第17話「届かない声 3日目~6日目」
◆展開、表現上詳細な闘病の描写があります。
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【三日目 水曜日】
火曜日の時点で、会社には午後からの出勤を伝えていたため、猫戸は出社前に病棟へやって来た。受付簿に記帳し、見舞客の確認をして病室に入る。そっとカーテンを開けると、立川だけがベッドに横たわるいつもの姿で猫戸を迎えた。
「立川、来たぞ」
小さく言って立川の顔を見る。頬に貼られた大きな肌色のテープが、いつもの立川と違った印象を与える。唇は薄く開かれているが、鼻から呼吸音がしていた。猫戸は身体を乗り出して、立川の顔に触れた。
「おはよう、立川」
小さく囁いて、まじまじと立川の顔を見詰める。指先を頬に触れさせ、親指で顎を撫でる。小さな傷が
「おい、剃り残しあるぞ」
猫戸が言って笑うと、一度病室を出て売店で電池式のシェーバーを購入して戻った。用意した温かい濡れタオルで顔を拭いてやり、剃り残しの髭を剃る。
「ほら、スッキリしたろ」
笑って言うが、その唇は僅かに震えた。ゆっくりと顔を近づけると、強烈な消毒液と汗、清潔なシーツの匂いが嗅覚を満たしていく。睫毛が触れ合う程顔を寄せ、猫戸は唇を強く横に引くと、立川の額に、自分の額を合わせた
「起きろよ、バカ野郎。俺がこんなに近くに居てやってんだぞ」
立川からは規則正しい呼吸音が聞こえる。
「もったいねぇなぁ、こんな機会二度と来ないかもしれないのにな」
猫戸は吐息とともに悲しく笑うと、体を起こし、立川の胸に耳を当てた。ドクン、ドクンという心臓の音が、立川が生きている事を証明している。猫戸は身体を起こしてパイプ椅子に座ると、立川の手を強く握った。
猫戸は、事前の申告通り正午に出社した。社長に礼を言い自席に着くと、意を決した様子で社長が猫戸の前に立った。顔を上げた猫戸に、社長が切り出す。
「猫戸、相談があるんだが……」
「はい、なんでしょうか」
「あのよぉ……佐夜子が、立川に会いたいって言っててよ」
猫戸はじっと社長を見ていた。
「別に、お前の許可を取るわけじゃないんだけどな、意見を聞きたいと思ってな」
「立川のご家族が許可されたなら、会っていただいた方がいいと思います。――私自身としては、今の立川の刺激になると思うので、できれば会って欲しいです」
「そうか、じゃあ親御さんと病院に、子連れで会ってもいいか伺ってみるよ」
「はい」
そうして猫戸の水曜日の業務は一九時に終了した。立川の父親からスマートフォンの留守番電話に『大腿骨の手術が金曜日にある』事が吹き込まれていた。
【四日目 木曜日】
立川の病室にいた祖母と弟は、佐夜子の見舞いにポカンとした口を閉じる事ができなかった。事前に『社長の身内』が来ることを知らされてはいたが、佐夜子のような若く、乳児を抱えた女性が来るとは思っていなかったのだ。龍二に至っては、湧き立つような甘い香りを漂わせる佐夜子を畏怖の瞳で見つめていた。
佐夜子が胸に康英を抱いて、頭を下げた。
「初めまして、梨花の叔母の佐夜子と申します。今回は、梨花を守って下さり、本当にありがとうございました」
そっと顔を上げた佐夜子の視線は、すぐに立川に向けられた。
「立川さん」
立川に声を掛けて、顔を覗き込む。
「たちかわ、さん」
震える声で呼ぶと、ふっくらとした頬に涙が流れ落ちた。祖母が佐夜子に椅子を勧めると佐夜子が小さく礼を言って座った。ぴょっこりと飛び出ていた康英の小さな手は、触れた立川の指を握っている。それに気づいた龍二が突然「兄ちゃんの子なんですか」と不躾な質問をした。虚を突かれた顔をした佐夜子だったが、すぐに大きく首を振って否定した。その顔は真っ赤に染まっている。祖母が年齢に合わない力強さで、龍二の後頭部を叩いた。
猫戸は社長とともに外回りから戻ってくると、ぼんやりとシステムエンジニアの居るブースに目をやった。元々、黙々と作業をする職人肌の面々が揃っているとはいえ、あまりにも空気が重い。
休憩時間になると、猫戸は立川のブースに入った。先週の金曜日に作業を終えた時のまま、走り書きのメモやペンがデスクの上に放置されている。
「……」
そうして立川の椅子に座った。長時間椅子に座ったままになるシステムエンジニアの為に、人間工学を考えて、無重力がどうたら、という社長のこだわりの品だ。流石に座り心地がただの事務椅子とは違っている。背もたれに体重をかけると、ギシ、と椅子が鳴った。隣のブースからガタンと音がして、通路側の衝立の上にモソモソとしたヘアスタイルが見え隠れする。
「あ」
金森が立川のブースを覗き込んできて、低く言った。立川の席に座っている猫戸を見て驚いた様子だったが、その驚きを表情に出す程の気力は無いらしく、ただぼうっと猫戸を見ている。猫戸は表情を変えないまま「お疲れ様です」と呟いた。金森が同じように小さく答えた。
「気配がしたから、立川さんかと思って、見に来てしまった……」
「……」
「居るはずないですよねーハハハ」
そう言って空笑いを浮かべた金森は、またいそいそと自分のブースへ戻っていく。猫戸は細く溜め息を吐くと、また立川のブースを見回した。背表紙を見ても意味の分からない、何の興味も湧かない言語の本や、レターケースの上には相変わらずの仮面ライダーフィギュア、その奥に
さらに視線を巡らせると、衝立に張り付けられたジャズのレコードがある。「ミミズののたくった字」が書かれて乱雑に貼られた付箋をそっと外すと、三枚目でやっとタイトルが見えてくる。猫戸は胸ポケットからジョッターを取り出し、そのタイトルを書き写した。
猫戸は一八時に仕事を終えると、すぐに病棟へ向かった。昼過ぎに来ていたはずの佐夜子や家族はもう居なかった。
「お前が好きだと思うジャズ、買ってきてやったぞ」
猫戸は自分にイヤフォンを付けると、慣れない手つきでスマートフォンの音楽プレイヤーを起動させて、再生を押した。フランク・シナトラの『I’ve got you under my skin』が流れ出す。サックスとピアノの静かなメロディーに、甘く爽やかなフランク・シナトラの声が乗っていく。
「本当に好きかどうかは知らねぇけどな、少なくとも聴いたことくらいはあるだろ」
自分の耳からイヤフォンを外すと、立川の耳に装着させる。
猫戸は床頭台の引き出しから髪拭きシートを取り出すと、立川の髪を拭いた。続いて持参してきた体を拭くシートで、首回りや腕、膝から下も拭いてやる。一通りの事をして時計を見てから、改めてパイプ椅子に座って立川を見る。
立川はいつもと変わらず、小さな寝息を立てていた。何も変わらないその姿に、安堵と恐怖が同時に迫りくる。振り払うように猫戸はベッドに手を付くと、立川の片方の耳からイヤフォンを外して自分に付けた。ダウンロードデータで購入していたジャズは五曲をリピートさせていたが、始めに戻ってフランク・シナトラが流れている。上半身をベッドに凭れさせ、肘を付きながら猫戸は眠る立川に向かって呟いた。
「今日、佐夜子さん来たんだろ……?なんて言ってた?」
そっと立川の顔を見る。何も、変わらない。
「佐夜子さんと会って、どう思った……?」
もし立川にしっかりと意識があったら、絶対に聞けない事だ。顔が恥ずかしさで燃えるように熱くなる。そんな質問を切り出した自分に気色悪さすら感じ、猫戸は顔を押さえる。
「クソ、マジで、お前のせいだぞ、お前の……」
憎々し気に言っても立川は安らかに寝ているだけだ。
――I’d sacrifice anything come what might for the sake of havin’ you near.――
フランク・シナトラの穏やかな声が歌い上げる。猫戸が立川の手を握って、枕の横に顔を伏せた。シーツの糊の匂いの中に、こもったような立川の匂いが沈殿している。
『何があろうが、何だって犠牲にするよ――君の傍に居られるなら』
猫戸はじっと歌詞に聞き入りながら、瞳を閉じた。
そうして一時間は早々に過ぎ去った。猫戸は身体を起こすと、名残惜しそうに立川の手を離した。
「明日、康男さんの打ち合わせが遅くまであってさ、来れねぇんだ。ごめんな」
バッグを持ってカーテンの前まで進んでから、振り返って優しく微笑む。
「明日の手術、頑張ろうな。また来るから。……おやすみ、立川」
【五日目 金曜日】
立川は朝から大腿骨の手術だった。猫戸は社長と共に打ち合わせで一日のスケジュールが埋まっており、病院に行くことができなかった。二人共に気が気ではなかったが、致し方ないことだ。
午後になり陽が傾いた。移動中に猫戸のスマートフォンにSNSの着信がある。会社に到着し、社長と共に着席してからそれを開いた。龍二からだった。
『兄ちゃんは無事に手術が終わりました』
人気の少年漫画のキャラクターが親指を立てているスタンプが押され、続いてまたメッセージが書かれている。
『俺としては足を三本に改造してもらった方がいいと思ったんですけど無理でした』
猫戸は思わず声を出して笑いそうになった。辛うじて声に出す前に堪え、社長に声を掛ける。
「康男さん、立川の手術、無事に終わったようです」
社長の顔が安堵で緩んだ。
「そうか……そうか、良かった……」
朝から緊張を顔に張り付かせていた社長がようやく小さな笑みを零す。猫戸は、すぐさま龍二に返事を送った。
「無事に手術が終わって、本当に良かったです」「お兄さんには追加で足一本では足りないと思うから、今回の改造で許してやってください」
龍二からは、大笑いをしているキャラクターのスタンプが送られてきた。
「システムに興味がある」と説明を受けに来た企業にプレゼンテーションを行う事が、社長の最終業務だった。猫戸も立ち会うため、業務終了は定時を過ぎた一九時三〇分になった。先方からは「これから親睦会を開こう」と言われたが、猫戸は辞退し社長のみが参加することになった。
下らない冗談を言い、笑い合いながら退社していく社長の姿を見送って、猫戸はクラッチバッグを持った。
「猫戸」
背後から呼び止められて、猫戸は立ち止まった。振り返ると楠原が立っている。猫戸が頭を下げた。
「お疲れ様でした、お先に失礼致します」
「おい、おい、違うんだよ、待って」
「なんでしょう」
無表情の猫戸に気圧されるように楠原の顔に汗が吹き出る。切れ長の美しい瞳がじっと楠原を見ている。ゴクリと楠原の喉が鳴った。
『立川はこの目で見られるのが怖くないのか?自分がクズ野郎に思えるんだが……』
意を決した様子で、楠原が切り出した。
「SE部の皆で話してたんだけどさ……もしできれば、俺たちも立川に会いたいと思って」
猫戸は無言でそれを聞いたが、ふと口元に笑みを浮かべると「立川のお父様に伺ってみます」と言った。そうして、自分のスマートフォンを出すと楠原に見せた。
「ご返答いただいたら、私のスマホから連絡しますね。楠原さんの社用スマホあてでいいですか?」
「――お、おぉ、そうしてくれ」
顔を赤くさせて視線を逸らし、楠原は頭をボリボリと掻いた。猫戸は微笑みと石鹸の薫りを残して「では、お先に失礼します」と扉を開いて出て行った。
【六日目 土曜日】
猫戸は、昼から病院へ行った。受付簿にはすでに立川の父親の名前が書かれていた。カーテンを開ける前に、猫戸が声を掛けると「どうぞ」という父親の返答がある。
「こんにちは」
カーテンを開け、猫戸が笑顔で言うと、そこでやっと猫戸を認識したように父親と目が合う。
「あ……あぁ、猫戸さん。こんにちは」
呆然とし、そして憔悴した父親の様子に猫戸の顔からは笑顔が消えた。
「お父さん……どうされました」
「あぁ、いやぁ……はは……」
父親は力なく俯く。
「今日先生から、そろそろ点滴だけじゃ体が弱るから、鼻からチューブ入れて食事させることも考えろって言われてしまったよ」
そう言って、そっと息子の顔を見る。
「ははは、こいつの、デッカいデッカい鼻の穴に合うチューブなんて、この世に存在しないんじゃないかって思ってさ」
冗談めかした言葉だったが、悲しみを隠しきれていない。猫戸は言葉が出なかった。持参していた荷物をパイプ椅子に置くと、ゆっくりと口を開く。
「少しでも早く、目を覚まして欲しいです……」
立川の顔を見た。まるで普通の、ちょっとケガをしただけの、いつもの立川の姿だ。今にも起きてきて「何してんの、皆」とでも言って笑いかけてきそうだった。その鼻から、生きるためとはいえチューブが挿入されることを想像するだけで、猫戸の胸は張り裂けそうになった。
暗く沈んだ空気を押しのけるように、猫戸は一度ベッドの傍を離れると、ホットタオルを手に戻ってきた。そうして床頭台の引き出しからシェーバーを取り出して微笑む。
「よし、今日はSE仲間が来るんだし、綺麗にしとこうぜ」
言って、猫戸が立川の顔をそっと拭った時、僅かに瞳の周囲の肉付きが変わったのを感じた。
『痩せた、か……?』
猫戸は顔を拭きながら、頬に触れた。
『――少し落ち窪んだみたいだ』
ぴくり、と猫戸の
「もしかして……髭剃ってくれてたの、猫戸さんなのかな?」
「えっ……と……」
言い淀んだ猫戸だったが、猫戸を見ている父親の表情には微細な輝きが戻っている。
「誰かがシェーバーを買ってくれたり、実際に龍造の髭が綺麗になってたりしててさ、ばーちゃんに聞いても『違う』って言われちゃって」
その口調は立川に似ていた。思わず猫戸は、苦笑いをしながら頷いた。
「はい――勝手ながら、きっと龍造くんなら気にするだろうな、と思いまして」
実際の立川はおそらく、髭の剃り残しなど一切気にしない。清潔感に無頓着の立川は、髭が床に着こうが気にしないかもしれない。むしろ、そんな立川を気にしているのは自分の方だと猫戸は思った。
父親が目尻に皺を寄せて笑った。
「そうか、本当にありがとう。こいつ、髭伸びるの早いからさ。高校生の時なんか、一晩で
わざとお
一時間ほどすると、父親は時計を見て小さく溜め息を吐いた。
「猫戸さん、本当に申し訳ないんですが……私、部活の指導を他の先生に頼んできちゃってまして……もう、戻らないといけないんです」
「はい、大丈夫です。会社の仲間が来たら、同室の皆さんにご迷惑お掛けしないようにも言っておきます」
猫戸の言葉に眉を下げて笑った後、椅子から立ち上がって、父親は深く頭を垂れた。
「本当に、本当に猫戸さんには感謝しかありません」
ゆっくりと上げた顔は、真剣な表情に変わっていた。見上げる猫戸は、父親のハの字に寄せられた眉に苦悩が過っているのを見た。父親が言葉を絞り出すように続けた。
「でも、猫戸さんには猫戸さんの生活があるんだから、無理はしないでください。こいつはきっと、貴方に負担を掛け続けるのを嫌がるはずです」
猫戸は瞬きをすると俯き、無意識にシーツを掴んでいた。
午後一七時すぎに、システムエンジニア仲間が続々とやって来た。普段常識知らずを全面に押し出してクリエイティブな姿勢を見せ、各部門から煙たがられ、一方で尊敬される面々だったが、流石に病棟では大人しい。
三人が持参したヒマワリのアレンジメントをベッドサイドの床頭台に置き、猫戸は立川の足元へ移動して、仲間を奥へ
「おい、お前が居ないからスロット行き放題で仕事進まねぇよー」
酷い内容に思わず全員が笑いを堪える。続いて、藤岡が最新の仮面ライダーの安そうなソフビ人形を出して立川の手に握らせた。
「立川さーん、仮面ライダーが明日の放送で急展開迎えるんですよぉー、予告見たでしょー」
呼びかける藤岡に割り込んで、金森が言った
「それよか隣のブースが静かだと仕事し辛いんで早く戻ってきてくれませんかね。あと、某Kさんが仕事しないんで」
某Kさんが空笑いをして反論した。
「別に、立川がいるから仕事するわけじゃないぞ」
「そんなん分かってますよ、少なくとも仕事しないことを指摘する人が居ないっていう話ですよ」
「そうそう、早く戻ってきてくれないとスロットで全財産スッちゃうから」
全員でふふふと笑う。立川の左右に別れて座り、それぞれが手を擦ったり、身体を触ったりしながら立川に語り掛けた。楠原が苦笑とともに呟く。
「なぁ立川ァ、こんだけ皆に揉まれたら、ぐにゃぐにゃになっちゃうぞ」
楠原の言葉に笑顔を見せながら、猫戸は立川が皆から愛されていることを痛感した。家族からも、仲間からも、上司からも、上司の家族からも。
同僚たちと一緒に立川の身体を擦りながら『お前は戻ってこないといけない、いつまで寝てるつもりなんだよ』と、その手に力が籠った。
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