第20話「立川の実家」
その週の火曜日、猫戸に龍二から連絡が入った。人気漫画のキャラクターが花を散らして喜んでいるスタンプの後に『兄ちゃんの退院が決まりました!』と言葉が続いている。盆休みに入っていた猫戸は実家に帰る事も無く、立川を見舞いに行く日々を続けていたが、それでも寝耳に水の情報だった。『詳しくは兄ちゃんから聞いてください!』と続いて入ってきた。
返信しようとスマートフォンを持ち直した時、立川から着信が入る。猫戸はすぐさま応答した。
「はい、もしも……」
『猫戸!俺退院するぞ!』
「うん、聞いたぞ!おめでとう」
『え……聞いてたの?誰から!?』
「龍二くんから」
『あの野郎……』
立川の声色が低くなる。
『さっきスマホ弄ってて何やってんだと思ってたら……猫戸に連絡してたのか。お前をびっくりさせようと黙ってたのに』
猫戸がふふふと笑った。
「いつ退院なんだ?」
『今週の金曜だよ』
「とうとうだなー、よく頑張ったよ立川」
『まぁ、早く戻りたかったしなぁ』
電話口で猫戸は微笑みながら、やや寂しそうに言った。
「じゃあ、もう見舞いにいかなくても良くなるんだな」
『――なんだよ、
笑いを含んだ立川の言葉に、猫戸は釣られたように笑う。
「あー、そう取る?」
『そうとしか取れないな』
「はは、じゃあそう思っとけよ」
立川は猫戸の言葉を受けて、はははと笑ってから、言い辛そうに切り出した。
『あのさぁ、金曜日……会いに来てくれる?』
「――うん、行く。何か手伝う事があれば言ってくれよ」
『サンキュー』
「俺、本当に嬉しい」
『猫戸……泣いてんの?』
「泣いてねぇ」
言った猫戸が鼻を啜った。
金曜日は既に盆休みが終わっていたため、猫戸は社長に申し出て午後に半日の休みを貰った。定時になると社長は「行け行け、立川が待ってるだろ」と猫戸を追い出しにかかる。困ったように笑いながらクラッチバッグを持ち、社長室から出ると、システムエンジニア部の面々が衝立から身を乗り出して「いってらっしゃーい!」と手を振ってくる。出入り口の前では、文恵を始めとした営業管理部が一緒に手を振って猫戸を見送った。
猫戸が病棟に着くと、祖母が床頭台の荷物を取り出して、せっせと鞄に詰めていた。
「こんにちは」
姿を見せた猫戸に向かって、祖母が満面の笑みを見せて「猫戸さん、こんにちは!」と答え「龍造ね、診察受けに行ってるのよ。そろそろ戻ってくると思んだけどねぇ」と視線をキョロキョロさせる。
「大丈夫ですよ、戻ってきたら声掛けますので」
笑って言うと、猫戸は祖母に近づいた。祖母が持ち上げようとしていた、荷物がぎっしりと詰まったバッグをそっと受け取ると、パイプ椅子に移動させる。
「あら、ありがとう、助かるわァ」
「今日、お父さんや龍二くんはいらっしゃらないんですか?」
「そうなのよ、二人とも急に部活に呼ばれちゃって」
祖母が残念そうに言って、床頭台の引き出しを開けようとした。そこに鍵が閉まっているのに気づいて「あら?」と言いながらガタガタしている。
「あ、エツコさん、そこには会社から借り出してるパソコンが入っているので、鍵を開けますね」
猫戸がパソコンバッグを持って近づいた。祖母が場所を代わると、ベッドの周囲に物が落ちていないか、身をかがめて確認し始めた。猫戸は床頭台のダイヤル鍵を解除すると、引き出しを開けた。
「――ッ!」
一瞬開けかかった引き出しを、猫戸が咄嗟に閉めた。祖母の動きをちらりと確認したが、まだベッドの脇を覗き込んでいる。猫戸はまた恐る恐る引き出しを開けた。派手な色の文字が目に飛び込んでくる。
『コ……コスプレ天国……と、キューティーエンジェル……』
ノートパソコンの上に無造作に置かれた、雑誌のあからさまな煽りが欲を誘う。コスプレ本は、奇しくも看護婦の服を着た女性が水に濡れ、むっちりとした太腿を晒してポーズを取っている表紙だった。次に控えているキューティーエンジェルまで確認する気力は無い。猫戸は、雑誌の下敷きになっているパソコン諸共バッグに突っ込むと、しっかりとチャックを閉めた。
その時、立川が戻ってきた。
「お!猫戸!」
立川の声を聞いた猫戸がビクリと身体を震わせる。振り向きもしない猫戸に、立川は気づかず笑顔でヘラヘラと続けた。
「ありがとうな、手伝いまでしてもらっちゃって!」
「あー、あぁ、ウン」
「なんかさ、親父も龍二も予定が出来たとかでさ、来てくれなくなっちゃって」
「はは、聞いた」
「本当、来てもらって正直助かっ……」
そこまで言って立川は猫戸が自分の方を向いて居ない事を感知し、きょとんと猫戸を見た。
「猫戸?」
「うん?」
「どした?」
「あー……なにも」
そう答えた猫戸の手元にパソコンバッグがある事に気付くと、立川が半笑いで頭を掻いた。
「――あー……もしかして、開けちゃった……?」
「ハハハ……」
「はは」
「ハハハ」
上っ面だけの猫戸の笑いを聞きながら、立川はベッドにもたれた。祖母がフゥと息を吐いて上半身を上げる。
「おかえり龍造、先生なんて?」
「リハビリは続けてって言われたよ。一週間後に診察予約してきた」
「まだ大忙しねぇ」
祖母の言葉に「そうだなー」と笑い、立川は猫戸に手を伸ばしてパソコンバッグを受け取った。
「俺の宝物入れてくれた?」
猫戸が唇を引き釣らせて頷いたのを見て、立川はにやりと笑った。
「後で見せてやるよ、宝物」
「見せなくていい」
淡々と答えた猫戸を、祖母が振り返った。
「猫戸さん、今日ね、うちで龍造の退院祝いをやるんだけど、もしよければ来ない?」
猫戸は驚いた顔で固まった。すぐに立川が割り込む。
「ばーちゃん、猫戸は忙しいんだからダメだって!」
「でも、いっぱいご馳走作るし、龍造だって猫戸さんが居た方が嬉しいでしょうよ」
「いやいや、そりゃ居たら嬉しいけど、そういう問題じゃないんだよ、ばーちゃん!」
祖母の無垢で純粋な瞳に押されそうになりながら、立川は猫戸を必死で擁護した。来なくても良いように、拒否できる空気を作ろうとして、外堀を埋めるべく奮闘する。
「猫戸、忙しいんだよな?今日半日で終業しちゃったし」
そう言って、立川が猫戸を見た。祖母も猫戸を見つめていたが、残念そうに「そうなの……?残念ねぇ」と呟いた。
猫戸が穏やかに微笑んだ。
「――仕事は、なんとか終わらせてきたので、良ければ参加させてください」
祖母の顔がパッと明るくなった。
「良かったわねぇ、龍造!ばーちゃん、お料理作るのがんばらなきゃね!」
「ちょっと、ちょっとおいで猫戸」
立川は猫戸を呼び、病室の前に連れ出す。
「なんだよ」
理由も言われず呼び出された事に対して不満を表して猫戸が言った。立川が真剣で、不安そうな瞳をしてじっと猫戸を見つめている。
「本気か、猫戸」
「なにが?」
「ウチに来るの」
「うん」
「実家、そこそこ古いよ」
「うん」
「ばーちゃんの張り切り具合見ただろ?あれ、多分すげーことになるぞ」
「なにが」
「手料理とかモリモリになる」
猫戸が青ざめたが、深く瞬きをして息を吐くと、そっと立川を見た。
「――でも立川は俺が居たら嬉しいんだろ?」
「そりゃあ、そうだよ」
猫戸の口角がふと上がった。
「俺も、お父さんや龍二くんに会いたいし、エツコさんの笑顔も壊したくない」
荷物を全てまとめると、ボストンバッグ二つと、バックパック一つ分になった。猫戸が両手一杯にそれを持ち、立川が『宝物』を入れたバックパックを背負う。
松葉杖を突く立川が先頭になり、ナースステーションに声を掛けた。リハビリテーション専門の看護士達は、爽やかな笑顔でナースステーションから出てくると「ちゃんとアイシングしてください」「立川さん無理しがちだから、心配ですよ!休みも必要ですからね」等と声を掛けてくる。立川が嬉しそうに頷き、答える姿を、猫戸と祖母は涙ぐみながら見ていた。
そうして、三人はタクシーで立川家までやってきた。立川の実家は郊外にある住宅街の一角にあった。新しい家が建ち並ぶ中、築五〇年はありそうな古い家屋である。敷地はそこそこあるようで、隣家との距離もある。
タクシーから降りた立川の横に並んで家を見上げている猫戸に、祖母が言った。
「古いでしょ。おじいちゃんが死ぬまで『俺が建てた』って言い張ってたけど、せっせとお金貯めてたの私なのよねぇ」
「ばーちゃん、この話絶対するけど、その度じーちゃんがヘソ曲げて大変だったよね」
立川が笑いながら、松葉杖を突いて進み、門を開けた。ギィ、と金属が軋む音が響く。段になっている玄関前を上がり進むと、フゥ、と息を吐いて玄関の引き戸を開けた。
「ただい」
「おかえり――――っ!!」
声と同時にクラッカーがパンと鳴った。立川の頭にクラッカーから飛び出た紙テープがぼそりと乗り、周囲に金銀の紙吹雪が舞い散る。
「あっ、龍二お前これバラバラに出るやつじゃねーか!ゴミの出ないやつって言ったのに!」
火薬の匂いが立ち込める玄関で、父親がクラッカーの殻を見ながら言った。龍二は首を傾げている。
「あれ?ちゃんと選んできたつもりだったんだけどなー」
「誰が片づけんだ、これ!」
「もー、わーったよ俺が後でやるよ」
「今やれ、今!」
帰宅した三人が呆然と立ち尽くすのを尻目に、父親と息子は普通のやりとりをしている。目を見開いて、やや体を後ろに反らしていた立川がぽつりと「びっくりした……」と呟いた。
父親が龍二から、龍造に目を向ける。
「お、びっくりしたか!」
「するよ!こんなの!」
「龍二と、どうやってびっくりさせるか相談したんだけどな」
父親の言葉に龍二が割り込んできた。
「喜んでるかどうかは別として、びっくりしてるから成功じゃね?」
「そうだな!」
満面の笑みで会話をしている親子を目の前にして、何も知らされていなかった三人はまだ立ち尽くしている。父親がサンダルを履いて玄関の外まで出ると、びっくりした表情を張り付かせている猫戸の手から、荷物を預かった。
「猫戸さん、すみません、ありがとうございます!」
「あ、いえ……」
「びっくりしたでしょう!」
「はい」
「龍二が、こういうビックリさせるやつをやりたいって言ってたもんで、私も参加しました」
子供のような父親の言葉に、猫戸が思わず笑った。祖母が後ろから「いつまで子供みたいなことしてるのよ」と
「ささ、入って入って。年寄りと男しか居ないもんで、なんのお構いもできないですが」
「――おじゃまします」
意を決して、猫戸は足を踏み入れた。
立川家は古い作りではあるものの、清潔で、大切に使用されていた。視覚的な面では、猫戸の潔癖性に危機を訴えかけてくるものは無い。しかし、問題は別のところにあった。
『他人の家の匂いだ……』
昔の猫戸であれば、眉間に皺の一つも寄せながら入室を拒否する状況だ。自分以外の存在が、そこに生きている事実を感じさせられる事は恐怖に近かった。足を踏み出すことを、心の奥底が必死に抵抗している。
立川が龍二に支えられ、家の中に上がった。
「父さん、
「無しじゃ動けないのか?」
「いやー、無理じゃないけど砂壁に手を付くと壁が剥がれるだろ」
「それは嫌だな」
父親が松葉杖を受け取り、龍二に「濡れ雑巾持ってきて」と言うと、龍二は機敏に走っていった。立川が壁に凭れて立ったまま困ったように猫戸を見下ろして笑った。
「猫戸、支えてくれる?」
「えっ……あ、あぁ」
立川の要請を受けて、猫戸は自然と家に上がった。他人の家だと拒否する気持ちは、自分を必要としている状況を前にして鳴りを潜めている。
猫戸が立川の横に立ち、左脇の下に自身の肩を入れると、ぐい、と支えた。
「ありがとう」
立川の笑顔を間近に見て、猫戸は視線を逸らしつつ「うん」と答えた。立川が無邪気に言った。
「じゃー、一旦キッチンの椅子の所に行こうぜ」
「……どこだよ」
「俺がナビするから」
言って、立川がよろよろと歩き始める。立川の動くまま、猫戸は歩みを進めた。
廊下を進む途中にキッチンがあった。ダイニングテーブルを囲んで椅子が六脚置いてある。そのうちの二脚には、龍二のものと思われる野球の道具が無造作に乗せられ物置状態になっていた。
「ありがとう、ここに座るよ」
立川の言葉で、猫戸は立川をそっと椅子に座らせた。その時点で、立川を支えるという役目が終わってしまった猫戸は今更になり居心地の悪さを感じ始めている。
決して不潔ではないが生活感のあるキッチンに、猫戸の肌がゾワゾワと粟立った。そんな猫戸を察知してか、立川は隣に立ち尽くす猫戸の手をそっと握ると「大丈夫?」と聞いた。
自分の想いとは裏腹な性質に翻弄され、青ざめて混乱する様子の猫戸は、ゆっくりと、そして呆然と立川を見下ろす。立川と目が合った。
「た、立川」
「うん。大丈夫だよ」
立川が、握った手に力を込めた。猫戸が頷く。
「うん」
「俺がいるから、何でも言えよ」
「うん」
猫戸がそっと手を握り返した事に気付いて、立川は嬉しそうに笑った。
「今日は、あれだよ『旅館 立川』に遊びに来たと思いなよ」
猫戸がふと笑う。調子づいて立川が続けた。
「旅館の女将は、ばーちゃんだから」
「ふふ、いいなそれ」
「女将、すっごい料理作るから」
「うん」
「で、女将すっごい掃除とかするから」
「うん」
「女将配膳とかも超早いよ」
「さっきから女将しか働いてねぇじゃねーか」
猫戸の言葉に立川が声を出して笑った。猫戸の手を離すと
そこに、綺麗に拭いた松葉杖を持った父親がやってきた。
「猫戸さん、ありがとうね」
「いえ」
後ろから祖母も付いて来て、袖を捲るとキッチンで手を洗い始めた。
「じゃあ龍造、ばーちゃん唐揚げ作るからね」
隣の部屋から現れた龍二がハッと顔を輝かせて小躍りをし始める。
「やった、唐揚げだ!」
「どしたんだよ龍二、そんなに嬉しいの?」
立川が可愛い弟を見て苦笑しつつ聞いた。龍二は大きく頷く。
「うん、だって普段、年寄りばっかだから、おかずに脂っこいもん出ないんだぜ」
その言葉を聞き捨てならぬという表情で父親が割り込んでくる。
「とーちゃんを年寄り扱いすんな。まだまだ脂っこいもんくらい食べれる!」
「ばーちゃんも年寄り扱いしないでちょうだいよ」
「いや、ばーちゃんは完璧年寄りだろ……」
息巻く祖母に孫は容赦が無い。立川は家族のやりとりを見ながら笑い「笑わせないでくれよ、
猫戸は、優しく、そして平凡な家族の遣り取りを見ながら、暖かなものを胸に感じていた。
旅館立川の女将『通称、ばーちゃん』は、キッチンに立つと腕によりをかけた料理を作り始めた。
猫戸は、出来るとは思えない手伝いを申し出るべきか逡巡しているうちに、立川により客間に押し込められた。立川自身は手伝いに行ってしまったため、猫戸はする事も無く客間を見回す。
一階に位置する客間は八畳ほどで、庭に面した大きな窓があり、そこから直接庭へ降りられるようになっていた。畳のい草が青々と香る中、僅かな線香の薫りがふわりと猫戸の鼻孔に漂った。客間に仏壇などは特に無かったが、家のどこかにはやはりあるのだろう、と猫戸は思った。
座布団に正座をして、そこから一ミリも動かず観察していると、部屋の
「龍二くん」
「こんちわ」
言いながら龍二がそっと客間に入ってきて、襖を閉める。
「すみません、ちょっと、聞きたいことがあるんすけど」
「なんですか?」
猫戸は微笑みながらも、やや緊張した面持ちで龍二に体を向けた。龍二は猫戸の前に正座をして座り、父親似の濃い眉を僅かに顰めると、小声で言った。
「兄ちゃんが入院してる時に、会社の人っていう女の人が来たんですけど」
「うん……誰だろう」
「いい匂いの女の人でした」
猫戸は目線を上に向けて逡巡した。見舞いに行っていた会社の仲間達はそこまで多くないはずだが、どのタイミングで誰が行っていたのかまでは、完全に把握していない。いかんせん龍二からの情報が少なすぎて断言ができない。
「――その人が、どうしたの?」
猫戸の問いかけに、龍二が頬を赤らめて俯いた。龍二の感情の変化を察して、猫戸は『おや』と思った。そっと龍二が口を開く。
「その人、子供……赤ちゃん連れてたんですけど」
そこまで言われて、猫戸はやっと話題に上がっている謎の女が佐夜子だということに思い至った。猫戸の居ないタイミングでの来訪ではあったが、確かに佐夜子は見舞いに行っている。
「なんていうか、その赤ちゃん、兄ちゃんの子じゃないかって、俺、疑ってて……」
猫戸は、龍二の口から飛び出した突拍子もない疑惑を一笑に付さないよう、慎重に言葉を選びはじめた。不安と恥じらいを秘めた龍二の気持ちは、大人が笑い飛ばして良いものではない。
「その人、すげぇ泣きながら兄ちゃんの事呼んだり、赤ちゃんに触らせたりしてて、普通の感じじゃないっていうか……上手く言えないけど」
「龍二くん、その人は
「えっ、そうなんすか?俺、ちゃんと話聞いて無かったから、会社の人だと思ってた……」
「一緒に働いたりはしてないんだけどね。今年の春に皆で花見をして、その時初めて、私もお兄さんも佐夜子さんに会ったんですよ」
龍二は小さく溜め息を吐いた。それが安堵によるものか、喪失感によるものかは読み取れなかった。
「じゃあ、兄ちゃんは社長の娘さんとフリンしてるんですか?」
「えっ」
龍二にはどうしても、兄と佐夜子の関係が理解し難い様子だ。猫戸が驚いて目を丸くした後、そっと微笑む。
「佐夜子さんは今、ひとりでお子さんを育てているので――もし二人が親密だったとしても、不倫ではないですよ、安心してください」
言った猫戸の胸がチクリと痛んだ。龍二はようやく腑に落ちた様子で、明るい表情になった。
「なんだーもう!俺、兄ちゃんにも聞けなくてどうしようって思ってた!馬鹿みてぇ!」
正座を崩して足を投げ出すと、左右にぷらぷらと振りながら龍二が続ける。
「そっかー、社長の娘かー」
一人言っているその口元は、抑えきれない笑みが浮かんでいる。猫戸の胸には、沸々と申し訳ない気持ちが沸いてきた。
『龍二くん、その社長の娘に、俺が宣戦布告したばっかりだよ』
言えるはずもないし言うつもりも無かったが、何かに思いを巡らせてニヤニヤと笑っている龍二を見ながら、猫戸は複雑な気持ちで視線を下げた。
その時、襖がまたトントンと叩かれた。龍二がぎょっとして襖を振り返っている。
「猫戸さん、開けてもいいですか?」
「はい」
声の主は父親だった。襖を少しだけ開けて、猫戸の前に座っていた龍二を確認すると「やっぱりいた!」と声を上げた。
「ばーちゃんの手伝いしろって言っただろ」
「えー、だって兄ちゃんが松葉杖持ってうろつくから、台所入れねぇもん」
「龍造には買い物に行ってもらうから、ばーちゃんの続き手伝え」
「えー?」
龍二は手伝いから逃げる口実が欲しかっただけのようだ。結局手伝わされる羽目になった事に対して、不満げに唇を尖らせた。姿勢を直して立ち上がると、猫戸に向かって礼をする。
「猫戸さん、また色々教えてください」
「うん、いつでも言ってください」
猫戸が笑顔で答えると、龍二は父親の横をすり抜けて客間から出て行った。途中「お前猫戸さんに何聞いたんだ」という父親からの質問を「ひみつー」と躱していった。廊下を去っていく龍二に目をやって鼻から息を吐くと、父親は猫戸に向き直った。
「猫戸さん、すみませんが、龍造と一緒に買い物に行っていただけますか?」
「はい、喜んで」
猫戸が微笑みながら答えたことで、父親はホッと胸を撫で下ろした。客人へ頼みごとをすることも、猫戸に断られた場合龍造が一人で出掛けていくことも、どちらも不安があったに違いない。
客間へ向かって、廊下の板敷きを豪快に突きながら近づいていくる者がある。音を聞いただけでそれが立川である事は、誰でもすぐに理解できた。
「あ、父さん、猫戸OKって?」
廊下で発された立川の質問に、父親が頷いた。間髪入れずに、立川が襖をスパンと開けきった。隙間で会話をしていた父親の全身が見え、また猫戸も視界がそこまで開かれると思っていなかったため、驚きの表情で立川を見ていた。
「猫戸、ありがとな!流石に俺一人じゃ、ちょっとまだ不安だからさぁ」
「いいよ」
猫戸が笑いながら立ち上がると、立川の隣に立った。
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