第2話「自覚」と「発覚」

◆第二章「自覚と発覚」

 立川が猫戸と出会ったのは、半年前だった。他社でシステムエンジニアとして働いていた立川だったが、母親が急逝した事を切欠に実家のある千葉県に戻ることを決意した。父親と祖父母が住む実家から近からず遠からずの場所に賃貸で部屋を構えると、経歴を活かした仕事をすべく就職活動を行い、そして縁があったのが今の「株式会社ジモテック」だった。

 中途入社した立川は、社長秘書である猫戸を一目見た時に心臓が跳ねる感覚を久々に味わった。媚びる事のない鋭い視線を突きつける美しい青年に対する感情が恋だと自覚するのに、時間は掛からなかった。元々単純な立川は、その感情を自覚するなり猫戸に告白をした。入社後たった一カ月の事だった。

「何言ってんの」

 会社の入るビルの屋上で切り出された話を、猫戸は狼狽えもせずに受け止めていた。相変わらずの冷たい視線が立川を刺す。強く吹いたビル風は、立川の頬を打ち吹き抜けた。

「いや、俺お前の事気になっちゃってさ」

「それがどうして付き合うに繋がるんだよ」

「繋がるだろ?」

「繋がんねぇよ、ふざけてんのか」

 テヘヘと笑って頭を掻く立川を見る猫戸の瞳は、相変わらず氷のように冷たかった。

「俺ゲイじゃないんで」

「ちょ、待っ……」

 言い放ち、立ち去ろうと踵を返した猫戸の手を立川が掴んだ。瞬間、猫戸はビクリと身体を震わせて手を引いた。その手は何かを掴もうとする寸前のような状態で、大きく広げられたまま頭上に掲げられている。立川が驚いた様子で目を見開いた。

「……ごめん?あれ?どうした?」

「なんでも、ない」

 顔色の悪い猫戸が声を絞り出している。その様を見ながら、立川は今まで持っていた疑念を口にした。

「猫戸さ、お前……潔癖症なの?」

「……」

 猫戸は黙ったまま、そして手も頭上に掲げたまま、よろよろと屋上から出ていった。疑惑が確信に変わったその瞬間を、立川は今でも、いつでも鮮明に脳裏に描く事ができる。


 立川は、廊下に打ち捨てられたタオルハンカチを拾って溜息を吐いた。潔癖症だと分かってから、猫戸を見る時間は大幅に増えていた。有難くも、職場は「立川の巣」の作りであるため、意識して猫戸を視界に入れない限りは一挙一動に翻弄されることはない。しかし作業を中断して集中が途切れると、立川は思わず猫戸の様子を見に社長室まで何度も足を延ばした。

 社長室とは名ばかりの、衝立で区切られただけの場所に社長と猫戸が居る。そこに、女子社員が寄ってきた。

「康男さん、日本茶です」

 盆の上に乗せた湯呑みを、デスクにそっと置いた。社長は顔を上げると「おう、サンキュー」と笑みを見せて、すぐに業界紙に視線を戻す。女子社員はその流れで猫戸の前までやってきた。

「猫戸さん、雨も降ってきて冷えますし……よければ紅茶どうぞ」

 女子社員の声色は、聞いてすぐに分かるほど甘えたものだった。細い指でマグカップを持ち、猫戸のデスクの上に置く。立川はそれを見ながら『あーらら、やっちゃった』と思った。細い息を吐きながら猫戸が顔を上げる。

「ありがとう」

 女子社員を見て、微笑みながら続けた。

「康男さんに日本茶も出してくれたね」

「はい!」

「茶托はどうしたの?」

「……はい?」

「康男さんの机に直接置いたよね、湯呑み。普通は茶托を使わないかな」

「えっと……いつも、康男さんにお出しする時も特にご指定は無いので……」

 女子社員はやりにくそうに口をもごもごと動かした。猫戸は半ばあきれたような表情になる。

「茶托は、冷たい飲み物の時は絶対に使ってください。暖かい飲み物の場合でも、滴がデスクに落ちる事もあるから絶対に使ってください」

 腕を組みながら、衝立に凭れてその様子を見ていた立川が噴き出した。猫戸が顔を向ける。

「結局ゼッタイニ、ツカッテクダサイなんじゃねーか」

 立川が「絶対に使ってください」の部分だけ悪意のあるモノマネをして、がっはっはと笑いながら巣に戻っていく。助けられたように、女子社員は社長室から速足で出て行った。泣きそうな顔で後ろを付いてきた女子社員に向かって、立川が笑いかける。

「気にしなさんな!妖怪『茶托は絶対に使ってください』の事なんて忘れた方がいい」

女子社員は頬を染め、俯いた。女子社員にとって、立川はまるで正義の味方のように思えたかもしれない。しかし立川は自分自身の狡猾さを、驚きを以って感じていた。それは、先ほど彼女が猫戸の神経に触れるようなミスをした事が解った瞬間に沸き立ったほの暗い感情だった。彼女に対する同情や、助けてあげたいという正義感は少しも無い。ただ、想像の出来る猫戸の反応を思い描いて、彼女から漏れ伝わる好意をぴしゃりと遮断する光景に期待をしていたのだ。

『俺ってこんなに嫌なヤツだったか』

 思いながら、立川はまた巣に籠り始めた。


 午後六時を回り、就業の時刻になった。一部の人は身支度をして、早々に「お先です」と会社を出て行く。午後四時過ぎに降り出していた雨は、当然の如く降り続いていた。立川はプログラミングのデバッグ作業で唸りを上げるパソコンを前に、自身も伸びをしながら唸りを上げた。下ろした手に、空になったマグカップが当たる。立川はそれを持って立ち上がり、給湯室へ向かった。

「お、猫戸」

 猫戸が同時に給湯室に入ろうとしていた。給湯室はビルの四階に一カ所だけあり、同じフロアに所属する他の企業との共用部だった。流し台が一つに、ウォーターサーバーや電子レンジも設置してある。広いとは言い難いそこに猫戸と立川の二人が入ろうとすると、やや窮屈だ。猫戸は盆を持っていた。その盆には、空になった社長用の湯呑みと、手つかずの紅茶が入ったマグカップが乗っている。すっかり冷え切ったそれを流しに下ろす姿を見ながら、立川が揶揄うように笑って言った。

「飲まなかったんだ」

「飲まなかったんじゃない、飲めないんだ」

「可哀相に、あの子もこんな奴に無駄に労力注ぐ事になっちゃって、無駄に怒られてさぁ」

 立川が言いながらインスタントコーヒーを自分のマグカップに振り入れた。香ばしいコーヒーの香りが一瞬漂う。猫戸は立川を睨みつつ言った。

「そういやお前、俺の事妖怪『茶托使い』みたいな変な呼び方しやがったな」

 猫戸は社長秘書をしているが、それはあくまでも仕事だ。仕事から離れてしまえば、口が悪く眼つきも悪い、しかし相変わらず見目の良い男だった。立川がウォーターサーバーから湯を注ぎながら「あーちがうちがう」と否定する。

「違うわ、全然違う。妖怪『茶托は絶対に使ってくださ』……いてぇ!」

 またも悪意のあるモノマネをした立川の太腿に、猫戸が膝蹴りをした。筋肉と筋肉の間を突かれて立川がよろめく。手に持ったマグカップから、薄茶色いコーヒーが円を描いて飛び出て立川の手にかかった。

「あっつ!アッツい!」

「あはは、天罰だ、天罰」

 猫戸はぷっくりとした形の良い唇を上げて笑う。細めた瞳を長いまつげが縁取り、ガラス玉のような輝きを放つ眼球はその隙間からも澄んだ光をちらりと映した。立川は思わず目を逸らして挑発するように言った。

「そんなに嫌かねぇ、他人が淹れたもの」

「嫌だね」

「じゃあこれ飲む?」

 立川が自らの手を焼いたコーヒーを差し出した。猫戸が眉間に皺を寄せて笑いつつ吐き捨てた。

「あれぇ?俺、今他人が淹れたもの飲まないってはっきり言いましたよねぇ?耳詰まってんじゃねーのか」

「あ、ごめんごめん、忘れてた」

「他人が淹れたものも嫌なのに、立川が淹れたものはもっと嫌だわ」

 挑発に乗った猫戸はそう言って流し台に置いた食器を洗い始めた。キッチンペーパーを濡らして、洗剤を付けるとゴシゴシと磨く。備え付けのスポンジを絶対に使わないのは、潔癖症である猫戸のこだわりなのだろう。猫戸からの辛辣な返答に反応を示さない立川を、猫戸は振り返って見上げ、切り出した。

「今日のハンカチの件」

「うん?」

「社長の顔を立てるのに、無理に付き合ってもらって悪かったな」

 立川は面食らった。ただ、潔癖症の猫戸を揶揄うためだけに付き合ったような茶番だったが、猫戸は勘違いをして感謝すら抱いている。猫戸の純粋な心の内に触れた事が、立川の胸を温めた。

「――猫戸って他人を疑う事を知らないんじゃないか?」

 思わず口をついて出た言葉に自分でハッとして、立川が言葉を切った。猫戸は盆に据えた乾いたキッチンペーパーの上に食器を伏せると自嘲するように笑った。

「他人を信じてる奴は潔癖症なんかにならない」

 決して気分を害している訳では無い。ただ現実にそうだろう?とでも言いたげに猫戸が目線を送ると「じゃな」と言って給湯室から出て行った。すれ違い様、石鹸の匂いがコーヒーに勝る勢いで立川の目前に香った。湿ったビルの匂いにも、それは負けずに立川の鼻孔に残っていた。


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