2章 灰色の秋雨(4)

螢光灯の白い光が照らす細い路地に、二つの靴音がこだまする。

 結局晴史は、住職に勧められるがままシズクを家へ送ることにした。彼女の家は二番街にあった。住職が肥溜こえだめと呼ぶ街区に、シズクのような愛くるしい少女が住んでいる事実が、晴史には受け容れがたかった。

 路地は二人が肩を並べて歩くには狭かった。すぐ近くにシズクの体温を感じる。時折手と手がかすかに触れるたび、晴史の肩はびくんと跳ね上がった。

「あの寺には、よく行くの?」

 気詰まりを紛らわそうと晴史はぎくしゃく問い掛けたが、シズクは「うん」とだけ答えて口を結んだ。

「絵は好き?」「うん」

 沈黙。

「お母さんと暮らしてるの?」「うん」

 またも沈黙。

 ――二人きりにしてくれたのは有り難いけど、どうしろってんだよ。

 心の中で住職と樹戸に悪態をついた晴史の右手を、シズクがついと指差した。

「その手、怪我でもしたの」

「うん、仕事でね」

 一言だけ晴史が返すと、「そっか」とシズクは視線を足元に落とした。

 ――莫迦ばか、せっかくシズクのほうから話しかけてくれたのに!

 会話を繋げるきっかけをむざむざ手放してしまった自分を殴り飛ばしたくなった。

 虫取り網で霧を集めるような手応えのない時間だけが空しく流れる。

 間の抜けたタイミングで「ところでさ」と晴史が切り出したのと、「ここでいい」とシズクが発したのは全くの同時だった。

 宙ぶらりんの気持ちのまま晴史は、「さよなら」も「また今度」も無くシズクが消えたビルを未練がましく見つめ続けた。路地に面した擦りガラスの一つに光が灯る。聴き覚えがある粗暴な楽曲が、聴覚をごりごりと擂り潰す。薄い暗がりの中でも、看板に書かれた『丑首うしくびビルディング』の文字は読み取れた。

 しばらく晴史は呆然と二階を見上げていたが、やがてしょぼくれた足取りで濡れそぼった路地を七番街へ向かって歩き出した。

 晴史は自宅に帰るなり、卓袱台ちゃぶだいの前にへたり込んだ。

 長い一日がようやく終わった。夕飯の支度に取り掛かる気力も無い。

 図書館から借りている小説を開いたが、文字が目の端からざらざらとこぼれて頭に染み込まないのは、疲れているからでも、竹林老人を悼む心持ちのせいでもなかった。

 本を傍らに置き、窓ガラスに反射する自分の顔と向き合いながら、シズクを想う。

 この先また彼女と二人きりになったところで、気の利いた言葉を探り当てられる自信がまるで無い。凍土よりも冷たい彼女の能面顔を、吹き渡る春風のように溶かせるとも思えない。恋の水際に足を濡らすことを、彼の中の童貞が邪魔する。

 辛いけれど、これからは彼女に近づくのを控えよう。

 その決心を晴史が思い出したのは二日後、焼却炉で死体を焼き終えた後、いつもの癖で極楽通りを半ば程まで入り込んでしまった後だった。染み付いた習慣の恐ろしさを痛感しつつ、彼は引き返すのを諦めてそろりそろりと通りを進んだ。

 往来に物売りの並びが見え、膝に載せたスケッチブックに絵を描き込むシズクの姿もまたそこにあった。胸の高鳴りを理性で押し込む。リヤカーを曳いているだけに、往来に身を潜めることもできない。晴史は首をすぼめて、なるだけ足早にシズクの目の前を通り過ぎようとした。

「ねえ」

 シズクのソプラノが、人混みをすり抜けて晴史の耳に突き刺さる。

 横目でちらりと見ると、シズクはスケッチブックから上げた顔を真っ直ぐに向けていた。素知らぬ顔を保つも、さらに「ねえってば」と声が追い掛けてきた。

 晴史は観念して足を止めた。

「何か、俺に用?」

 晴史の口から出たのは期せずして、初めてシズクと屋上で言葉を交わした日に彼女からぶつけられたのとほとんど同じ文句だった。

「これからどこ行くの」

 相変わらず抑揚のないシズクの問い掛けに、晴史は「こいつを返しに」とリヤカーを親指で指した。

「今日返さなきゃ駄目なの」

「組合の持ち物だから。それが何?」

 わざと突っ慳貪けんどんに晴史が返すと、シズクは軽く握った拳を口元に当てて考えこんだ。

 次は何を言い出すのかと晴史が身構えていると、シズクは真剣な目を向けてきた。

「暗い道には気を付けて」

 二番街で拾った小紙片と、竹林老人の肖像画に書かれた文言が晴史の頭を過ぎった。

「暗い道がどうしたの? そこで何か起きるの?」

 いぶかしげに問い質した晴史をシズクはただ上目遣いで見つめるばかりで、結んだ唇を彼女がもう一度開くことはなかった。

「よく分からないけど、教えてくれてありがとう。気を付けるよ」

 去り際にそう答えはしたものの、煮え切らないシズクの態度に晴史は苛ついた。

 予言だか何だか知らないけど、勿体ぶることは無いじゃないか。肝心なところを教えてくれないのなら、初めから口に出さなければいいのに。だいたいからして、なんだって俺に絡んでくるんだよ。

 淡い気持ちを見透かされたうえでからかわれているような心持ちになり、なお一層子供っぽい苛立ちが募った。

 極楽通りの突き当たりを南に曲がり、のたくる蛇のように曲がりくねった路地を車輪の音を響かせながら歩く。せっかちな太陽はとうに一日の営みを終えて西の地平へ没し、見上げた狭い空には残光すら見付けられない。ビル壁にたっぷりの間隔を置いて取り付けられた水銀灯が、コンクリートの路面をしらじらと照らす。光の輪が重ならないわずかな隙間には薄い闇が蟠り、晴史の足元から伸びた影の先端を呑み込んでいる。歩行に困らない明るさの中で、晴史は最前に聞いたシズクの言葉を思い返した。

 ――大丈夫さ。だって、リヤカーが通れる道はどこも灯りが点いているんだから。

 魑魅魍魎ちみもうりょうの巣窟に踏み込んでしまったような後悔と心細さに冷や汗をかきながらも、晴史は「大丈夫」と小声で繰り返し続けた。ここを抜けて四番街と五番街を縫う路地まで辿り着けば、あとは道なりで一番街へ通じる。壁に設置された水銀灯が、闇を追い払ってくれている。組合の事務所からも「暗い道」を通らずに家へ帰ることができる。

 普段であれば誰かしらと行き違うこの路地にあって、この晩に限っては猫の子一匹いなかったことだけが不吉だった。

 ――たまたまさ、たまたま。

 強がった晴史を嘲弄するように、周囲の灯りが出し抜けに消えた。

 不意の暗転に、足が止まる。

 瞼の裏側に光の残像が、瞬きに呼応してちらちらと出入りする。

 停電は珍しいことではない。場当たり的に増設を繰り返した配電設備は、しょっちゅう不具合を起こしては住民を困らせる。遠くのほうから「すぐ復旧するから席立たないでね、危ないから」と聞こえてきた。

 冷酷で濃密な暗黒に取り囲まれたまま、直立不動の時間だけが流れた。

 平生であれば闇は晴史の味方だが、シズクの予言を受け取った今となっては、漆黒を引き裂きながら何者かが牙を剥いて襲いかかってきやしないかと気が気でなかった。

 暗闇を恐ろしいと感じたのは、物心が付いてからほとんど初めての経験だった。

 蛞蝓ナメクジが這うほどの鈍さで、勝手に足が動く。

 路面の砂をリヤカーの車輪が噛む音すらうるさい。

 時間の感覚が曖昧になった頃、ようやく街灯に小さな光が戻り始めた。水銀灯は始動から発光まで時間が掛かる。薄ぼんやりとした明るさではあったが、辛うじて通路の先を見通すことはできる。

 ざり、と靴底が地面を擦る音が立った。

 反射的に、音がしたほうを向く。

 人一人が通れる細い路地に、中腰の人影を見た。右手に細い棒のような物を携えている。人影の足元に何かが転がっていた。ごみ袋にしては平べったい。通路の空気にかすかな金属臭が混ざり込み、晴史の鼻腔をくすぐった。

 水銀灯の光が強くなるにつれ、細路地の様子が徐々に鮮明になっていく。人影はねずみ色の作業着に身を包んだ男であった。顔の輪郭は長芋のように細い。烱々たる双眸が晴史を睨め付けている。

 第五班の蛙男と錆びたリヤカー、荷台に積まれた納体袋がフラッシュバックする。この男が取り付いていたのは、リヤカーの前だったか後ろだったか。

 言葉も交わさず、二人は数秒の間見つめ合った。

 長芋顔の足が、路面を蹴った。

 右手に握られた骨スキ包丁の刃が、水銀灯の光を弾いて真っ直ぐに突き出される。

 悪寒が心臓をぞわりと震わせ、脊髄を冷たく駆け抜ける。

 身を捩り、すんでのところで突撃を躱したものの、リヤカーのハンドルに足が引っ掛かり、もんどりを打って倒れ込む。

 長芋顔はなおも襲い掛かってくる。打ち付けた肩と側頭部を痛がる暇すら無い。

 転がりながら最初の追撃を避けたものの、立ち上がるなり左肩を殴りつけられた。

 背筋を撫でるひやりとした戦慄が、衝撃とほとんど同時に襲ってきた。

 切られた、と気付くより早く、血と痛みが傷口から溢れる。

 よろめきながら細路地に逃げ込み、何かに躓いてつんのめった。

 膝が柔らかい感触を踏み、路面についた両掌が濡れる。

 晴史の下で、ぼさぼさ頭の老人が事切れていた。

 縮んだ鶏皮のような瞼が半ばまで垂れた老人の両眼は、晴史を見つめているようでその実、どこにも焦点は合っていなかった。垢で汚れたシャツはまだらに赤黒い。垢と血の臭いと黴臭さに、湧き上がった恐怖を掻き混ぜられ、むかむかと悪心が走る。

 熱病を患った獣のような息遣いを聞いて、晴史は死体から視線を引き剥がした。

 長芋顔が逆手に持った骨スキ包丁を肩の高さに振り上げていた。

 跳ね起きると同時に跳びかかり、長芋顔の両手首を掴む。ゴミ屋の仕事で肉体を酷使する晴史の膂力は大人のそれと較べて遜色ないが、長芋顔との身長差のせいで体勢が悪い。切り裂かれた左肩の痛みも手伝って、力がうまく入らない。血と汗で濡れた作業着の袖が腕に張り付く。踏ん張るスニーカーの踵が、血溜まりで水音を立てる。

 長芋顔の殺気立った細い目が、晴史の網膜を射貫く。

 包丁の切っ先が眉間の至近で小刻みに揺れる。

 鮮血の雫が一粒落ちた。

 ――俺、ここで死ぬの?

 闇夜を震わす咆哮が上がった。

 それが己の喉からほとばしったものであることすら、晴史は気付いていなかった。

 掴んだ腕を渾身の力で押し返す。長芋顔は切っ先を捩じ込んでくる。突っ張った肘がみしみし撓む。噛み締めた奥歯が軋り、漏れた唸りと混ざり合う。長芋顔の息が額を這う。殺そうとする者と殺されまいとする者、もつれ合った二つの影が水銀灯の下で踊る無伴奏のコンチネンタルタンゴ。包丁の切っ先が、でたらめな軌道を描いて二人の間を暴れ回る。

 両の腕と肩に、万力で締め付けられたような痛みが走る。少しでも力を緩めたら一息に仕留められることは明らかだったが、限界はすぐそこまで迫っていた。

 晴史は力を振り絞り、包丁を握る長芋顔の手を捻り上げた。

 長芋顔が抵抗して腕を振るった拍子に、刃がその顔面を抉った。

 ぎえっ、と鋭い悲鳴が上がった。

 長芋顔が手から包丁を取り落とし、両手で眉間を押さえて蹲る。指の隙間から零れた血と呻きが、地面のコンクリートに滴り落ちた。

 晴史はよろよろと立ち上がり、荷台から納体袋を引きずり出すと長芋顔に被せた。

 上半身の自由を奪われて暴れる長芋顔を、袋の上から文字通り袋叩きにする。

 殴り、蹴飛ばし、馬乗りになってまた殴る。

 拳がどこを殴っているのか、当の晴史にも分からない。

 したがって、どの打撃が長芋顔の意識を飛ばしたのかすら知れなかった。

 股の下でぐったりとのびた長芋顔を見下ろし、晴史は肩で激しく息をした。気管の内側を酸素と二酸化炭素が飛び交い、心臓は胸から飛び出さんばかりに跳ね回っている。左肩に刻まれた創傷が、火を噴くような痛みを脳髄へ送りこんでくる。

 ばたばたと近付いてくる不揃いの足音を、晴史は荒い呼吸の中で聞いた。もはや体を支えるだけの気力も無く、晴史は長芋顔に覆いかぶさるようにして突っ伏した。

「ハル! おい、大丈夫かっ?」

 血相を変えて駆け寄ってくる月丸と、その後ろで息を切らすシズクの姿を認めたところで、晴史の視界は墨を溶かしたように暗くなり、やがて何もかも分からなくなった。


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