3章 緑色の残陽(7)
*
その晩も、晴史は休日前の御定まり通り、十弗で樹戸の酒に付き合った。
この頃の樹戸は、目に見えて苛ついていた。ごみの詰まった袋を蹴飛ばしたり、荷台に叩きつけるようにして袋を積み込む姿も、少なからず見受けられた。
隣で晴史がコーラをちびちびやるのは、ほとんど義理合いであった。
店を出て「極楽通りを冷やかしていかないか」と持ち掛けたのは樹戸だった。
二人揃っての極楽通り巡りは、シズクに似顔絵を描いてもらって以来である。
自分から誘っておきながら、樹戸はさも面白く無いといった不機嫌顔をぶら下げながらよたよたと通りを歩いていたが、不意にその足が路地の脇に逸れた。
「どうしたの、樹戸さん?」
「用を足してくる。ちょっと飲み過ぎたみたいだ」
樹戸はビルの隙間へ長身を滑りこませ、暗がりに呑まれていった。
向かいから、「よお、ハル」と声が上がったのは、樹戸がいなくなった一分後である。
「ん? 何だ? やたらと
しきりに鼻をひくつかせる月丸に、「人と会ってたから移ったのかも」と誤魔化した。
「お前の作戦、当たったぜ」
前置きもそこそこ、月丸が相好を崩した。
「最初は駄目で元々って思ったけど、あれを無視して殺された奴もいたし、逆に間一髪で難を逃れた奴もいた。具体的にいつかが分からねえのが玉に瑕だが、商売女が殺されることはほとんど起きてねえ。あれで商売女たちの不安も和らいだって、評判になってるぜ」
「うまくいって、何よりだよ」
「まさか、あいつが占いママの娘とはな。全然気付かなかったぜ。かなり前に会ったきりだったからな」
一ヶ月前、晴史が月丸に授けた方策。
それは、娼婦の似顔絵を片っ端からシズクに描かせることだった。
近いうちに娼婦殺しに襲われるのであれば、その未来は声となってシズクに囁く。内容は断片的だが、予防策を講じる取っ掛かりにはなる。
予言を囁く声は常に舞い降りるわけではない。だから彼女はこの一ヶ月、ほぼ毎日手を休めることなく娼婦の肖像を描き続けた。絵で埋め尽くされたスケッチブックを全て積み上げたら、彼女の腰ほどの高さになる。
――そりゃ、絵を描くのも
言い出しっぺであることも手伝い、晴史はシズクに後ろめたさと申し訳のなさを覚えていた。
ともあれ、彼女の骨折りと月丸の啓蒙活動の甲斐あって、肝喰いの兇行こそ絶えなかったものの、娼婦が狙われることは無くなっていた。
「けどなあ、昔会った時は、あんな辛気臭い性格じゃなかったと思うんだがなあ」
「じゃあ、月丸さんが会ったのは妹のほうかもね」
213号室にいたのは、包帯姿の占いママだけだった。
シズクと瓜二つであろう少女と顔を合わせる機会は、ついに訪れなかった。
「そんなことより、新しい情報だ」と、月丸はシズクの話題を打ち切った。
「イカレ野郎と鉢合わせながら運良く逃げおおせた女も何人かいてな。そいつらが口を揃えて、襲ったのは黒いレインコートを着た奴だ、つうんだ」
月丸が見せた険しい表情に、晴史は思わずたじろいだ。
「そう構えるなって。お前じゃねえことは分かってる。動機もなきゃ、証言の背恰好ともまるで合わねえ。けど、黒いレインコートを堂々と着てるなんてここらじゃゴミ屋くらいだからな」
黒いレインコートが死体回収処理中のサインであることは、ゴミ屋のみならず、イタギリでは周知の事実だった。
そのため、イタギリの街ではどの店も黒いレインコートを扱わず、着ている人間もまず見かけない。死体回収を卑しい仕事と蔑む人間は、イタギリにも少なくはない。
その事を樹戸に教えたかな、と晴史はふと考えた。
「ガシマがバラしちまったゴミ屋の件もあるから、やっぱりあいつらが稼ぎを増やすためのマッチポンプじゃねえのか、なんて言う口さがない連中だって出てきてる。自分で死体を作りだして、その死体を回収して手当を増やそう、てこったな。けど、そこまで小狡く残忍に立ち回れるなら、ゴミ屋なんてやってねえだろ」
そこまで言って、月丸は「だからって、ゴミ屋を莫迦にしてるわけじゃねえからな、俺は」と付け足した。
「とにかく、被害自体は減ったがまだしっぽを掴めちゃいねえ。臭いものに蓋をしたとこで、ほとぼりが冷めたらまた殺される女が出るだろう。雑草を毟っても、根っこが残ってたらまた伸びるからな。だから、シズクに別の協力を頼もうと思ってんだ」
「協力って、どんな?」
「人相描きだ。ほとんどの女は『暗くてよく見えなかった』て言ってたが、何人かはうっすらと顔立ちを憶えてた。それをつなぎ合わせるようにして、似顔絵を作るんだ。モンタージュ写真みてえにな。聞いた話じゃ、あいつは母親が占いで言った特徴を絵に描いてたらしいしな。それなら、証言から似顔絵を作るのだって、造作もねえことだろ」
月丸はそこまで言って「そういや」と何事かを思い出したように付け加えた。
「おかしな臭いがした、て言う女もいたな。腐った魚と卵をどぶ水で煮詰めたようなひでえ悪臭に混ざって、ほんのり安い歯磨き粉みてえな臭いがするって」
――悪魔の酒よ。
老いた声に耳元で囁かれた気がした。
「どうした、変な顔して?」
「ううん、何も」
晴史は平静を装った。
「ま、近いうちに解決すんだろ。そしたら飯でも食おうぜ。アイディア料として、俺が奢ってやるからよ」
月丸は手を振り振り、通りの人波に紛れた。
入れ違いで、樹戸がのっそりとビルの陰から姿を現した。
「僕はやっぱり、彼が苦手らしい」
樹戸は月丸が去るのを、じっと窺っていたようだった。
なぜこの人は自分のことを語るのに「らしい」なんて言葉を使うんだろう。
「やっぱりこのまま帰ろう」
樹戸は十七番街へ踵を転じた。晴史も黙ってその後ろへつく。晴史の家は反対方向だったが、樹戸はその事について何も触れなかった。
極楽通りに比べると闇も同然の暗い路地を行く。
晴史も樹戸も、無言だった。
いつしか、晴史の歩幅は小さくなっていたが、樹戸は一向に気に掛ける様子もない。
細長い後ろ姿が、晴史の視界からじりじり遠ざかる。
――俺はこの人のことを、ほとんど何も知らない。
成功を夢見る小説家志望。奥さんと娘に出て行かれた甲斐性無し。差し出口を利く理屈こき。かつては死体に目を白黒させた小心者。
奥さんと娘には別れてから会っていないのだろうか。また会いたいと思っているのだろうか。欠伸の回数は増えたが、小説はどこまで書けているのか。どんな話を書こうとしているのか。イタギリの生活が、どれだけ彼の創作活動に影響を与えているのか。チンさんには、過去を全て包み隠さず話したのだろうか。
そもそも彼は何故、イタギリから離れようとしないのだろうか。
「樹戸さん」
ビルに入りかけた樹戸の足を、晴史の呼び掛けが引き止めた。
晴史は押入れの中で、引き戸に手をかける自分の姿を想像した。
暗い闇の中は安全地帯。押入れの内側は無二の聖域。大人しくしていれば誰も立ち入らない。抜け出さなければ怒られない。黙っていれば何も起こらない。
――大怪我してからじゃ遅いんだよ。あたしが言ってること、分かる?
「チンさんはあの日、本当に『出掛けた』の?」
樹戸の背後の暗闇に、憤怒で髪を逆立てる母の姿を見た気がした。
ビルのエントランスの照明が逆光になって、樹戸を黒い影に変えた。
息が詰まりそうな、しかしほんの十秒程度の沈黙が流れた。
「竹林さんは確かに『出て行った』よ。そう言っただろ?」
それだけ言い残し、樹戸はビルの中に身を翻らせた。
樹戸の姿が見えなくなってからも、しばらくの間、晴史はその場に立ち尽くした。
足元に絡みつく冷気に、スニーカーの中の感覚が曖昧になる。
樹戸の居室に灯る明かりを認めてから、晴史は家路に就いた。
家に帰ると、父はすでに寝ていた。年が明けても父は口過ぎのあてを探す素振りすら見せず、倦んだ日々を昼間からの酒で潰すようになっていた。家はますます疲れを癒やす場所とはかけ離れ、父が在宅の間は鍵付きの冷蔵庫に閉じ込められたような気持ちになる。酒場からのツケは雪だるま式に増え続け、度重なる
裁縫道具をバスルームへ持ち込み、作業着のほつれを修繕する。茶の間の電気をつけると父が怒るからである。
着古した作業着の生地はごわごわと硬く、針を通すのにも難儀する。
冷えきった玉石タイルの床についた尻が、じんじんと
普通の家では針仕事は母親の仕事なんだろうな、とぼんやり思う。
母が消えた夜のことは、よく憶えている。晴史は七歳だった。
いつものように母が父を
「出て行くだと? 寝言ぬかしてんじゃねえぞ、このズベタがっ!」
一際大きな父の怒声に、晴史はびくりと身を震わせた。
「寝言じゃねえよ!」母が金切り声で叫び返した。
「あんたみたいな甲斐性無しよりずっといい男さ。こんな家にいるよか――」
父が
晴史は咄嗟に耳を塞ぎ、布団に顔を埋めた。
母の短い悲鳴と何かを打ち付ける鈍い音が、覆った掌を突き抜けて切れ切れに耳に届く。小刻みに震える体をぎゅっと丸めて、嵐が去るのを彼はただひたすら待ち続けた。
やがて、音はぱたりと止んだ。
父の声も母の声も、全く聞こえてこない。
母の様子が気になってしょうがなかったが、襖を引き開けて確かめることはどうしてもできなかった。
「棄てなきゃ」
父が虚ろに呟くのを聞いたのは、音が止んでから二十分ほどが経ってからだった。何かを引き摺る音と重々しい足音がゆっくりと遠ざかり、水を打ったような静寂が訪れた。
襖の向こう側で気配が消えてからさらに一時間待って、晴史はそろりそろりと押入れから這い出した。天板が割れた卓袱台が台所に転がっている。鍋や食器が床に散乱している。水垢まみれのシンク台は、べったりとどす黒い液体で濡れていた。
その晩、父も母も戻ってこなかった。
翌朝、目覚めた晴史の前に、穏やかな父の顔があった。
「今日から二人で、頑張って生きていこうな!」
確か、そのように言ったと思う。
「母ちゃんは?」
「腹減ってるだろ。朝飯にしようか。下のパン屋で買ってきたんだ」
母の消息についていくら訊ねても、父は話を逸らすばかりであった。
壊れた卓袱台を見ながら「新しいのを買わないとなあ」と父がぼんやり笑った。
向かい合って座る父の左手首には包帯が巻かれていた。円筒の先端が淡い桃色に染まっていたが、晴史はそれについては何も訊かなかった。
父が勤め口を見つけてきたのは、その三日後だった。
「これからは俺がお前を養ってやるんだ。それが父親の務めだからな」
真新しい作業着に袖を通した父は、そう宣言して胸を張った。
蛇口にぶら下がっていた水滴が、タイルの床に落ちた。
追憶が引き潮のように薄らいでいく。
母が二度と帰って来ないであろうことは、早い段階で悟った。
人が変わったように仕事に打ち込み、優しく接してくれる父の姿を見ているうち、あの夜押入れで聞いた揉め事は悪い夢だったんじゃないか、と考えるようになった。
これからは、父ちゃんと二人三脚で歩いていかなきゃ。
晴史がゴミ屋を志望したのは、身を粉にして働く父に少しでも楽をさせたいという健気な一心からだった。それを伝えると父は「ゴミ屋はきついぞ。お前に勤まるのか?」とからかったが、その笑い顔はどこか硬かった。
晴史が働くようになって一年、二年と過ぎるうち、徐々に父から笑顔が消えていった。
晴史に掛ける言葉は減り、寝るまでの時間を酒に費やし、晴史が着替えを手伝うことも拒むようになった。
力を合わせて生きていこうと誓ったはずなのに、今ではいがみ合い、憎しみをぶつけ合う間柄になってしまっている。
どこで歯車が狂ってしまったんだろう。
作業着を繕い終えるのに、普段よりもずっと時間が掛かった。
そっとバスルームを出ると、父は湿った
布団を敷いている最中、視線が勝手に父の寝姿を追った。
掛け布団から左腕がはみ出している。指も手の甲も無いつるつるの手首。
鬼面の住職が見せてくれた桐箱の中身が、しぶとく記憶にこびりついていた。
――筋者連中は『手切れ』って呼んでる。もうちょっと捻れってんだ。
甲や指に毛を残したまま黒く干からびた手。
蓋の裏側には、年月日と姓名を記した墨痕があった。
――盗みや放火、殺しなんかの現行犯を捕まえると、こうして手を切っちまうんだ。まあ、見せしめだわな。大昔は罪を犯した罰として顔に黥を入れられたっつうが、手切れに比べりゃかわいいもんだぜ。顔一面にもんもん入れられても、両手は使えるからな。
桐箱を一つ一つ確かめることはしなかった。
見慣れた名前を見付けてしまったら、家でどう振る舞っていいものか、まるで分からなかったから。
真相は闇の中。他人の心は深い闇。
口の端から
――俺、なんでこの人とこんな場所で暮らしているんだろう。
考えた途端に、壺の中に放り込まれたような息苦しさが胸を突き上げた。
豆球の灯りの下で、陸に打ち上げられた魚のように晴史は
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