2章 灰色の秋雨(1)

「たまにはみんなで、帰りに一杯やりましょうよ」

 とある休日前の仕事あがりに、そう持ち掛けたのは、竹林たけばやし老人だった。

 この日は妙なことが重なった。

 最初の珍事は、竹林老人がロク運びを断ったことだ。

 一旦、竹林老人はいつも通り引き受けはした。しかし、猫塚ねこづかが手渡した書類に目を通すなり、「やっぱり止めるわ」と突き返したのである。

「十二番街の二番ビル、1219号室。嬰児えいじ。さほど面倒な依頼ではありませんが」

「うるさいわね、やらないって言ってるのよ!」

 竹林老人が声を荒らげると、猫塚は珍しく不思議そうな顔を一瞬だけ浮かべたものの、すぐさま普段通りの石のような無表情に戻り、他の班へ仕事を振りに行った。

 竹林老人が依頼を断る時には、断るだけの明快な理由があるのが常だった。休み明けでごみの量が多そうだからとか、人員が足りないとか、そういった理由である。それを除けば、死体の状態や老若や男女の別は問うところではない。老人の癇癪かんしゃくはいつものことだが、明確な理由も無しにロク運びを断るのは滅多にあることではない。

 その真意を晴史は訊きそびれてしまった。午前中の仕事で起こった事故のせいである。

 この日の七番街は、いやにごみが多かった。竹林老人は普段の三倍ほどに膨れ上がったごみの山を睨み、舌を鳴らした。

「仕事を増やすんじゃないわよ。ごみの量が多かろうが賃金は変わらないんだから」

 事故は、山が半分ほどに減った頃に起きた。

 手に取った袋が思いのほか重く、晴史は苦戦を強いられていた。足を踏ん張り、腰と背中にも力を込めて引き抜こうとするが、袋はびくとも動かない。

 ――何か、引っ掛かっているのかな。

 ごみ袋の山を掻き分けて奥深くに差し込んだ手に、不穏な痛みが走った。

 反射的に腕を引っ込めた拍子に山が崩れ、路地に袋と汚臭が散乱する。

「ちょっと、何よこれ!」

 晴史が持ち上げようとしていた袋のところどころから、褐色の刃が飛び出している。軍手ごと切り裂かれた親指の付け根から、痛みと一緒にどくどくと血が溢れる。袋には錆びついた包丁がぎっしり詰め込まれていた。

「怪我してるじゃない、ハル坊! お医者に診てもらわなきゃ」

 不幸中の幸いで、すぐ隣のビルに外科医が診療所を構えていた。眠そうな目で「予約してから来なさいよ」とあしらう医者を竹林老人が叱り飛ばしたお陰で、さほど待たずに治療を施してもらえた。麻酔をけちったのか、あるいは意趣返しか、外科医が振るう縫合針に晴史はもだえた。

「大きいのはあたしと樹戸ちゃんに任せて、あんたは片手で持てるのだけ片付けなさい」

 仕事を軽くしてやることが竹林老人なりのいたわりのようだが、大事を取って休ませるという根本的な思いやりは無いらしい。三人は何事も無かったかのように仕事を再開した。晴史に傷を負わせた包丁の詰め合わせは、現場にそのまま置き去りにした。

 仕事の終わりが見えるにつれ、竹林老人が浮き立つのが手に取るように分かった。朝の不機嫌はどこへやら、ごみを運ぶ手に時折鼻歌が混ざる。

 なにか良いことでもあったのかな。

 などと、竹林老人の様子から推していたところにこの誘いである。晴史ならずとも、何事かこの老人にあったことを察するに難くない。

「でも俺、酒なんて飲めないよ」

「ロク運びの時には清めを飲んでるじゃないのよ」

「あれは仕事だし、嘗める程度さ。一度チンさんに勧められて飲んだ時は、次の日にえらい目にあったじゃないか」

「そんなこと、あったかしらねえ」

 晴史が酒の味を覚えようとしない理由は、もう一つあった。

 酒息を芬々と臭わせる父。

 ここのところ、父は前にも増して頻繁に飲み歩くようになっていた。深夜に帰宅し、酔眼朦朧もうろうと玄関先に倒れこむ姿も珍しくなかった。

「飲めないなら飲めないでいいわよ。付き合って隣に座ってくれれば、それでいいわ」

「なにか良いことでもあったんですか?」

 晴史の疑問を代弁するように樹戸が問うと、老爺は少女のような仕草で唇に人差し指を当て、「ナ、イ、ショ」とウインクした。

「でも俺――」

 夕飯を作らないと、と出掛かったところで、言葉が止まった。父が夕飯時に家にいるのは、週に三回もあればいいほうで、二人分の夕食を作ることに空しさを覚えていた。

 晴史は誘いに乗ることにした。父を抜きにしても、班員同士の懇親は悪くはない。

 リヤカーを手早に片付け、三人は竹林老人が行きつけているという店へと向かった。

「訊き忘れてたけど、樹戸ちゃんはいける口なのかしら?」

「付き合い程度です。ところで、どこの店に行くんですか?」

「極楽通りの外れにね、『十弗』って繁盛店があるの。珍しいお酒を置いてるのよ」

 二人の会話を聞き流しながら、晴史は二番街で拾ったあの紙片を思い返していた。

《ななばんがいおもいふくろにきおつけて》

 七番街、重い袋に、気を付けて。

 午後の仕事に励んでいる最中から、文言と事故との奇妙な符合が頭から離れなかった。丑首ビルの二階に見た人影を思い出す。長い髪と、ほっそりしたシルエット。窓から姿を消すとき、少し慌てているようにも見えた。

 二番街には人を喰う怪物が潜んでいる。

 しかし、晴史が思い描く人影の正体はどういうわけか、怪物とはまるでかけ離れた姿形をしていた。


「よう、ハルじゃねえか」

 極楽通りに出たところで声を掛けられた。向けた視線の先で、筋肉質の浅黒い青年が右手を挙げている。逞しい上半身に纒っているのは半袖のポロシャツ一枚だけ、下半身はデニム地のショートパンツにスニーカー。もう秋も半ばだというのに、一人だけ真夏から抜け出してきたような出で立ちである。

「昔から馴染みの月丸つきまるさん」

 青年の正体を問いたげな顔をする樹戸に、そっと耳打ちした。

「相変わらず頭の悪そうな恰好ね、月丸は。もう冬も近いのよ。寒いって感覚、どっかに置き忘れてきたんじゃないの?」

 竹林老人が小莫迦にすると、月丸は唇の端をついと上げた。

「カマジジイこそ、まだ生きてやがったのか。とっくにくたばったかと思ったぜ」

 月丸は竹林老人をカマジジイと呼ぶ。

冥加みょうがなもんでね、風邪一つ引きやしないわ」

「そいつは結構なこった。んで、そっちの兄ちゃんは?」

「この人は樹戸さん。しばらく前から俺と一緒にゴミ屋の仕事をしているんだ」

 一揖した樹戸に、月丸が再び軽く右手を挙げて応える。袖先から伸びる太い腕は呆れるほど逞しく、軽く曲げただけで上腕の筋肉がもりっと隆起する。野獣じみた見た目の通り、月丸の得意分野は荒事である。この界隈で彼に素手の喧嘩で勝てる人間を、晴史は知らない。

「んで、雁首がんくび揃えてどこに行こうってんだ?」

「これから十弗よ。仕事が終わった後の憩いってやつよ」

「十弗ねえ。本当なら、ボーイズバーにでも行きたいんじゃねえか? なあ、新入りの兄ちゃん、カマジジイに口説かれたりしなかったか?」

「えっ?」

 頬を張られたかのように、樹戸が目を丸くする。

「洒落になってないよ、月丸さん。樹戸さんは、チンさんの家で居候しているんだから」

「へへへ、それならなおさら気をつけねえとな。いつかこのジジイに襲われちまうぜ。風呂でも寝床でも、気を抜かないこったな」

 顔を引きひきつらせた樹戸を、月丸は愉快そうに嗤った。

「あんまり樹戸ちゃんをからかうんじゃないわよ。同居人に手を付けようだなんて、そんな気持ちはとっくに涸れちゃってるわ。そうでなくても、あたしの好みはもっとがっちりした体型の男なの。がりがりの樹戸ちゃんじゃ物足りないわ」

「マッチョが好みなのかよ。勘弁してくれよ、俺にそっちのケは無いぜ」

「あんたみたいにがさつな男は、こっちから願い下げよ」

 漫才のように掛け合う二人の横を、オータムコートを羽織った箱入りの一団が通りかかり、月丸に「おはようございまーす」と頭を下げる。腕っ節の強さを地回りに買われて用心棒役を務める月丸は、極楽通りの顔役である。

「おう、お疲れ。今から仕事か?」

「日の入りまでね。月さんからもオーナーに言ってやってよ、働かせ過ぎだって。アソコが擦り切れて血が出ちゃう」

「自分で言えよ。ところでそっちの彼女は? 見ない顔だけど、新入りか?」

「やあねえ。確かにこの子、一週間くらい休んでたけど、先月からいるじゃない」

「ああ、そうだったっけ」

 月丸はまるで悪びれる様子もなく、店へ向かう箱入りたちを手を振って見送る。

「ほんと、相変わらずの忘れっぷりねえ、月丸は。よくそれで用心棒が務まるものね」

「だからこいつを持ち歩いてるんだ」

 月丸は型落ちの情報端末機をポケットから取り出し、見せびらかすようにして振りかざした。

「何日か前の俺から今日の俺への連絡帳だ。のちのちまで忘れちゃならねえ大事なことは、全部これにメモしてんだ。書き溜めた内容が多くなりすぎて、近頃じゃ読み返すのも骨だけどな」

「月丸さんは、新しい物事をほとんど憶えられないんだ。知り合いができても、三日も会わなければ頭の中から消えちゃうんだよ」

 晴史が樹戸に囁いた。

 三年前に月丸は、喧嘩で負かした相手からお礼参りをされた。返り討ちにはしたものの、角材でひどく頭を殴られ、前向性健忘の後遺症が残った。三年より前のことなら憶えているが、ほんの一週間前に会った顔はそれが誰であろうと忘れ去ってしまう。

「だから月丸さんは、一日も休まずに極楽通りの店を回っているんだ。そうすれば店の場所もそこにいる人たちのことも、忘れずに済むんだって」

 おそらく次に会ったとき、月丸は樹戸の顔も名前も忘れてしまっているのだろうな、と晴史は考える。月丸の頭の中にある時計は、三年前から針の動きが止まってしまっている。毎日極楽通りを巡回して顔馴染みを作っても、病気か何かで数日寝込もうものなら、彼の時間はたちまち襲撃された翌日まで巻き戻ってしまう。

「おお、そうだそうだ。仕事しないとな」

 表情のスイッチを切り替えて真顔になった月丸が、端末機を操作し始めた。

 画面をなぞる指が、目当てのメモを探し出して止まる。

「ええっとな、最近ここらで怪しい奴を見かけなかったか?」

「怪しくない奴なんて、この街にいるのかしら」

「胡散臭いとかそういう怪しさじゃなくてな、キョードーなんとかってやつだ」

「挙動不審?」

「そう、キョドーフシン。野良花や闇鍋をつけ狙う変態がウロチョロしてるみたいでな」

「変態って、どんな変態よ?」

「何もしねえんだとよ」

 要領を得ないといった風情で、竹林老人が首を突き出す。

「ビルの陰に潜んで、遠くからじっと見てるだけなんだがな。気味悪くておちおち仕事もできねえから何とかしてくれ、て闇鍋が地回りに泣き付いたんだ」

「けど、見てるだけなら何の害もないんじゃないのかな」

「ハル坊の言う通りよ」

 竹林老人が合いの手を入れた。

「極楽通りに限らず、この街はおかしな人間だらけじゃない。下半身丸出しで野良花にちょっかい出してくる男とか、便槽に浸かって恍惚となる変態とか」

「男好きの変態ジジイとかな」

 おちょくった月丸の脛を、竹林老人が爪先で蹴った。

「野良花や闇鍋にしても、ストーカーまがいにしつこく付け回されるなんて慣れっこでしょうよ。組合や地回りが気に掛ける理由が分からないわ」

「それなんだけど、まあ色々あってな」

 脛を押さえて痛がる素振りの月丸が、小さく手招きした。

 三人が体を寄せてきたところで月丸は声を低める。痛みの表情は消えていた。

「『肝喰きもくい』だよ。知ってんだろ」

 竹林老人が物知り顔で首肯した。

「当然でしょ、イタギリに住んでて知らなきゃモグリよ。最近あいつ絡みの騒ぎを聞かなかったけど、まだ捕まってなかったのね」

「何ですか、肝喰いって?」

「人を殺して、死体から内臓を抜き取る猟奇殺人者。昔からこの街に出没し続けてる、いわばイタギリの都市伝説といったところね」

 樹戸の疑問に、竹林老人が衣擦れほどの囁きで答える。

「野良犬が食い荒らしたのではなく?」

「牙と爪だけで刃物を使ったみたいに綺麗に腹を割けるなら、あんたの言う通りでしょうね」

 肝喰いについては晴史も知っていたし、その犠牲者と思しき死体を何度か処分したこともある。ビルの谷間に蹲るようにして事切れた死体は、ほとんど例外なく頚動脈を断ち切られ、喉元まで割かれた腹の中からは心臓と肝臓が消えていた。

「俺らがガキの頃は、肝喰いの餌食になるのは女と相場が決まっていたが、ここ何年かは様子が違っていた。殺られるのは、街の外からのこのこやって来た何も知らねえ男たちばかりだ。目的も周期もまるで読めねえ、とんだイカレ野郎だ」

「殺人鬼が彷徨うろついているなんて物騒な噂が広まれば客足が遠のく。極楽通りはイタギリのドル箱だもの、地回りが看過できないのは当然よね。けどそれなら、本腰を入れるのがちょっと遅すぎない?」

 竹林老人の当て擦りに、月丸がかぶりを振った。

「外からの客が殺される分にはどうだっていいさ。イタギリは元々、ジンガイマキョーってやつだろ。失踪したところでさもありなんだし、ロクはお前らゴミ屋が綺麗に始末するから、万が一外の警察が踏み込んだところで知らぬ存ぜぬで通せるさ」

「じゃあ、何が問題だってのよ」

 月丸が周囲に視線を配り、さらに声を低めた。

「女が殺されたんだよ。それも商売女がな」
















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