1章 黄昏色の炎(6)



 イタギリの生活にもゴミ屋の仕事にもすっかり慣れた樹戸きどではあったが、そんな彼が泡を食った案件がある。

 その日回収したのは、固い路盤と熱烈なキスを交わし終え、大の字でうつ伏せになっていたロクだった。

丑首うしくびビルディング』と辛うじて読める木の看板が掲げられた建物を見上げると、六階部分の壁にはドアが収まる大きさに切り抜かれた四角い穴があった。階段は元より据え付けられていないようで、穴を開けた目的が何であるかは皆目見当がつかなかった。

 晴史はるふみの隣では、樹戸が欠伸を噛み殺していた。死体を前にした緊張感はまるでない。

 往来に死体が転がっているとなれば、窓や出入り口から物見高い住民が何事かと様子を窺うこともしばしばだが、ギャラリーの姿どころか、路地を歩く住人の姿すら見えない。目の前の窓からは、丑首ビルの汚れた壁を震わせるデスメタルが流れていた。

「二番街の連中は相変わらずね。近所で飛び降りがあっても、まるで無関心」

 二番街には、行っちゃいけないよ。

 幼かった晴史にそう繰り返し言い聞かせたのは、二室隣に住んでいたナナミという女性だった。家からいなくなった母と、勤めに出ている父に代わって、何かにつけて面倒を見てくれたのはナナミだった。彼女も母と同じ、闇鍋だった。当時の晴史から見れば年増に見えたが、実年齢は若かったのかもしれない。ファンデーションと柑橘系のコロンが混ざり合った匂いを、今でも晴史は憶えている。

「あそこにはね、人を食べる怖い怪物が住んでるんだよ」

「怪物?」

「そう、ハルみたいな小さい子は、頭から一口でガブッて食べられちゃうよお」

 ナナミは、ガブッ、のところで声を大きくし、獣の顎門あぎとに見立てた両手で晴史の頭を上下から挾み込んだ。丹念にヤスリが当てられた爪が、柔らかい頭皮をぐりぐりと揉む。ナナミに脅かされるたびに、晴史は小さな体をぶるぶると震わせた。

「食べられちゃうなんて、やだよ。どうしたらいいのナナミちゃん」

「近づかなきゃいいんだよ。特に丑首ビルの213号室は、絶対に行っちゃ駄目。あそこから生きて帰ってきた人は、誰もいないからね」

 怯える晴史を優しい口調で慰めるナナミだったが、表情は恐ろしいほど真剣だった。

 晴史が頷くと、ナナミは「よし良い子だ」と頭を撫でてくれた。

「いいハル、よく聞きな。世の中にはね、見なくてもいいものや、首を突っ込まないほうがいいことが、山ほどあるの。危ないと感じたらさっと目を逸らして、最初から見ていなかったふりをすればいい。わざわざ厄介事に関わって、大怪我してからじゃ遅いんだよ。あたしが言ってること、分かる?」

 こくこくと頷きを繰り返す晴史にナナミは微笑みかけ、手を握ってきた。柔らかなナナミの手から伝わる温もりが、怯えに震えていた晴史の心を包み込む。

「うちにおいで。本読んだげる」

 子供扱いを嫌う年頃に差し掛かっていた晴史ではあったが、ナナミには素直に甘えた。母の温もりを知らず、押入れの闇が友達だった彼が得た新たな安息がナナミだった。

 そのナナミが突然姿を消したのは、晴史が九歳の冬だった。いくら訊ね回っても、彼女の消息は誰も教えてくれなかった。それ以来、晴史の心には彼女の教えが破り難い禁忌となって刻み込まれたままになっていた。

 二番街には、行っちゃいけないよ。

 ロクを回収しに二番街へ赴くたび、晴史は決まって落ち着かない気分になる。ましてこの日の現場は、ナナミが「絶対に行ってはいけない」と念押しした丑首ビルである。有り得ないことと頭では分かっていても、物陰からナナミが当時の姿のまま飛び出してきて「あれほど近寄っちゃ駄目って言ったでしょ!」と怒鳴りつけてくる気がしてならず、いつにも増してそわそわしていた。

 だから晴史は、異状に全く気付かなかった。

 最初にそれを発見して声を上げたのは、樹戸だった。

「こ、このロク、て、手が動きましたよ!」

 積み込みの準備をしていた竹林たけばやし老人が、さして面白くもなさそうに死体を見下ろした。

「死後硬直が解けたか、腐敗ガスのせいでしょうよ。よくあることだから、いちいち騒がないの」

「違いますよ、もぞもぞって動いて、あ、今度は足が!」

 そこでようやく竹林老人と晴史は、横たわる死体に目を注いだ。樹戸の言葉通り、死体は身をよじるような動きでうごめいていた。

「チンさん、これってもしかして」

「ええ、『シナズ』ね。まったくもう、組合もいい加減なんだから。ちゃんと確認しときなさいってのよ」

「シナズ? それって……何なんですか?」

 樹戸がこわごわ訊ねると、竹林老人はリヤカーに積んであった『ロク運び七つ道具』とマジックで書かれた道具袋に手を突っ込みながら答えた。

「手っ取り早く言えば、動く死体よ。こんな仕事をやってても滅多にお目にかかれないレア物でね。あたしにしたって、シナズに遭うのは何年か振りだわ」

「ゾンビまでいるんですか、この街は?」

「安心なさいな、人を襲ったりはしないから。害は無いけど益も生まない、ただ邪魔なだけの存在よ」

 竹林老人の手に握られた弓鋸ゆみのこに、樹戸が目を剥いた。

「もしかして、ばらばらに処分するんですか?」

「切るのは頭だけ。飛び降りた衝撃で全身の骨が砕けてるみたいだから起き上がりはしないだろうけど、焼却炉に押し込むときにじたばた動かれたら厄介でしょ。頭が体から離れちゃえば、いかにシナズでも動くことはできなくなるわ。転ばぬ先の杖、というやつよ」

 晴史と樹戸にシナズを押さえつけるよう命じると、竹林老人はシナズの首に鋸刃のこぎりばを差し込み、流れ続けるメタルサウンドと同じくらい速いリズムで往復させ始めた。シナズの手足に震えが起きる。ひと挽きするごとに鋸刃は首の肉と血管を着実に引き裂き、蛇口を捻ったように切り口から血が溢れ出す。

 椎骨ついこつの隙間を走る神経が切断されると、激しく震えていたシナズの手足がぱたりと止まった。右半身に足を乗せて動きを抑えていた樹戸ではあったが、仕事初日と同じくらい顔面は蒼白になっていた。

 首が完全に胴から離れてしまう前に、シナズの体は動きを止めていた。前半分が平らに潰れた頭を掴み上げると、砕けた歯が口元からばらばらと地面にこぼれ落ちた。

「これじゃあ、男前だったかどうか確かめようがないわね」

 晴史と樹戸は、納体袋に首無しの死体を詰めにかかった。骨が砕けた四肢ししは水が詰まった袋のように頼りなく、リヤカーへ積み込むまでに一苦労を要した。

「イタギリではもう何が出ても驚かないだろうと高をくくっていましたけど」

 紫色に褪せた樹戸の唇が、小刻みに震えている。

「動く死体まで登場するとは、完全に想定外でした」

「まさに、事実は小説よりも奇なり、ね。あたしも長いこと生きてるけど、イタギリに来るまではこんな奇天烈きてれつな代物の話なんてとんと聞いたことがなかったわ。この街特有の現象なんじゃないかしらね」

 そういえば、と竹林老人が晴史へ顔を向けた。

「ハル坊もシナズを見るのは、これが初めてのはずよね。その割にはやけに落ち着いてるみたいだけど」

「前にも見たことあるからね」

「あら、初耳だわ」


 シナズとの初めての邂逅かいこうは、ゴミ屋の仕事に就いてから二年が経った頃だった。

 当時の晴史にとって最大の楽しみは、週に一度仕事帰りに粉もの屋に寄り、バラ焼きと呼ばれる軽食を買うことであった。油気が強いバラ焼きは、胃が弱った大人や老人には不評だったが、育ち盛りの晴史にとってはささやかな贅沢ぜいたくだった。

 その日晴史は、バラ焼きを二枚買い込んで、そのうち一枚を頬張りながら家路に就いていた。ガラス窓に反射する夕陽の光がやけに眩しくて視線を逸らすと、日陰になった壁に寄りかかり両膝を立てて座り込む人影を見つけた。

 ――具合でも悪いのかな。

 近寄るにつれ、人影の容姿がはっきりしてくる。

 手にしていたバラ焼きを、危うく取り落としそうになった。

 髪はむしり取られたようにまばらで、露出した頭皮はびっしりと瘡蓋かさぶたに覆われて凸凹していた。顔面は無残に崩れ、鼻を失った中心部には黒々と穴が空いていた。ずたぼろの衣服から伸びる細い手足は皮膚がゴムのように弛み、破れた箇所からは赤黒い肉が覗いていた。体つきから男性であることは辛うじて判別できたが、何歳くらいなのかはよく分からなかった。粘っこい質感の黒い汁溜まりが、男の尻を濡らしていた。

 生きた人間だ、と晴史が判断したのは、男の顔が緩慢に晴史のほうを向いたためである。男は上目遣いで、物欲しそうな視線を晴史が手にしていたバラ焼きに注いでいた。晴史は男とバラ焼きを交互に見遣り、やがておずおずと食べかけのほうを男に差し出した。渡すときに指先が触れ、水饅頭に似た感触に怖気が走った。

 かつて鼻があった穴へバラ焼きを近づけて匂いを嗅ぐ動作をすると、男は前傾の姿勢でバラ焼きにかぶりついた。ぐちゃぐちゃと耳障りな咀嚼音そしゃくおんが晴史の耳朶を侵した。

 嚥下えんかから少し遅れて、男の股のあたりに湿った音を立てて何かが落ちた。男が再びバラ焼きを咀嚼する。嚥下する。べちゃりと音がする。咀嚼。嚥下。べちゃり。

 地面には、噛み潰されたバラ焼きの欠片が、黒い汁に塗れて散らばっていた。

 ――どうして?

 晴史は不快を呑み込みながら、男の体をじっくり観察した。シャツの前ボタンは留められていない。はだけた胴は、がらんどうだった。鳩尾から下の皮膚は破れ、肋骨の白さが薄闇の中で際立っていた。臍のあたりに溜まったタール状の黒い粘体がぼたぼたと滴り、破れた食道を通り抜けて地べたに落ちたバラ焼きの欠片に降り注いだ。

 晴史は大慌てで手近なビルへ飛び込み、医者の手を引いて現場へ舞い戻った。

「ああ、こりゃあシナズだなあ。梅毒に脳みそまでやられちまっとるなあ」

 逆さにしたらっきょうのような顔の老医師はさして驚きもせず男を診断し、つるつるの禿げ頭をやおら撫で回した。

「シナズって?」

 鸚鵡おうむ返しに訊ねた晴史に老医師は丸眼鏡の下の目を細め、せがまれておとぎ話を聴かせるような間延びした調子で語り始めた。

「シナズちゅうのはなあ、体はとっくにくたばっちまったのに脳みそだけは動いてる、厄介な現象なのよ。脳みその誤作動と言ったほうが正しいのかもしれんがな」

「脳みその、誤作動?」

「こんな昔話がある。ある科学者がな、牢屋に入っていた囚人にある実験をしたんだ。囚人を台に寝かせてな、目隠しをした上でこう告げたんだ。『人間の体からどれだけ血が流れたら死ぬか、確かめるから協力しろ』とな。囚人が快く応じたのか、それとも諦め半分で頷いたのかは知らんが、ともかく実験は始まったのよ。ところで坊主、人はどれくらい血を流したら死ぬと思う?」

 晴史が答えあぐねていると、老医師は勝手に先を続けた。

「半分だ。体重のおよそ十三分の一が血液とされとるから、大人なら二リットルちょっと血が失われれば死んじまうわな。実験では囚人の指の先を切って、たらいに血が滴り落ちる音を聞かせながら『ここまで何リットル血が出た』と途中経過を教えたわけよ。二リットルを超えたと聞かされた辺りで、囚人は死んだ。ところがな、実は血なんて一滴も流れていなかったんだ。指は切る真似だけして、傷なんぞ付けていなかった。血だと囚人が思い込んでいたのは、手にかけられた水だったわけよ」

「じゃあ、どうして囚人は死んだの?」

「思い込みだわなあ」と、老医師は再びつるつる頭を撫でた。

「実験台の囚人は、自分の体から血が抜けていって、ゆっくり死に向かっていると思い込んじまったわけさ。頭の中で創り上げたありもしない傷のせいで、囚人は本当に死んじまったんだ。馬鹿馬鹿しい話だろう?」

 老医師の顔に走るしわが、浮かべた笑みでさらに深くなった。

「まあ、この実験は眉唾物まゆつばものとしてもな、巷にはこれに近い話はいくらでも転がっとる。大した怪我でもないのに死んじまう、打ちどころが悪かった、てやつだな。逆に、助からんのじゃないかと思うほど重い怪我でも、踏ん張って生き延びる場合もある。脳が勝手に肉体の生き死にを決めちまう場合もある、ちゅうこった」

 バラ焼きをすっかり片付けた男は、老医師の話に耳を傾けているかのように、ぼんやりと二人を見上げていた。締まりのない口は欠片も言葉を発しなかった。

「繰り返しになるがな、シナズってのは脳の誤作動が引き起こしていると、儂は考えておるのよ。そこにあるはずのない手に痛みや触感が残るように、脳が、生きていた頃の肉体感覚を引きずっておるのさ。脈搏は停止し、自発呼吸や代謝も止まっている。だが脳みそだけは働き続けていて、まだ肉体が生きている、と錯覚しちまうのよ。医者の儂にも分からん理屈でな」

 老医師の話を聞いて、晴史は父を思い返した。母が居なくなって間もないころ、父はしきりに左手の指が痒いと訴えていた。掻きむしりたくてもその指は存在せず、父は苛々と身悶えしていた。数年が経ち、父がかゆみを訴える頻度は減ったが、それでも食事の時は茶碗に左手首を添えている。まるで見えない左手で支えるかのように。

「脳が腐らん限り、手足を動かしたり会話をしたり、その程度の動作なら可能だ。だが、生きていようが死んでいようが、意志の力だけでは内臓を動かしたりはできんのよ。だからいずれ腐っちまう。坊主だって、心臓を止めようといくら頭の中で考えたって、実際に止めることなんてできんだろう? この男も戸惑っておるだろうなあ。本人はまだ自分は生きていると思っとるのに、体は日に日に朽ちていくのだから」

「じゃあ、シナズは生きているの? それとも死んでるの?」

「医学には死の三徴候という定義があってな、自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔の対光反射の消失という三つの要件を満たしている場合、その人間は死んでいると見做すんだ。シナズに関しては全てが当てはまるから、医学的には死んでいるといえるわな。だが、脳は肉体が死んだと認識しておらんし、思考したり喋ったりもできる。哲学的に言えば、シナズは生きておるわけだな」

「つまり、生きているけど死んでいるってことで……あれ、生きているってことは死んでいないってことで、けど体は死んでるわけだからやっぱり生きていなくて……あれ、あれ?」

 混乱に陥った晴史の肩を、老医師は優しく叩いた。

「深く考えんでええ。あとの事は、儂に任せておけ。坊主はこのまま家に帰って、今日見たのは悪い夢だと考えるようにすればええのよ」

 老医師の言葉に従い、晴史はそっとその場を離れた。去り際に振り返ると、老医師は男の傍らにかがみ込み、何事か言葉を掛けていた。

 油紙に包まれたバラ焼きは、家に帰り着いた頃にはすっかり冷めていた。

 先に帰っていた父が、息子の青ざめた顔に気付き、何事があったのかと訊いてきたが、晴史は何も答えられなかった。

 腹が破れたシナズのその後を、晴史は知らない。
























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