第10話「感情 の 漏洩」
翌月曜日、午後三時まで取引先を回ってくるはずだった社長は、昼過ぎに会社へ戻ってきた。苛立った様子で社長室へ入って行くその姿を見た全員が戦慄する。続いて猫戸が戻ってきたが、虚ろな視線を社長室へ向けて歩いていく。普段の猫戸が見せない、弱々しい姿だった。
「おい、猫戸来い」
「はい」
戻ってくるなり社長が自席から言った。猫戸は当然のように社長のデスクの前に立つ。これから何を言われるのか、どうなるのかをすでに理解して覚悟を決めている。社長が低く声を出した。
「どうした、お前」
「申し訳ございませんでした」
「資料忘れるって相当だぞ」
猫戸が項垂れる。その首筋が真っ赤に腫れていた。社長が大きく溜め息を吐いた。
「お前のミスのせいで、案件一つ逃すかもしれねぇんだぞ」
「誠に……申し訳ございません」
猫戸は身体の前で重ねた手を擦り合わせた。右手で、左手の腕を擦る。猫戸の頭の中は熱く、ぐるぐると回っていた。社長の声が遠くに響く。自分の犯した失態のせいで迷惑を被っている社長と、佐夜子の父親であるいう康男の二つの圧が猫戸に圧し掛かっている。
『死んで償えるなら、喜んで死にます』
思わず言いそうになり、猫戸は口を押さえた。スーツの袖口から覗く手首も、赤く腫れている。途端に、猫戸の見る世界が大きく回った。
「お……おい、猫戸!」
社長の声が響いた。何が起こったのか分からないまま、猫戸は床に座り込んでいた。口を塞いでいた手を退けられない。回った視界の中に進むべき道を探りながら、猫戸はのろのろと立ち上がった。既に社長の声など聞こえなかった。
皆の視線が集中する中、猫戸は会社を出て共用の廊下へ進むと、思うように動かない身体を壁に擦り付け、這うようにトイレへ進んだ。個室に入り便器へ向かって嘔吐する。胃が激しく痙攣していた。身体全体を使って呼吸をしながら、猫戸は個室の壁に手を付き、身体を支える。何度か咳き込み唾液を吐くと、洗浄ハンドルを回して流した。洗面台へ向かい、縋る思いで口を濯ぐ。
『ああ、もう、めちゃくちゃだ』
猫戸はゆっくりと顔を上げ、正面の鏡を見た。映った自分が真っ赤な瞳で見返してくる。げっそりと見つめてくる自分が、ボロボロで、どうしようもない人間に見えた。顔は真っ青でありながら、首から顎にかけて一部が斑点のように赤くなっている。
『――なんだ、これ』
猫戸はジャケットの内ポケットから白いハンカチを出し、口を拭いた。続いて手を拭こうとして、手の甲が赤くなっている事に気づく。先ほどまで気づかなかったそれを見て、恐怖が沸いた。大きく息を吐いて頭を振ると、猫戸はトイレを出た。
『大丈夫。俺は大丈夫だ』
言いきかせるように思いながら、ふらふらとした足取りで社長室へ戻る。その間、何人かに声を掛けられたが猫戸は一切反応しなかった。その中に立川が居た事にすら、気づくことは無い。
「おい、猫戸、大丈夫か」
社長室へ戻るなり、社長が言った。そして、大丈夫でない様子を察して猫戸をソファに座らせると聞いた。
「救急車呼ぶか」
「……不要です」
「じゃあタクシー呼ぶから、病院に行け」
猫戸は唇を噛んで、振り絞るように言った。
「本日の、
「猫戸、俺は責めてんじゃねぇ。お前、自分の顔見てみろ。今にも死にそうだぞ」
言われて、猫戸は黙り込んだ。社長は内線で営業管理課へ電話をすると、タクシーを手配する。そうして、朦朧とした視線を向ける猫戸に向かってゆっくりと言った。
「いいか。タクシーが来たら、病院に行け。必ずだぞ」
猫戸は掠れた声で「はい」と答えた。
五分程でタクシーがビルの前に付けられた。社長室の前で立っていた立川が、退社しようとする猫戸に声を掛ける。
「大丈夫か、下まで一緒に行くか?」
「……やめろ」
猫戸はそれだけ言うと、弱々しい足取りで進み、ドアを閉めた。背中を見送った立川が呟いた。
「大丈夫じゃねーだろ……」
その背後で社長がぽつりと言った。
「あいつに、無理させてたかね……あとで連絡してみるわ」
病院で医師の診断を受けた猫戸は「
『こんなことになるなんて』
猫戸は、診断結果を社長に電話報告した時の事を振り返った。社長は、責めるでも謝るでもなく「そうか、しっかり休めよ」とだけ言った。
『本当に、俺は――最低だ。佐夜子さんを傷つけて、康男さんを失望させて、立川に当たっている』
猫戸は、やや赤みの治まった腕に目をやった。その時、ベッドのサイドボードに置いていた社用スマートフォンが鳴った。呼び出し音は設定している一般からの着信だ。社長からではない。手にすら取らず、無視をして起き上がると、処方された薬を飲んだ。
『ああ……このまま消えて無くなりてーなぁ』
猫戸は久々に深い眠りに就いた。
社長専用のメール着信音で、猫戸は目を覚ました。カーテンを開けていた窓からは、すでに陽が落ちた空が見える。はっと手を伸ばしてスマートフォンを取ると、ディスプレイには社長からのメールの着信表示が光っていた。慌てて内容を確認する。
『【差出人】康男さん 【件名】
猫戸は慌てて時間を確認した。一九時一〇分――タクシーで向かえば、十分に間に合う。いくらかスッキリとした頭を押さえつつ、猫戸は上半身を起こした。身体に現れていた赤い斑点は、背中や腹を中心に残っているものの顔回りや手足は薄くなっている。胃の不快感は改善していた。ベッドから降りて立ち上がり、首を動かして息を吐くと、猫戸はすぐさま社長にメールで返信をする。
『本日は大変失礼致しました。体調は戻っておりますので、すぐ参ります。到着は一九時五〇分前後かと存じます。』
続けてタクシーを呼ぶ。顔を洗い、歯を磨き、スーツを着て髪を整えると、資料とクラッチバッグを抱えてマンションを出た。タクシーに乗り込んだ猫戸は、自分が緊張している事を痛感していた。握りしめた掌にじっとりと汗をかいている。車窓に映る自分の顔は、真っ青だった。
タクシーはスムーズにビルへ到着した。運転手へ支払いをして、ビル内に駆け込む。同じビルを使用している企業の誰かにぶつかりそうになり、
ドアを開けて体を滑り込ませるなり、猫戸は強く目を
「大変、申し訳ございませんでした!」
どんな怒号をも受け入れる気持ちで、頭を下げたまま、上がった息を整えようと大きく呼吸をする。社長からは返答が無い。しん、とした空気を感じて猫戸は顔を上げ、目を開いた。
社内は完全に電気が落とされていた。窓際にある、システムエンジニアのブースに下ろされたブラインドの隙間から、外の光が幾筋にもなって差し込んでいた。
「……」
猫戸は荒い息を整えると、視線を社長室へ向けた。ぼんやりとした光が衝立の奥から漏れている。胃を押さえて深呼吸をし、猫戸は社長室へ足を向けた。
社長室のパソコンのモニターが光っていた。その前に人影がある。モニターの光を受けて、人影の服装だけがはっきりと見えた。白いワイシャツを着た人物は、まくり上げた袖から太い腕を覗かせている。
「……立川……?」
「おう」
社長のデスクにもたれ掛かって立つ立川の声が低く響いた。猫戸が、
「康夫さんは……」
「悪いな、いないよ」
「どうして」
暗い社長室内で、ぼんやりと光を受ける立川の表情を猫戸は確認することができない。
「こうでもしないと、お前と会えないだろう」
立川が溜息を吐いて、自嘲した。モニターを見下ろす立川の顔が、白々しい電光の前にはっきりと見える。猫戸が目を見開いた。頬を汗が伝う。
「お前……まさか……」
「勝手に社長のPCに入った」
「なに……何、やってんだよ……!」
猫戸は声を荒らげると同時に江野沢工務店の資料とクラッチバッグをドサリと手から落としたが、それすら気に止めず、信じられない物を見るかのように立川を見詰めた。
「馬鹿じゃねぇのか、そんな事したら」
猫戸の言葉を聞き終わらないうちに、立川は社長のデスクから動いた。荒々しく猫戸に近づくと焦燥感に駆られたように、立ち尽くしていた猫戸の腕を掴んで引き寄せた。脱力していた猫戸は突然の事に対応できず、引かれるままよろめくと立川の胸に身を預ける。立川が強く猫戸を抱き締めた。一瞬、時が停まる。何も言わずに猫戸を抱きしめるその手に力が籠った。
立川の強い力で猫戸の肺が圧迫される。息が苦しくなり、猫戸は口を開けて小さく喘いだ。そうして、自分の腹の中に淀み潜んでいたものが嫌でも表層に引きずり出される感覚を覚えた。佐夜子の立川への想いも涙も、文恵の言葉も、社長秘書という立場も、そして自分を構成するアイデンティティだった「潔癖症」も、全てがぐずぐずに溶けて混ざり合い、猫戸の瞳へと一目散に押し迫る。
猫戸の唇が震えた。吸う息は途切れ途切れになる。以前香ったことのある、海のような立川の香水の香りが強烈に胸に入り込んでくる。歯を食い縛ってももう抵抗が出来なかった。
「う……」
小さく呻くと、猫戸の瞳から想いが溢れ出る。
「ううぅ」
一度堰を切ってしまえば、あとは感情の濁流が押し寄せてくるのみだ。些細な抵抗など全く意味を成さない。猫戸の瞳からは、次々に涙が溢れ出てきた。頬に当たる立川のワイシャツに、それはすぐさま染み込んでゆく。
「――っ」
猫戸の両手は脱力してだらりと下がっていたが、やがておずおずと曲げられ、立川の背中へ回される。
しばらく二人は抱き合った形のまま、立ち尽くしていた。やがて猫戸の涙が落ち着き、荒い吐息に変わった。ほっとしたように、立川が胸一杯に息を吸い込んでゆっくりと吐く。その胸部の動きに合わせて、身を寄せていた猫戸の体も動いた。
「猫戸」
低く浸透するような立川の呼びかけに、猫戸はぴくりと体を動かして反応した。立川が猫戸の耳に唇を寄せる。
「好きだよ」
猫戸の脳を直接震わせるようにその言葉が響いた。猫戸は顔を上げもせずに頷く。立川が猫戸の背中を優しくポンポンと叩くと、猫戸から大きな息が漏れた。
「なぁ、猫戸はどうなの」
物足りなさそうに立川が言った。
「俺のこと、どう思ってんの」
猫戸はゆっくりと立川の胸から顔を離した。暗い社内では、互いの表情が全く見えなかった。猫戸がふん、と鼻を鳴らした。
「普通」
「えっ?なんて?」
「普通だよ、立川はフツウ」
「あーごめん俺ちょっと耳が詰まってるみたいで、よく聞こえないんだけど」
「フツーだって言ってんだろ」
「いや……いやいや、普通なわけないだろ」
どこからその自信が来るのか、立川が言い切った。猫戸は軽く咳込むと、鼻で笑う。
「普通以外の何でもねぇよ」
「え、嘘だろ?」
「なんでだよ……」
小さく「引くわ」と言って、猫戸が立川を見た。立川の表情は分からなかったが、二人の間には瞬間的にぴりりとした電気が走る。暗闇の中でも視線が絡んだのを、猫戸は感じた。
『あ……キスしたがってる……』
気づいて、猫戸は唾液を飲み込んだ。改めて心臓が大きく打ち始め、立川の背中に回された掌に汗が滲む。猫戸の予想通り、立川はしばし黙ったままもぞもぞと落ち着き無く動いていたが、大きく仰け反り戻り際にふぅっと大きく息を吐くと、不意に猫戸に顔を近づけた。
猫戸が咄嗟に顔を背けた。立川の動きがぴたりと止まる。
「えっ、なんで」
「なんでじゃねぇ」
「今キスするタイミングだったろ」
「ふざけんな、汚ねぇ」
「き、た、ねぇ……って……この期に及んで汚いとか言う?」
ショックを受けた様子で、立川が言葉を失う。猫戸が言った。
「あのなぁ、お前の事『普通』なんだよ。それなのに、キ……そんなのする必要ねぇだろ」
「意味わかんねぇ、すりゃいいじゃん」
立川はその返答が、自分の欲望のみで構成されている事に気づいていない。猫戸はゆっくりと立川から体を離した。二人の間に隙間ができると、同じ温度だった二人の体を、空気が撫で通った。距離ができた事で、暗い状況に慣れてきた目でうっすらと互いを確認できるようになる。
立川は眉を下げ、心から残念そうな空気を纏っていた。猫戸が小さな溜め息を洩らした。
「分かった。立川、しようぜ」
猫戸の言葉に立川のテンションは目に見えて上がった。すぐに、猫戸は意地悪く付け加える。
「してもいいけど、俺が『普通』だと思ってる人全員にするからな」
「な……何だそれ」
「何度も言うけど、お前の事『普通』なんだよ。そのお前にするってこたぁ、他の『普通』の人にもやるってことだからな」
「いや、待て待て待て」
「手始めに康男さんだな。次に文恵さん、俊明さん……」
聞いている立川の脳裏には、社長や文恵、俊明と満面の笑みでキスをしている猫戸が浮かぶ。絶対に有り得ない光景がそこにあった。カウントをするように、猫戸は指折り数えている。
「あとは楠原さ――」
「それはガチで洒落にならんからやめとけ」
立川が即座に否定した。猫戸の両肩に手を置くと、うなだれて深い溜息を吐く。そうして恨めしそうに言った。
「はぁー……他の人にキスするのはやめてください……」
「じゃあ二度とそういう要求すんじゃねーぞ」
「はい……」
すっかり意気消沈した立川が小さく頷いた。良心の呵責を感じつつも、猫戸はそういう態度を取る以外に、相手と接する方法を知らない。猫戸の過去を紐解いても、相手と深い関係になるには通常よりも多量の時間を要した。潔癖性という部分もあるが、天の邪鬼で慎重すぎる猫戸の性格が主な原因だった。
立川がふと笑うと、空気が和らいだ。猫戸から手を離し、緊張していた体を
「猫戸はすごいよな」
「――なにが」
「『
「……喧嘩売ってやがんのか」
「違うよ」
立川は社長席のパソコンに向かった。マウスとキーボードで操作をしようとして、ふと猫戸の方向を見る。猫戸からは、ディスプレイの光でしっかりと立川の表情が見えた。
「これだけ焦らされて、燃えないわけないだろ」
そう言って立川は「俺の気持ちを煽ってるっていう自覚ないだろ、猫戸」と笑う。猫戸は心臓が激しく打ち、顔が熱を持ち、赤くなるのを感じた。思わず両手で口を塞ぐ。頭の中は、羞恥で燃え上がりそうになっていた。
立川がディスプレイに向き直り、呟いた。
「お前とキスするのが本当に楽しみだよ」
マウスを右手に持ち、クリックしようとしてふと手を止める。何かを躊躇した様子を察して、猫戸は声を掛けた。
「どうした」
「――社長PCに侵入したログ消そうと思ったんだけど……やめた」
「えっ」
立川の真意を探りかねて、猫戸は怪訝な顔をした。立川が振り返る。
「俺がお前に会う為に侵入したって、明日康男さんに説明する」
「いや、それお前……
「そうだな」
立川は困ったように笑い、普通にパソコンの電源を落とした。モニターからはブツリと光が消え、社内の遠くに非常灯の緑色だけが光っている。立川の姿も闇に溶けた。
「何らかのペナルティはあるだろうけど、覚悟の上だよ」
白くぼんやりと浮かぶ立川の姿が猫戸に近づく。なんとなく空気が動いたのを察して、猫戸が身構えた。近づいた立川は、猫戸の腕を掴んだ。焦る猫戸の頬を汗が伝う。
「な、なんだよ……」
「よし、帰ろう」
「……うん」
「ねぇねぇ、俺、暗い所苦手だから連れてって」
語尾にハートマークを浮かべる陽気さで立川が言った。
「お前に掴まってないと、前が見えなくて帰れないよぉー」
普段の立川を四倍鬱陶しくしたような、甘ったれた口調で猫戸にすり寄るその態度は、社長のパソコンに侵入したという事実と不安を打ち消すように努めて明るく振舞っているのではないかと猫戸は感じた。立川自身の不安を打ち消すためというより『自分の為に悪に手を染めた』と猫戸に思われないようにという気遣いだろう。
猫戸は腕を掴まれたまま「仕方ねぇな」と言うなり、足元に落ちた江野沢工務店の資料を拾い上げ、自分のデスクに置いた。
歩き始めると、猫戸のやや後ろを、立川が腕を掴んだまま付いてくる。
「あんまり引っ張んなよ」
ぶっきらぼうに言って、猫戸がさっさと先行した。先ほどの立川が言った通り、暗い所は実際苦手らしい。その歩幅はいつもよりも小さく、ちょこまかと付いてくる。思わず猫戸が笑った。
「立川、どうしたんだよ」
「ん?」
「お前、やたらと小股で歩いてんな」
「いや、だって暗いだろ。足元見えないし」
「
「知らないけど、暗いのは苦手」
どうでもいい事を話しながら、緑色の非常灯に照らされて出入り口までやってくる。鉄の扉を開けて出ると、外から社員証をかざして完全にロックをした。ビルの廊下もすでに非常灯のみになっていたが、設置場所も多いため社内よりはやや明るい。
「おい、もう明るいだろ。離せよ」
腕を緩く振りながら猫戸が言ったが、立川は返事をせず、掴んだ腕も離さなかった。
「猫戸は電車で来たの?」
逆に聞かれて一瞬返答に詰まる。
「い、いや……体調悪かったし、タクシー呼んで来た」
「そうか。じゃあ、下でタクシー止めるわ」
二人でエレベーターに乗り込む。エレベーターの中は通常運転で、十分に明るかったが、やはり立川は手を離さない。静寂にゴウンという稼働音が響いた。
「立川は……いつも何で来てんの?」
「俺?俺は自転車で来てるよ」
突然明らかになった立川の通勤事情に猫戸は面食らった。
「マジで言ってんの!?」
「うん」
「なんでチャリなんだよ!」
「なんでって、まぁ健康の為と、俺が好きだからかなぁ」
エレベーターはのろのろと一階へ着いた。降りるのと同時に、立川は猫戸からそっと手を離した。触れられていた温かい部分が突然解放され、猫戸は違和感を覚える。立川が手に持ったバックパックを背負いながら、ビルの入り口の
「俺の愛車~」
陽気に言って、サドルをぼんぼんと叩く。
「その自転車、不法投棄だと思って、今度市に回収を頼もうと思ってたやつだ」
猫戸が心底面倒臭そうに言った。立川が声を荒らげる。
「やめろよ、そういう容赦ない処分方法!ちゃんとビルのオーナーにも許可貰ってんだからな!」
言って、立川がロードバイクのフレームを指さす。そこには
「なんだよ、オーナーの許可って」
「
「誰だよ藤田って……」
「
「知らねぇよ」
「知らないのか、朝いっつもココ掃除してるおじいちゃんだよ!」
猫戸はそれを聞いて思わず口に手をやった。
「あれ……施設の掃除のお爺さんだと思ってた……」
「ちっがうわ、あれオーナーだよ!」
立川の言葉に猫戸が絶句する。今まで完全なる営業スマイルで挨拶をした事はあれど、直接深い話などしたことは無かった。立川はどんなタイミングで、どんな会話をしたのだろう。
猫戸は立川に目をやった。ロードバイクに取り付けていた流線型のヘルメットを取ろうとしている。
「おい、人たらし」
「え?お前まだそういう事言うわけ」
「うん、人たらしとか言ってごめん」
立川がヘルメットを手にゆっくりと振り返った。路上で立ちながら、猫戸は肩を竦めて俯き、苦笑いをしている。
「立川が、別に人に気に入られようとしてそういうコミュニケーション取ってるわけじゃねぇってのは分かるよ。そういうところ、俺には無いし真似できねぇけど、すげぇなって思う」
それは猫戸の心からの素直な言葉だった。立川は血流が一気に全身を駆け巡るのを感じた。
「だからこそ、皆お前に心を開くし、惹かれるんだと思う」
立川が、猫戸の元へドスドスと足を踏み鳴らして来る。見上げた猫戸に向かって小さく囁いた。
「それ以上言うな。
「たッ……」
猫戸の顔が瞬時に赤らむ。
「今の俺の話のどこにそんな要素があったよ!」
「ぜんぶ」
「全部!?どこが!?」
猫戸の責めつつも引いた口調にも負けず、立川はやや前傾になって「ううぅ」と呻いた。
「全部だよ、ぜんぶ。あの冷たい視線の、つっめたーい猫戸がそんなの思ってたってだけでもう、もう俺……」
「いいから喋んなバカが!」
猫戸が、前傾していた立川の後頭部をバシッと叩く。立川は笑いながら体を起こすと「ごめんごめん」と謝った。
二人は大通りまで出て、タクシーを拾った。乗り込んだ猫戸に向かって、立川が真剣な表情で言った。
「猫戸、本当に、呼び出して悪かった」
「……別にいいよ」
「しっかり休めよ」
「ああ」
タクシーの運転手が後部座席のドアを閉めた。立川と猫戸の間が遮られると、猫戸はハッとした様子で窓に寄る。そして、パワーウィンドウのボタンを力いっぱい押して窓を下ろし、声を張った。
「立川!」
立川が驚いた様子で見ている。
「ありがとう、本当に、ありがとう、俺なんかのこと……」
猫戸が言った。語尾が震えていたのを、立川ははっきりと聞いた。
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