第8話「外野」と「害毒」

 翌日、猫戸は社長に付いて行動していた。契約に立ち合い、打ち合わせに同行し、一人の時間には改めて開拓すべき企業や組合の洗い出しと、社長の許可が出た企業へのアポイントを取る。時間は午後三時を回ったが、社長ともども昼食も取れていない状況だ。猫戸が開けて待っていた社用車の後部座席に乗り込みながら、社長は溜息を吐いた。

「いやぁ、キツいな……一旦帰社するか」

「かしこまりました」

「SE軍団に進み具合確認してぇしな」

「はい」

 今日の猫戸は、濃紺のスーツに山吹色のネクタイが映え、より親しみやすい、明るい雰囲気を演出していた。それは先ほどまで二人を応接していた企業の人々の顔を見ても明らかだった。女性であれば目の色が変わり、男性であれば爽やかさに好感を抱いた様子だ。運転席に乗り込んでシートベルトをし、エンジンを掛ける猫戸を社長は背後から見ていた。

「なぁ、猫戸」

「はい」

 猫戸の運転で社用車が進み始めた。

「昨日よぉ、佐夜子に会っただろ」

「――はい」

「どうだ、佐夜子は」

 猫戸は返答にきゅうした様子で黙り込み、僅かな間を以って口を開いた。

「康男さんに、お嬢様が二人も居られたのを存じ上げませんでした」

「おう、まあな、まさか帰ってくるとは思ってなかったからな、元から言ってねぇんだ」

 そう言って社長はハッと声色を変えた。

「違う、俺はそんな意見を聞いてんじゃねぇぞ猫戸」

「はい」

 猫戸の頬に汗が落ちる。『どうして俺なんだよ……』そう思い、猫戸はバックミラーに視線を向けようとし、既にそこから強い視線が刺すように自分を捉えているのに気づいて、見るのを即座に止めた。じっと、見られている。

 社長が身じろぎをして座り直すと、溜息交じりに言った。

「もうすでに、佐夜子は十分苦しんだんだ。恥をかかさないでやってくれ」



 帰社すると、社長は早速遅い昼食をとりに出た。猫戸はその後のスケジュールを確認すると、誰にも何も言わず、一人エレベーターに乗り屋上へ上がった。

 屋上に出た猫戸は、吹き付けた一瞬の強い風に足元を煽られた。踏ん張って耐え、ゆっくりと開けた中央に歩いて行く。晴れ渡った空は昨日と似たようなものだが、実際には違う。同じように猫戸を取り巻く環境は、佐夜子と会った昨日で一変した。見た目は昨日と変わらない猫戸の頭の中を、自分の意思とは反した周囲が掻き乱していく。猫戸は目を閉じて呟いた。

「社長、その娘、暴力、離婚、子供、潔癖症、俺、……立川」

 社長が戻ってくるまであと二〇分。猫戸はどこにももたれられず、座ることもできない身体をただ屋上で太陽に曝して、腕を組んで仁王立ちをしていた。

 一〇分が経過し、猫戸は会社に戻った。社長室内にある自席に着くと、いつもの如く立川が社長室の入り口までやってきた。

「よぉ、おはよう」

「おはよう」

 猫戸が目頭を両人差し指でぐいぐいと押しながら俯いていると、立川がデスクの横に立った。

「昼飯行ってきた?」

「いや」

 短い猫戸の返答に、何かを察した様子だ。

「どした、目が疲れたのか?」

「まぁ……そんなとこ」

 溜息を吐いて答えた猫戸を、きょとんとした表情で見ている。

「コーヒー入れてきてやろうか」

「ああ、頼む」

 無意識に返答した猫戸は、やがて鼻孔をくすぐる香ばしいコーヒーの香りで顔を上げた。

「ほら」

 立川が盆を差し出した。そこには、昨日の透明プラスチックカップにホットコーヒーが注がれている。思わず猫戸の口がニヤリと動いた。

「何やらかしてんだよ、プラスチックカップにホット注いでんじゃねぇよ……」

 言って受け取ろうとし、カップを触るのがやはり熱い上、熱に耐えられず軟弱になったプラスチックが凹むのを察して手に取るのを諦めた。そして、その横にキャラメルとチョコレート菓子の箱が置かれているのを見付けた。立川を見上げると、眉を上げたその眼と視線がぶつかった。

「飯まだなんだろ?俺が持ってるの、コレくらいしかねぇけど」

「――助かるよ」

「あと、コレな」

 すげぇ効くから、そう言って立川は目を温める使い切りの癒しグッズを盆に置いた。

 それを見た瞬間、猫戸の胸が詰まった。お節介焼きの、目の前の立川に、自分の状況を伝えたらどんな事を返してくるだろう、やめろと一喝して全てを否定してくれるかもしれない。その押しつけがましい優しさで、猫戸自身でも気づいていない本心を否応なしに引きずり出してくれる可能性もある。ーーだが、到底言えるような話しではない。馬鹿な事を考えるな。

 癒しグッズを手に取り、礼を言おうと猫戸が口を開いた。

「俺、佐夜子さんとデートすることになった」

 突然猫戸の口から発せられた言葉に、立川はただ「え」と答えた。当の猫戸自身は、言うつもりも無かったはずの事を勝手に口走っていた事に、自分で動揺して、視線を盛んに宙へ泳がせている。

「――いや、えっと……俺……」

「佐夜子さんとデートすんの?」

「あ……うん」

「良かったじゃん」

 猫戸は立川を見る事が出来ない。もし見たとしても、その表情が笑っていても、悲しそうでも、どちらにしろ「良かったじゃん」と既に言われた猫戸は自分が傷つく事を分かっていた。

「これでやっと『自由にデートできる』な」

 立川が言った言葉を聞いて、無意識に猫戸が顔を上げた。額に滲んだ汗は玉になって頬へ落ちていく。

「立川、あの時の会話、やっぱり聞こえて……」

「聞こえてないよ」

 立川は寂しそうな瞳で猫戸を見下ろしていた。それを見た瞬間、猫戸の心臓を小さな針で三六〇度から刺すような、強烈な痛みが走った。猫戸は他人事のように『あれ、なんだこれ俺死ぬのか?』と思ったが、痛みは一瞬の事ですぐに消え去った。

 二人は黙り込み、味わった事のない静寂が社長室に流れた。その時、営業管理課の面々が「お帰りなさい」と声を上げた。立川は慌てて社長室の入り口まで戻る。そうして社長とすれ違った。

「猫戸、お前メシ食ったのか?」

「ええ」

 社長の声色は上機嫌だ。社長室に背を向けた立川に聞こえる猫戸の声はどんどん小さくなっていき、まるで背中へ縋るように追ってきた。


 翌週の日曜日、猫戸は車で社長宅へ向かった。もちろん佐夜子を迎えに来たのだ。自宅前に車を付けると、誰よりも先に梨花が飛び出してくる。そうして、見慣れたスーツを着ていない猫戸を見て立ち止まった。猫戸は毛玉一つない萌葱色もえぎいろのニットの下に、薄い黄色のシャツを着ている。パンツはベージュのチノパンだ。いつもの真面目一辺倒ではない、爽やかさの権化のような青年が目を細めて梨花を見つめていた。

「ネコトくん、いつもと服が違う……」

「そうだよ、ダメかな」

「ダメじゃなーーーーい!」

 言うなり梨花が抱きついた。梨花にとっては、猫戸はどんな姿でも常に「誰よりも一番カッコいい人」だ。そうしている内に、玄関から佐夜子が現れた。花見では結んでいたウェーブがかった髪の毛を、編み込んでアップスタイルにしている。紺色のアンサンブルは清楚さを際だたせ、足元の華奢なストラップで止められたパンプスは可憐な印象を抱かせた。

「お父さん、お母さん、本当に何かあったら連絡ちょうだいね」

 佐夜子はまだ猫戸に気づいていない。家の中を覗き込み、気になるのか必死で何かを言っている。散々家族とやりとりをしてから、漸く振り返って猫戸に気づき、顔を赤らめて近寄ってくる。

「猫戸さん、お久しぶりです」

「お久しぶりです、佐夜子さん」

 これからの展開を察知したかのように、家の中から俊明が歩いてくる。佐夜子はちらりちらりと猫戸を見て、微笑んだ。

「今日は雰囲気が違いますね」

「かっこいいよね!」

 猫戸の足に抱きついたまま梨花が言うと、佐夜子はくすくすと笑いながら口に手を当て、頷いた。俊明が三人のところへやってくる。

「やあ、猫戸くん、こんにちは」

「こんにちは、俊明さん」

「さ、梨花おうちに戻ろう」

「やだ」

 当然の返答だ。俊明は予知していた様子で梨花を抱えると「じゃあ楽しんできてね」と笑って回収していく。「やだぁ、やだぁ、リンちゃんもお出かけするの!」という悲しい叫びが聞こえてきた。

「ちょっと、梨花ちゃん可哀想ですね」

 家の方に顔を向けたまま佐夜子が言うが、猫戸の返答は無い。改めて振り返り猫戸へ向き直ると、猫戸は助手席のドアを開けて微笑んでいた。

「佐夜子さん、どうぞ」

 佐夜子は耳まで熱くなるのを感じた。


 そうして、初めて行った二人のデートはある意味失敗に終わった。終始レディーファーストで佐夜子を気遣い、先回りして考える猫戸の疲れは帰宅後にソファへ倒れ込むレベルだった。

 顔面からソファに突っ伏した猫戸は、数分後にもぞもぞと起きあがる。

「反省を書き出さないと」

 赤く跡が残った額を擦りながら、サイドチェストの中からノートとペンを取り出す。しばし逡巡してから、開いたページにさらさらと記入しはじめた。

『合流:12:00 社長宅、 首都高―混雑度6割、順調

 12:40 台場到着 ホテルレストランで食事<反省1>ブッフェと区画が分かれていたがやや騒々しい印象、今後はランチタイムにブッフェ開催しているところには行かない。

 15:00前 食事終了、どこに行きたいか聞いたが特になかった為商業施設を歩く<反省2>施設のどこに何があるのかの下調べが甘かったため、佐夜子さんの見たい帽子をかなり探すことになった。佐夜子さんにも気を使わせてしまった模様 今後はある程度の商品扱い内容も確認しておくこと

 17:00頃 海が見たいと言われた為遊歩道へ行く』

 そこまで書いて猫戸の手が止まった。溜息を吐きながら、起こった事実のみを回想していく。

 二人が商業施設から外へ出て、海沿いの遊歩道を歩くと当然の事ながら佐夜子の足は砂浜へ向かった。蒸れたような磯の香りが包む人工の浜を歩きながら「やっぱり東京の海はちょっと黒いですね」と言う佐夜子を、猫戸は追う事ができなかった。穏やかな波が打ち寄せ引いていった跡には、落ちかけた陽でも分かる黒い跡が残っている。すでに落ちているゴミ、犬を散歩させる人……猫戸が勇気を以て踏み出した一歩は砂に圧力を加えたが、それ以上進む事無く停止した。付いてこない猫戸に気づいて、佐夜子が振り返る。

「猫戸さん?」

 声を掛けられたが、猫戸は真顔で何と言おうか考えていた。しばし返答を待ってから、佐夜子は猫戸の所へ戻ってきた。

「どうしました?」

「佐夜子さん、すみませんが……私は海が苦手なもので」

 言った自分で『何を馬鹿な』と思う。海が苦手なら、なぜ台場に来たのか。相手によっては馬鹿にされたと判断されても仕方がない。

「そうなんですね、じゃあ戻りましょう」

 佐夜子は優しげな笑顔を浮かべて、先を歩き始めた。

 その後二人は地元に戻る途中、有名なホテルのレストランで食事をして帰った。佐夜子を送り届けた頃には二〇時前だった。門の前で佐夜子が家に入るまでを見守っていたが、漏れ出る玄関の光を浴びて、迎え入れているであろう家族に笑顔を見せた佐夜子の姿が一番美しいと猫戸は思った。

 一連の光景を思い返す猫戸の頭は熱を持ち、ぼんやりとしている。今回のデートで行ったルートは、大人のデートとしては無難なはずだった。だが、それすら猫戸の性質が邪魔をし、上手く行かない。

『俺はまともなデートすらできないような男に成り下がっちまったのか』

 誰かに相談をしたい。どうすれば良いのか、どうすれば上手くいくのか、アドバイスをもらいたい。そう考えた猫戸の頭に浮かぶ人物は、たった一人だった。



「だからよぉ、俺は砂浜に行けなかったわけ」

 猫戸がアイスティーの中にシロップを入れると、琥珀色のアイスティーは滲んで揺れた。汗をかいたグラスから、玉になった水滴が幾筋も流れ落ちている。猫戸の目の前に座る立川はブレンドコーヒーを一口飲んで言った。

「結局潔癖が邪魔して上手くデートできてないだけじゃないのか?」

「やっぱりそこに行きつくかぁ」

「自覚してるのかよ、ビックリだぜ」

 呆れたように立川が鼻息を吐いた。その時、立川のスマートフォンが陽気に「you’ve got mail!」と着信音を鳴らした。ちらりとディスプレイを見た立川は「お、タイムリーだな佐夜子さんだ」と言ってスマートフォンを手に取った。猫戸の動きは完全に静止し、口元に引き攣った笑いを浮かべている。

「……え」

「え?」

「佐夜子さん?」

「おう」

「え?佐夜子さん?」

「おう」

「あの佐夜子さん?」

「しつこいな、佐夜子さんだっつってるだろ」

 猫戸は心臓が四方八方からぎゅうぎゅうと押さえ込まれている感覚を覚えた。思わず本音が漏れる。

「ど……どうして立川が佐夜子さんのアドレス知ってんだよ

「花見の時に俺から聞いて、交換した」

 立川はまるで自慢するように言った。そしてディスプレイに目をやったまま「お前によろしくってさ」と告げたが、猫戸の耳にはその言葉は届かなかった。呆然と呟く。

「俺すら佐夜子さんの個人連絡先まだ知らねぇのに、なんで立川が知ってんだよ……」

「いや、そもそもデートしてるのに知らないのがおかしいと思えよ」

 立川のもっともな指摘も、猫戸には届かない。――どうして、立川が佐夜子さんと連絡を取り合っているんだろう。どんな話で、どんな事で盛り上がっているんだろう。あの調子で、佐夜子さんを笑顔にしているんだろうか。

 呆然自失になった猫戸だったが、ランチの支払いは約束通り立川ぶんまで奢らされた。

 カフェを出た猫戸は、花見の時から自分の中に生出せいしゅつした疑念がはっきりと形作ってきていることを自覚した。珍しく帰社する歩みを遅くさせ、猫戸が隣を歩く立川を見る。

「なぁ」

「ん?」

「立川、彼女いたの?」

 立川は突然の話に一瞬目を大きくさせると、困ったように視線を逸らして笑った。

「あー、うん。まぁな」

「いつ?」

「うーん」

 いまいち歯切れが悪い返答に、猫戸は自身の焦りを感じた。どういう答えが出ようが構わない。早く決着が欲しい。隣を歩く立川を前のめりで見上げて言った。

「テメェの恋愛なんか勿体もったいぶるもんでもねぇだろーが」

「言われ方、酷すぎるだろ」

 はは、と笑った立川は猫戸を見た。

「去年の一〇月に別れた」

「去年の一〇月って……」

 二人はビルに到着し、エレベーターホールでエレベーターが来るのを待つ。

「俺がお前に告白する前。ケジメ付けないといけないと思ったから」

 立川の言葉に猫戸は何も言えなくなり、到着したエレベーターに乗り込んでから口を開いた。

「お前……お前本当に彼女いたんだな……」

「何言ってんだよ、失敬な!俺だって彼女くらいいたわ!」

「いや、そういう事じゃねぇんだよ……」

 本当に、そういう事ではない。猫戸は、立川をゲイだと思い込んでいた。だからこそ、絶妙な距離感を維持してきたつもりだ。そして、ゲイだと思い込んでいたからこそ油断をしていた。

『――油断?何に?』

 猫戸の胸に一瞬、茶托騒動の時の女性社員の顔が浮かんだ。彼女は、悲しく、不安な様子を隠そうともせず、立川に付いて社長室から出て行った。嫌味っぽい立川の言葉「気にしなさんな!妖怪『茶托は絶対に使ってください』の事なんて忘れた方がいい」という優しいフォローを受け、立川にどんな表情を見せ、どんな感情を抱いたのだろう。社長室の外から聞こえてきた立川の言葉を、鼻で笑った猫戸が知るよしも無い。

 猫戸の胸がグッと詰まった直後に、まるでそれを打ち消すように佐夜子の微笑みが思い浮かび、内心ホッと胸を撫で下ろす。

『そうだ、油断していると、佐夜子さんが、立川に……取られるかもしれない』

 猫戸はそう思った。

 二人はエレベーターから降りると、いつもの流れで歯磨きをする。無意識の中で行っているような猫戸の歯磨きを、立川は物珍しそうに見ている。実際猫戸の頭は無意識ではなかった。頭の中で、花見の時に言われた文恵の言葉が何度も繰り返されているのだ。


『――私、立川くんと身内になるの嫌だもの』


 文恵の声は聞いた時よりも低く、暗く、猫戸の頭から心臓へめがけて大量に落ちてくる。鋭利ではないぶん、ただひたすら重厚に重なってゆく。

『立川が、社長の身内になる……』

 心臓から広がる底知れぬ恐怖に、猫戸の視界が滲んだ。

『俺は、立川と佐夜子さんが一緒になるのを阻止しないといけない。二人を近づけることは、文恵さんの――康男さんの気持ちを踏みにじる事と同じだ。二人を一緒にしないためには、自分が佐夜子さんと一緒になるしかない』

 小さく「苦しい」と言いそうになり、猫戸は咄嗟に口を濯ぐと横柄な態度で言った。

「去年の一〇月まで彼女がいたんなら、いいデートスポットとか分かってんだろ?教えてくれよ」

 立川は隣で口を濯ぎきって、尻ポケットから出したハンカチで口と手を拭いつつ猫戸を見た。その瞳は呆れ、寂しさを湛え、そして何より軽蔑が潜んでいる。

「猫戸はさぁ、ナチュラルに人を傷つけて楽しいか?」

「え?」

 猫戸の背中が粟立った。散々文恵の言葉に押しこめられた心臓は今にも潰されそうになり、必死にせいにしがみ付こうと血液を送り出す。そのせいで、猫戸の顔は一気に赤みを帯びた。立川は歯ブラシを片付けると、言った。

「俺、お前と佐夜子さんを応援してやりたい」

 そうして寂しそうに猫戸を見た。

「でも、無理だよ」

 猫戸は何も言い返せず、背を向けて給湯室から出て行く立川をただ見詰めていた。


 猫戸が会社に戻ると、営業管理課の席から文恵が手招きをしてくる。近寄ると、文恵も立ち上がりそのまま奥へ連れられた。特に閉鎖された場所でもないが、注目は避けられる。数名は、猫戸が何かをやらかしたと思ったのか不憫そうな視線を向けてきていた。文恵が腕を組み、猫戸に折りたたんだメモを渡しながら小声で言った。

「昨日のデートどうだったの」

「どう、と言うのは……」

「どこに行ったの」

「台場です」

「台場ねぇ……どうだったの?上手くいった?」

「特には何もありません」

「なんなのよ、あなた達。佐夜子に聞いても何も言わないし、猫戸くんがしっかりしてくれないと困るのよね」

「はい」

「なんか、立川くんと連絡先交換したみたいなのよ、聞いた?」

「はい」

「あの子、スマホ見ながらニコニコしてるから、何見てんのか聞いたら、立川くんが送ってきた――」

「文恵さん」

「何よ」

「業務に戻りたいのですが」

 文恵は眉間に皺を寄せ、瞬きをした。目の前の猫戸は無表情で、唯々ただただ美しく冷たい視線を突きつけてくる。文恵の掌にジワリと汗が滲んだ。初めて見る猫戸の表情だった。文恵は低く、責めるように言った。

「これだって大事な話でしょ」

「私と佐夜子さんにとっては、大事な話です。貴女あなたには関係ありません」

「な……」

「無益な話を、業務中にこれ以上するのはお断りします」

 まるで自分とは別の意識で話をするように、猫戸の口からはすらすらと言葉が出た。内心、自分が言った言葉に『業務中の無益な話なんて、さんざん立川としてきたくせに』と笑いすら漏れる。文恵はそれを侮蔑と捉えたらしく、顔を赤くさせると唇を噛み、足を踏み鳴らして席へ戻って行った。

 社長室に戻り、猫戸は文恵から渡されたメモを開いた。『次回 22日 11:00』とだけ書いてある。次回のデートは、来週末のようだ。どうして、佐夜子は自分に直接連絡を取ろうとしないのだろう、立川には連絡しているのに、と猫戸は思った。しばらくして社長が戻ってくる。

「おい、猫戸」

「はい」

 即座に猫戸は席を立ち上がり、社長をじっと見た。

「お客さんが来るから、用意してくれ」

「はい」

「ショウダ工業さん、一五時な」

「はい」

 言われた猫戸は、ショウダ工業に向けてのプレゼン資料を印刷した。先日売り込みをしたところ、積極的に導入したいという考えを伝えてきた地元企業だ。話を聞きにやってくるのは、かなりの好感触と言っていい。猫戸は社長室横にある会議室で、プロジェクターを準備し、印刷した資料を会議机に等間隔に置いていった。

 そして、システムエンジニア部のブースの一番奥に行くと、作業中の藤岡ふじおかに声を掛けた。藤岡は、格闘ゲームキャラクターのフィギュアを乱立させた中にぼうっと存在している「巣から出てこない系」の一人である。肥えた体で椅子に深く腰掛けて、窓の方を見ていた。

「藤岡さん」

 たまたま休憩していたのか、振り向きざまに藤岡が口に含んでいた炭酸飲料を噴き出しそうになって、口に手を当て、猫戸を見た。目が、何を言われるのかと怯えている。

「ショウダ工業の運営システムに関してなんですが、一五時に社長ご夫妻がいらっしゃるんです」

 藤岡は何も言わないまま、怯えた子供のような目線を猫戸から外さない。

「――なので、できればシステムの特徴や、強みと考えている部分を担当SEから直接説明して欲しいのですが、可能ですか?」

「あ、む、無理です」

「無理?無理とは」

 猫戸は淡々と返答した。すっかり萎縮している藤岡は、頭を大きく振った。「巣」に溜まった埃が舞い、ライトにきらきらと浮かび上がるのを見て、猫戸は一歩下がった。

「本来の業務外ですので、無理強いはしません。でも、チャンスだと思――」

 猫戸が喋り終わらないうちに、藤岡が突然ブースから走り出た。丸い身体を前傾させ、猫戸の目の前を直角に曲がり、弾丸のように飛び出て行った姿を猫戸は唖然として見る。藤岡は、四つ前のブースに駆け込んだ。ガタガタと何かが崩れる音がする。

「たっ、立川さん、助けてください!」

「な……なんすか、どしたんすか藤岡さん」

「プレゼンしろって!」

「はぁ?」

「俺、プレゼンの俺しろって!」

「あー、はい、とりあえず落ち着きましょうよ」

 切羽詰まった様子の藤岡に立川が深呼吸を促している。ゆっくりと猫戸が立川のブースに近づいた。絨毯を敷いた床に、猫戸の履くヒールの音が響く。立川の巣に着いた猫戸は、作業中のデスクに散乱したチョコレート菓子の箱、ひざまずいて立川の足にすがりつく藤岡と、そして椅子に座ったまま自分を見上げる立川を見た。

「――猫戸、なんだよこれ」

 怯える藤岡の背中に手をやりながら言う立川の口調には、猫戸を責める色がはっきりと出ている。一瞬怯みそうになり、猫戸はゴクリと唾を飲み込んで顎を上げ、腕を組むと高圧的に立川を見下ろした。

「藤岡さんが担当したショウダ工業の社長ご夫妻がいらっしゃるので、直接運営システムのプレゼンをしたらどうかと言いました」

「嘘だ、プレゼンしろって命令してきた!」

 藤岡がたかぶった様子で否定する。猫戸は鼻から息を吐いた。

「……プレゼンをしてもらいたいと依頼しました」

 猫戸が続ける。

「そもそも……システムが出来上がった時点で康男さんにプレゼンをしているでしょう。それなのにどうしてショウダ工業さんに直接できないんですか?」

「いや、お前そりゃ、俺たちがウチのSEだからだろうが」

 立川が言った。

「俺たちの上司は康男さんだ。康男さんからの指示を受けて、いいモン作って渡すのが俺たちの仕事だからな。そのためには全力で仕事する」

 藤岡は立川の顔を見上げたまま黙っている。立川の真剣な瞳は猫戸を見つめ、一方藤岡の背に添えられた手は優しげにポンポンと上下していた。薄い唇が開く。

「――でも、SEになったのには理由があるヤツだっていっぱいいるんだ。色んな苦手な事を乗り越えて、時々逃げて、それでここまで来てプロで仕事してる。俺たちを理解してくれてる康男さんには普通にプレゼンできても、外部に対しては別問題だよ」

「では康男さんからの指示ならプレゼンするのですね」

 猫戸は言い放ち、冷ややかな目線で二人を見た。一見いつもと何も変わらなかったが、左胸で打つ心臓は激しく音を立てている。立川がゆらりと立ち上がった。縋りついていた藤岡は、拠り所を無くして床に手をつき、さらに低い姿勢から立川を見上げた。

 立川はじっと猫戸を見据えている。

「――お前、話し聞いてた?」

「ええ、康男さんの部下だと。その指示を受けて仕事をされているという認識を持ちましたが、間違っていますか」

「なんだよ、その口調やめろ、腹が立つから」

 立川が拳を握った。しかし猫戸は自分の内側から出てくる言葉を止められない。ささくれ立った心が、何かを叫んでいるが自分で理解してやれない。必然的に出てくる言葉は攻撃的になった。

わたくしでは力不足ですね。康男さんから指示をいただくことにします」

「……」

 猫戸は視線を逸らして、社長室へ戻ろうと一歩踏み出した。その横顔に叩きつけるように、立川が低く言い放った。

「俺たち下っ端SEの気持ちなんて、崇高な“社長秘書様”にはお分かり頂けないようで、残念ですよ」

 猫戸はシステムエンジニア部を振り返る事も出来なかった。


 約束の一五時に、ショウダ工業の社長とその妻がやってきた。まだ春ではあるが、陽射しの強い中やってきたらしく、長袖のポロシャツのみにも関わらず滝のような汗をかいている。インナーには汗が染み、完全に透けていた。でっぷりと出た腹は、辛うじて留まっているベルトの上へ怠惰に覆いかぶさっている。

「いやあ、すみませんね、ウチも近くで納期の商談があったもんだから!今日だと思ってうかがわせてもらったんです!」

 人の好さそうなショウダ工業社長が汗でテラテラと光る額を掌で拭うと、汗は固まりになって頬から首元へ落ちていった。猫戸は社長の隣に立ち、目を細めて微笑を維持していたが、その鼻孔には強烈な汗の香りが直接臭ってくる。さらには婦人の多量に振りかけている香水が汗の後に待ち構えて、会議室内をねっとりと侵食していた。

正田しょうださん、わざわざ来てもらってありがとうございます、お時間頂いちゃって申し訳ない!」

 言いながら正田の手を握る社長を、猫戸は表情も変えず尊敬の気持ちで見た。

 正田夫妻に席を勧めた社長が準備に入ると、猫戸は社長室を出て客用のグラスにアイスティーを淹れる。戻ってそれを夫妻の前に置くと、一瞬で飲み干された。少々逡巡して、またグラスを持ち出し淹れ直す。『グラスじゃなくて、水差しかなんかで出した方が夫妻の為になりそうだな……』ぼんやりとどうでもいいことを考えながら、猫戸は淹れ直したものを再度夫妻へ差し入れた。夫妻はすでに、社長の説明に釘付けになっていた。

「独自のプログラムとして、材料費を打ち込んでもらうと、どこまで差益が出るかを限界まで調べて比較する項目も作っています。強度に関しても、入力していただければこのように折れ線グラフで表示されます。名称はご相談の上で、分かりやすいボタンにしますので」

「すごい」

 正田社長が呟いた。手に持っている資料は、汗で湿っているらしくふにゃりと頭を垂れている。正田夫人が言った。

「どういう仕組みなの?」

「仕組みは――」

 社長が言い掛けて、豪快に笑った。

「企業秘密です」」

「そうだよお前、そんなの今教えてもらえちゃったら、俺たちがシステム作れちゃうだろうが」

 正田社長が冗談めかして夫人を突くと、二人は目を合わせて笑った。


 社長のプレゼンは正田夫妻の心に響き、そして決定打となり、ショウダ工業へのシステム導入が決定された。システムエンジニアからのプレゼンも結局されなかった。猫戸も、社長へ告げ口をするような真似はしたくなかったのだ。揉めたあの経緯を、社長も知ることは無かった。

 時間は午後六時を過ぎ、社員は定時でぞろぞろと帰路についていく。退社の準備をしていた猫戸に、社長が声を掛けた。猫戸が顔を上げ、手に持っていた書類を置いて直立する。

「なんでしょう」

「今日、どうだ、一杯やっていかないか」

 猫戸は社長から何度か飲みの席に誘われた事がある。しかし、その誘いに乗ったことは一度も無かった。始めから罪悪感は抱かなかった。幼少時代から何度も使ってきた、猫戸にとっての処世術だ。

 猫戸が申し訳なさそうに、弱々しく頭を垂れる。

「申し訳ありません、少し体調が悪くて……」

「お前、前もそれ言ってただろ」

「ええ、夕方になると少し気分が優れない事が多いんです。おそらく、気温差だと思うのですが」

「そうか」

 社長が残念そうに言ったその顔は、社長ではなく父親の表情だった。ふと猫戸が気づく。

『もしかして、社長としてというより、佐夜子さんの父親として俺と飲みたかったのか?』

 ――だとしても、一緒に食事などできるはずもないが。

「じゃあ今度、佐夜子も交えて食事に行かないか」

 社長の言葉に、猫戸は自分の考えが的を射ていたと感じた。そして優し気な笑みを浮かべて「ええ、ぜひ」と言った。

 社長が先に退社すると、猫戸は社長室の施錠を点検して出ようとし、衝立のところでシステムエンジニア集団の姿を見止めた。何も言わず立ち止まる。

「お前らワーワーやってんの聞いて、俺『よく言った立川!』って思ったよ」

 楠原が立川の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら歩いてくる。藤岡は見た事の無い笑顔を二人に向け「立川さん、大丈夫なんですか?あんな事言っちゃってさぁ」と、少しも心配していない様子で言った。

「まぁ、大丈夫じゃなかったら俺が明日出勤してないと思っててくださいよ」

 立川の言葉に釣られて二人が声を上げて笑った時、丁度社長室の横を通り掛かった。植栽にやや姿を隠した状態で立っている猫戸を見付けた立川は、何も言わずじっと見た。まるでスローモーションのように時が流れる。――どちらも表情は無い。

「今日は飲んで忘れようぜ!」

 楠原の言葉に、藤岡が「おー!」と拳を上げる。営業管理課の女性社員が「うるさい!」と一喝した。

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