2章 灰色の秋雨(5)
*
からからから。何かが回っている。
深淵から浮上した意識が最初に動かしたのは、聴覚だった。
からからから。風がそよぐ。
皮膚が、鼻が、徐々に感覚を取り戻す。うっすら開けた眼が見慣れない天井を捉えた。
「おい、ハル。俺が分かるか?」
「月丸さん……?」
口を開くと奥歯のあたりが疼いた。頭は水飴に漬け込んだように重い。左肩には引き
「いいからいいから。あちこち打ってるうえに、左肩も縫ってるんだ。今夜は熱が出るかもしれねえ。悪いことは言わねえから泊まっていけ」
そこでようやく、自分が寝かされているのが月丸の寝床であることが理解できた。
月丸と反対方向に首を捻ると、両膝を抱えて座るシズクの姿があった。慌てて視線を逸らした先の壁には、赤いペンキで『まい朝、たんまつのメモを見ること!』と大きく書かれていた。
「そいつが報せてくれたんだよ。感謝しとけ」
「シズクが?」
無言のまま、シズクは軽く頷いた。
「極楽通りを通り掛かったら、そいつが誰彼構わずせがんでたんだ。『助けて、一緒に来て助けて』てな。しまいにゃ俺の
月丸を動かすほどの表情とは、どんなものだったのだろう。
晴史は、月丸にしがみつくシズクの形相を思い浮かべようとしたが、こめかみを走った痛みに遮られた。
「お前にとっちゃ災難だったろうが、お陰で俺にしたらでけえ収穫だ。腹を割かれたロクは転がってるし、血まみれのヤッパまで落ちている。言い逃れ無用のゲンコーハンだ。ここんとこで増えた殺しも、あいつの仕業に違いねえ。地回り連中に引き渡したから、泥を吐くのも時間の問題だな」
「四番街の金髪は、違ったの?」
「ああ、あいつか。手足をふん縛って
月丸は塩っぱい顔をして、耳の後ろを軽く平手で張った。
「あいつはシロだ。ジャッカルっつう通り名の売人でな、絞め殺した女は野良花だってんだ。チンチンを插れてる時に首を絞めるとアソコの締まりが良くなるってんで電気コードでぐいぐい絞めてたら、力が入りすぎて死なせちまったんだと」
女の子がいる前で、とたしなめかけ、晴史は思い留まった。シズクは物売りだ。
「けど、野良花を殺すのは駄目だよね」
だって、地回りの貴重な収入源じゃないか。
その一言を付け加えるのすら
「それについては、吐かせるためにちょいとばかり痛い目に遭わせちまったからトントン、てことで落ち着いた。他に女は殺っちゃいねえ、て一点張りだったしな。ともあれ、お前の体を張った捕り物のお陰でこちとら大助かりだ。落ち着いたら、飯でも食いに行こうぜ。俺の奢りだ」
――その約束を、ちゃんとメモに残してくれればね。
ひとしきり話し終えると、月丸はのっそりと立ち上がった。
「そろそろ仕事に戻るわ。無理に帰ろうとしねえで、ゆっくり寝てろよ」
「うん、ありがとう月丸さん。助かったよ」
晴史が礼を述べると、「お互い様だ」と照れたように笑み、月丸は部屋を出て行った。
からからと扇風機が回る部屋に、晴史とシズクが残された。
沈黙が無為に積もる前に口を開いたのは、晴史だった。
「月丸さんを連れて来てくれたんだね。ありがとう」
シズクは小さく首を振る。
「わたし何もしてない。教えただけだから」
「十分過ぎるよ。お釣りが出るくらいさ。誰にだってできることじゃないからね」
そう、誰にも真似できない芸当である。シズク以外、ただの一人も。
極楽通りでシズクに抱いていた憤りと苛立ちは、とうに消え去っていた。
「シズクは、未来が視えるの?」
晴史の問いに、シズクは肯定とも否定ともつかない曖昧な無言を保つ。扇風機の風に、長い黒髪がさらりと揺れる。
「ちょっと前に、二番街で拾ったんだ。《ななばんがいおもいふくろにきおつけて》って書かれた紙。あれ、シズクが書いたんだろ?」
黒真珠を思わせる瞳が細かく震える。
やがて観念したように、シズクはこっくりと頷いた。
「人の絵を描いてるとたまに、声が聞こえるの。たいていはその人の身に近いうちに起こる、よくない事。怪我をしたり病気になったり」
「あるいは、死んだり?」
再び、こっくり。
「あの日は、飛び降りた死体を家の窓から描いてたら、きみたちがやってきた。どいて、とも言えなかったから、仕方なくきみたちも絵の中に描き込んだの。描いてるうちに声がしたけど、それが誰のことなのか分からなかった。だから、声の内容を紙に書きつけて、窓から落としたの」
「もっと分かりやすく教えてくれればよかったのに。今日にしてもそうだけど」
先程までの怠さは、体の奥深くに引っ込んでいた。
「言っても無駄だと思った。どうせ信じてもらえないんだろうって」
「そんなことない。信じるよ、俺は」
晴史は包帯が巻かれた右手を布団から出し、シズクに見せ付けた。
「ちょっと前に極楽通りで、俺と一緒にいた爺さんの似顔絵を描いただろ? あの日にごみで切った怪我なんだ、これ。今日にしたって、シズクの予言を軽く見た結果がこの有様だよ。二回も続いたんだ、疑う余地なんてこれっぽっちも無いさ」
竹林老人の肖像画に書かれた文字列を頭の中で読み上げる。よそゆきちゆうい。
「シズクが似顔絵を描いた爺さん、チンさんっていうんだけどさ、外出先から戻ってくるなり倒れてそれっきりになったんだ。余所行き注意。せっかくシズクが教えてくれたのに。もっと早くに気付いて、引き止めれば良かったと後悔してるんだ」
シズクは膝に目を落として、晴史の話に耳を傾けている。
「でも、シズクの予言を聞いていなかったら、もしかすると命が無かったかもしれない。予言があったからこそ注意深くなれたし、襲われても体を動かせた。シズクが月丸さんを連れて来てくれたお陰で、怪我も大事に至らずに済んだ。感謝してもしきれないよ」
奥歯の
シズクが視線を上げた。血色の良い唇は物言いたげにかすかに緩んでいる。
今言うべきか、それとも言わざるべきか。
唾を飲み込み、晴史は意を決して話を継いだ。
「実は俺、前からシズクの事を知ってたんだ。チンさんたちと一緒に通りで会う前から。屋上でカラスを描いてるのを見掛けるよりも、ずっと前から。俺、ゴミ屋やってて、ロク――死体も焼いてるんだ。その帰り道に極楽通りを通るんだけど、そこでシズクをいつも見てたんだ」
一度動き始めた口は、もう止まらなかった。
「シズクが絵を描いてる姿を見るたびに、何か話ができたらな、とか、仲良くなれたらな、とか、ずっと考えてたんだ。だから、シズクの名前を知ることができて嬉しかったんだ。全然話は盛り上がらなかったけど、寺から一緒に帰る時もね。嘘じゃない、飛び跳ねたくなるくらい嬉しかったんだよ」
好きという言葉が気恥ずかしい、晴史なりの無自覚な告白だった。
気後れする気持ちも先刻抱いた苛立ちも、一片たりとも残っていなかった。
シズクの表情はいつも通り平淡としていたので、彼女に自分の気持ちがどれだけ届いたのか窺い知ることはできなかったが、胸に満ちた達成感の前ではどうでもよかった。
想いを吐き出し終えると、どっと疲れが押し寄せた。
意識を手放す寸前、何事かシズクが
翌朝目覚めたとき、横で音高く鼾をかいていたのはシズクではなく月丸だった。
包帯を巻かれた左肩がじくじくと痛む。体中が腫れぼったく、ひどく熱っぽい。上体を起こすと、体のそこここで痛みが跳ねた。呻吟を噛み殺し、身を強張らせてその痛みに耐える。
掛け布団を
古い扇風機が回る音が、朝の静けさに散らばっていた。
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