1章 黄昏色の炎(7)

      *


 こん、と足元に落ちた音が、晴史を十二歳の夕暮れから十五歳の現在へと引き戻した。

 視線を落とすと、掌にすっぽり収まる大きさのおひねり状の物体が落ちていた。

 身をかがめて拾い上げる。薄紙に包まれた使いさしの消しゴムだった。

 広げた薄紙には、たどたどしい文字で一言だけ記されていた。

《ななばんがいおもいふくろにきおつけて》

 頭上に視線を向けると、二階の一室の窓辺に髪の長い人影が立っていた。

 晴史が顔立ちを確かめる前に、人影はすっと窓の奥へ引っ込んでしまった。

「どうしたの、ハル坊?」

 竹林たけばやし老人の声に「ううん、何でも」とだけ答え、紙片をポケットへねじ込んだ。

「急ぐわよ。ここのところ日も短くなったし、ぼやぼやしてると間に合わなくなるわ」

「間に合わないって、どういうことさ?」

「お寺よ。シナズの骨は、一番街のお寺に納めなきゃいけないの」

「どうして? いつも通り、川に流せばいいじゃないか」

「シナズを焼けば分かるわ」

 車体を軋ませながら三人は焼却棟へ急行した。段差を通るたび、車体が大きくバウンドする。この衝撃でリヤカーが壊れてしまえばいいのに、と晴史は密かに願った。そうなれば、リヤカーを新調せざるを得ないのだから。

 炉でシナズを焼き始めても、竹林老人は「焼けば分かる」を繰り返すばかりで、寺行きの理由を言わなかった。

 変化は、火を入れてから三十分後に起きた。

 閉まった扉の細い隙間から、黒い煙が漏れ出してきた。故障か、と晴史は身を乗り出しかけたが、竹林老人はいささかも慌てず炉を凝視している。

「シナズは仕事がしやすいわね。確かめなくても焼き具合が分かるんだもの」

 黒煙はなおも漏れ続け、拡散することなく扉の前にわだかまり始めた。

 煙の塊が縦長の楕円形をとり、球状の先端が生まれた。

 塊はところどころで枝分かれを繰り返し、それにつれてくびれが増えていく。

「人間……?」

 晴史はるふみ樹戸きどがほとんど同時に呟いた。

 ものの数分で黒煙は、頭部と肢体を備えた黒い人型へと変貌を遂げた。ランタンの灯りの中で、人型の輪郭は陽炎のごとく揺らめいている。

「影っていってね、シナズの体が残らず骨になると出現するの。魂みたいなものね」

「魂、ですか?」

 竹林老人の顔を見ながら、樹戸が戸惑い気味に訊ねた。

「体への執着だけは残っているみたいで、片時も骨から離れようとしないのよ。街中を彷徨うろつかれても目障りだっていうんで、お寺で引き取ってもらうことになっているの」

 スイッチを止めて鉄板を引き出すと、微塵に砕けた骨が残っていた。熱がとれるのを待ってから、三人は骨を掬い納体袋へ流し入れる。その間、影は所在無げにリヤカーの周りを歩き回っていた。

「影とは意思の疎通ができないのよ。あっちに行け、て言っても伝わらないし、邪魔くさいったらないわ」

 骨を載せた車体を寺へ向ける。影はぴったりとついて来た。

 三番街へ差し掛かったとき、行く手を見覚えがある三つの顔に阻まれた。第五班のゴミ屋の面々である。晴史たち同様、第五班の三人もまた黒いレインコートにすっぽり身を包んでいる。リヤカーの荷台に載せられたカーキ色の袋が膨らんでいる。

 死臭をまとった黒いシルエットが六つ、狭い路地で対峙する。

「あら、奇遇ね。そっちもロク運びかしら。焼却炉でかち合わなくて何よりだわ」

 先頭に立つ、蛙が化けたような面貌の小男が、舌を鳴らして視線を横へ逸らす。

 蛙面は、最近になって第五班の長に収まった男である。典型的な日和見主義者のようで、猫塚には毎日歯の浮くようなおべんちゃらを並べている。時として不手際を叱責されることもあり、神妙な面持ちでじっと聞き入る様に周りのゴミ屋が「まさに蛇に睨まれた蛙だな」と囁く揶揄を、晴史はしばしば耳にしている。

 リヤカーの前後に取り付いている二人は表情に乏しく、粗笨そほんな目鼻を刻みつけた長芋を思わせた。蛙面に付き合うかのように、揃って言葉を発しない。

 幸いにも太い路地――リヤカーが通れる程度に、という意味であるが――がすぐ近くで交差していたため、二つの班は迂回することなく先を進むことができた。第五班の納体袋から漏れ出した死の臭いが晴史の鼻を打った。

「ここのとこ、ロクがやけに多いわよねえ。今日が二件、一昨日が一件」

 やり過ごしざま、竹林老人が前方を向いたまま素っ頓狂な声を上げた。

 蛙面の視線が、ようやく竹林老人に絡みついた。

「急にどうしたのさ、チンさん?」

「別に。お飯の食い上げにならずに済んでるから良いわね、てだけよ」

 蛙面が二度目の舌打ちをくれ、「さっさと行くぞ」と班員を促した。

 鼓膜を不快に引っ掻く車輪の回転音が二つ、それぞれの行く先を目指して離れていく。

 そっと晴史が振り返ると、遠くの蛙面と視線がぶつかった。慌てて前へ向き直る。

「何だったんだ今の。なんで俺たちが睨まれなきゃならないんだよ」

「さあ、どうしてかしらね」

 竹林老人が含むような漫ろ笑みを漏らした。

 目当ての古刹こさつは、周囲のビルに押し潰されまいと懸命に抗っているような佇まいだった。瓦を葺いた屋根だけが真新しい。境内も鐘撞かねつき堂もなく、参道の代わりに埋め込まれた飛び石が堂宇へと続き、その右手には奥に細長い切妻造りの木造平屋が建っている。平屋には長い間口の連子窓が据え付けられていたが、灯りが入っておらず、内部の様子は窺えなかった。

「まるで廃寺ですね」

 樹戸が率直な印象を漏らす。

「こんなボロいお寺でも、ちゃんと住職がいるのよ。もっとも見てくれは、これまた樹戸ちゃんの想定の埓外ってやつかもしれないけどね」

 仏堂の格子戸を竹林老人が拳で叩いた。二度、三度と叩くも応えがない。

 骨ばった拳が戸を叩く音が強くなる。

「ちょっと、居留守なんて使わないで出てきなさいよ生臭坊主。居るんでしょう?」

 竹林老人の喚声を遮るように、戸が勢い良く左右へ開いた。

「相変わらず喧しいジジイだ。営業時間外だぜ」

 戸口に現れた偉丈夫の入道に、樹戸が体を硬直させる。作務衣さむえがはちきれそうなほど胸板が分厚い。猪首いくびに載った顔はいかめしく、げじげじ眉の下の双眸が小柄な竹林老人を射貫く。頬が火で炙ったように赤らんでいる。およそ僧籍に似つかわしくないこの住職の背中で、琵琶を抱えた弁財天が優雅に舞っていることを晴史は知っている。

「それで何の用だ? さっさとしてくれねえかな。忙しいんだこっちは」

 雷鳴のごとき太いだみ声が、不機嫌そうに用件を訊ねてきた。

「なにが忙しいってのよ。どうせお酒でも飲んでたんでしょ。仕事よ、仕事」

 竹林老人がリヤカーの側に立つ影を指し示すと、住職は忌ま忌ましげに舌打ちした。

「ったく、面倒くせえ。葬式や年忌で経でも上げろってなら諸手を挙げて歓迎だがな、影なんざ一文の得にもならねえじゃねえか」

「生臭もいいとこね。愚痴は要らないから、さっさと引き取りなさいよ」

 住職は、面倒くせえな、と呟きながら堂宇の奥へと引き戻った。再び姿を現したときには、手に円筒形のプラスチック容器を携えていた。ラベルには《お徳用焼き海苔》とある。

「ちょっと、何よそれ。まともな容れ物はないわけ?」

「骨壺切らしてんだよ。骨を入れるだけなら、これで十分だ」

 下駄をつっかけた住職が、黒ずんだ階段を大儀そうに降りてきた。右足と左足のリズムがちぐはぐで、体の傾きから察するに左膝を悪くしているようである。

「じゃあ、こいつに骨を入れろ。入りきらなかったら、川にでも棄てとけ」

 晴史と樹戸が言われた通りにすると、住職はぶつぶつと念仏を唱えながら骨を納めた焼き海苔の容器を携え、ひょこひょこと切妻造りの平屋へ入っていった。その背中を追って、黒い影もまた建物に吸い込まれていった。

「あそこはね、影舎っていうの。骨を安置して影を留めておくための建物よ。置くだけ置いて、あとはほったらかしだけどね」

 一分もしないうちに、住職だけが影舎から出てきた。

「ほれ、供養料」

 住職が突き出した分厚い掌を、竹林老人が「なにが供養料よ」と平手で叩いた。

「まるっきりでたらめじゃないのよ、あんたの念仏は。一銭の価値も無いわ」

 貶されて面を渋くした住職が「んで」と話頭を転じた。

「シナズはどこで拾ってきた」

「二番街の丑首ビル。あそこなら不思議じゃないでしょ」

 住職が訳知り顔で「違えねえ」と頷く。

「あっこの人間がシナズになるってなら誰もが納得だわな。イタギリが掃き溜めなら、あそこは肥溜めだからな」

「二番街の丑首ビルって、何があるの……んですか?」

 晴史は慣れない敬語を使って住職に問うた。一応の面識はあるものの、このいわおのような怪僧に砕けた口調を使うのは何故だか憚られた。

「イタギリはな、外の社会じゃ斜めに傾いてしか歩けねえ溢れ者や与太者が集まる街だ。ところが二番街の奴らときたら、斜めどころか完全に後ろを向いたり逆立ちしてやがる。特に、丑首ビルに住んでる連中ときたら、ひでえ有様だ。働きもしねえで朝から晩まで脳を蕩かしているヤク漬けもいれば、腹を押せば毛穴からアルコールが噴き出す酒浸りもいる。人を食い物にする意地汚い連中の塒もごろごろあるし、余人が立ち寄らないのを幸いと、ロクを刻んで血と臓物と糞に塗れて悦に入る変態までいやがる。どいつもこいつも、真っ当じゃねえ。魔窟ってな、ああいう場所を指すんだ」

「つまりは、二番街の住民のように倫理観をかなぐり捨てて欲望のまま振る舞うとシナズになる。そういう事でしょうか?」

 割り込んだ樹戸に、住職は首を振った。

「その答えじゃ、花丸はやれねえな。シャブを食おうがロクの腹を掻っ捌こうが、それ自体は問題じゃねえ。愉しみたきゃ、勝手にやりゃあいい。問題ってのはな、その愉しみを得るための手段なんだ。働いてもねえのにヤクを買うってことは、誰かから金を盗むってことだ。刻むためのロクがあるってことは、誰かが殺されたってことだ」

「たかだか指の先くらいの薬を手に入れたいがために、通りがかりの人間を殺す奴だっているものね。ひどい話よ」

 竹林老人が深々と長嘆した。イタギリに生まれ落ちて十五年、ただの一度も無軌道な兇暴に出くわさなかった幸運を、晴史はそっと噛み締めた。

「どうしてこの街はイタギリって呼ばれるか知ってるか?」

 唐突な問い掛けに晴史と樹戸が答えられないでいると、竹林老人が「話してやんなさいよ、坊主の昔話」と先を促した。住職の分厚い唇に、三人の視線が注がれる。

「ここらには昔な、底なし沼があったんだ。泥炭地つってな、どろどろの炭が溜まった湿地だわな。落っこちたら最後、自力で這い上がることもできねえし死体も浮かんでこねえってんで、身投げの名所として通っていたんだ。口減らしに赤子を投げ込む親もいれば、泥から引き上げた死体の服や金目の物を剥ぎ取る薄汚え連中もいたわけよ。そのうちに死体漁りに飽き足らず、のほほんと沼の近くを通り掛かった旅人を襲う追い剥ぎが現れた。ばっさり首を掻き切って身ぐるみ剥がしたら沼にポイ、だ。行ったきり帰って来られない。板切って名前はそこから付けられた。それが濁ってイタギリになった、てわけだな」

 住職が念珠を掌の中でもてあそぶと、紫檀したんの主珠が擦れ合う音が薄闇に響いた。

「近代に入って、沼は埋め立てられた。人間が増えたっつうんで、家を建てるための土地が必要になったんだな。ところが、板切は追い剥ぎの住み処だって悪評がすっかり定着しててな、せっかく土地を用意したってのに誰も住みたいと手を挙げやしねえ。あまつさえ、これ幸いと流れてきたならず者や鼻つまみ者が勝手に家を建てちまったんだからたまらねえ。まともな連中は当然避けるわな。すると、瘋癲ふうてんやろくでなしばかりがますます増える。堅気はさらに寄り付かなくなる。そんな悪循環が続いて、イタギリはとうとう与太者ばかりが集まる街になっちまったんだ」

「あんたみたいな、極道者もね」

「やかましい、このくたばり損ないが。俺はもうとっくに足を洗っているんだ。話の腰を折るってんなら、てめえの背骨も二つにへし折るぞ」

 住職が凄むと、「おお、こわいこわい」と竹林老人はおどけた口調で肩を竦めた。

「で、話を戻すとだな、シナズはその当時からいた。やんちゃをして人を殺めていた奴が、次々とシナズになっちまったんだ。腐った体をカラスに突かれてもなお死ねないでいるシナズを見て、ああはなっちゃいけねえ、野放図に他人の命を奪っちゃならねえって心掛ける連中が増え始めた。母親が子どもに『悪い事してると怖いおじさんに連れて行かれるよ』って脅すだろ。あれと一緒だ」

「でも、カッとなって相手を殺してしまったり、相手を殺さないと自分の命が危うい場合もありますよね。そういう人もシナズになるんですか?」

 樹戸が発した問いに、住職は「そいつは違う」と首を振った。

「シナズになるならねえの違いは、罪悪感があるか無いか、殺しすぎているかいないかって点だ。だから、今あんたが挙げたような衝動行為や正当防衛なんかじゃシナズにはならねえし、請われてやむを得ず腹の中の赤ん坊を掻き出すギネなんかも、シナズにはならねえ。人間ってのは本来、他人の命を理由も躊躇ちゅうちょもなく奪うことはできねえはずなんだがな、たまーにいるんだよ。罪の意識もなく殺しまくる頭の壊れた奴がな」

「でも昔、大量にシナズが出たことがあったでしょ?」

 竹林老人が作った話の流れに、住職は低く「ああ、あった」と答えた。

 いかつい顔が、地獄の鬼も裸足で逃げ出さんばかりに険しさを増した。

「大戦後のイタギリは、焼け野原にバラックが建ち並んで、闇市や賭場が立ち、パンスケが集まる売春宿が軒を連ねる土地になった。今の極楽通りだな。街が広がらねえように、行政が周りを道路で囲っちまったから、違法にコンクリートビルがじゃんじゃか建つようになった。そうやって、裏稼業がのさばる街が出来上がった、つうわけよ。金が生まれれば、当然旨い汁を吸おうって連中も出てくるわな。長いことイタギリを取り仕切っていたのは、紋谷一家っつう博徒だった。けど、愚連隊あがりの葉賀川組が、利権を狙ってイタギリに入り込んできたんだ。葉賀川組てのは武闘派揃いで、ほうぼうの筋者の繩張りにちょっかいを掛けていたんだ。そんな連中がイタギリの土手っ腹に喰らいついてきやがったんだから、紋谷一家も黙っていられねえ。イタギリを二つに割って、切った張ったの繩張り争いに発展した。四十年近く昔の話だ」

「板切戦争ですね。大学の頃、本で読んだことがあります」

「文字で知るのと実際に見るのとでは大違いだぜ、兄ちゃんよ。俺は当時、紋谷に下駄を預けていたから無理くり参加させられたけどな、ありゃあひでえ抗争だった。街に出る時は、鉄板を腹と背中に仕込んで何人かで固まらなきゃならなかった。女と二人きりで歩くのだけで命懸けだ。それでもヤッパや鉛弾はどこからでも飛んで来る。カチコミなんざ挨拶みてえなもんだから、事務所の入り口はバリケードでガチガチよ。街のあちこちに、筋者や巻き添えを食った堅気の死体がごろごろ転がって、誰にも片付けられず腐るがままになっちまってたんだ。地獄が溢れるってのはこういうことなんだな、て思ったもんさ」

「その間、警察は何をしていたんですか?」

「何もしねえさ。そん頃にゃとっくに、イタギリは腫れ物扱いだったからな。やくざ者同士、殺し合いてえなら気が済むまでやらせとけ、てとこだわな」

 もし当時のイタギリに生まれてゴミ屋をやっていたら、どうなっていただろう。

 リヤカーをいている最中に流れ弾が当たり、血を撒き散らしながら冷たい路地へ倒れこむ自分の姿を思い描いて、晴史はぞっとした。

「奇妙な事が起きたのは、ドンパチが始まってから三年後だ。ドスで腹をえぐられたり、胸を鉛弾で吹き飛ばされた中から、死にきれない連中が現れるようになった。つまり、シナズだ。最初こそ渡りに船とばかりにシナズを鉄砲玉に使っていたんだがな、紋谷も葉賀川も気づいたんだ。これ以上やりあったらただの潰しあいになっちまう、てな。何しろ首を切ったり完全に腐っちまうまで止まらない連中なんだ。どちらかが全滅しない限り抗争は終わらねえ。次の日にシナズになぶり殺しにされるのが自分かもしれねえんだ。臆病風に吹かれてケツを割る奴まで出始めて、どちらの組にも厭戦えんせんムードが漂い始めた。やむを得ず双方の幹部で話し合って、めでたく手打ちになったわけだ。和睦の証はシナズ全員の首、それと協同管理組織の立ち上げ。今でいう管理組合の始まりだ。あっこにいる影の大半は、その手打ちで出てきやがったんだ」

 住職が影舎を顎でしゃくった。連子窓にいくら目を凝らしても、中にいるはずの影の姿を認めることはできない。

「板切戦争にシナズが関わっていたのは初耳です」

 樹戸が口元に手を当てて呟いた。

「外で話したところで、与太飛ばすなって野次られるのがオチだからな。殺しても死なねえだなんて、誰が信じるかってんだよ」

「それで、イタギリはどうなったの……んですか?」

「どうもこうもねえさ。ゴミ溜めみたいな街並みも胡散臭い連中も相変わらずで、食い詰めた連中ばかりが流れてきやがる。住む場所が足りねえってんでビルを増やした挙げ句に、迷路みたいな街が出来上がったっつうわけだ。近代的なインフラを整えたり、お前らゴミ屋を使ったりして公衆衛生に力を入れるようになったのは、つい最近の話だ。それまでは、糞や小便を垂れ流した水を濾して洗濯に使ってたくらいだからな」

 落ち始めた宵闇の中で、影法師のようになった住職が腕組みをすると、またぞろ念珠がごろりと鳴った。

「坊主をやっているから分かるんだがな、ここ何年かでシナズになる連中が明らかに増えてるんだ。やくざな連中ばかりじゃねえ。ぱっと見、堅気にしか見えねえ連中までシナズになりやがる。あっこの中は影どもでパンパンのすし詰めだ。若い連中ときたらシナズを年寄りの迷信が生んだたわ言だと洟も引っ掛けやしねえし、そもそもシナズ自体を知らない奴だってごまんといらあ。嘆かわしいもんだぜ。イタギリじゃ何をやっても許されると勘違いしている莫迦ばっかりだ」

「けど、殺人狂がシナズになって動き回るのは、そもそもがどういう原理なのかしら? あたしもお医者に意見を求めたことがあるけど、脳の誤作動だろう、て言われたわ」

 晴史も軽く頷く。

「理詰めの医者が言いそうなこった。だがな、坊主の理屈はちょいとばかり違ってるんだ。足を洗って寺男になったばかりの頃、俺も同じ質問を先代にしたんだ。返ってきたのは、『犯した罪で魂が濁り、輪廻から永遠に外されたのがシナズだ』て答えだ。シナズはいたずらに人を殺めて回ったせいで、死病を患おうが手足が千切れるくらいの大怪我を負おうが、安らかな眠りってやつには就けねえ罰を受けてるっていうわけだ」

「不死を得るのがどうして罰になるんですか? 人間誰しも、死に漠然とした恐怖を抱いている。死の恐怖から逃れる術は死しかないという二律背反に気付きながらも、目を逸らして生きています。死ななくなるなら、それはご褒美じゃないですか?」

 樹戸の指摘に、住職は「言葉が足りなかったな」と綺麗に剃り上げた頭を撫で回す。

「死ななくなるってのは、意識が残るって意味だ。だが体は死んじまっている。だからいずれ朽ちる。それこそ脳みその一欠片でも残っている限り、体が臭いガスを撒き散らす腐肉の塊に成り果てて、うじの餌場になるまでを見ているしかねえんだ。罰って表現のほうが、しっくり来ると思わねえか?」

「罰だろうがご褒美だろうが、どっちでもいいけど」と、竹林老人が口を挾む。

「それはシナズが動く原理の説明にはなってないわ。ガス欠の車が動いている理由を『いずれ止まるから問題ない』て説くくらい脈絡が無いわよ」

「別に、はぐらかしてるわけじゃねえんだ」

 住職は無精髭が生えた割れ顎をしごいた。

「シナズが動ける理由を語ろうと思えば、いくらだって小難しく語れらあな。適当な話をでっち上げて、お前らを煙に巻くことだってできる。理屈と膏薬こうやくはどこへでもつく、てな。けどそれは真理じゃねえ。先代の言葉にしたって、あくまでも仏法の思想に基づいた先代個人の見解だ。医者の説にしたって仮説でしかねえわけだろ。だから俺は単純に、目に余る悪さをしでかしたらシナズになっちまう、て語るだけに留めてるんだ」

「なによ、結局あんたも分からないんじゃない。もっともらしく話しておきながら」

「俺だけじゃねえ、誰も真理を知らねえのさ。それこそ、大学のお偉いさんにでも頭を下げて本格的な科学調査でもやってもらわねえ限り、シナズと影の仕組みを解明なんてできっこねえ。けど、理屈なんてどうだっていいんだ。悪人が死んだらシナズになって、シナズを焼いたら影が出る。それだけ分かりゃ、俺達は十分だと思わねえか?」

 住職が長い話を締めくくった頃には、辺りは濃い闇で塗りつぶされていた。はす向かいに建つ管理組合事務所の窓から漏れる灯りが、唯一の光源だった。

 樹戸が腕組みをして、思案顔になる。

「一通り聞かせてもらっておいてなんですけど、うやむやなままで気持ちが悪いです。誰もが了解できる、論理的な機序が分からないと、すんなり受け容れ難いですね」

「だからよ、頭でっかちになるなって。ああして死ねなくなった連中がいるってことだけは、確かなんだからな。真っ当な道を歩めば、忌まわしい影にならずに済む。人間のまま人生を全うできて大団円だ。塵は塵に、灰は灰に帰するべし、てやつだ」

「なにが塵は塵によ。坊主のくせに、キリスト教にかぶれてるんじゃないわよ」

「人の道を外れるな、て道理を説くのが宗教の役割なら、どれも大差無え。死んだ後にどうなるっつうのが違うくらいなもんで、細けえことはいいっこなしだ」

 竹林老人の言葉を乱暴な持論でいなして、住職は空を見上げた。星の光を遮るものは無いはずなのに、きらめきも疎らな漆黒だけが広がっていた。

「おそらくこの街には、まだまだシナズ予備軍が隠れているだろうぜ。警察がまともに介入しないのをいいことに、好き勝手やる奴は掃いて捨てるほどいるんだからな」

 晴史は住職の話を頭の中で反芻してみたが、それすらも正しいのかどうか判断がつきかねていた。三年前に出会った老医師は、シナズの原理を脳の誤作動だと片付けた。入道じみた住職は、シナズは重罪を犯した人間に科せられた罰だと説く。樹戸はよほど得心が行かないのか難しい顔をしている。竹林老人は「坊主がどう考えようがシナズはシナズ、面倒臭いだけよ」と切って捨てる。

「案外シナズってのはよ、イタギリに住んでるろくでなし共が人の道を外れちまわないように、お天道様が差し伸べた慈悲なのかもしれねえ。そんな風に考えるんだよ、俺は」

 晴史は夜に呑み込まれつつある影舎へ目を向けた。

 連子窓の向こう側に横たわる闇はどこまでも深い。

 影がかつて人間だった頃の心のように。




      「きみといたい、朽ち果てるまで ~絶望の街イタギリにて」1章 了






 

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