立川がカップに入ったビールを一気に飲み干して、猫戸に笑い掛ける。
「お前、やっぱ全然食べれてないな」
「うん」
「よっしゃ、秘蔵のアレ出しちゃう!」
言って立川が酒屋で買ってきた缶詰を取り出す。こそこそとしたやり取りに、社長が気付いた。
「おい、なんだその缶詰」
「あっ、社長すみません、俺たち高級なもの食べ慣れてないんで、ちょっとB級グルメが懐かしくなりまして」
「俺にも食わせろ」
「いいっすよ、よければ皆さんで突いてみてくださいよ」
言いながら立川はテキパキと猫戸の食べるものを取り分けた。皆に分配するよりも先に、皆に手が付けられるよりも先に、紙皿に盛って割り箸とともに渡した。
「はい、コレ猫戸のぶんね」
「――ありがとう」
豪華なお重の横に、庶民的な缶詰が並ぶ様は異様だった。缶詰自身も、おそらく居心地の悪さにすぐに消えてなくなりたいはずだ。社長は興味津々の様子で、それらを観察しながら口に運んでいた。立川は、横で紙皿の上のB級グルメを少しづつ口に運ぶ猫戸に目をやった。
「あの伊勢海老お前食えないの、勿体無いなぁ」
「そのぶんお前が食うんだろうからいいだろ、俺の分まで楽しんでくれよ」
「食べ方わかんねーから手が出し辛い」
「確かに」
猫戸が笑って立川を見返すと、嬉しそうな表情の立川が視界に飛び込んできた。驚いて目を丸くしてから、猫戸は怪訝な表情を浮かべた。
「なんだよ、やたら嬉しそうに……」
「実際に嬉しいんだからしょうがないだろ」
「何が嬉しいんだよ」
「お前とここに来れた事にも、こうやって皆と食事できることにも、満開の桜も、全部嬉しいだろ」
猫戸は返す言葉が見つからなかった。そして初めて自分が今「嬉しい」という気持ちを一切抱いて居ない事に気づく。少なくとも、花見がスタートする時までは、満開の桜にも、駆けてくる梨花にも、そよぐ風に煽られて舞う花びらにも、心奪われて清々しい気持ちすら抱いていたのに。
「……そうだな」
小さく答えた猫戸の返事に、立川は「そうだよ」と言うと伊勢海老に手を伸ばした。
どこからともなく梨花がやってきて、立川と猫戸の間に座る。
「ネコトくん、クッキー好き?」
聞かれた猫戸は一瞬『うん、手作りじゃなければ』と答えそうになり口を噤んだ。咳払いをし、改めて微笑み返す。
「クッキー?好きだよ」
「リンちゃんね、今日朝から佐夜子ちゃんと一緒に作ったの」
猫戸の見る景色が、ドンという音を立ててモノクロになった。丁度舞台の
「ネコトくんの為に焼いたんだよ」
猫戸は声が出なかった。空いた腹を満たしているビールは胃酸と混じって、ひたすら炭酸を発泡させている。微笑みを維持する限界が間もなくやってくる。
その時、背後から伸びてきた手がクッキーを豪快に掴んだ。
「あっ」
高い梨花の声が響く。クッキーは立川の口に放り込まれると早々に咀嚼され、さらに追加で手を伸ばす。
「だめだめ!」
抗議を無視した立川は、たった一度のお代わりで梨花の手の上のカゴを空にした。呆然と梨花が立川を見ている。立川は素早い咀嚼を繰り返して、全てを腹の中に収めてしまった。
「すげぇ美味い!美味い!」
立川が笑うと、梨花は腹の底から憎々しそうに立川を睨んだ。
「なんで全部食べちゃうの!」
「えっ、ごめん、ダメだった?」
「リンちゃん、ネコトくんの為に焼いたの!」
梨花は身を乗り出し立川に向かって声を荒らげた。その表情は鬼気迫るものがある。立川の額に汗が滲んだ。
「ごめんね、本当にごめん。あまりにも美味しそうだったから……」
「リンちゃん……リンちゃん、朝起きて、頑張って作ったのに」
梨花の声が震える。立川は猫戸を見た。猫戸は眉間に皺を寄せて、今後起こりうる事態を察知している様子だ。その唇が動く。
『や』『ば』『い』
咄嗟に立川が体を伸ばして自分たちの荷物から何かを引き出すと同時に、猫戸が梨花を抱き寄せた。
「梨花ちゃん、ありがとう、今日は立川に食べられちゃったけど、今度また作ってくれるかな?」
梨花は込み上げてくる怒りと悲しみを抑えるように、小さく頷いた。いじらしい少女の想いを、流石に猫戸も無碍には出来なかった。だからこそ、言った言葉だったが――驚くべきことに猫戸自身が、自分で発したその言葉に偽りを感じていなかった。
立川は咄嗟の猫戸の返事と動きに驚きつつ、梨花の目の前にパティスリーの箱を差し出し献上する。
「梨花ちゃん、ごめんね!お詫びに、コレ、猫戸が梨花ちゃんの為に選んだやつ!」
実際に、猫戸が選んだものだ。購入時の言い草には若干問題はあったが、間違いなく猫戸が梨花を思って選んでいる。梨花は潤んだ瞳で猫戸を見た。猫戸が優し気に目を細めた。
「本当だよ、梨花ちゃんが好きかな、って思うやつを選んだよ」
梨花は恐る恐る箱を受けとり、蓋を開けた。中には、プリンの上に、クリームやチョコレート等を使って立体的な動物の装飾が施されたものが入っている。梨花の顔色はパッと明るくなった。
「うわあ、すごい!」
「梨花ちゃんは、どれが好き?」
聞いた猫戸の顔を、梨花は頬を赤らめてまじまじと見返している。
「ネコトくんは、どれがリンちゃんだと思った?」
一瞬猫戸はドキリとした。まるで大人の駆け引きのような言い方をしてくる梨花に目をやり、そんな驚きを悟られまいとウサギを指さした。
「梨花ちゃんはこれだと思ったよ」
「じゃあ、パパは?」
「俊明さんはね――フクロウかな」
「ママは?」
「文恵さんは――ライオンだと思ったよ」
「じいじは?」
「康男さんはね……そうだな、トラかな」
「佐夜子ちゃんは?」
「佐夜子さんは、今日初めて会ったから分からなかったな」
笑いつつ、猫戸は羊を指さした。
「――でも、佐夜子さんは、ヒツジかな」
「じゃあタチカワくんは?」
「立川は……」
一瞬言い淀んで、猫戸が立川を見た。口元に笑みを浮かべて自分を見ている立川の視線に気づくとすぐさまプリンに顔を戻して、そのうちの一つを指さす。
「これだな」
「やっぱりゴリラじゃん!」
「あっ、ひでェな猫戸!全部で八つ買ってんだろ、他のやつ選べよ!」
「お言葉ですが、立川さん。残りは、ネコとハムスターしかありませんので」
「ネコトくんがネコだもんねー」
二人して勝ち誇ったような顔で立川を見ている。立川は思わず吹き出して笑った。
太陽の陽射しが弱くなってきた。吹く風がやや冷たくなり、夕方が近づいてくることを予告している。ふと梨花がトイレに行きたいと言い出した。文恵に向かって言ったが、佐夜子が気づいて「一緒に行く?」と微笑んだ。梨花が頷いて立ち上がる。その時、文恵が突然切り出した。
「猫戸くん、一緒に行ってやってくれない?」
突然名前を呼ばれた猫戸は、話の流れが分からず顔を上げて文恵を見た。文恵はやや酒に酔った様子で、ワイングラスをぐるぐると回して、中のワインを揺らしていた。
「梨花も佐夜子も心配だから、一緒に行ってあげてよ」
「――
「そうよ、二人が迷子になったら大変だもの」
女性と一緒にトイレに連れ立ったところで、何もできないし助けられない。しかし、猫戸の選択に「ノー」は無い。佐夜子が慌てた様子で言った。
「お姉ちゃん、私たちだけでも大丈夫よ。さっき立川さんと一緒に行ったもの」
「だめだってば、康英くんもいるんだし、万全を期して行きなさいよ」
猫戸が黙って立ち上がると、靴を履いて待っていた梨花は飛び跳ねて喜んだ。佐夜子が申し訳無さそうに言った。
「ごめんなさい、猫戸さん」
「いえ、大丈夫ですよ」
猫戸が微笑んで佐夜子を見返す。そうして梨花が猫戸の左手を取り、右隣に佐夜子が並んで歩きだした。傍目には若い家族だろう。ただ、猫戸がスーツ姿であることと、やたらと生真面目な様子で前を見続けている事を除いては。佐夜子が切り出した。
「猫戸さん、父の秘書になられてどのくらい経つんですか?」
「三年です」
「じゃあ父の話のパターンとか、もうご存知ですよね」
くすくすと笑う佐夜子に釣られて猫戸が微笑んだ。
「そうですね、何かご指摘などをされる時には、表情の変化や間などからすぐにわかります」
「でもそんな指摘されるような人に思えないですよ、猫戸さん」
「いえ、まだまだ至らない事がありまして、ご迷惑をお掛けしています」
猫戸の返事を聞いて、佐夜子はそっと猫戸を見上げた。切れ長で大きな瞳は、じっと前方を見ている。
「猫戸さんは、立川さんといる時と印象が違いますね」
「そうですか?」
「立川さんといると、すごくイキイキしている感じがします」
「――実際は、ただ振り回されてイライラしているだけですね」
猫戸はやや不機嫌な様子でそう言い切った。そして内心、初対面の佐夜子にさえ立川はそんな印象を与えているのかと驚いた。アイツは、佐夜子が評価するほどいい奴ではない。適当だし、グータラだし、相手との距離感を考えない。
公衆トイレが近づくと、真っ先に梨花が走って行った。佐夜子が「ちょっと、康英のオムツ替えてきますね」と後を付いていく。猫戸は一人桜の木の下で立ち、二人を待った。やがて先に出てきた梨花が猫戸と手を繋ごうとしたところ、猫戸は梨花に掌を出させ、自身のスーツのポケットから抗菌ジェルを取り出すと、ジェルを押し出した。
「つめたーい」
梨花が楽しそうに声を出す。
「梨花ちゃん、ばい菌が残らないように、こうやって手を擦り合わせるんだよ」
猫戸の動作を真似して、梨花は真剣な様子で手を擦っている。そこに佐夜子が戻ってきた。
「すみません、お待たせしました――どうしたの、梨花ちゃん」
「ネコトくんに貰ったの」
梨花は嬉しそうに手を擦り合わせ続けている。猫戸が佐夜子にジェルを差し出した。
「佐夜子さん、抗菌ジェルいりますか?」
「えっ……はい、もらいます。ありがとうございます」
佐夜子が苦笑しながらその掌にジェルを受け取った。
四時間のお花見は、あっという間に終了した。株式会社ジモテックの一同が撤去した後には、夜の部に予約をしている人たちが来るという事で撤去は粛々と行われた。とはいえ、実際に撤去作業で活躍をしていたのは立川、猫戸、俊明、社長そして梨花だ。公園の駐車場に停めた車に、荷物を積み込んでいく。佐夜子は車内に康英を寝かしつけると、使った皿の汚れを拭き取る作業をしていた。文恵はまだワイングラスが離せないらしく、腕を組みながらワインを体内へ流し込んでいる。
ブルーシートまで剥がし全ての荷物を積み終えると、今まで皆が居た場所にはただの白いビニール紐が地面に打ち込まれているだけになっていた。立川がふと何かに気づき、初めて晒された地面にしゃがみ込んでいる。
「立川――挨拶して帰るぞ」
「おう」
猫戸の呼びかけに立ち上がり、二人は堤防へ上がると駐車場まで小走りで向かった。一家はまさに車に乗り込もうとしていた。駆けてきた猫戸を見て、乗りかかった梨花がまた車から飛び出してくる。車の中から驚いた表情の佐夜子が見ていた。
「梨花ちゃん、危ない危ない、ちゃんと周り見ないとだめだよ」
言いながら猫戸が梨花を抱き止める。猫戸は梨花と手を繋いで車まで行くと、助手席で満足気に笑っていた社長に頭を下げた。
「本当に、本日はありがとうございました」
「いや、お前らも来てもらって悪かったな、お陰で楽しかったわ」
社長は心からそれを言っているようだった。立川もペコリと頭を下げる。車へまた乗り込もうとした梨花に、立川が声を掛けた。
「梨花ちゃん」
振り返った梨花の目の前に、大きな四つ葉のクローバーがあった。立川が白い歯を見せて笑っている。
「はい、あげる」
「わークローバーだ!四つ葉のクローバー!」
梨花が受け取り、車に乗り込んでいく。後部座席の一番後ろで、佐夜子は目を細めてそれを見ていた。
「――佐夜子さん」
「はい」
「これ、佐夜子さんにも」
立川が梨花よりも少し小さい四つ葉のクローバーを差し出すと、佐夜子は驚いたように目を見開いて、すぐに頬を染めた。
「可愛い……ありがとうございます」
「タチカワくん、ありがとー」
便乗した梨花も素直に言った。そうして立川は反対側へぐるりと回ると、そこに居た文恵にも差し出した。
「はい、文恵さんにも」
「何よ、私別に喜ばないわよ」
「かまいませんよ、俺の満足の為に配って回ってるだけなんで」
文恵は片方の眉を上げると、さらに小ぶりな四つ葉のクローバーを受け取った。
そうして、一家は代行サービスの運転する車で花見会場から去って行った。
「人たらし」
「え?」
駐車場から出て、信号を右折して見えなくなった車の後を追うように視線を向けたまま、猫戸が言った。立川は聞き返しつつその顔を見る。猫戸に表情は無かった。
「なんだよ、猫戸」
「立川は天性の人たらしだよな」
「知らねぇわ、たらそうと思ってたらしてない」
視線を堤防沿いの遊歩道に向け、そこへ向かって歩き始める。遊歩道からは、昼同様に周囲の景色がよく見えた。先ほどまで居た花見会場に点灯しはじめた提灯の明かりが確認できたが、それは密集する桜の僅かな隙間を縫って漏れ出ている程度にしか見えない。おそらく会場は夜の表情を見せ始めている事だろう。遊歩道はぽつぽつとした電灯しか無いため、歩く人は喧噪を求めて下まで下り、花見会場を通っている様子だった。遊歩道を歩く人影はまばらになってきている。
立川が立ち止まった。薄暗くなった空の奥に、消えたくないとでも言うように赤い部分が残っている。空の半分は燃えるような赤い色に染まって、青空を侵食していた。遠くに見えるビル群が、シルエットで浮かび上がっている。
「猫戸、ちょっと待って」
「なんだよ」
「はい」
立川が猫戸に何かを差し出した。近寄った猫戸は、街灯から影にならないように立川の隣に並んだ。背後に寄り添った二人の影が伸びる。立川が手に持っているのは、小さな四つ葉のクローバーだった。
「あげる」
立川が言うと、猫戸は露骨に眉間に皺を寄せた。
「な、なんだよお前その表情、一番厳選したやつだぜこれ」
「だってあそこから拾ってきたんだろ?」
「拾ってきたって言うな、俺がわざわざ探して収穫してきたの!」
「だって道端だろ?」
「道端っつーか、シートの下だな」
「そこ、花見のタイミングじゃなければ犬がウンコしたりしてるだろ?」
「……少なくとも、さっきはウンコ無かった」
立川は深いため息を吐くと「いいわ、もう」と言ってクローバーを捨てようとした。
「ま、待って待って」
思わず引き止めた猫戸は、自分がどうしてそれを止めたのか理解できない様子で立ち尽くしている。立川がじっとりとした視線を猫戸に向けた。そこには微量の期待すら無い。
「――どうせ猫戸にやったって捨てられるなら、今、俺の手で捨てる。ナウだ、ジャスナウ」
「貰っても……捨てない」
「捨てるね」
「捨てねぇって言ってんだろうが」
「じゃあ、そもそもお前どうやってこれ受け取るんだよ」
言われた猫戸は考え込んだ。手で触れないのだ。受け取ってやりたくても物理的に厳しい。ふと、ジャケットの内ポケットに手を入れた。指先にハンカチが触れた。猫戸は真っ白なそれを取り出し、折り畳みを一度だけ開いて立川の前に差し出した。
「ん」
「なんだよ」
「ここに置いて」
言われた通り立川がそこにクローバーを置く。ややあって、猫戸が言った。
「クローバーに抗菌ジェル絞り出したら、ダメかな」
「ダメだよ、やめてくれよ本当に!」
立川が笑いながら言って歩き始めた。猫戸は立川を追いながらハンカチをそっと畳むと、また胸ポケットに収めた。不浄のものが心臓に近い場所にあるという意識、違和感、込み上げる居心地の悪さと不安。しかしそれを押し込めて余りある、高揚感を伴った謎の感情。それが何の感情か分からないままの猫戸は、無意識に口元に浮かんだ笑みに気づくことは無かった。
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