第3話「女子」と「男子」

 数日後、立川はいつものように仕事の合間を縫って昼食を取ろうと立ち上がった。ブースを三つ隔てた所にいる先輩の楠原が、通りかかった立川に声を掛ける。

「お、立川、メシ?」

「はい」

「この間お前が行きたいって言ってた焼き鳥丼のとこ行かねぇ?」

「行かねぇ!」

 元気よく答えた立川に、楠原が噴き出した。

「なんでだよぉー」

「俺、猫戸とメシ行くんで!」

「どうせ断られんだろ!」

「うっさいっす!」

 楠原が口を尖らせて溜息を吐いた。

「じゃあナンパに成功したら、帰りにコンビニでカルビ弁当買ってきて」

「はーい」

 立川は笑顔で手を振ると、当然の流れで社長室を覗き込んだ。猫戸が立ち上がり書類を整理している。

「猫戸、昼メシいかねぇ?」

 衝立に凭れながら立川が声を掛ける。猫戸は視線すら上げずに言った。

「行かない。今忙しいんだ」

 奥のデスクで受話器を手に取っていた社長が声を上げる。

「猫戸、いい加減に行ってこい!後の予定が詰まってるって言ってたのお前だろ!」

「康男さん、私の食事なんてどうでもいいんですよ」

「良くない、倒れられたら労基にいろいろ言われるのはこっちなんだぞ」

 社長は猫戸を思いやるというよりも、体裁を気にするタイプだった。追いやるように手の甲を振って、固定電話の番号をプッシュしながら「行け、行け」と口パクをしている。猫戸は溜息を吐いてクラッチバッグを手に取り、一礼して社長室から出てきた。立川は嬉しそうに笑って、しっぽを振る犬のように猫戸の顔を覗き込む。

「どこ食いにいく?」

「ちょっと待て、全然考えらんねぇ」

 眉間に指をあてて擦りながら、猫戸は会社を出た。共用の廊下で同じフロアにある別企業の人間とすれ違うと、眉間から指を離してすぐさま笑顔を振りまく。続く立川が首をちょいと下げるだけの不躾な礼をした。猫戸の表情がピリッと変化するのと、先方が声を出すのが同時だった。

「お疲れさまです。あ、立川さんこれからメシ?」

「そうなんすよー、遠藤さんはその様子だとまだっぽいッスね」

 遠藤と呼ばれた作業着の男は、広い額をごしごしと撫で擦りながら苦笑いを浮かべる。

「現場に呼ばれちゃってさー」

「じゃあ、これから行くんすか!大変ですね!」

「まぁ、想定内だけどね」

 遠藤が右手を上げると、笑顔で去っていった。その背中を見ながら、猫戸がぽつりと言う。

「立川、あの人と知り合いなの?」

「知り合いっていうか……まぁ、廊下で会って喋るようになったかなぁ」

「入社して何カ月だよお前」

「六カ月ですよ、先輩」

 エレベーターホールでエレベーターを待ちながら、二人はだらだらと喋っている。

「六カ月で他の企業と仲良くなれるなんて、すごいな」

 猫戸の声には感嘆が混じっていた。エレベーターが到着すると、二人が乗り込む。足を踏み入れただけで揺れる機内は、昭和四七年製造の時代を感じるものだ。一階のボタンを押した立川がふと真剣な表情で猫戸を見た。

「猫戸」

「うん?」

「俺は、入社一カ月で猫戸先輩に告白してんだけど」

 猫戸は立川を見上げたまま何も言わない。立川がずい、と身を寄せた。

「聞いてる?」

「うるせぇな、何も覚えてねーよ」

 迷惑そうに言って、猫戸が肘で立川のみぞおちを衝いた。そしてエレベーターが一階に到着するなり、先陣を切って出ていく。後を追う立川は前方を行く男の後ろ姿を苦笑しながら眺めた。陽に透ける薄茶色の髪が、歩みに合わせてふわりと揺れている。その隙間から遠慮がちに姿を現す耳は、やや赤みを帯びていた。


 立川は、見た目で好感を抱き、そこから始まった恋が間違いで無かった事を、ブリ大根を頬張りながら実感していた。テーブルを挟んで対面する猫戸はしゃんと背筋を立ててイスに座り、無駄の無い箸使いでハンバーグを口に運んでいる。所作の美しさはさることながら、立川が自身の想いを満足させるに至ったのはそういった外面的な事ではない。

 五カ月前に中途入社をしてきた厳つい男に突然告白をされた猫戸は、上辺は平静を取り繕っていたが、その本心がどうだったかは察するにあまりある。立川本人が、あの状況を振り返っても自分自身で無茶な事をしたと反省するレベルだ。猫戸にとっては、理解できない展開に対して相手の隙を必死で探し「生意気な中途がふざけてくる」だとか「人をゲイ扱いしている」といった安易な終着点を求め害意を抱く事が、自身の安息に繋がる手っ取り早い方法だった。

 しかし猫戸は、立川を避けたり言いふらしたりすることもなく、何も変わらなかった。手っ取り早い解決を求めないが故に悩んだり思うところはあるだろう。だが、それだけ真剣に、あの屋上での出来事を捉えていてくれているのではないかと立川は考えていた。そんな猫戸の心根に触れる度、彼を選んだ誇らしさが立川の胸に去来した。

「何見てんだよ、金取るぞ」

 いつの間にか放心していたらしく、立川の箸が掴んでいたはずのブリが皿に落ちている。

 はっと顔を赤らめて摘まみ直し、ブリを口に入れると白飯を掻き込んだ。咀嚼をしながら口を開く。

「ハンバーグ美味い?」

「口にモノ入れて喋んな」

「……」

 立川は顎が摩擦で燃えるかと思うほど素早い咀嚼を繰り返し、口の中を空っぽにしてから再度聞いた。

「ハンバーグ美味い?」

「美味いよ」

「ちょっとくれよ」

「嫌だ」

「俺の大根あげるから」

「より一層嫌だ」

 皿に残っていたハンバーグの最後の一切れを、猫戸は容赦なく食べ尽くした。そして味噌汁を一口飲むと、手を合わせて小さく「ご馳走様でした」と呟く。満足そうにフゥ、と息を吐いて、まだ食事を続けている立川を見る。

「なんで立川は、俺が嫌だって言うの分かってんのに、ナメた事聞くの?」

 突然の質問は、まるで小学生の少女がいじめっ子男子に聞くような内容だった。口調こそ女子小学生のそれではないが、あまりの稚拙な疑問に立川は思わずニヤニヤとした笑みを浮かべる。猫戸が眉間に皺を寄せ「うわ、キモい」と遠慮なく言った。

「猫戸が嫌がるのがわかってるからじゃん」

「はぁ?」

「お前だって好きな子くらいいただろ」

 言って、立川は箸を置くとナプキンで口を拭いた。

「はー、美味かった」

「え?好きな子と俺が嫌がるのがどう繋がるんだ?」

 本気で不思議そうな顔をしている猫戸に笑いかけると、立川は「出ようぜ」と促した。

 二人が入った、ビル街にある洒落たカフェのランチを食べにくるのはOLだけでは無かったが、その分布図は圧倒的にOLが優勢だ。窓側の席では中年のサラリーマンが一人、身体に気を使ってか五穀米のロコモコ丼を食べていたが、やはり肩身が狭そうにしている。そんな状況と分かっていながら二人がこのカフェに食べに来たのは、潔癖症の猫戸を気遣っての事だ。普通の人では大して気にしないような些細な事でも、猫戸は躊躇し選択から外してしまう。

「まだ時間あるな」

 カフェを出た立川が腕時計を見ながら言うと、猫戸は無表情で答えた。

「俺には無い。早く社に戻らないと」

 言うなりスタスタと歩き始める。それを追い、隣に並んで立川が猫戸の顔を見た。猫戸は一向に歩く速度を緩めない。立川が焦りを伴って提案する。

「じゃあ会社の近くのスタバならいいだろ」

「いや、社に戻らないと」

 対向から歩いてきた男女三人とぶつかりそうになり、立川が慌てて体を避けた。その一瞬だけで猫戸との間には距離ができる。あっという間に、自社の入る年期のいったビルに近づいていた。

「いやいやいや、待て待て、別に康男さんに呼ばれたわけでもないのにこんなに早く――」

 ビルに到着し、その灰色の建物内に吸い込まれるように向かった猫戸の手を立川が不意に握った。

「!」

 猫戸が振り返り、荒々しく手を振り払った。立川が慌てふためき、一歩下がる。

「ごめん、ごめん、袖を掴もうとしたんだけど……」

 その眼は正直だった。そして、まるでいじめっ子の男子が、不慮の事故により女子のパンツを見てしまったかの如く狼狽えていた。猫戸はビルの薄暗がりで、怯えたように身を小さくしている。しかし少ない光ですら貪欲に反射する大きな瞳が、獣のように立川を睨んでいた。立川が空笑いをし、その横を通り過ぎてエレベーターに乗った。

「いや、うん、ごめん、ごめん猫戸。ほら、戻ろう」

 猫戸はやや青い顔をして、すたすたとエレベーターに乗り込んだ。そしてクラッチバッグから抗菌ジェルを取り出すと「ブギュゥ」と悲鳴を上げるジェルを容赦なく押し、掌にてんこ盛りの量を絞り出して両手に擦りこんだ。その様子をつぶさに観察していた立川から、大きな溜息が漏れる。

「そ……そこまでされると流石に俺もショック受けるわぁ……」

「悪いな、癖なんだよ」

 手にジェルを念入りに擦り込みながら、バツが悪そうに猫戸が声を絞り出す。そして、すっかりジェルが浸透した手を合わせて握った。

「別に立川だからやるとか、立川じゃないからやらないとかそういうのじゃない」

 エレベーターは三階で停まると、二人だけの空間を早々に放棄して知らない企業の人間を乗せ、ようやく四階に着いた。エレベーターから降りきらないうちに、猫戸が切り出す。

「立川さぁ、今日本当は食べたいものあったんじゃないの?」

「え?ハンバーグとか?」

「っつーか……なんだろう、うん」

 言いづらそうに猫戸が視線を泳がせる。給湯室に寄ると、二人は歯磨きを始めた。社員の殆どはトイレで歯を磨いていたが、猫戸はトイレで歯を磨く事ができない。何時ものように給湯室で歯を磨き終わると、猫戸はシンク内を濡らしたキッチンペーパーで拭き、最後に乾拭きをしながら言った。

「ハンバーグじゃなくて」

「え?猫戸まだその話してんの?」

「うん」

 キッチンペーパーをゴミ箱に捨てると、ウェットティッシュで自分の手を拭いている。そうして暫くぶりに立川を見上げた。何を言いたいのか解りかねている立川に向かって、猫戸は何かを伝えたい様子だった。

「楠原さんと喋ってたの、ちょっと聞こえたからさ」

「楠原さんと何喋ったかなぁ」

 頭を掻きながら片眉を上げて唸っている立川に痺れを切らしたのか、猫戸が言い切った。

「焼き鳥丼食べたいって言ってた」

「あ、そうだな、前に食べたいって楠原さんと喋ったけど」

「なんで俺にはそれ言わないんだよ」

「だって……」

 まるで不手際を責められる彼氏のように、立川は唇を尖らせていた。その時給湯室にプログラマーの同僚がやってきた。あまりコミュニケーションを取らない、まさに「巣」から殆ど出てこないタイプの人間だ。「うっす」と立川は挨拶をし、二人で共用の廊下へ出た。やや声を抑えて、立川が続けた。

「だってそこ、創業四十年オーバーの老舗焼き鳥店だぞ。漬けては焼き漬けては焼き続けて四十年やってんだぞ」

 聞いている先から猫戸の顔が青ざめていく。

「厨房内は当たり前に、店の天井とかも脂がしみ込んで茶色く変色したりネトネトしてたりすんだぞ、メニューなんかもう染みだらけで……」

「もういい」

 猫戸が口を押えて眉間に皺を寄せている。瞳には涙すら浮かんでいた。立川がふざけている様子ではないことをちらり見ると、言った。

「俺が断ると思ったから、言わなかったのか?」

「うん、まぁ断るだろうとも思ったし、断わられるのも怖いしな」

 立川の返答に対して、猫戸は目を見開いた。まるで予想外の答えに驚いた様子だ。給湯室から、同僚が出て行く。対峙している二人を不審そうに交互に見遣ると、手元の飲み物を零さないように廊下をヨタヨタと進んでいった。

「わかんねーよ……」

 猫戸が口から手を離した。たった数秒見えなかっただけで、その唇は圧倒的な存在感で立川の眼中に迫る。

「断られるのが怖いくせに、俺に色んな嫌がらせして来やがんのか?」

 猫戸の眉がぴくりと動いた。唇に気を取られていた立川はそれに気づかない。その形の良い唇が、真っ白な歯を見せない程度に小さく動いた。

「俺、お前のことやっぱりわかんねーわ」

 猫戸はそう言うと、くるりと背を向けて会社へ戻っていく。残された立川が、猫戸が何を言ったのかを頭で逡巡し顔を上げた時には、もうその背すら確認できなかった。

 猫戸の後を追うように帰社した立川が楠原のブースを通りかかった時に、楠原が目ざとく声を掛けた。

「立川ぁーおかえりー」

「戻りました」

「弁当は?」

「?」

「キョトン顔すんなよ、弁当買ってきてくれてねーの?」

「忘れました」

「えええぇぇ!」

 ショックで楠原の動きが止まる。その可哀相な先輩の姿に同情の色を一切浮かべず、能面のような表情で立川が言った。

「よりによって先輩が焼き鳥丼の話なんかするからですよ!」

「なんの話してんだよお前!」

 本当にお腹がすいた、もう死んでしまうとぼやく楠原の為に、立川がコンビニへ向かったのはそれから一時間後の事だった。

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