4章 青色の夜明け(4)



「何があるってんだ、この部屋に?」

「ちょっと確かめたいものがあるんだ」

 日曜の午後。

 晴史は月丸を伴って、かつて竹林たけばやし老人と樹戸が住んでいた部屋の前にいた。右手には、樹戸が着ていた服から拝借した鍵が握られている。樹戸のその後については、敢えて触れずにおくことにした。

「つうかよ、なんで俺を連れてきたんだ?」

「パソコンの中身を見たいんだ。俺、使い方なんて知らないからさ。月丸さんに操作してもらおうと思って」

「俺だって、電源を入れるのとファイルを開くくらいしかできねえぞ」

「十分十分……だと思う」

 晴史は、パソコンがどんな仕組みで動いているかさえ知らない。

「けど、どうして鍵が要るんだ? カマジジイに中から開けてもらえばいいじゃねえか」

「だからチンさんは……」

 もはや何度目なのかも分からない説明をしながら、月丸の端末機にはこれからも竹林老人の死が記されることはきっとないのだろう、と思った。

 四畳半の住まいは、清掃と整頓が行き届いていた。台所のシンク台やガスコンロ、白物家電の類はクレンザーを使って綺麗に磨き上げられている。茶の間には、壁際の卓袱台ちゃぶだいと背が低い箪笥たんす以外に調度品は無く、チューナーを繋いだ小型テレビは畳敷きの床に直置きだった。

「あれだな」と、月丸が卓袱台の上のノートパソコンを指差した。

「パスワードが掛かってたらお手上げだぜ」

 パソコンを立ち上げると、月丸の杞憂をよそに、ログイン画面をすっ飛ばして田園風景を壁紙にしたデスクトップが表示された。

 樹戸の遺稿はフォルダに隠されもせず、堂々とデスクトップに置かれていた。ファイル名は『蘇芳すおうの幻想譚 無辜むこの血涙』とある。

「何だこりゃ?」

「樹戸さんが書いていた小説、だと思う」

「小説ぅ? そんなもんに、何の用事があるんだよ」

 晴史は一目見たかった。

 狂気に囚われた一人の男が追い続けた夢の跡を。

 ファイルアイコンをダブルクリックするとテキストエディターが立ち上がり、ウインドウが文字で溢れた。

「何だこりゃ」

「最高傑作……かな?」

 樹戸が遺したのは、文頭から文末まで延々と続く『紅くて甘くて熱くて淡い、腸色のメランコリー』という文字列の連なりだった。

 ――あの人のメッセージは、誰にも伝わりそうにないな。

 晴史は腰を上げた。

「確かめたいものってこれだけかよ? マジでわけわかんねえ」

 腑に落ちない様子の月丸がOSをシャットダウンする。パソコンは部屋に置いたままにした。家賃を滞納する店子に業を煮やした大家が鼻息荒く乗り込んできて、もぬけの殻となった部屋に毒気を抜かれるのは、そう遠くない未来のはずである。

 家財は全て処分され、パソコンもまたいずこかに売り払われることだろう。ハードディスクに奇怪なテキストを残したままで。

「あいつ、まだ怒ってるかな」

 切れかけた螢光灯が喘ぐ階段室で、月丸が振り向きもせずに口を開いた。

「あいつって?」

「シズクだよ。ほら俺、あいつにひでえこと言っちまっただろ? あいつは必死に自分を騙して――いや、ひょっとしたら本当に母ちゃんが生きてるって信じてたかもしれねえのに、俺がほじくり返しちまったからよ。しまいにゃ、ハルまで怒らせちまったし」

 月丸の悔悟を、晴史は意外に思った。

 213号室の一件から一週間近くが経っているというのに、月丸がそれを憶えているのは、端末機に書き記して毎朝読み返しているからに他ならない。

「そんなに気になるなら、会いに行ってみる?」

 晴史が向けた誘い水に、月丸は「そうだな……」と応じかけたものの、すぐさまひらひらと手を振った。

「いや、やっぱやめとくわ。お前らの邪魔しちゃ悪いからな」

 十七番街の路地に出るなり、「久々に飯でも食いに行かねえか?」と月丸に誘われたが、晴史はそれを丁重に断り二番街へ向かった。

 丑首ビルの213号室では、シズクが新しいモチーフを首を長くして待ちわびている。

 昨日よりもさらに腐敗が進んだ自分の体を、彼女は見たがっている。



「かゆい」

 まだらに黒ずむシズクの右手が、脇腹を掻き毟る。

 涙形の爪が肌を裂き、黒紫の筋が走った。

「駄目だよ、そんなに強く掻いちゃ」

 シズクの右手をそっと制し、晴史は冷たい脇腹を掻いてやった。爪は立てず、撫でるような指遣いではあったが、シズクは心地好さそうだった。

 シズクが九相図を描き始めてから、八度目の夜が訪れていた。

 布団の横には、刻々と変化する少女の過程を描いたパステル画が乱雑に重なっている。日を追うごとに数を減らすキャンバスに物惜しみしたのか、枕元に開かれたスケッチブックは素描で埋め尽くされている。

 おもむろにシズクがパステルを手に取ったので、晴史はいつもの通り鏡を構えた。

 鏡像に目を凝らすシズクの瞳には、白い膜がうっすらと張っていた。

「夢を見たの」

 左手を緩慢に動かしながら、シズクがぽつりと呟いた。

「どこまでも水面が広がる場所で、夕陽を見てるの。太陽が沈む直前に、それまで赤黒かった太陽の光が突然、緑色に変わるの。とても綺麗だった」

「グリーンフラッシュ?」

「たぶん、そうだと思う」

 シズクが夢を見るように目を細める。

「緑色の光は綺麗だった。宝石を光に透かしたみたい。だけど、太陽が消えた途端、急に寂しくなった。泣き出したくなるくらい、とても悲しい気持ちになったの」

「それも予言なのかな?」

 シズクは大儀そうに首を振った。

「分からない。未来が映像で見えたことないから」

「でもさ、グリーンフラッシュは幸せのサインなんだよね。もしかすると、近いうちに良いことがあるって兆しなのかも」

「どうかな。今までに良い未来の予言は、一度も無かったもの」

 鏡を支える腕の震えが、絵を描くシズクの手が遅くなっていることを仄めかした。

 キャンバスの感触を噛みしめるようにゆっくりと、シズクの左手が色を配す。

 妹へ抱く罪の呵責など少しも感じさせない、慈しむような手付きで。

「幸せになりたい、幸せになるために頑張るってみんなは言うけど、幸せってどんなことなんだろ。誰かが決めた幸せの基準が、どこかにあるのかな」

 シズクが投げた純朴な疑問に、晴史は答えられなかった。

 その日、彼女が描いた絵は一枚だけだった。

 九相図は野性的なタッチになっていた。細緻な描写こそ見られなかったが、荒く力強い筆触はかえってシナズの悍ましさを引き立たせていた。

 青黒く痩せた少女と、その周りにあしらわれた黒いどろどろの臓物。

 腹の裂け目からのぞく肋骨の白。

 乾いた葡萄茶に染まったシーツ。

 いずれも、濃淡の無い色合いで表現されていた。

「やっぱりシズクは凄いや」

 晴史の言葉に、シズクは首を振ってパステルを置いた。

 これが、シズクがまともに描くことができた最後の絵となった。

 次の日、彼女の筆致はまたも大きな様変わりを見せた。

 人間を描いた絵であることは辛うじて分かるものの、使われている色はずっと減っていた。全体のバランスやパースにも狂いが生じている。描かれた顔は、シズクとは似ても似つかない別人になっていた。

 十日目になると、シズクの絵はさらに稚拙となった。輪郭を追うのがやっとで、細部の描き込みまで至らない。腹の切り込みは、赤と黒のパステルでぐしゃぐしゃと重ねただけの粗末な表現に留まっていた。

 心臓が動きを止めてから時を置かずにゆっくり崩壊を始めたシズクの脳は、不可逆的な機能不全を起こしていた。もはや左手は、彼女が見た通り頭で命じた通りに絵筆を運べなくなっていた。

 翌日には色を使い分けることが覚束なくなり、さらに翌日に描かれた絵は胴体と頭部の区別すらつかなくなっていた。

 漏斗の砂が零れ落ちるような早さで、シズクの天才的な画力が失われつつあった。

「この中に膿が詰まってるのかも」

 枕元のペインティングナイフでこめかみを抉ろうとするシズクを、晴史は力ずくで止めなければならなかった。蛆に蚕食されたシズクの右手首を辛抱強く握り続けると、やがて彼女は観念したようにナイフを取り落とした。

「最近、変なの。絵がおかしくなってるのは頭では分かるけど、手が言うことを聞いてくれない。別の生き物みたいに勝手にでたらめな線を描くの」

 澄んだ声が、不安に戦慄いていた。

 縋り付くような目で、シズクは窓際の安楽椅子を見やる。干からびた母は彼女を慰撫しない。

「疲れてるんだよ。少し眠って休みな」

 益体もない気休めを晴史が言うと、シズクはわずかに首を振った。

「眠くならないの、全然」

 時の流れは一掬の手心もなく、シズクの細い体を貪り続けていた。

 目の周りは落ち窪んで黒ずみ、頬骨がくっきりと浮き上がっている。珊瑚色の潤いを湛えていた唇は、茶色くかさかさに萎んでいる。長い髪だけが変わらずに艶やかなのが、かえって痛々しかった。

「あのお爺さん、どうなったの」

 竹林老人について訊ねられたと察するまでに、十秒ほど掛かった。

「焼いた骨の半分は寺にあるけど、もう半分はチンさんの弟さんが海へ撒いたよ」

「海に?」

 竹林老人の人懐っこい笑顔が、瞼の裏に浮かぶ。

「チンさんは、海に還りたかったんだと思う。海は生命の故郷、ていうくらいだし」

 何故そう望んだのか分からないが、荒波のごとき流転の生涯を送った竹林老人が、穏やかな波が行き戻りする大海原を安息の地に選んだのは必然であったように思えた。

「一度でいいから見てみたいな、海」

「いつか一緒に行こうよ」

「――行けないよ、こんな体じゃ」

 空っぽの腹腔に、死出虫の斑紋が蠢いていた。

 蝿の数は日に日に増えていた。茶色い蛆の抜け殻が畳に散乱している。

 シズクとこうして会話を交わせる時間は、あとどれくらい残されているのだろう。

 二人を彼岸と此岸に引き離そうとする非情な時間の流れを、止めることも巻き戻すこともできないことが、晴史は悔しくて仕方がなかった。

「わたしが物を言わなくなったら、燃やしてくれないかな」

 突然の願い出に、晴史は言葉を詰まらせた。

「分かってるの、そのうち絵を描くどころか、考えることすらできなくなるんだって。絵が描けないわたしはもう、わたしじゃない。人ですらない、ただの肉の塊。たぶんわたしは、きみが誰なのかすら分からなくなるんだと思う」

 ゆっくり語るシズクの一言半句も聞き漏らすまいと、晴史は黙って耳を傾けた。

「もしそうなったら、きみの手で始末してほしいの。どのみち影になるにしても、蛆や虫に食べ尽くされるのは厭だから。燃やしてくれたほうがずっといい。わたしが見ることができないわたしの結末を、きみだけに見届けてほしいの」

 それは、腐りゆく彼女に辛うじて残された自我が吐き出した本心だったのか。

 あるいは、荒廃しつつある脳に命じられるがまま漏らした譫言だったのか。

 晴史が無言で頷くと、シズクは眠りの真似事のように目を瞑った。

 薄いまぶたの下で眼球がぴくぴくと小刻みに動くのを、晴史は長いこと見つめた。

「ねえ、シズク」

 偽りの微睡みに沈む少女に、晴史はそっと呼び掛けた。

 胸に引っ掛かる最後の疑問。

「シズクが俺と親しくしてくれたのは、友達がいなくて寂しかったから? それとも、俺の心臓と肝が欲しかったから?」

 しばらくの沈黙の後、シズクはゆっくりと瞼を開いた。

 黒い瞳が、右へ左へ小さく揺れる。

 記憶と感情のミルフィーユを一枚ずつ、丁寧に剥がすかのように。

「そんなこと、もう憶えてないよ」

 そして、柔らかく微笑んだ。


 十五日目、シズクは描くことを止めた。

 それは彼女の意思ではなく、腐敗が進行した脳が下した選択だった。

 シズクの表情には不安も苛立ちも無く、曖昧となった情感に身を委ね、視線を宙に彷徨わせている。虹彩は白い膜にすっかり覆われ、眼球は溶け始めていた。

 畳の上に投げ出された右手の先に、キャンバスが表を向いて転がっている。

 よれよれの青い線が数本、白い生地を這っていた。

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