第4話「危機」と「機宜」

 二人がカフェで食事をしてから、一週間が過ぎた。意味深長な猫戸の最後の言葉を切欠に、立川は猫戸の態度が変化している事に嫌でも気づかされる事になった。冷たい、淡々とした態度は変わらないのに、その中には今までに含まれなかった「立川への苛立ち」「諦め」のようなものが感じられる。それが一体何なのか立川が理解できる筈も無かった上、たちが悪い事に猫戸自身が変化に気づいていない。以前のように易々と猫戸に声を掛ける事は憚られた。

 それゆえ、立川は今日も公園で一人コンビニ弁当を食べている。後から出てきた楠原とばったり出会ったが為に、二人でベンチで仲良く弁当を広げている状況になった。穏やかな春の陽気が公園を満たしている。公園は人気のランチスポットだったが、一般企業の休憩時間とずらして出れば、さほどの混雑でもない。

「うち、新入社員取らないんですかね?」

 ぼんやりと目の前に広がる光景を見ながら立川が言った。楠原が驚いた様子で立川を見る。

中途おまえ採用してるのに、そんな余裕あるわけないだろ」

「そうでしたね」

 笑って、立川は食べ終えた弁当の空容器を袋に詰めた。「先に戻りますね」と言おうとして口を開けた時、楠原の社用スマートフォンが鳴った。楠原は食べかけの弁当を膝から降ろし、それに応える。

「はい、楠原です」

 電話口の向こうから、張り詰めた明朗な声が漏れ聞こえる。猫戸だった。会話の内容までは聞き取れなかったが、楠原は黙って聞いた後、首を傾げた。

「うん……え?先方はそう言ってるの?」

 まっすぐに前を向き、しかしその視界に入るもの一切に意識を奪われない楠原の様子を見て、咄嗟に立川が楠原の食べ残した弁当の蓋を閉めコンビニの袋にしまった。二人はふと目くばせをすると、すぐさま公園を後にした。


 会社に戻ると、待ち受けていたのは営業管理課の文恵ふみえだった。一族経営をしている株式会社ジモテックの核となる部分を、社長の愛娘である文恵が担っている。文恵は顎で社長室を指した。

「楠原さん、早く」

 楠原は、言われる前にすでに社長室へ向かっていた。向かうに決まっているのに言わずに居られないのは、文恵のプライドの高さなのだろう。

 楠原を見送りながら、立川は自分より少し年上の女帝を見下ろした。

「文恵さん、何があったんですか」

三縞みしまハウジングから連絡があって、顧客情報が抜き取られたって言ってきてる」

「そんなバカな!」

 立川は背中にじわりと汗が浮き出るのを感じた。株式会社ジモテックは、経営管理システムを企業に販売し、そのサポートをする事がメインのIT企業だ。一九九〇年代の早いうちからITに目を付けた社長が起業し、追随する同業者に規模拡大を奪われようとも、愚直に、地に足を付けてやってきた。甲斐あって、地元の商店街や医院、不動産会社などに利用されている。それが情報漏洩などという事態になれば、信頼が落ちるだけでは済まない。一瞬にして全員が露頭に迷う可能性すら孕んでいた。

 立川は遠巻きに社長室に近寄った。数名の社員も、同じように近づく事を躊躇ってうろうろしている。立川の視線の先に、立ち上がったまま社長から説明を受けている楠原と、どこかに連絡を取っている猫戸の横顔があった。大きな窓が穏やかな午後の陽射しをめいっぱい取り入れ、全体を明るく照らしている一方で、窮地に立つ三人は社内から見た全員の視界に濃い影として存在していた。

 システムエンジニアの一人が社長室に駆け込んでくる。

「すみません、こっちから遠隔しようとしているんですけど、先方でサーバーを切ってるのか、障害があって繋がらないです」

「やっぱりか」

 楠原がはっきりと言った。次いで猫戸が振り返ると、デスクで企業データを睨んでいた二人に向かって歩み寄った。

「電力会社に確認しましたが、特にケーブルのトラブルや周囲の工事などはありません」

「携帯のキャリアは?」

「鉄塔建設はありませんが、柏市の送電所で一部工事はしているようです。明確な返答はもらえませんでした」

 猫戸の返事を聞くなり、楠原は社長を見、そして挑むような声で言った。

「康男さん、イケますねこれ」

「そうだな、しっかり対応してやれ」

 社長の声には幾分この状況を楽しむような弾んだテンポがあった。楠原が素早く振り向き、遠巻きに傍観していた立川を見止める。陽の光を真っ向から浴びて立つ立川の姿は、まるで舞台の上に立ち、その役を務め上げるべく存在しているようだった。

「――立川!」

「はい」

 名を呼びながら、楠原が社長室から速足で出てくる。

「お前三縞ハウジングに行ってくれるか」

 突然のことに、立川が立ち止まった。その姿を、同じように動きを止めた猫戸が顔を上げて見る。立川の額から汗が流れ落ちた。

「えっと……オレ……俺で大丈夫なんでしょうか……」

「ってことは行くってことだな、付いてこい、場所教えるから」

 楠原は自分のブースに着くなり手早くパソコンで地図を開くと、三縞ハウジングの地図を複数印刷した。そこに手書きで「直通連絡先・三島様 〇八〇-****」と書き始める。それと同時進行で、口では業務の説明を始めた。

「まず、行け。行って謝ってくれ」

「はい」

「で、先方の話をしっかり聞け」

「はい」

 社内の全員が、二人のやり取りに耳を澄ませていた。張り詰めた空気の中、唯一響いているそれを聞いた全員が、いつも豪快な立川の声音があまりにも小さい事に驚いた。相対している楠原も例外ではない。

「お前――……なんだよ、大丈夫か?」

「だ、大丈夫だとは思うんです。思うんですけど……」

 社長室から少し出たところで、猫戸が立川を見詰めていた。その眼差しには驚きと同情、そして不安が色濃く出ていた。

「いいか、俺は遠隔ができるようになりさえすればどうにでもする。今技術部の江崎さんにも連絡取ってるから、心配するな」

「はい」

 地図に目を通しながら、立川が返事をする。不意に社長が声を上げた。

「おい、立川ちょっと来い」

 猫戸が我に返り、弾かれるように慌てて社長室に戻ると、自席の前に立っておもむろに書類に手をやる。「はい!」と大きく返事をした立川は、すぐに社長室までやってきた。その姿を猫戸が横目でちらりと見た。

「立川、自信を持っていけ。お前に社運が賭かってるんだ、頼むぞ」

「――はい」

「猫戸」

 突然呼ばれた猫戸は顔を上げた。

「一緒に行ってやれ」

「――何と仰いましたか」

 社長の言葉を単純に聞き返す。そうしていながら、頭ではその言葉を処理している。

「私が立川に付いていくんですか?」

「そうだ」

「私はプログラミングなど一切わかりません」

「付いていって、俺に逐一報告してくれ」

 猫戸はぎょっとした表情を隠さなかった。

「その必要はありますか」

 珍しく反論する猫戸を社長が見る。猫戸は視線を逸らせて捲し立てた。

「一六時半からの商工会議所へのシステムサンプル提出と提案、一八時からはその参加企業との会合、奥様は二一時迄に戻るようにと……」

「わーっとる、わーっとる」

 面倒臭そうに社長が言った。

「俺は秘書がいないと不安な事には変わりないが、俺以上に立川は一人で戦う事をビビッてるぞ」

 立川はビクリと身体を動かした。見抜かれた、と思った。

「とっとと行けよ、ほらほら」

 まるで追い出されるように社長室から急き立てられると、営業管理課の文恵が誰かの領収証をぺらぺらと振りながら言い放った。

「行きはタクシーで行っていいけど、帰りは電車で帰ってきてよね」



 会社の入るビルの前でタクシーを拾うことは容易だった。いつもの癖で助手席に乗り込もうとする猫戸を引き留め、後部座席に座らせる。そうやって無心に動いてしまうほど、猫戸は放心していた。タクシーの運転手に地図を渡し、行先を示してから立川が座り直す。そして、隣で外を眺める猫戸をいぶかしんだ。

「おい、どうした」

「――どうして立川と二人で行くことになっちまったんだろうって考えてる」

 小さな声でぽつりと言う。タクシーはゆるやかに発車した。車窓を見たまま、猫戸が続ける。

「康男さんは俺を秘書で雇ってる必要が無いとお考えなんだろうか」

 立川は首を捻った。

「大袈裟だなぁ、お前のその口調だと、俺に付いて来させる事イコール、クビっていう感じだぜ」

「ほぼそれで正解だ」

 立川にとっては侮辱であるその答えに対して、立川自身は何も感じなかった。ただ、自嘲して前方を見る。

「もし今回、これで俺がやらかしたら本当に二人でクビになるな」

 猫戸は目を見開いて立川の顔を見た。立川の弱々しい、自信の無い様を目の当たりにして、言葉を失っている。立川は夢を見ているような眼差しで、自嘲を続けていた。

「そしたら、俺、個人で起業するから俺の秘書になれよ」

「――ふざけんな、そんな泥船ぜってぇ乗りたくねぇよ。それに――」

 一瞬言葉を区切って、猫戸が立川を睨む。立川は猫戸の鋭い視線に気づき、眉を下げた。その横っ面に叩きつけるように、猫戸はぴしゃりと言い切った。

「お前が失敗したら、俺とお前だけじゃなくて全員クビだと思え」

 猫戸が放った一言は、立川を鼓舞するに十分値するものだった。しばらく変わらぬ様子で前方を見詰めていた立川だったが、大きく息を吐くと瞳を閉じ、ゆっくりと開けた。そこには技術者としてのプライドと、会社を背負う覚悟と決意が沸き立っている。やがて生まれていたそれらは、完全に立川の内部に宿った。

「やるしかねぇな」

 自分に言い掛けるように呟いて、立川が猫戸に向き直る。猫戸はいつもの冷めた目で立川の瞳に映り込んだ。

「猫戸を秘書で居させるためには、俺の起業したところじゃダメみたいだし」

 猫戸は一瞬驚いた様子でピクリと眉を動かしたが、黙って外を向いた。そして小さく「頼むぞ」と声を絞り出した。


 タクシーに乗車すること三十分、顧客情報が漏洩したと連絡が来てから一時間一〇分が経過していた。タクシーが停車した三縞ハウジングは、主要駅から徒歩四分程の小さな商店街の一角に位置する、地元密着型の不動産会社だった。自宅が後方に、前方は店舗となっている住居兼店舗の作りだ。

 店舗正面の引き戸を前に、猫戸が一礼をするとゆっくりと開けた。

「失礼致します。毎度お世話になっております、ジモテックの猫戸と申します」

 穏やかながら快活な印象を与えるその声に、店内にいた若い女性客が振り返った。出で立ちは大学を卒業したぐらいで、おそらく近隣の住まいを探しているであろうことが想像できる。その女性客の対応をしていた中年の女性は、一言断りを入れると後ろを振り返って「お父さん、ジモテックさん来たよ」と声を掛けた。奥の自宅との段差部分に、虫の居所の悪そうな中年男性が姿を現すなり「裏から回って」とだけ言いまた奥へと姿を消した。

 猫戸と立川は婦人に一礼をしたが、猫戸は女性客に対しても微笑みを浮かべながら「大変失礼致しました。三縞ハウジングさんなら素敵なお部屋がきっと見つかりますよ」と声を掛けて店舗を出た。すぐに裏へ回り、個人宅のインターホンを押す。先ほどの中年男性がドアを開けて「入って」と促した。玄関に入り、挨拶をしようと猫戸が差し出した名刺すら受け取らず、間髪入れずに怒号が響いた。

「あのさぁ、ジモテックさんよぉ!どうしてくれんだよ、顧客情報!ええ?全部抜き取られてさぁ、どういうお粗末な仕事してんだあんたんとこは!えぇ?」

 立川は面食らっていた。頭を下げ続ける猫戸の頭上に、男の唾が降りかかるのがスローモーションで見える。

「大変申し訳ございません」

「うちだってよぉ、街役の顔を立てるのに、あんたんところの入れただけなんだよ、もっとデッカイとこのやつを入れりゃよかったよ、こんな情報抜かれてさぁ!誰が好き好んでお前のとこの使うんだよ、素人仕事しやがって!えぇ?」

 挨拶すらできず、何も聞けず、潔癖症にもかかわらず唾まみれにならなければならない程の悪い事を、猫戸はしたのだろうか。立川が逡巡したその間は、おそらく二〇秒にも満たないはずだった。男の目が棒立ちだった立川に向くと、治まりきらない苛立ちがダーツの矢のように狙いを定めて立川に降り注いだ。

「あんたは何、全然反省してねぇじゃねーか、えぇ?二人で来てどうしてくれんの、二人で来たら顧客情報戻んのか!えぇ?」

 男の苛立つ様を受け、猫戸が、背後にいる立川がどんな様子で居るのかと憂慮しているのが、立川にもよく分かった。立川は瞬時に深く頭を下げると

「この度は、ご迷惑をお掛けし大変申し訳ございません!」

 と半ば怒鳴るように謝罪を口にした。続けざまに猫戸を押しのけて前に出ながら、名刺を差し出す。猫戸は腕を押されてよろめき、後ろに下がった。

「わたくし、ジモテックの技術者をしております立川龍造たちかわ りゅうぞうと申します!恥ずかしながら、万が一、顧客情報が漏洩していれば、御社の信用問題の話だけでは無くなります、それ以上被害が広がるのを食い止める必要がございます!」

 思わず名刺を受け取った男に対して、矢継ぎ早に続けた。

「弊社にご連絡を頂戴したのが、二時二〇分頃ですので、既に一時間以上が経過している事になります!早急に調査させていただき、最悪の場合警察に届け出る事も必要かもしれません!」

 たどたどしくも正直な立川の説明は「警察」という単語も相まって説得力を帯びて男の怒りを覆いこんだ。感情よりも、現実を見る必要があることを理解し始めた男は、怒りと同規模に膨らんでいた恐怖が突如全面へ押し出された事で身震いをする。

「ほら、とっとと見てくれよ」

 男が焦った様子で二人を室内へと案内した。



 四〇分後――二人の戦いは終わっていた。今、三縞ハウジングの横で呆然と立ち尽くす二人の手には大量の果物やお菓子が持たされている。

「康男さん……なんて言ってた……?」

 小さな声で、商店街の方を見据えたまま立川が囁く。

「んなことだろうと思った、って……」

 立川と同じく商店街を見据えたまま猫戸が答えた。

 事の顛末はこうだ。玄関で散々な雑言を叩きつけられた二人は、店舗に繋がる一室へ連れられた。そこにはデスクトップパソコンがあり、三縞ハウジングの経営関連をここでまとめて居るであろう事は容易に想像がついた。既に電源が入り立ち上がっていたそれを慎重に見ながら、立川は男から話を聞き出す。

「お電話をいただいたタイミングは、気づいてからすぐですか?」

「そうだな、まぁ変だと思って少しは自分で見たけどよくわかんねぇしよ」

「……ネット環境は繋がってますね……」

 言いながらログを取っていた立川は、違和感を覚えた。使用された形跡がほとんど残っていない。

「すみません、ちょっと伺いたいんですが……」

「なんだよ」

「パソコンを再起動させて頂いてもいいですか?」

「いいけど」

 言って、男は再起動の手順を踏んだ。立ち上がり直したログイン画面で、IDとパスワードを入力する。

「ほらよ」

 言われて男からパソコンの前をまた明け渡されると、ログを見直した。立川の嫌な予感は的中した。午後二時七分にシャットダウンされている。経営管理ソフトを開くと、売り上げや顧客情報を閲覧できる画面が立ち上がった。男は「アッ」と声を出す。

「そうそう、これこれ!今日コレが出なくなってたんだよ!」

 男の声が明るくなった。立川は、額の汗を袖で拭うと聞いた。

「今日の午後二時七分頃に、このパソコンの電源を落として、別のIDで入り直していたようです」

「俺そんなのしてねーよ」

「されてないのであれば、別の方が」

 立川の言葉に、男は心当たりがある様子で立ち上がり「おい、おい!お前パソコン触ったかぁ?」と店舗へ向かって歩いていったが、即座に戻ってきて座布団の上に正座すると「今契約中だから待てって言われちゃったよ」とぼやいた。

 全員で正座して待つこと二五分、事の顛末の発端であり全てを知る女はあっけらかんと「コンセントが抜けちゃったから付け直したけど、ダメなの?なんでだめなの」と暴露をした。――そうして、バツの悪い夫婦は詫びとお礼を兼ねて二人に果物やお菓子を持たせたのだった。

 立川が「行くか」と言い、のろのろと足を動かし始めた。荷物を左手に持ち替えて、社用スマートフォンで楠原に電話を掛ける。しばらくすると応答があった。

『もしもし?』

「お疲れ様です」

『どうよ』

「――楠原さん、分かってて俺の事来させましたよね」

『ははは』

「笑ってないで答えてください」

 一向に答えない楠原の背後で、けたたましい音楽と小さな金属が触れ合う音が響いた。立川の表情が一気に険しくなるのを、隣を歩く猫戸が見上げている。立川は引き攣った唇をゆっくりと開けた。

「楠原さん、まさか……スロット行ってないですよね」

『俺昼飯もまだなもんでー』

「後で覚えとけよ」

 言うなり通話を切って、尻ポケットにスマホを突っ込む。立川は不機嫌そうに地を蹴って歩いていた。気を抜くと取り残されそうになる猫戸は、小走りになり隣を歩く。

「立川さ、今回すげぇ活躍してたと思ったよ」

 立川は猫戸を見下ろした。自分の左肩あたりに、猫戸の髪が揺れる。フンと鼻息を吐いて立川が前に向き直った。

「俺なんか全然、何もしてなかったじゃないか。結局夫婦の勘違いだったし」

「そうだったとしても、その勘違いを暴いたのも最終的に納得させてお礼まで言ってもらったのも、お前の技術の一つだろ」

「……慰めてるつもりか?」

「ちげーよ……違わないかな……?自分自身に言い聞かせてるところもあるわ」

 苦笑する猫戸を見て、立川が「ちょっと薬局寄っていい?」と告げた。駅前のドラッグストアに入り、すぐに何かを買って出てくる。

「猫戸、駅のトイレとか苦手だろ?」

「無理」

 何が言いたいんだ、とでも言いたげな猫戸の瞳が瞬いた。立川はさっさと進むと、改札を抜けて駅のホームの端まで行く。そして、そこにあったベンチに荷物をドサリと降ろした。

「ふぅ、重いったらなんの……」

 猫戸が倣ってベンチに荷物を置く。立川がガサゴソと黄色いドラッグストアの袋から何かを取り出し、開封しながら聞いた。

「お前ヘアワックスとか付けてる?」

「付けてるけど……うわッ」

 猫戸の頭を、立川は手に持ったシートでごりごりと擦っている。

「なに、何しやがんだお前!」

 慌てる猫戸の頭と髪をそれでゴシゴシと擦ると、続けざまに二枚目を取り出して猫戸の髪へ更に押し付ける。そうしながら

「巻き込んでごめんな」

 と呟いた。猫戸の耳にそれはあまりにも優しく、悲しく響いた。実際、立川をこんな行動に駆り立てたのは、猫戸の頭に中年の男の唾液が降り注いだという単純で物理的な事ではなかった。被害者であるという立場を逆手に取り悪意を持って発せられる罵詈雑言の結果、猫戸を傷つけられたこと。そして本人が何より嫌悪している不浄を用いて、本人の与り知らぬところでけがし続けているということ。悪意の滴が猫戸を犯し、その笑顔が汚されている事実が、立川にとっては許せなかった。猫戸は何かを察してか、されるがままにされ「髪拭きシート?いい匂いだな、これ」と笑った。

 六分程でやってきた上り列車に、ボサボサになった頭を撫でつけている猫戸と立川が乗り込んだ。混雑はしていないが、座席は空いておらず、乗り込んだ車両でも複数名が立っている。

「意外と乗ってるな」

 言って立川が荷物を床に置いた。そうして自分は吊り革を握った。ゆっくりと電車が進むと、空いた吊り革が前後に傾斜する。合わせて猫戸がふらりとよろめいた。

「猫戸――……」

 思わず手を伸ばしそうになった立川は、一瞬躊躇した。猫戸自身は歯を食い縛り、足を大きく開いて揺れに耐えている。立川の助けが無くても、きちんと自立していた。しかし滑稽なその姿に思わず立川が笑いを漏らしてしまう。

「荷物を床に置くのすらダメなの?」

「――ダメじゃ、ねぇけど」

「じゃあ置けばいいじゃん」

「できるだけ置きたくない……食べ物だし」

「どうせ皆、床に置いてようが置いていまいが食べ物だっていう事だけで飛びついてくるぞ」

「それはそうだけど」

 会社に戻って即、ばりばりとパッケージを開けられる贈答品の姿が思い浮かぶ。興奮と歓喜で食事にありつくハイエナどものうちの誰が、この猫戸の涙ぐましい努力に気づくのであろう。

『いや、絶対みんなどうでもいいって言う』

 思って、立川は苦笑した。

 電車は隣の駅に着いた。すると乗り換え駅だったのか、ぞろぞろと人が乗り込んできた。慌てて立川が荷物を持ち上げる。

「お、おい猫戸」

 声を掛けると、猫戸が立川に近寄った。人に押され、二人の立ち位置は乗降ドアの反対側に寄った。猫戸の髪の毛からは先ほどのシートの柑橘系の香りが漂ってくる。立川が顔を逸らし、身体の向きを変えて手すりを掴んだ。左後ろ辺りに猫戸の存在を感じながら、邪魔にならない位置に荷物を下ろす。ドアが閉まった。

「猫戸、大丈夫か?」

「ああ」

「結構混むんだな」

「うん」

 瞬間、ガタンと電車が動いた。猫戸が咄嗟に踏ん張るが追いつかず、荷物が立川の足に当たる。

「ごめ……」

 言いきらないうちに、猫戸は逆側へ向かって揺れる力に足元を不安定にされた。手すりを掴んでいる立川はやや体が揺れただけだった。周囲の乗客も、当然のように吊り革を掴んでその揺れに挑んでいる。ただ一人、猫戸だけが気まぐれな電車の動きに翻弄されていた。

「猫戸」

 立川の声が耳に入った瞬間、猫戸の右腕が立川に掴まれていた。

「嫌かもしれないけど、我慢できるか?」

 猫戸は返事をしない。

「イヤだったら、お前が、俺のどっか掴んでてもいいし」

 猫戸は頷くと、右腕を掴まれたまま大人しく立っていた。その左手は、立川に気づかれない程度に、立川の着るジャケットの裾を握っていた。


 三縞ハウジングへタクシーで向かった際に掛かった時間は三〇分。電車での移動でもほぼ変わらぬ時間で帰社し、立川は姿の無い楠原に憤怒しつつ報告書を作成していた。二人が心身ともにボロボロになりつつ持ち帰ってきた戦利品という名の「お詫びの品」は、案の定何も気にされる事無く開封され、勢いよく皆の腹を満たしていった。

 午後六時を回り、一人、二人と帰宅していく。立川はブースのライトを点け、一人黙々と作業を続けていた。報告書など疾うに(適当に)完成させた。今立川を追い立てているのは、商店街の花屋から依頼された、販売管理システムの構築だ。

 午後七時を過ぎると社内に残っている人数は数える程しか居なくなった。

「じゃ、アタシ帰るから、ちゃんと交通費請求回しといて。あと施錠ちゃんとしてよ」

 誰にともなく文恵が言い、真っ赤なエルメスのバッグを乱雑に掴むとドアから出ていった。立川は集中しており、文恵の声にも、去っていった事にも気づいていなかった。

 どのぐらいの時間が経ったのか、ふと薫ってきたコーヒーの香りと、通り過ぎる人影に気づき立川は我に返った。見ればデスクの一番通路に近い所に、紙コップに入った温かいコーヒーが突然降って湧いたかのように存在していた。真っ白な紙コップは香ばしい薫りを振りまきながら、闇に溶け込むまいと主張している。この会社で、わざわざ使い捨ての紙コップにコーヒーを入れるような人間は、たった一人しか存在しない。

 立川が慌ててブースから身を乗り出して社内を見る。薄暗い社内で、煌々と明るいのは自分のブースだけであることに気づいた。そして、出口の辺りに人影を見た。

「猫戸!」

 立川の声に、人影の動きが止まる。そして影が言った。

「集中途切れさすなよ、こっちが気を遣って声掛けてねぇんだからよぉ」

 髪の毛のセットが相変わらず乱れたままの猫戸が、頭をわさわさと揺らして笑った。

「んじゃ、立川おつかれェ!」

「待て!待って!」

 慌てた立川が立ち上がり、ブースから出る。突然の動きに耐えられなかった節々が、ギシギシと悲鳴を上げた。それでも、立川は小さく呻きながら猫戸へ近づいた。

「お、お前大丈夫かよ……」

 衝立やデスクに手を付きながらよろよろと寄ってきた立川を心配そうに見る猫戸に「大丈夫大丈夫」と笑い掛け、その前に立つ。

「今日、本当にありがとうな」

「ああ」

「康男さんにお前が指名された時、俺馬鹿にされてんのかと思ったよ」

「あぁ?」

 突然吹っ掛けられた喧嘩の火蓋を今にも切りそうな勢いで、猫戸が凄んでいる。立川は怯む事無く続けた。

「だってそうだろ、お前はプログラミングのプの字も知らない。俺とは畑が違うんだからさ」

「何が言いたいんだよ」

 猫戸が顎を上げて眉間に皺を寄せた。立川がじっと瞳を見て微笑んだ。

「畑が違うからこそ、俺のダメなところを、猫戸が補ってくれてるって思うんだ」

 猫戸は目を見開いた。ただでさえ大きな目が、遠いブースから漏れ出る電光を受けてキラキラと輝いて見える。

「俺は、猫戸を好きになって良かったよ。猫戸を好きになった自分が誇らしいくらいだ」

 立川は真剣な表情で言うと、照れ臭そうにハハハと笑った。猫戸が無表情で「そうか、そりゃ良かったな、じゃあな」と言い捨て、ドアを開け出て行く。ガチャリと閉まる鉄の扉が二人を隔てた。片や言いたい放題好き勝手に伝えた男は満足気にブースへ戻り、大きく伸びをしてから立ったままホットコーヒーを手に取った。片や共用の廊下に出た男は、すぐさま大きく息を吐くなり壁に体を凭れ掛け、耳まで熱く、赤くなった顔を手で押さえた。そして廊下がすでに非常灯のみになっている事を神に深く感謝していた。



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