1章 黄昏色の炎(5)
*
日曜日を休日と定めたのは、組合ではなく
ゴミ屋は週に一回、休日を取る権利を組合から認められている。いつを休日にするかは各班長の裁量に委ねられており、竹林老人はこれを日曜日に定めたのである。
休みであっても晴史は普段通りの時間に起床する。父と無言の朝食を済ませ、十三番街にある「図書館」へ足を運ぶ。学のない晴史にとって図書館は、文字を教え、数を教え、広範な知識を授けてくれる得難い師である。
六畳間で八部屋分の図書館は、組合が管理する施設ではない。イタギリに流れ着いてからも書を捨てられなかった学者崩れが、数千冊に及ぶ蔵書を整理するための書庫として設けたのが始まりである。街の数少ない本の虫達がこの話を聞き付け、不用となった本を続々と持ち込むようになった。組合はこの図書館を、放っておいても害にならないだろうと黙認していた。
図書館を利用するのはもっぱらスノビッシュな住人か、どこにも行き場がなく時間を持て余す
入り口では初老の女性が文庫本を
晴史の知への渇望は、樹戸が来てからなお強くなっていた。竹林老人と樹戸が時折交わす時事談義や難しい話についていけず、「相変わらずハル坊は、芋の煮えたもご存じないねえ」と竹林老人にからかわれていたためである。
「いい、ハル坊。好意につけこんだり弱みを握ったりして他人を食い物にする輩は、この世の中にごまんといるわ。いずれ大人になった時に尻毛を抜かれたくなけりゃ、知識と観察眼を養いなさい」
竹林老人の忠告に従って、近頃では歯ごたえのある本に挑戦してはいるものの、字面を追うのが精一杯である。それでも晴史が難解な書に挑むのは、未熟さゆえの意地ばかりではなく、父に対する反骨の表れでもあった。
書架から本を抜き取ってテーブルへ向かう最中、晴史は見知った顔を館内に見つけた。
表紙がぼろぼろに擦り切れた書籍を何冊も積み上げ、手元のノートにペンを走らせている男性は、見紛うことなく樹戸であった。
声を掛けようかどうしようかと晴史が
「奇遇だね」と、樹戸がぎこちなく笑う。
「執筆と調べ物をしているんだ。本当はもっと大きな図書館に行くべきなんだけど」
「ノートに書いてるの? 原稿用紙じゃなくて?」
別段、彼の行動に興味も無かったが口を合わせた。
「清書はパソコンを使うけど、ここでは下書きだけさ。キーボードをカタカタ打ったら迷惑だろう?」
晴史はそっと、広げられたノートを覗いた。紙面は判読しづらい走り書きで埋められていた。清書された文章を読んでみたくなったが、全く内容を理解できないまま感想を求められたらどうしよう、と不安が頭をもたげた。
「ところで、晴史くんは、どうしてここに?」
「読みたい本があるから」
「よく来るの?」
「用事がなければね」
ささやかな見栄だった。
未就学のうえ十歳から働き始めている晴史に、近い年頃の友人はいない。用事らしい用事といえば、せいぜい生活必需品や食材の買い出しくらいである。
「ところで、チンさんは?」
「出掛けて行ったよ。珍しく、男物のスーツを着てね。何の用かは言わなかったけど」
じゃあ街の外かな、と言いかけて、晴史は口を噤んだ。
月に一度、竹林老人が正装してイタギリの外へ出ることを人伝に知ってはいたが、当の竹林老人から直接聞かされたわけではない。確かめる機会さえも訪れず、晴史は知らん振りを決め込んだ。人には言えない事情の一つや二つ、この街の誰しもが抱えている。
会話が途切れ、晴史と樹戸はそれぞれの世界に没入した。樹戸が来てから一ヶ月が経とうとしていたが、晴史は彼になかなか懐けずにいた。会話をしようにも、二つ三つ言葉が往復するだけですぐに途絶してしまう。分厚い本を読みこなすインテリ然とした樹戸との共通項を探すのは、晴史にとっては独りで死体を運ぶよりも難しい作業である。
本の内容が難しいせいもあったが、ペンが紙の上を走る音が耳に障り、晴史はなかなか読書に集中できずにいた。
「昼でも一緒に食べないか」
樹戸の声に、晴史は文字との格闘を中断して顔を上げた。壁掛け時計は、きっちり十二時を指している。よれよれのしおりを読みかけのページへ挾み込み、樹戸と連れ立って図書館を出た。
ビルの一階に入居する雑貨屋で惣菜パンを買って屋上へ向かう。鮮やかな水色の空を航空機が一機、うろこ雲を切り裂くようにして横切っていった。
残暑はとうに去り、爽やかな風が頬を撫でる。
街路樹の一本すら無いイタギリにおいて、四季の移ろいとは寒暖と日照の変化、あとはせいぜい、コンクリートの隙間から
「どうしてだろう、秋を感じると焦燥に駆られるんだ」
「ショウソウって?」
「何かをしなきゃいけないと焦りを感じる事さ」
途切れ途切れの会話が、休日の昼のひと時を潰していく。
屋上では小さな子どもたちが黄色い声を張りながらあちこちを駆け回っている。図書館の一階下には、子持ちの娼婦が主に利用する託児所が設けられている。ビルでぎっしり埋まったイタギリで子どもたちが存分に遊べるだけの広い空間は、ビルの屋上にしか存在しない。
「僕にはね、娘がいたんだ」
子どもたちが戯れる様子を見つめていた樹戸が、おもむろに口を開いた。
「樹戸さん、結婚してたの?」
「大学時代からの彼女とね。付き合うまでに二年、籍を入れたのはさらに五年後さ。娘はその翌年に生まれた」
食べかけのパンを囓ることも忘れ、樹戸は話を続ける。
「会社と自宅のマンションを往復するだけの毎日だったけど、妻と娘の顔を見るだけで幸せを感じていた。けど、ある時ふと自覚したんだ。幸せだと感じてるんじゃなくて、幸せだと思い込もうとしているだけだってね。娘が成長して嫁ぐ頃には、僕の人生は下り坂に差し掛かっている。一人の人間を育て上げるためだけに一生の大半を費やしてしまって、果たして後悔しないのか。何者にもなれなかった自分に歯噛みしながら年老いていくんじゃないかって、そんな思いに囚われるようになったんだ」
「それで、小説の賞に応募したってこと?」
樹戸は「ああ」と肯定した。
「竹林さんの言葉は図星だよ。受賞を知らされた時は、プロに認めてもらえたんだと、すっかり有頂天になった。退職願を出すときも、輝かしい未来が待っていると信じて疑わなかったんだ。妻からは散々に責められたよ。会社に頭を下げて復職させてもらえ、と詰め寄られたけれど、僕は頑として従わなかった。プライドがあったし、それを理解しようとしない妻への腹立たしさもあった。僕は家に篭もりきりになり、躍起になって小説を書き続けた。収入はゼロになったから、家計はぐっと苦しくなった。今にして思えば、浅はかだったと思うよ」
「仕事をしながらじゃ書けなかったの?」
「自分を追い込むための覚悟、といえば恰好はいいけれど、僕は閉塞的な未来から逃げたかっただけなんだ。現実を受け容れる強さが無い未熟な人間なのさ。新しく書き上げた作品を、担当の編集者は薄っぺらいと酷評した。文章には書き手の人生が浮き彫りになる、君という人間には読み手を納得させるだけの厚みが欠けている、てね。かっとなったけど、何も言い返せなかった。現実と向き合う力だけじゃなく、筆で人の心を動かすだけの力も、僕には備わっていなかった。語るべきものを持たないつまらない男。それをあっさり見抜かれたのさ」
自嘲の言葉が、つっかえ棒を外したように樹戸の口から溢れた。
「誰しも一生のうち一本なら傑作を書くことができる、て言葉があるけど、もしかすると僕の絶頂は小さな出版社のちっぽけな賞だったのかもしれない。そんな気持ちを打ち消すために、僕はがむしゃらに原稿と格闘した。将来の不安なんて考えたくなかったし、現実なんて見たくもなかった。切り崩していた蓄えが底を突いたために妻がパートに出ていたことや、それでもなおマンションの家賃を払いきれなくて退去通告をされていたのを知ったのは、判を押した離婚届を突きつけられた時さ」
「それで、イタギリに来たの?」
「マンションを追い出されてからしばらくの間、公園で寝泊まりしていたんだ。その時にたまたま通り掛かった竹林さんに、『行くあてが無いならうちに来なさいな』て声を掛けられてね。このままふらふらし続けて警察の厄介になるくらいなら、と思って誘いに乗ったんだ。けど、住んでみて気付いたよ。何のしがらみもなく、他人の目を気にせず生きていける心地好さにね。小説を書き始めた時には、まさかこんな形で自分にふさわしい居場所に辿り着くだなんて、これっぽっちも思わなかったよ」
樹戸は深々と息を吐き、空を仰いだ。
「あーあ、竹林さんにも、ここまでは話さなかったんだけどなあ」
「言わないほうがいいよ。樹戸さんを未来の大作家だと信じちゃってるから」
そうか、と樹戸は納得したように呟いた。
「また出版社に持ち込むつもり?」
「満足いく作品が書けたらね。毎日へとへとだから、いつ完成するかは分からないけど」
体が仕事に馴染みきっていない樹戸ではあったが、死体を前にしても物怖じする様子をほとんど見せなくなっていた。鼻もイタギリの臭いに慣れたようで、ごみの収集に限ってではあるが悪臭対策のマスクも使っていない。竹林老人の毒気を含んだ物言いには度々へこまされているものの、それまで晴史が担っていた雑務のうちのいくらかを任されるようになっていた。体が楽になった点だけは有り難かったが、竹林老人との間に距離が生まれ始めた気がして、晴史は一抹の寂しさを感じていた。
「焦らずゆっくりやるよ。待っていれば、いずれ筆が勝手に動いてくれるさ。なにせ、この街には創作意欲をそそる題材がごろごろ転がっているからね」
「イタギリに?」
「ああ。生まれついての住人である晴史くんには、見えていないだけかもしれないけどね。この街は日替わりのびっくり箱みたいに、新しい発見と刺激に富んでいる。沈む瀬あれば浮かぶ瀬ありさ。どん底に落ちて、僕は新しい地平を知ることができたんだ」
樹戸はそう言い、惣菜パンの最後の一欠片を口へ放り込んだ。
「ところで晴史くん、君には何か将来の夢や目標はあるのかい?」
「夢……目標?」
「夢だけじゃ腹は膨れないのは竹林さんの言う通りだけど、夢のない人生は味付けがない料理と一緒さ。本から知識を得るのだって、将来に役立つ力を付けるための作業だ。どんな大人になりたいのか、そういうものが、君にはあるのかい?」
「そう言われても……」
夢を問われたことも、将来について考えたことも、今までに無かった。晴史の人生には、常に今日と明日しか存在していない。読書の習慣にしても、将来の具体像があったからではない。今の自分に欠けているピースを、ただ埋めたかっただけである。
晴史の心には、父の言葉が深く突き刺さっていた。
お前は戸籍の無い人間。この国では、戸籍が無ければ人でなし――。
言葉に詰まった晴史は、どこかに正解が転がっているかのように視線を巡らせた。高いフェンスに囲われた屋上では、相変わらず子どもたちが追いかけっこに興じている。頭の上には心洗われるような秋晴れが広がる。階段室へ続く錆びた扉は半開きになっている。屋上の隅っこでは髪の長い少女が絵を描いている。
晴史の視線が、少女に釘付けとなった。
――あの子だ!
「どうしたの、晴史くん?」
晴史の表情の変化を見取った樹戸が、気遣わしげに声を掛けた。
慌てて「いやあ、別になんでも」と返し、晴史は再び少女へそろそろと視線を戻した。極楽通りで見掛けるいつもの姿勢で、いつもの手の速さで、少女はスケッチブックへ鉛筆を走らせている。彼女の足元には小さな紙袋と黒い物体が転がっていたが、晴史がいる場所からはその物体が何なのか視認できなかった。
――何を描いてるんだろう?
少女が何を描き写しているのかを知りたくなり、中腰でじりじりとにじり寄った。
物体の表面は毛羽立っているように見える。針金のような細い棒が突き出している。よくよく見れば、物体の周りにも黒い何かが散らばっていた。
ふと、視線を額に感じて顔を上げる。
吸い込まれそうなほど艶やかな瞳がじっと見つめていた。
「何か、わたしに用なの」
珊瑚色の唇からこぼれたのは、落ち着いた調子のソプラノだった。
「あ、あの、じゃ、邪魔して、ごめん!」
晴史はどぎまぎしながら視線を逸らす。
「ただ、何を描いているか気になって、どうしても知りたくて近寄ったりして、ずっと前にも見掛けたから気になって、だからあの、何描いてるのかなって」
しどろもどろの晴史に、少女は瞳を右に動かしてから小首を傾げた。
「どこかで会ったっけ」
やあ久しぶり、夏の日に街中で会ったよね。って、憶えてないか、ちらっとすれ違っただけだし。でもね、俺はそれより前から君を何度も見かけてるんだ。極楽通りで似顔絵を描いているよね。焼却炉から帰るたびに、君がいないかとあそこを通って君の姿を探しているんだ。君の姿を見つけた日は天にも昇る気持ちで、次の日にうんざりする量のごみの山に直面しても、ひどい状態の死体と遭遇しても、平気でいられるんだ。もしよかったら、君が見ているものを俺にも見せてくれないかな。君が何を見て何を描いてるのかを知りたいんだ――。
快活な言葉は喉の奥でぐるぐる回るだけで、緊張で固まった口はまるで用をなさない。
少女がスケッチブックを閉じ、紙袋を摘み上げた。
「わたしが何を描いていたか気になるなら、確かめれば」
物も言えず立ち尽くすばかりの晴史にそう言うと、少女は立ち上がり、丈の長いスカートに付いた砂埃を払った。
晴史が自分を取り戻したのは、少女が屋上を去ってから三分ほどが経った頃だった。
手摺りの土台に腰掛ける樹戸が、頬杖をつきながらニヤついている。
恥ずかし紛れに晴史は、少女が描いていたモチーフに近寄った。
青黒くばさばさと毛羽立って、二本の細い棒が突き出した物体。周囲にはピンク色の
二本の脚と一本の嘴。
カラスの死骸だった。
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