第9話「愛情」と「哀傷」
二十二日。佐夜子と猫戸の二度目のデートの約束の日が来た。やや冷えていたこともあり、猫戸は気に入っていた薄灰色にストライプが入ったスーツのジャケットに、黒い綿のパンツを合わせて着こなしている。そうして自分の車で佐夜子を迎えに行った。十一時だというのに梨花は寝ているらしく、前のような出迎えは無い。佐夜子が家を出て、門まで歩いてやってきた。水色のワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。長い髪は下ろしてあり、ふわりと動きに合わせて揺れた。若々しいスタイルは、一見して子供がいるようには見えない。
「こんにちは、佐夜子さん」
「こんにちは」
佐夜子は下ろしていた髪を耳にかけた。小さな耳たぶにピアスが光っている。軽やかな瞬きをして、佐夜子は微笑んだ。
「今日も、うちの子は両親に預けてます」
「そうですか」
言って、猫戸が助手席を開け「どうぞ」と促す。佐夜子は小さく礼を言って、乗り込んだ。
「今日は、お連れしたいところに行きますが、よろしいですか」
生真面目な猫戸の言葉に、佐夜子が頷く。
「はい、ぜひ」
「今日は遅い時間に雨が降る予報ですので、それまでには戻りましょう」
車は高速道路を走り抜け、一時間程で目的地に着いた。そこはマーガレットの咲き誇る有料公園だった。黄色く小さな花は絨毯のように咲き乱れて連なり、地形に合わせてうねるとその先には白い花が咲き乱れている。上下する地形から、様々な色の種類が連峰のように見え隠れしていた。
「素敵」
佐夜子が遠くから見ながら呟いた。まるでバージンロードのように続く花の間の道を二人並んで歩きながら、佐夜子が言った。
「猫戸さんはどうして今日、私をここに連れてきてくれたんですか?」
「どうして……」
言われて、猫戸は考えた。他に行くあてが無かった、などと答えられる
「佐夜子さんなら喜んでくださると思いました」
猫戸が微笑む。佐夜子はそれを見て、頬を染めて笑みを返した。
二人は花を見て散歩をしてから、併設のレストランで食事をとった。料理の味は申し分無く、地元の素材がふんだんに使用された
「お食事は、お口に合いましたか」
猫戸の質問に対して、佐夜子は笑って頷いた。いくらか表情に影があり、何か言いたそうな様子だったが、猫戸はいつもの完璧な笑顔で笑い返した。
「それは良かったです」
「はい」
地産の土産物屋へ寄りたいという佐夜子の希望を受け、土産物屋に入ろうとして、入り口近くにあった花の販売に佐夜子が気づいた。マーガレットやバラが安く売られる中、カーネーションも売っている。
「見てください、綺麗ですよ」
佐夜子の言葉に猫戸は微笑を返したが、花を手に取ろうとはしなかった。佐夜子が何かを言い淀んだが、すぐに大きな瞳で猫戸を見上げると「家族に、いくつか買いますね」と言い、花を選び始めた。
会計をした佐夜子が、手にバラやカスミ草、カーネーションを持って戻ってくると、引き続き土産物を眺め歩く。地元の名前の入ったどうでも良い爪切りなどを見ながら歩く佐夜子の後ろを、猫戸は追った。
「猫戸さんは、お土産を見なくても良いんですか?」
遠慮がちに佐夜子が言った。猫戸は「ええ、私は構いません」と答えて、また微笑んだ。しばらく進むと、佐夜子が地元のキャラクターが描かれた食品のパッケージに気づいて、ふふ、と一人笑いを零している。
「どうしました?」
猫戸が近寄ると、佐夜子は口元に手を当てて笑いをこらえ、猫戸を見上げた。
「猫戸さん、見てくださいこの子……立川さんっぽくないですか?」
それは濃い眉毛に短髪の、武士のキャラクターのようだった。つり上がった眉とは対称的に、口元はニンマリと上がっている。猫戸は無言だった。
「猫戸さん……?」
「あ……ああ、立川に似てるかですよね」
その声音で猫戸が何かを感じていたのを察した様子で、佐夜子が猫戸の目をじっと見詰める。キャラクターを冷たい瞳で見ていた猫戸は、そんな佐夜子の気持ちすら汲むことができない。
「分かりません」
猫戸は吐き捨てるように言うと、佐夜子に視線を向けた。大きく、丸い瞳が猫戸の視線を全て受け入れている。無意識であるが故に、心の奥底に澱んだ滓をかき乱してくる純粋な佐夜子の瞳にとっては、猫戸の探られたく無い腹を
「――一度しか会ってない相手を、よく覚えていますね」
険のある言葉を受けても、佐夜子は目を逸らさなかった。
「一度じゃないですよ」
「え?」
驚きを露わにした猫戸を見て、佐夜子の瞳が嬉しそうに、子供のように細められる。
「先日、うちの近所に仕事の打ち合わせで来られたらしくて、お会いしました」
猫戸は無意識に唾液を飲み込んだ。喉仏が上下に動き、ゆっくりと唇を開く。
「それは……
「……いえ、私からです。子供も連れて、カフェでお話しをしました。――それだけです」
猫戸はふと息を吐いて初めて、自分の心臓が激しく鳴っていた事に気づいた。頭にまで警鐘のように響きわたる心臓の音に思考が乱される。
「私に黙って……あいつに会ったんですか」
「会いました」
「――そうですか」
だからなんなんだ、これ以上俺が言える言葉なんて何も無い、そもそも佐夜子は彼女でもない――猫戸は自分の感情を抑えることに集中しようとする。しかし乱れた思考はすぐには正常化しなかった。立川はどんなつもりで佐夜子と会ったのか。少なくとも、自分がデートをしていることは分かっているはずだ。
ふつふつと苛立ちが湧き上がった。今まで自分を繕い続け、演じてきたものが、ぼろぼろと剥がれ落ちていく不安が平行して存在している。佐夜子のあからさまな退屈と、理解できない立川の行動――自分の人生では自分自身が中心にいるはずなのに、まるで疎外されているように猫戸は思った。外野の声が大きすぎて、自分が機能していない。
「雨が降るそうですから、帰りましょう」
それ以上話を続けようとしない猫戸の言葉に、佐夜子は小さく頷いた。
帰路に着く車内では沈黙が続いた。息苦しさすら感じるその空間に向かい、フロントガラスをポツリと雨が打った。赤信号で止まった車内から、薄暗くなった外をじっと見詰めている佐夜子を、猫戸はちらりと見た。薄く開かれた唇は口紅で濡れている。睫毛は羽毛のように瞬いた。柔らかな髪がかかる水色のワンピースは、若々しく張り出た胸元から太腿に沿ってぴたりとその身体を晒していた。閉じた太腿の隙間すら分かるラインに、猫戸の芯がゾクリと疼く。
『無防備に、安心しきっている』
猫戸は身体が熱くなるのを感じた。佐夜子の気持ちがどうであれ、今車内には二人きりだ。大人の付き合いであれば、この状況がどういう事態に陥る可能性があるかなど理解した上でやって来ているはずだ。家族の公認であることも拍車を掛ける。
『無理矢理抱いてしまおうか』
それで佐夜子の気持ちも、自分の割り切れない感情も、社長や文恵の思惑も、すべてを強引にまとめてしまえるはずだ。全ての踏ん切りをつけるには、そうするしかないのではないか。猫戸の思考は自分の感情から逃げる事を優先し始めていた。
車は高速道路を下りた。そこにはラブホテルが乱立している。一度ハンドルを切れば、それ以上佐夜子は逃れられない。
猫戸の思考は完全に傾いた。暴力を振るうような男と一度は結婚した女だ。どんな始まりだろうが、既成事実を作ってしまえば、後は状況が勝手に周囲を固めてくれる。――佐夜子の感情も、自分の感情も関係ない。
猫戸は大きく息を吸い、ハンドルを握り直した。
「――猫戸さん」
呼ばれて、ハッと我に返る。佐夜子を見ると、対向車のヘッドライトに照らされたその顔が等間隔に浮かんだ。そこに表情は無かった。
「少し、話しをしませんか」
猫戸は一瞬佐夜子の言葉の理解が出来なかったが、佐夜子の表情が一切の色気を断ち切っているものであることを理解し、頷くと河川敷の公園にある駐車場へ車を停めた。
エンジンを切った車には、天井を打つ雨音だけが激しく鳴っていた。フロントガラスへ流れ落ちてくる水量も、まるで滝のようだ。車内からも外が見えず、空間はまるで個室のように存在していた。佐夜子が胸を膨らませる程息を吸うと、吐き出した。
「猫戸さん、伺いたいことがあります」
「はい」
「猫戸さんは、うちの子が男の子か女の子か知っていますか」
言われて、猫戸は返答できずに首を振った。佐夜子が寂しげに笑う。
「男の子なんです。……それなら、名前も知りませんね?」
猫戸が頷いた。佐夜子が納得したように微笑み返したが、頬が一瞬ピクリと引きつると、細めていた瞳から大粒の涙が零れ落ちた。口紅で縁どられていた唇は、小刻みに震えている。
「猫戸さんは、私と居ても楽しそうではないです」
佐夜子の言葉を猫戸は淡々と受け止めた。その通りだと思ったし、むしろ「
――すみません、
そう言って、手を取り抱き寄せ、佐夜子の涙で濡れた顔を自分の胸に受け止めてやるのが、一番簡単で一番円満に解決をする行動だというのが猫戸には良く分かっていた。今なら、まだ引き返せる。
しかし佐夜子に差し出した白いハンカチに釣られるようにポケットから落ちたものに目を奪われ、猫戸は動けなくなった。
それは乾燥してさらに小さくなった四つ葉のクローバーだった。その小さな存在は、ハンカチを頬に当てている佐夜子が気づくこともない。サイドブレーキの横に落下して、ぽつりとあるクローバーの中心部分には、はっきりとハートの模様が四つ浮かんでいる。『一番厳選したやつだぜ、これ』と言う立川の声が蘇った。
猫戸は胃がせり上がるような緊張を感じた。自分の返答一つで全てがぶち壊される現実がある一方で、破壊を喜んで受け入れ、腹の底から叫んでしまいたい気持ちに駆られる。自分自身を押し込める事の限界だった。声が心と直結して、猫戸は掠れた声を出した。
「――佐夜子さん」
「は、い」
「すみません……私は……
佐夜子は声を詰まらせて頷き、しゃくり上げながらぽつりと言った。
「私、も……猫戸さん、に……嘘を、吐いて、ました……」
ハンカチに顔を埋める佐夜子は、猫戸が頷いた事にも気づいていない。唯々、身体をぶるぶると震わせて、途切れ途切れに打ち明ける。
「きっと、猫戸さん……なら……、言わなくても、分かって……ると、おも、います」
猫戸は細く息を吐いて「はい」と言い、頷いた。目の前の佐夜子が同じように苦しんでいた事を改めて感じた。穏やかで優しく、悲しい空気が佐夜子の声で揺らいだ。猫戸は視線をフロントガラスに移すと、流れ落ちる雨を見詰めながら言った。
「私は、佐夜子さんと立川を応援してあげたい」
佐夜子が嗚咽を堪えながら猫戸を見上げる。駐車場の電灯が辛うじて入り込む車内で、猫戸は苦しそうな表情のままフロントガラスを見詰めていた。
「でも、無理です」
猫戸が俯く。
「無理なんです」
佐夜子は黙ったまま、必死で声を殺して、涙を零した。
公園の駐車場から社長宅までの一〇分の道のりは、二人にとってまるで「透明」の時間だった。互いの本音をぶつけた解放感、決して許容できない相手の気持ちを認識しながら、一方で同志のような感情が沸く。車を社長宅の前に付けると、猫戸は雨の中走り出てトランクから傘を出した。赤い傘を開いて、助手席を開け、佐夜子の頭上に掲げる。猫戸の半身は雨に打たれている。
真っ赤な目をした佐夜子が、おずおずと猫戸を見上げた。大きな瞳は、化粧が流れ落ちて黒く縁どられていた。
「ありがとうございます」
佐夜子が車外に出ると、助手席に一束の黄色いカーネーションを置いた。
「猫戸さんに、差し上げます」
猫戸が小さく「――ありがとうございます」と言った。門を開け、玄関の前まで佐夜子をエスコートすると、猫戸はいつもの流れで優し気に目を細めた。
「佐夜子さん、今日はありがとうございました」
玄関の屋根の下から、佐夜子が猫戸に向けた視線は悲しいものだった。そうして家の方を向き直りながら「さようなら、猫戸さん」と呟いた。
猫戸は運転席へ戻ると、会社へと車を向けた。翌日の朝から打ち合わせをする社長の為に、社用車を取りに向かう。会社の契約駐車場に自分の車を停めて、クラッチバッグと佐夜子から貰った花束を持つと、社用車のキーを取りにビルへ入った。冷たいコンクリートに猫戸の足音が響いた。流石に日曜日なだけあって、ビルには誰も居ない。四階に着くと株式会社ジモテックの入り口前に立ち、電子キーを開けた。小さな電子音の後にガチャリと鍵が開いた音がする。
社内へ足を踏み込んだ猫戸は、薄暗い中に、一角だけ
『ああ、嘘だろ……勘弁してくれよ』
気づかないふりをして社長室へ向かい、電気を付けないまま社用車の鍵を取る。そうして出ようとした猫戸だったが、無意識に足はライトの点いた場所へ向かった。
ヘッドフォンをした立川が真剣な表情でモニターに向かっていた。左手に持った書籍を眺め、キーボードで何かを入力をしている。黒く濃い眉が時折潜められ、瞳はほとんど瞬きをしない。唇はへの字に引き締められていた。猫戸はその光景をじっと見詰めて立ち尽くしていた。
「はー……あ?……あぁ!?」
大きく溜め息を吐いた立川は、人影を認識するなり狭いブースの中で後ずさりをする勢いで驚き、無表情で立つ猫戸を見上げた。
「な、なに!?猫戸?どしたの、なんなの、いつからいたんだよ」
「……一〇分くらい前から」
「なんだよー、お前、声かけりゃいいのに」
心臓に手をやりながら、焦った様子で立川が言った。相当驚いたらしく、冷や汗をかいている。二人にとっては、先日最悪な態度で別れて以来の会話だった。
立川が眉を上げながら、やや冷めた視線を猫戸に向けた。
「今日、佐夜子さんとデートだったんだろ?どこ行ってきたの?」
「……花を、見てきた」
「あ、だからお前、花を持ってんのね」
立川は猫戸の持つ花に目をやり、キーボードの左に置いていた本を持ち上げた。
「ほら、見てこれ。タイムリーだろ」
それは分厚い花の辞典だった。
「今やってる花屋のシステムが大変でさぁ、どんなフォーマットでもいいから、取り扱ってる花の名前のデータをくださいってお願いしたら……」
言い掛けて、印刷された紙を猫戸に見せる。
「ほら、ここの花の名前『スイーポピー』とか『マリンゴールド』ってあって、そのまま入力して提出したら違うって言われちまって、入力し直しだよ」
困ったように眉を下げながら立川が言う。
「じーちゃんばーちゃんが中心の店だから、パソコンもカタカナも苦手なんだろうな。仕方無いから、忙しい中、優しい俺はこうやって、休日出勤の無償労働してるわけ」
言う割には苦になっていない様子で、笑った。
「まさか、この歳になって花の本弄ってるとは思わなかったわ」
立川は、聞いてもいない状況をべらべらと説明する。へらへらとしたいつもの余裕などどこにも無い。まるで沈黙に怯えるように、間髪入れずにしゃべり続けている一方で、猫戸の事を全く見ない。
立川が視線を猫戸の持つ花に向けた。
「よし、花博士の俺が猫戸が持ってるやつが何の花だか当ててやろう」
言うなり花を指さして、満足気に言い切った。
「それは、黄色いからマリンゴールドだな!」
「……いや、カーネーションだ」
「おう、そう、それ正解。お前を試しただけですー」
立川は適当な返事をしながら、辞典を
「か……か……うん、カーネーションは、『純粋で深い愛』っていう意味があるんだってよ!」
顔に似合わず、立川は花言葉にも興味を持った様子で言った。そして「お前がそんな花選ぶなんてなぁ……それも佐夜子さんの影響なのかねぇ」とぼやく。実際、佐夜子から貰ったそのものだったが、猫戸は何も言わなかった。
「あー、色によっても意味が違うんだって!」
辞典に目をやりながら立川が続けた。
「赤は『母への愛』だってさ。そうだよな、母の日は赤いカーネーションだもんな」
少し寂し気に言って猫戸の持つカーネーションを見た。
「お前の持つ黄色は……あぁ、うん。まぁいいか」
立川がバタンと辞典を閉じた。猫戸が眉を寄せる。
「――なんだよ、言えよ」
「ま、どうでもいいだろ」
言って隠そうとした辞典を、ブースに踏み込んだ猫戸が奪った。すぐにカ行から「カーネーション」を引く。そこには立川の言った通りの言葉が並んでいた。そして、黄色のカーネーションの項目に目をやる。
――花言葉……失望、軽蔑、拒絶、拒否――
猫戸は、一ミリの余地なく全てが終わった事を実感した。佐夜子が花言葉を意識して猫戸に渡していようが、いまいが、その花言葉は現状を的確に暗示していた。猫戸が倒れるように立川のブースに身体を凭れさせると、張り付けてあったジャズのレコードが揺れる。そうして猫戸は空笑いを浮かべ言った。
「……内心、喜んでるだろ」
「は?」
「俺と佐夜子さんのデートが失敗して、満足か?」
皮肉っぽく笑う猫戸を見て、立川は不快感を露わにした。
「失敗したことすら知らねぇよ、そもそも失敗したかどうかはお前の問題だろ」
「そうだよな、潔癖症がネックになって失敗するとか、そんな情けねぇ状態、お前には分かんねぇよな」
実際にネックになったのは潔癖症ではない。それ以前に自分の心が問題だったと分かっていても、猫戸は立川の前で認めるわけにはいかなかった。立川を前にしても物理的な問題が失敗に繋がったことにできれば、猫戸の最後の砦は守られる。
「潔癖症が問題だと認識してるなら、治せばいいだろ」
立川が言った言葉は、今まで散々猫戸が聞いてきた言葉だ。しかし今の猫戸にとって、一番言われたくない言葉だった。
猫戸に
「治そうと思って治せるなら、苦労してねぇよ!」
声を荒らげた猫戸に立川は驚いた様子で目を向ける。
「なんだよ、そんなに怒ること無いだろ。なんでそんなに怒ってんだ」
「知らねぇよ!俺だって分かんねぇよ!」
歯を食い縛りながら噛み付かんばかりに言う猫戸を見て、立川はふと伺うような表情になった。
「――俺が佐夜子さんの事、狙ってると思ってんのか?」
猫戸が言葉に詰まる。『立川が佐夜子さんを狙ってるというより――』
「俺が佐夜子さんのメールアドレスを知ってるから?お前より先に聞いたからか?」
立川が苦しそうに続けた。
「佐夜子さんの事を本気なら、勝手に付き合えばいいだろ。俺に当たるんじゃねぇよ!猫戸さぁ、俺が『お前のこと好き』だとか言ったから、佐夜子さんに一歩踏み込めなくなってんじゃないのか?」
猫戸の肩が
「お前の幸せのためなら、俺は手を引……」
「勝手に手ェ引いてんじゃねーよ、クソが!」
猫戸が立川の言葉を
「俺の幸せなんぞ俺が決めんだ、テメェが勝手に決めんなクソボケ!」
「おい、いい加減に口が悪すぎるぞ」
「うるせぇ、テメェに関係ねぇだろ!」
「何怒ってんだよ」
「知らねぇよ、バカ野郎!」
「おい!」
とうとう立川は立ち上がると、猫戸の腕を掴もうと手を伸ばした。寸でのところで猫戸は身を捩り、立川の手を振り払う。俯く猫戸は声を絞り出した。
「なんだよ、もう、マジでいい加減にしろよ……」
立川は、猫戸を目の前にして立ち尽くしている。猫戸が言った。
「俺の事振り回して楽しいかよ」
「何、言ってんの?」
「立川さぁ、佐夜子さんと幸せになったらいいんじゃねぇ?女たらしなんだからよぉ」
自嘲する猫戸を見ながら、立川は怪訝な表情を浮かべる。
「何言ってんだよ、猫戸……俺はお前の事が好きだよ」
「そうやってフザケんのもいい加減にしろよ!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
間髪入れずに立川が切れた。今まで見た事の無い立川の態度に、猫戸は身体をビクリと動かすと顔を上げた。立川は怒りと悲しみを湛えた瞳で猫戸を見下ろしている。
「前にお前が、俺の事分かんねぇって言ったけど……俺だってお前の事が分かんねぇよ……!」
言われた猫戸は唇を横に引いた。目の奥を太い針で刺されたかのように痛みが走る。同じ針で、続きざまに心臓がズクリと
「俺自身が一番よくわかんねぇよ、クソが……」
立川を見上げる瞳は潤み、その鼻も赤くなっている。いつもの平然とした猫戸はそこに居ない。居るのは、心の内を曝け出す一人の男だった。
「逃げた方がラクなのに、
眉を寄せて見下ろす立川に身を乗り出して、猫戸は叫びにも似た声を出す。
「でもそれは、俺の力じゃねぇ!立川がいたからだ!テメェのせいで、一人が怖くなった!一人の方がラクだったのに、どうしてくれんだよ!怖ぇよ、こんなの……もう戻れねぇじゃねぇか!」
立川は思わず手を伸ばした。頬に触れそうになったその手を、猫戸は顔を背けて避ける。しかし立川は更に踏み込んで、肩を掴んだ。猫戸が強く身体を捩ると、勢いで黄色のカーネーションが衝立に当たって花びらが散った。目を奪われ思わず動きを止めた立川から咄嗟に離れ、猫戸は踵を返して駆け出ていった。
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