第18話「光」
◆展開、表現上詳細な闘病の描写があります。
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【七日目 日曜日】
病棟の面会開始時間から少しして、猫戸は病棟へ向かった。ナースステーションで受付をしている最中から、立川の居る病室が
「龍造、龍造」
今まで静かに現実を受け入れていた祖母の、震える声が病室の外まで聞こえてきた。咄嗟に猫戸は病室へ向かう。一歩一歩が遠い。心臓を打つ音は途端に早くなった。
病室ではカーテンが開かれ、女性看護師二名が立川に向かって何かをしていた。そのせいで、立川が見えない。回り込もうとすると、祖母の潤み見開かれた目が一瞬猫戸に向けられた。
「――あ」
猫戸の唇から声が漏れる。
立川の薄く開かれた瞼から、瞳が呆然と
「……」
僅かに唇が開く。何も言わないが、明らかに何かを言おうとしている。祖母が立川の手を強く握り。泣きながら自分の額に押し付けている。
唖然とする猫戸の視界がみるみるうちに霞み、頬に涙が流れ落ちた。唇が震えてうまく動かず、呼吸も上手く機能しない。
「た、ちか……」
声の調節が出来ず大きな声を出しそうになり、右手で口を押さえると、肺が痙攣して激しい嗚咽が漏れた。吐く息は途切れ、吸う息で唇が震え、倒れそうになり後ずさる。口を塞いだ手を伝い、肘から涙が床に落ちた。
「立川さーん、分かりますかー、見えますかー」
女性看護師がライトを立川の目にちらちらと当てると、立川がまぶしそうに眉間に皺を寄せた。一人の看護師がパタパタと病室を出て行く。
「――ぇ」
小さく開いた唇の形そのまま、
「ぃてぇ」
「立川さん、分かりますか、お名前言えますか」
「いてぇ、いってぇ」
立川は「いてぇ」しか言わない。その薄く開けていた瞳から涙が流れ落ち、顰められた眉がより強く寄った。
「いてぇ」
猫戸は唇を噛んで天井を仰ぐと、クラッチバッグから白いハンカチを取り出して自分の涙を拭いた。それでも止まらない涙と漏れ出る嗚咽を抑えるように、ハンカチで口と鼻を覆う。そうして背筋を伸ばし、祖母へ向かって「私は、皆さんに連絡してきます」と告げた。
ナースステーションの前に設置された電話コーナーから、猫戸は立川の父親へ電話をした。電話先で、父親の嗚咽が響く。低く、途切れ途切れに「ありがとう、ありがとう」と父親が呟いた。龍二へはSNSで連絡をし、社長へは社用スマートフォンから電話を掛ける。電話口の向こうで、聞いたことのない社長の
立川は診察と処置を受ける為に診療室へ移された。祖母が付き添い、猫戸は一人じっと病室で待っていた。
一時間程でストレッチャーに乗せられ、戻ってきた立川の意識は明瞭ではなく、ぼんやりとした視線を固定したまま動かない。猫戸が青ざめて立ち上がる。
「大丈夫、大丈夫よ、猫戸さん。今は、痛みを抑えるお薬を多く入れてるんですって」
祖母が説明をしたが、猫戸の不安は取り除かれない。真っ赤になった瞳を瞬かせて立川の顔を覗き込む。
「立川、たちかわ、たちかわ」
呼びかけると、のろのろとした視線が猫戸を捉えた。立川の手が微かに動き、指先がシーツを掻いた。祖母がまた涙を零しながら「ほら、ほら大丈夫よ、大丈夫」と笑った。
その日の立川は眠る事とぼんやりと目を開く事を繰り返していた。父親と、部活を早退してきた龍二がやってきて、立川が目を開くたびに大喜びをした。
翌日、猫戸が仕事を終えて病室に行くと、立川はいつものように上半身をやや起こした状態のベッドに横たわっていた。瞳を閉じて静かな寝息を立てている。
「立川、来たぞ」
起こさないようにそっと言って、猫戸は新しくガーベラで作ってもらったアレンジメントを床頭台に置いた。入院が始まった時に買ったカーネーションのアレンジメントは、艶も無くなり、花弁が元気なくうなだれ始めている。
猫戸はそれを手に持ち、カーテンを開いて出て行こうとした。
「ははへの、あい」
背後からの言葉を受けて、猫戸が立ち止まった。
「――すてる?」
突然投げ掛けられた小さな問いかけに、背中がゾワリと震える。
先ほど寝ていたそのままの姿で、瞳を開けた立川が「よぉ」と小さく言った。猫戸の目が見開かれたが、何も言わない。立川の口角がたどたどしく持ち上がった。
「ねこと」
立川が目を細めて、眩しそうに猫戸を見る。猫戸は震える吐息を抑えながら、パイプ椅子にアレンジメントを置いた。
「立川」
ベッドに手を突き、空いた手で立川の顔に触れる。立川の頬の筋肉がピクリと反応して頬に緩やかな膨らみを作った。事故以来、見たくても見られなかった立川の表情を見て、みるみるうちに猫戸の瞳に涙が溜まっていく。立川の手が弱く動いて、ベッドに置かれた猫戸の指に、指先を触れさせる。唇を噛む猫戸が鼻から大きく息を吐いて笑うと、困ったように眉を下げて言った。
「おはよう、立川」
立川が小さく頷く。猫戸は崩れ落ちるように立川の布団の上に上半身を預けると、声を殺して泣いた。
その日は、猫戸が色々喋り掛けても明確な返答は無かった。ぼんやりと喋ることと、痛みに苦痛を訴える事、そして薬が効いてきて安らかに眠っている事を繰り返した。
翌日から、意識を取り戻した立川の戦いが始まった。事故の時の記憶の欠如はあったが、それ以外の記憶には問題が無い様子だった。後ほど発覚する
「あー、兄ちゃん、無理だからやめろって」
龍二がしかめっ面で言ったが、立川は「うるせぇ」と一蹴すると、また壁伝いにすり足で一歩進んだ。二日前に総合病院のリハビリテーション科に転棟した立川は、尋常ではない気合でリハビリに挑んでいる。その様子を見ていた男性看護師が、呆気に取られた顔で息子を見詰める父親を、柱の影に連れ出して言った。
「立川さん、龍造さんの事なんですが」
「はい」
「先生から、やりすぎるなって言われてますよ」
「えぇ……?」
「肋骨も折れてるから固定してますけどね、みてくださいよあの姿……」
困惑した表情の父親が、看護師に目をやる。呆れた様子で看護師はマスクの中に溜息を吐いた。
「あの気迫に、他の患者さんがビビッちゃうんですよね……」
看護師の言葉に思わず笑いそうになりながら、父親は「スミマセン」と謝った。
立川が必死で汗をかいているそこに、見舞いの猫戸が現れ、ギョッとした顔で、汗だくの立川を見て立ち尽くした。遠目に猫戸を確認した立川が『おーいねことー』と口パクをしながら手を振っている。龍二が猫戸に気づき、車椅子をガラガラと押して近づいた。
「こんちは」
「こんにちは、龍二くん」
「リハビリ、廊下でやってるの?」
「そう、看護師さんに、ポールのやつ他の人も使うからって言われたら外に出てやり始めた」
龍二の説明に、フフフと笑いながら猫戸が立川に近づいた。
「頑張ってるな、立川」
「おう、当たり前だろ」
立川は壁に張り付くように立っていたが、親指を立てて悪戯坊主のように笑った。龍二が立川の背後に車椅子を置くと、父親のところへ歩いて行く。「ははは」と笑う猫戸は、立川と絶妙な距離を取っていた。立川が笑顔のまま、言った。
「――猫戸」
「なんだよ」
「もうちょっと近づけないのか」
「嫌に決まってんだろ」
猫戸も笑顔のままで答える。立川の頬からTシャツにボタボタと汗が滴り落ちたのを目撃して、その頬がヒクついた。立川が不服そうに口を尖らせる。
「昏睡だった時は、色々してくれたのに」
「!!」
猫戸はギクリとして全身を硬直させた。立川は、どこまで意識があって、どこまで気づいて、どこまで知っているのか。
ちらりと上目遣いで、探るように立川が言った。
「――寝てる俺にキスしてくr」
「してねぇよ馬鹿が」
きっぱりと言い切ると、猫戸は蔑むような瞳で立川を見た。
その日、廊下で歩行訓練をする立川に向かって、車椅子に凭れて立つ猫戸が激を飛ばし続けた。「全然歩けてねぇぞ」「小股だなオイ」等と、適当な煽り文句をブーブーと言い続けている。最終的に、猫戸も看護師に呼び出されて「やらせすぎないでください」と叱られた。
数日後、終業した猫戸は、病院から許可を貰ったノートパソコンを病棟に持参した。無線やLANの使用は禁止されたため、通信できないパソコンそのものを触る事になるが、それでもパソコンを弄る事ができるという事実に立川は喜んだ。
立川のブースにあった本を何冊かとノートパソコンを持ち、病室を覗いて声を掛けるが返答が無い。もちろん、カーテンを開けても立川の姿は無かった。全ての荷物を持ったままセンターへ行くと、入り口の横に立川がいた。車椅子に座って背を向けている。
「立川」
猫戸の呼びかけに立川が顔を上げると、車椅子を巧みに操作して振り返った。
「おぉ、猫戸、毎度悪いな!」
明るく言ったその瞳が盛んに瞬いている。瞼を赤くさせて、ライトの光を多分に受けた瞳が煌めいた。猫戸は一瞬口ごもったが、口を大きく開けて笑顔でパソコンバッグを持ち上げて見せた。
「ほら、ご
「うあぁ、猫戸さまぁ~」
立川が笑った。猫戸が目を細めて微笑む。
「部屋に戻る?」
「――うん、パソコンが来ちゃあなぁ」
猫戸は自然に立川の背後に回り、車椅子を押して病室へ向かう。途中アイシング用の保冷剤をナースステーションで貰うと、肩を貸してベッドへ立川を寝かせた後、荷物を下ろした。
立川は「いててて」と言うと、大きく溜め息を吐いた。そうして、保冷剤を腰や太腿の上に置いた。
「冷やさないと、熱持っちゃってダメなんだって。痛いし」
そう言って、保冷剤を押し付けている。猫戸はノートパソコンをバッグから引っ張り出すと、電源を繋げて立川に手渡した。
「ほら、アイシングしといてやるから、パソコン触れよ」
言って保冷剤を持つ立川の手を退かせて、支えた。――が、立川はパソコンを開いたきり触ろうとしない。しばらくじっと待っていたが、猫戸はそっと立川の太腿に触れた。
「――立川、今日は止めておくか?」
その言葉に我に返ったように、立川がゆっくりと猫戸を見て、口元に笑みを浮かべた。
「うん、疲れてるのかな、今日はやめとくわ」
「分かった」
猫戸が微笑んで、静かにパソコンを片付ける。その横顔へ向かって、立川が言った。
「会社の皆は元気にしてる?」
「うん、金森さんは相変わらず『楠原さんが仕事しない』って毎日怒ってるぞ」
「あはは、監視の目が減ったからかな」
「そうだな」
猫戸は笑顔で答えると「パソコン、この真ん中の引き出しに入れておくぞ。鍵番号は一旦、コレにしとくから」と言って、暗証番号を書いたメモを立川に渡した。立川はそれを受け取って、
猫戸が改めて椅子に座り、保冷剤を当て直すと、立川が切り出した。
「今度の日曜日、康男さん一家が見舞いに来てくれるの聞いてる?」
「うん」
「俺はさ、別に、会いたいんだけど……もう、謝られるのも悲しい顔されんのも嫌なんだよ」
俯いたまま、立川が呟く。
「謝罪も同情も聞き飽きた」
それは、意識を取り戻してから初めて出た、立川の本音だった。猫戸がアイシングしながらじっと聞いている。
「なぁ、猫戸」
「ん?」
「日曜日、一緒に居てくれないか」
猫戸は顔を上げ、立川を見て小さく口を開いたが、良いとも悪いとも言わない。ただ、困惑した表情を浮かべた。
「猫戸が佐夜子さんとどういう関係になってるのか、もう俺には分かんないし、聞けるとも思ってない。酷い事言ってるかもしれないけど、はっきり言ってどうでもいい」
「立川……」
「不安なんだよ。怖いんだ。皆が俺をどう見るのか、俺を見てどう思われるのか、すっごい怖い」
立川がゴクリと唾を飲み込んだ。
「お前の気持ち無視して、勝手な事言ってると分かってる」
そう言う立川の手は、強張るようにメモを掴んでいた。猫戸がそっと、その手の上に、保冷剤で冷えた手を重ねて言った。
「一緒にいる」
小声ながら、その答えは立川の耳にはっきりと届いたはずだった。立川が視線を反らすと、猫戸からは表情が確認できなくなる。しかし、震える立川の肩が、胸の中に潜む本当の苦悩を吐露していた。
猫戸がそっと立川の腕に触れた。
「立川、大丈夫だ、俺が傍にいる」
立川は答えない。猫戸は、触れた腕を優しく擦って微笑んだ。
「傍にいるよ」
身体を震わせる立川が「あーもう、いてぇよ、肋骨も折れてるから。――涙のひとつも出るだろ」と鼻を啜りながら言った。
猫戸は日曜日の『社長一族の見舞い』に際して、事前に文恵に対して三つのことを話した。一つは、立川が非常にナイーブになっていること。二つ目は、謝罪をしすぎないで欲しいこと。三つ目は、悲しい顔をせずに笑顔で会うこと、だ。
「私が仕切るようで、本当におこがましいのは承知の上です」
そう言って頭を下げた猫戸に向かって
「猫戸くん、ありがとう。言ってもらって良かった」
と文恵が微笑んだ。
猫戸はそれに微笑みと会釈で応えつつも、晴れない胸の内を抱えていた。立川の訴えが上手く伝わったかは心配だった。それと同等に、佐夜子と会わないといけない状況が控えている。よりによって、立川を切欠にその機会が生まれているのだ。
そうして日曜日がやってきた。猫戸が事前に立川の所へ赴くと、立川はすでにリハビリテーションルームにいた。室内の隅に設置されたベンチに座っていたが、猫戸の姿を見止めるなり、満面の笑みで手を振る。
「その、犬みたいな大歓迎やめてくんねぇか」
近づきつつ恥ずかしそうに言う猫戸に向かって、立川は笑い返している。
「おはよう!見て見て、俺、松葉杖で普通に歩けるようになったよ」
まるで少年のように言って、立川はベンチの横に立てていた松葉杖を掴んだ。そうして上手く体重を移動させながら、松葉杖に体を預けつつ、立ち上がった。表情は度々苦痛に歪んだが、それでも喜びが上回るのか止めようとはしない。
「す……すごい!」
猫戸は大袈裟に驚いてみせた。立川が自慢気に鼻から息を吐く。
「すごいだろー、はは……いてぇ、いたたた」
「大丈夫か?」
「あぁ、うん。足よりも肋骨が痛い」
松葉杖の先端を床に押し付け、スクリューを入れた左足を庇いながら、立川が3歩歩いて「ほら、歩ける」と振り返った。始めに立川が言った『普通に歩ける』には程遠い、頼りない歩みだったが、猫戸が優しい微笑みでそれを見て、ふとした思い付きを切り出した。
「今日、康男さん達に会うの、外の広場とかじゃだめかな」
「すっごいイイな!俺も出たい!」
「お前が云々っていうよりも、康男さんたちが気を遣われるだろ、病室だと」
「うん、そんなのも含めて外に出たい!」
「結局
呆れて言う猫戸は、立川と顔を見合わせて互いに笑った。
立川がナースステーションで外出希望を申し出ると、主治医に確認して伝えますねと看護士に言われた。
病室に戻ると、買い溜めしてある体拭きシートで体を拭こうとした立川が、
「ちょっ……!テメェ何やってんだよ!」
咄嗟に視線を逸らして背を向け、猫戸が声を荒らげた。立川はモソモソと動きながら、猫戸を振り返っている。
「んぁ?」
「突然脱ぐな、馬鹿が!」
「えー?猫戸は細かいなぁ……」
小さく不満を述べると、立川が続けて「はーいじゃあ次ズボンいきまーす」と言った。猫戸が背を向けたまま、笑いを堪えている。
「報告すりゃいいってもんじゃねー」
「なんだよ、どうすれば満足なんだお前」
「最初に脱ぐ前にひとこと言え!」
言い捨てると、猫戸は立川のベッドの傍から離れて、ナースステーションの前にあったソファまで移動した。
一五分ほどで、立川は松葉杖を突きながら、猫戸の居るソファコーナーに現れた。いつものTシャツではなく、ストライプの綿シャツに、カーゴパンツを着用している。
猫戸は目を丸くしてそれを見ていた。
「びっくりした」
「何が?」
「久々に、ちゃんとした服装の立川見た」
猫戸の感想に、立川が笑う。
「俺だって、久々にちゃんとした服着たよ」
そこに、女性の看護師が近づいてきた。
「立川さん」
「あ、ハイ」
「今日の外出、先生が問題ないって言ってたので、出ても大丈夫ですよ」
「本当ですか!やった!」
瞳をキラキラと輝かせる立川に向かって、看護師が笑みを浮かべて言った。
「今日はおめかしですね、似合いますよ!」
「えー?そうですか?ジャージとかパジャマ以外、久々に着たから緊張しますよ」
「もし、足に痛みが出たりしたらすぐ言ってくださいね。外出前には、ナースステーションで外出願いに記入するの、忘れちゃダメですよ」
立川は「はーい」と返事をしたが、今にも涎を垂らしそうなデレデレした顔で、去っていく女性看護師を見ている。猫戸は、完全に張りついた笑顔でそれを観察していた。
「――立川、鼻の下が伸びてんぞ」
「ハッ」
立川がサッと口に手をやった。
「自覚あんのかよ」
猫戸が冷ややかに言うと、立川が頭を掻きながら顔を赤くさせる。
「……お前のそういうところ、正直ムカつく」
小さく言った猫戸の言葉が聞き取れなかったようで、立川は何度か耳を傾けて「何?なんて?」と聞き返したが、猫戸は二度とそれを言わなかった。
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